背筋が凍りつく感覚とともに、恐ろしく速い炎の塊がACの脇をすり抜けていく。
浮き上がってしまうのではないか、と思えるほどの衝撃と、
鼓膜を激しく揺さぶるほどの轟音が、ほぼ同時に後方から響き、巨体を揺らした。
「じょ、冗談じゃねえって!」
狭苦しいコクピットの中で男が悲痛な叫びを上げる。
聞いてくれる者は誰一人としていない。助けてくれる者もいない。男の労力がまたそうして無駄に散っていった。
ディスプレイに映りこむ情報の羅列。宝石を散りばめたかのような輝きが明滅し、パイロットスーツに反射する。
さながら闇に映える夜景のような鮮やかさ。普段なら魅了されてしまいそうだったが、男は今それどころではなかった。
敵として認識したACと向かい合い、命のやりとりをしている真っ最中にそんな悦に浸れる奴など正真正銘の馬鹿だ。
男はそう心中で吐き捨て、怜悧な精神をさらに研ぎ澄ませて前を見る。一筋の汗が頬を伝った。
胃が痛くなるほどの閉塞感や、暑苦しいことこの上ないスーツへの文句さえも、男は忘れていた。
右腕の銃から無数の弾丸が吐き出され、コア後部からせり上がっていたイクシードオービットが、弾幕にさらなる色を添える。
しかし、その数列の火線も相手の強固な装甲の前に阻まれ、致命傷には至らない。
だが、その礼とばかりに送られてきた榴弾は、そのお返しにしては規模があまりに大きすぎた。
敵ACの形状は、男が搭乗している<ファフニール>とほぼ同じ四脚型。
だが、何よりも汎用性を追及し、長期戦を見込んで弾数を重視したファフニールと、
グレネードランチャーやらバズーカやらをどっしりと構えて襲い掛かってくる敵ACとでは、根本的な土俵がそもそも違っていた。
男は思った。これは、百戦錬磨の狼と、平和ボケした子犬との戦い。敵は前者、自分はもちろん後者である。
勝負にならないというのが避けられない事実として存在している。
生まれつき運がないのは知っているが、理不尽というものにも限度くらいはあるだろう。と男はその思考の最後に嘆いた。
「あの野朗、後で絶対殺してやる」
原因を作ったのは彼自身ではない。全ての原因は、事前にきちんと振り分けてあった役柄を本番開始直後に放棄し、
「飽きたから」という一方的な理由だけで、彼にこの場を押しつけた人間にある。
この状況を招いたその人相を一瞬だけ思い浮かべ、はらわたが煮えくり返るような怒りを自身の力へと変える。
憎たらしい能面を心に焼きつけた彼は、眼前のACを再び睨みつけトリガーを引き絞った。
あいつの勝手な都合によって貧乏くじを引かされた。そう思えば思うほど、激しい憤怒が男の中で湧き上がる。
あの男の顔面に一発くらわせでもしなければ死んでも死にきれない。彼の眼前に聳えるこの四脚は、言わばその目標を阻む壁のようなもの。
あの憎らしい男の顔面を、思いっきりぶん殴れる絶好の機会がこの先にある。これをものにしない手はない。
ここで死んでしまっては、その夢は露と消えてしまう。それでは困るのだ。
「……やってみるか」
敵との距離を一定に保ち、等間隔で発射されてくるバズーカを冷静に回避し続ける。
打開策の製作に頭を悩ませながらも、ACの操舵にも集中を切らすわけにはいかない。
だが、男にとってはそれは造作もないこと。複数の敵と何度も戦ってみれば、機体の一つ一つの動きを常に把握しなければならないという事実に突き当たる。経験上、彼はそれを骨の髄まで味わってきた。
正面に見据えた敵以外にも注意を払い、どんな状況にも素早く対応する柔軟な思考や、
最善と思われる策を瞬時に編み出し実行する臨機応変さを、彼はそうして戦場の中で磨いてきた。
多数の相手を嫌と言うほど相手にしてきた彼だからこその観察眼。長い年月をかけて研磨されてきた男のそれは、
既に能力と呼べる域にまで昇華されている。普段と勝手は違うがやるべきことはいつもと何も変わらない。
コクピットに覚悟の咆哮が轟く。瞬間、ファフニールからその勢いに便乗したかのように数発のミサイルが放たれていた。
推進剤をあらんかぎりに燃焼させ加速する、その筒状の物体。
内部にありったけの火薬を満載させたそれは、迷うことなく敵の機影を目標として捉えていた。
だが単純な軌道しか描けないそのミサイルを、甘んじて受け止めてくれる相手などいるはずもない。
軌道を簡単に読み取られ、無駄のない動きで避けられる。既に何度か同じことを試していたが、今回も同じ結果に終わった。
しかし、今回はそもそもの目的が違う。ミサイルなど避けられて当然。むしろ狙いは他にある。
