雲一つない青天の下で、一台の巨大な車が荒野を疾走している。
褐色に染められた大地が地平線まで広がり、世界の広大さを思う存分に知らしめていたが、
ぽつんと建てられた貧相な家や、枯れかかった草花などが、そこに物寂しさという概念を生み出しもしていた。
整備されたとはとても言い難い道路を走り続けて、かれこれ五時間と少し。日で言うならこれで二日連続になる。
普通よりも大きなハンドルを握り締め、ただひたすらアクセルを踏み続けていたアッシュの堪忍袋の尾も、そろそろ限界に近づきつつあった。
窓の外から吹き込む心地良い風が、彼のダークレッドの髪を優しくなでていったが、それもどうやら彼の気分を癒す効果はないようだ。
「……暇だ」
口に咥えた煙草を片手で掴み、吸殻を窓の外に落とす。そして口に咥えなおして再び煙を吸う。この繰り返しだ。
何時間も似たようなことを繰り返していたからか、灰皿に溜まった吸殻は、もはや数えるのが不可能なまでに溢れかえっていた。
「おい、アッシュ。煙を車の中で吐くなよ。吐くなら外に吐け、外に」
助手席の茶髪の青年――クオが声を荒げていたが、唯一の退屈しのぎである喫煙までをも制限されては、アッシュも我慢できない。
おまけに彼の視線はアッシュを向いてはおらず、ただ己の膝の上に乗せたパソコンの画面一点に搾られていた。
眉間の皺を倍増させた彼は、口内に溜まった煙を彼の目の前に吐き捨てる。
「う、うわっ」
悲鳴とともに激しく咳き込んだクオを横目に、彼は勝ち誇った表情で煙草を口に戻した。
「あ、悪い悪い。吐くところを間違えたみたいだ」
「……その年で煙草吸ってたら長生きしないよ」
鋭い目つきでその横顔を睨みつけるクオは、反撃とばかりに非難を浴びせかけるが、
「そうか? ガキのころから吸ってるが、この通りピンピンしてるぜ」
当の本人は至って冷静にいなし、胸をポンと叩いて己の健康さを知らしめた。
好きなものを制限されることのほうが、有害物質をたらふく肺に入れるよりもよっぽど健康に悪い。
「ほれ、お前も一本吸えよ」
胸ポケットに忍ばせた箱の中から、真新しい煙草を取り出しクオに差し出す。
「嫌だ。誰がそんな臭いもの吸うかよ」
が、差し出されたそれにもまったく視線を合わすことなく、クオはあっさりと彼の好意を拒絶する。
「そう思うのも最初だけだって、一度吸ってみれば美味いもんだぜ?」
「嫌だって言ってんだろ。殴るぞ。っていうかちゃんと前見て運転しろよ!」
しつこく迫るアッシュに対して頭に血が昇ったのか、クオは語気を荒げた。
自分の思惑が水泡に帰したことがわかると、アッシュはすっと視線を正面に戻し、ため息とともに肩を落とす。
「ったく酒も駄目。煙草も駄目。唯一のお友達はそのパソコンだけってか、おい?」
「誰が友達だ誰が」
膝の上に広げたノートパソコンから視線を外そうとしない彼に向かって、アッシュが皮肉を込めて言う。
「だってそうだろうがよ。最近そのパソコンばっか弄くってるじゃないか。ああ、遂にお前もそういう人間になっちまったのか」
「誰のせいだよ……」
もちろん、自分だ。クオが寝る暇も惜しんで、その液晶画面と格闘しているのはアッシュも知っている。
彼が担当するのは、自分たちの家計簿から、レイヴンとしての依頼確認、情報収集とそれこそ多岐に渡る。
三人が生活していく上では欠かすことのできないものは、今ではクオ一人の手に委ねられていた。
その結果、必然的に彼らの財布の紐を掌握するのはクオとなり、アッシュが移動手段の操舵を担当し、
ロウが三人の家事全般を請け負うことで、役割分担という課題は一応の終結を見た。
と言っても、そもそもの間違いはあの一ヶ月前のガレージでの一件であることは、疑いようがない。
ロウの独りよがりな暴走。全てそこから始まった。溜めていた膨大な資金を湯水の如く使われ、
もはや廃人同然と化して、まるで使い物にならなくなったクオを差し置いて、
ロウとともに、これからの夢のような生活に心躍らせていたアッシュだったが、それも束の間。