派手な攻撃に目を奪われていたのだろう。回避行動の瞬間、敵はわずかに前方の注意力を欠いていた。
一度たりとも近づくことができなかったファフニールが、敵の眼前にまで辿り着けたのだから、まず間違いなかった。
バズーカの銃口が慌ててファフニールに向けられたがもう遅い。ファフニールの左腕が真紅に染まり、
刹那、それが槍の如き長さにまで伸びていく。行く手にバズーカの銃身が構えられようが関係がなかった。
ACの身の丈ほどの長さにまで伸びたそれは、バズーカの銃口に突き刺さり、敵の右肩口をも軽々と貫いていた。
その結果を視界に入れた男は、即座に握っていたトリガーを手放し、その紅蓮の輝きを消失させる。
同時に、敵の右腕が力なくだらんと垂れ下がり、黒光る銃口がファフニールから外れていく光景が彼の瞳に映った。
間髪入れずに相手が左腕のシールドを展開したのは、男の反撃を警戒したからであろう。
単純すぎる。あまりに幼稚で、あまりに陳腐なその思考。勝機を見出した男がコクピットの中で不敵に笑う。
シールドとその屈強な装甲さえあれば、この場はどうにか乗り切れると考えたのだろう。
自慢の装甲と陳腐な自信のせいで、敵は肝心なことを見逃した。それを直々に伝えるために、男は手放していたトリガーを再び握り締める。
放たれたものは、マシンガンでもましてやイクシードオービットでもない。紅蓮に煌くレーザーブレード。
敵の右腕を刺し貫いたそれが再びファフニールの左腕に現出し、それは一切の躊躇なく目標目掛けて突き込まれた。
四脚を扱う上である意味最も慎重にならねばならない場所、それは言うまでもなく脚部。
抜群の安定感を誇る反面、一本でも失えば途端にバランスが崩れ、体勢を整える上で致命的な隙を生み出しかねない危険部位。
銃器で狙い撃つのは難度が高い。だが男の目は決してそれを見逃さなかった。
光の刃が敵の脚部の一本に刺さり、そのまま敵の脚部を関節ごと切り裂いていく。
瞬間、巨大な体躯がまるで平衡感覚を失ったかのようにがくんと崩れ落ちた。
終わった。あの手この手でバランスを取り戻そうともがく敵の姿がやけに滑稽に見え、男の表情は緩みに緩む。
あとは煮るなり焼くなり思いのままにできる。そう確信し、勝利の悦に浸ろうとした男だったが、
「げっ!」
思いもよらぬ光景が視界に突き刺さり、彼が本能の赴くままに操縦桿を目一杯傾けて機体を動かした。
視界が真っ白に染まる前に彼が見たもの。それは間違いなくグレネードランチャーの砲身。
襲い掛かる想像を絶する衝撃。全身をこれでもかと言わんばかりに振り回され、その度にシートに備え付けられたベルトが身体に食い込む。
想像以上の衝撃に表示されていたディスプレイにも乱雑なノイズが迸ったが、それを知覚する余裕は彼にはなかった。
甲高い警告音が鼓膜に突き刺さる。ふらつく頭を抱えながら、男はその耳障りな効果音をBGMにして損傷箇所を調べる。
「マジかよ……」
結果を見て唖然となる。思わずコアを庇ったため、直撃こそ避けることができたが、
至近距離で放たれた榴弾は、それ故に無防備となった左肩に命中したようだった。
その爆発と衝撃で左腕がまず昇天。トリガーを動かしてみても、うんともすんとも言ってくれない。
乱れたディスプレイでも目視できないことから、どうやら跡形もなく吹き飛んでしまったらしい。
加えて、脚部破損にイクシードオービットの制御不可に出力低下などなど。真っ赤に埋め尽くされた機体状態に、男はただただ言葉を失った。
直撃せずしてこの損害。まともに貰っていればどうなっていたことか。考えただけでも寒気がしたが、
彼にとっては、そんなことよりも己の詰めの甘さがこうして露呈されたことのほうが我慢ならなかった。
いつもいつもこんなことばかりだ。過程までは上手く行くのだが、どうしても結果が伴わない。
いつも直前で失敗し、こうして泣きを見る羽目になるのだ。だからいつまで経っても名が上がらない。のし上がれない。
ただの一レイヴンとして、その他大勢に区別されるだけの惨めな人生。
そんなものは嫌だ、気に入らないと叫んで行動してみても結果はこれだ。全く話にならない。
神経を逆撫でする警告音も、この失望感に比べたらまだ可愛いほうだ。
深い溜め息を一つ吐き、男は現実へと視線を戻して目の前の敵を凝視する。
相手の移動能力の大半は失われている。おまけに武装はグレネードランチャーのみ。
自らの粗相のおかげで、こちらの損傷もかなり厳しいが、状況的にはまだ五分五分以上。十分勝てると踏み、男が集中しようとしたまさにその時、
「おお、やってるやってる!」
と、場の空気を完全に無視したかのような声が、通信機を介して男の耳に入ってきた。
「……てめえか。アッシュ」
こんな状況を生み出した元凶とも言うべき男――アッシュ・イェーガーが男の心情などもいざ知らず、
己のACに跨り、呑気な口調でこちらを傍観している。
いつの間に近づいたのか、彼の二脚型AC<カラドヴルフ>が、男の網膜にしっかりと刻まれていた。
「何だよロウ。結構苦戦してんじゃねえか。みっともねえな、おい?」
「やかましい」
この状況を生み出した張本人であるアッシュからの嘲笑。
事実を突きつけられも何も言い返せない男――ロウは彼の言葉を無視して、敵に視線をやった。
唯一残った虎の子のグレネードランチャーを構え、今度こそファフニールを葬らんとしていた敵が、そこにいた。
「ご愁傷様」
が、アッシュの哀れみを含んだ言葉と同時に、敵の頭上に無数のミサイルが叩き込まれていく。
ロウは何もしていない。敵の機影が炎と衝撃に包まれた光景を最後に、
あたり一面が爆炎と黒煙に支配される地獄絵図へと変わり、ロウの視界から敵の機影が完全に消える。
垂直降下型ミサイル。一般的なミサイルの軌道とは異なり、対象の真上から襲い掛かるそれが、敵の命を完全に刈り取っていた。
誰が放ったのかは言うまでもない。二体の四脚には、こんな武装は搭載されてはいなかった。
煙が一通り収まり、ようやくその亡骸が姿を現したかと思えば、そこにはACと認識できるものは何一つなく、
ただどす黒い巨大な塊が転がっているだけであった。
その一部始終を微動だにせずして見届けたロウは、終結の瞬間を確認し、張り詰めていた身体の緊張を静かに緩める。
「よっしゃ、いっちょあがり」
が、馬鹿に明るいその一言が、彼にまだしなければならないことを思い出させてくれた。
緩めかけていたものを再び締め直して、彼は腹に少しだけ力を込めて、そして吼える。
「何がよっしゃだ、この馬鹿! 散々俺に迷惑掛けておいて、美味しいところはてめえで全部独り占めかよ。ああ?」
「さっさと殺さないお前が悪いんだよ」
この場で正論を吐くアッシュがロウは気に食わない。そもそもの発端はこの男だと言うのに、本人は既にそれを忘れているのだ。
一発殴れば清算できるか? 心の中で彼は自分自身に問う。否、断じて否。コンマ一秒と経たずに満場一致で結論が出る。
「ってちょ、お、お前! な、なにしやがるんだ!」
ロウの次の行動に、もはや躊躇いはなかった。常軌を逸している行動なのは彼も自覚しているが、それを止める理性はもう存在しない。
ファフニールのマシンガンが主人の命令通りに正面のカラドヴルフを無慈悲に穿つ。無機質な機械に感情などない。
たとえ識別信号が味方であろうと、ロックオンサイトがなかろうとも、ただ引き金を搾るだけで弾丸は飛び出すのだ。
「神様に懺悔する準備はできてるか?」
慌てて距離を置いたカラドヴルフから視線を離すことなく、ロウが静かに告げる。トリガーはもちろん離さない。
悲鳴とも罵倒とも取れるような数多の絶叫がロウの耳に入ってくるが、彼はそれを軽く受け流して無視することにした。
「ちょっと待て! お前、まさか俺が勝手に突っ走ったこと怒ってるのか?」
「別に怒ってなんかいないさ」
ようやくまともな問いが寄越された。ロウは極めて冷静にそれに答える。
「ぶちキレてるだけだ」
「一緒だ!」
「一緒か一緒じゃないとかそんなのは関係ねえ。とりあえず俺はお前をぶっ飛ばす。これはもう決定事項だ。変更は効かない。だが俺も鬼じゃない。一分だけ時間をやる。それで俺を納得させられるだけの言いわけを吐いてみろ。そうすれば顔面一発だけ済む。どうだ、平和的だろ?」
かろうじて残っていた理性を搾り出し、わずかな救済措置を示す。もちろんアッシュにできるとはロウも思っていない。
これは死刑宣告。搾り出した程度の理性では、せいぜい言い回しを軽くする程度が関の山だった。
「……できなければ?」
「お前のACにでっかい風穴を空ける。それもコアのど真ん中にだ」
「じょ、冗談じゃねえって!」
どこかで聞いたような台詞だったが、ロウは別段気にしない。
「ほれ、もう五秒も経ったぞ。どうするんだ?」
「て、てめえ……!」
冷酷さにわずかな喜悦も忍ばせて、彼は時間を確かめながらひたすら訪れることのないアッシュの弁論を待ち続けた。
結果から言えば、アッシュからは望んでいた言葉は聞かれずにファフニールの銃撃は続行。
数分間ほど続いた後に担当オペレーターからの強烈な怒号とともに、その無益すぎる痴話喧嘩は幕を下ろした。