届けられた無味乾燥とした巨大なコンテナと、今にも壊れてしまいそうなボロボロの車が、
二人の目の前に現れたとき、彼らはようやく自分たちが騙されていたということに気づいた。
抗議の電話をかけてみても、無機質な音声に「そんな企業は存在しない」と冷たくあしらわれるだけ。
そんな二人に残ったものと言えば、夢を打ち砕かれた悔しさと、取り返しがつかないことをしてしまったという罪悪感くらいのものだった。
耐え切れないほどの失意と倦怠感を背負いながら、途方に暮れるしかなかった二人が、その後向かった先と言えばもはや一つしかない。
あの手この手を用いて、どうにかクオを正常な状態へと戻した二人は、彼からの助言により最低限の活動費集めに専念し始める。
一週間ほどを費やして、ある程度の額を工面すると、
次に彼らはそれを軍資金として、用済みとなりつつあったコンテナの改造作業に取り掛かった。
売却も謙譲も見込めないのであれば、せめて自分たちが利用する。
その思惑の元に、彼らはさらに数週間の時を重ねて、独自の輸送車を創り上げることに成功していた。
そして完成した超巨大車両。身の丈とほぼ同サイズの巨大なタイヤが八つ。
それが全長、全高ともに数十メートルはあろうかというコンテナを牽引している。
もちろんそれらの改造、開発費用には莫大な資金を必要とし、
アッシュとロウがその資金集めに奔走したがそれでも足りず、結局二人は、
お手上げ状態だと言ってクオに泣きつき、無理矢理搾取された彼の口座を、さらに搾り取ることで半ば強制的に事を終結させた。
「お前ら、また喧嘩してんのか」
運転席の後方に取り付けられた扉から、全ての元凶であるロウがひょっこり姿を現し、能天気な声を上げた。
回想に少しばかり気を取られていたアッシュの意識が、すっと現実へと帰ってくる。
「別に。単に隣のパソコン中毒が叫んでるだけだ」
下卑た笑みを浮かべながらアッシュが言う。深い溜め息を一つ吐いたクオは、
「黙れ、この戦闘中毒が」
とりあえずと言った様子で反論を返してきた。その視線は未だに画面と向き合ったままである。
「おいおい。だから種類が違うって何度も言ってんだろ。いい加減に覚えろよ」
似てはいるが同じものではない。まるで違う。全く違う。内心でそう主張し、アッシュは誤った情報を持ったクオをたしなめる。
だが彼は、まるで相手にしていないといった態度でアッシュのその言葉を無視し、助手席から身体を捻ってロウと視線を合わせていた。
「で、何しにきたの兄貴? あれならあともう少しで完成だから」
「お、そうかそうか。もうできてるのかと思ってたぞ」
「誰かのちょっかいがなければもうできてたけどね」
会話の内容がこれといってわからないアッシュは、二人の間に割り込めないもどかしさを感じながら、仕方なく視線を正面に戻す。
しかし不思議だ。以前は殺意まで芽生えさせていたクオが、こうもあっさりとその元凶であるロウと、
こうして談笑している姿は一体何なのか。正直、もっと険悪でも良いはずだろう。
あるいは、これが兄弟というものなのか。口ではお互いのことを罵りあい蔑んだりしてはいるが、
実際は、やはり唯一無二の肉親という切っても切れない強固な絆で結ばれているのだろう。
二人の何気ない会話を耳にしながら、アッシュはふとそんなことを思いつつ、外の景色をぼんやりと眺めていた。
「……暇だ」
これだけの図体をした大型車がこうして無防備に走っているにもかかわらず、何も起こらない。
トラブルも突然の襲撃も、何もない。さらに悪いことに、募集している依頼も何一つない。
特にここ数日でアッシュの記憶に刻まれたことと言えば、次の補給地点を目指してひたすらアクセルを踏み続けたことくらいしかない。
「お、お前もそう思うか? まあ、そうだよな」
アッシュのその呟きにロウが同感だと言わんばかりの口調で応じる。
「確かに少しは面白いことでも起こるかと思ったが、さすがにこう何もないってのも、さすがに厳しいところではある」
「だろだろ? やっぱ、ロウもそう思うよなあ?」
わずかな共感を得ただけでアッシュの語気が強まっていた。
「やっぱりさ。いきなりテロリストだか何だかに囲まれてよ。『持ってるものを今すぐ全部渡せ!』とか言ってくれなけりゃ、こんなもんに乗ってる意味ないよなあ?」
「はい却下。今この車奪われたら、俺らマジで餓死するしかないよ?」
アッシュのテンションが順調に上昇気流に乗ろうとした矢先に、
クオの水を差すような一声が突き刺さり、それはあっさりと阻まれる。
「だってよ。最近身体が鈍って仕方がないんだ。どっかで大暴れしなけりゃ、いつか発狂しそうだ」
「お前の場合はただ単に暴れたいってだけだろ、この戦闘狂」
「……だからそれを言うなって。気にしてるんだからよ。言っとくけど、ロウも勘違いするなよ。俺はただの刺激中毒。そんな危ない奴らと一緒にしないでくれ」
不満げな表情を浮かべながら抗議するアッシュだったが、またしても悪意に満ちた指摘がその上に重なってくる。
しかも彼の鼓膜に響いたのはクオの声ではなく、ロウのものだったことも彼をさらに落ち込ませる要因の一つになった。
「お前も十分危ない奴だと思うがな。俺には刺激狂と戦闘狂の区別ってやつがわからん」
やはり、まだあの事故は彼らの記憶から離れようとはしないのか。だが無理もない。自分はそれだけのことをしたのだから。
かつての腐っていた自分の姿と、今すぐ握りつぶしてしまいたい忌まわしい過去の両方が脳裏によぎり、アッシュは唇を噛み締める。
「何言ってんだ。天と地くらいの差はあるって」
乱れかけた心を悟られないよう努めて明るく振舞おうとしたが、やはり自分の心まで誤魔化すことはできなかった。
「そういうロウはどういうのを期待してるんだよ?」
思わず目を背けたくなる光景が、脳内で再生され続けるのに耐え切れなくなったのか、
アッシュはただ思いつくままに、ロウに向けて言葉を投げた。
「俺か? 俺はもちろん女だ」
「はあ?」
予想通りの突拍子もない返答が寄越され、思わず唖然となる。それが功を奏したのか、
さながら亡霊のように彼の頭でたゆたっていた過去の記憶が、綺麗さっぱりとそこから消えた。
「こんな荒野のど真ん中で、いきなり目も覚めるような美人に『助けてください』とでも言われてみろ。男としては燃えるしかねえ。そして俺の超豪華なフレンチでだな」
「……あーあ、また始まったよ」
助手席のクオが小声でぼやいていた。その呟きをかすかに聞き取ったアッシュは同感だと納得する。
「それにだ。ここはとにかく色気が圧倒的に足りねえ。ずっと野朗三人で旅なんか続けてたらそれこそ発狂しそうだぜ。いいか、最低でも一人の女を俺らで奪い合うような状況にはしないといけねえ」
誰もロウの話をろくに聞いてはいなかったが、彼はそれでもお構いなしといった様子で、
まるで演説でもしているかのような快活とした口調で熱弁を振るい続ける。むさ苦しさすら覚える彼のその姿があまり可笑しかったのか、
「こりゃ傑作だ」
と思わず笑声を零した。
「こんなだだっ広い荒野のど真ん中に女なんかいるわけないだろうが。つーか街でもろくに女引っかけられない奴がなに寝言ほざいてるんだよ。おまけにフレンチだって? あの冷蔵庫には安物の野菜しかねえだろうが!」
腹筋に力が入り、あまりの面白さに息が詰まる。いずれはハンドル操作までおぼつかなくなってきそうな危機感を感じたアッシュは、
洪水のように押し寄せてくる笑いを唾と一緒に飲み込んで押さえつける。
「俺もショックだ。兄貴がそんな妄想癖持ってるなんて。ああ、なんか悲しくなってきた」
彼が抱腹絶倒している傍らで、クオもまた虚言を弄する実の兄を哀れむような口調で呟いていた。
「……お前ら、今俺に対してかなり失礼なこと言ってないか?」
「全然」
まったく同じ言葉がまったく同じタイミングでアッシュとクオの口から零れ、
がくんと首を下に傾けてうな垂れるロウを尻目に、二人はお互いの顔を見合わせながら苦笑する。
「それじゃクオは――」
「金」
「……あ、そう」
アッシュが言うより早くクオの口が動いた。当然といえば当然なので、もう不満の声すら上がらない。
「このパソコンに『今すぐ企業の一つでもぶっ壊してくれたら報酬は言い値であげる』って依頼がくればもう完璧。言うことなし」
「一番ありえないだろ、それ」
すかさずロウから野次が飛ぶ。
「言ってみただけだよ。どうせただの想像なんだから。このくらい誇張したって別に良いだろ?」
確かに。重苦しい空気が彼らの周囲にまとわりつき、それが三人に深い溜め息を吐き出させた。
結局はそれぞれが思い浮かべていたことをただ喋っただけに過ぎない。所詮は夢。
実現しないことなど彼らは始めから承知していたが、いざこうして上手くまとめられてしまうと、わかっていても気が滅入る。
刺激、女、金。この荒野には、そんなものは何一つ落ちていない。再び沈黙が流れ始めた運転席の中で、
その現実を強烈に思い知らされたアッシュは、仕方なく新たな煙草に手をかけるという退屈極まりない動作に戻るしかなかった。
「もうさ。ルート外れて、街とか行かないか? ちょっとくらい寄ったって罰は当たらないと思うんだが」
「却下。燃料代の無駄」
「……ああ、俺はお前をこんな無味乾燥な男に育てた覚えはないぞ、弟よ」
「気持ち悪いから、今すぐ死んでくれないかな。そうすれば食費が浮くから街にも寄れるよ、兄貴」
唯一の救いであった煙すらも、今では不味いとさえ思えてきた。不毛すぎるやりとりも少なからず影響しているだろう。
「お?」
その煙を吐き出そうとしたとき、アッシュの視界に影が映った。
「どうした、アッシュ?」
気のせいか、と思い再び見る。すると、道路の脇で何かが動いているのが見えた。
「……人だよな、あれ」
自らが吐き出した灰色の煙が眼前に広がり、その場での断定はできなかったが、数百メートルほど先で確かに人影らしき物体が立っていた。
運転席に充満していた煙が窓の外に流れていくと、その全様がアッシュの網膜に映りこんだ。
「ああ、確かに人だね」
クオも同意するかのように言った。アッシュはふと彼の顔を見た。クオの顔には、猜疑心らしきものが張り付いている。それはアッシュ自身が抱いていたものと同じものだった。
ありえないと否定した瞬間にこれだ。疑問に思うことにも何ら不自然なことはない。
いきなり目の前に現れた人影らしきもの。近づけば近づくほど怪しさは募っていく。
まず目に付くのは、その人影を覆っているベージュ色の布のようなものだ。
その頭部にもフードのようなものが被されているため、立っている人物の姿形がアッシュたちからは何一つわからない。
おそらく、猛烈に降り注ぐ直射日光を避けるためであろうが、それがその人影の存在をより不透明なものにしていた。
「どうする、止まるか?」
不安に駆られたのか、アッシュが二人に意見を求める。
「俺はあんまり乗り気じゃない。それにとにかく怪しすぎ」
「俺もクオに賛成。どうせヒッチハイクか何かだろ。それが男だったらもっとパスだ」
せっかくの刺激だが、これでは勝負にならない。アッシュは内心で舌を打ちながら、渋々止まるという選択を諦めた。
軽い失望感とともに、彼はアクセルを強く踏み込む。今まで以上にエンジンの駆動音が大きくなり、図体の大きなその車はさらに速度を増した。
人影との距離も次第に縮まり、そのローブをまとった輪郭がアッシュには痛いほどにはっきりと見えていた。
あと数秒でその姿は運転席から消えていく。悪いな、と知りもしないその人影に精一杯の謝辞を述べて、
彼は静かに視線を外そうとしたが、その瞬間、人影がわずかではあるが動いたのが、目の端に引っかかった。
「……女だ」
アッシュは確信していた。車がその人影を素通りしようとした刹那、人影は被せてあるフードを取り払っていた。
フードを取った瞬間現れたのは、長い白金色の髪。それが荒野の風でたなびいていた。
繊細な髪の毛一本一本が揺らめく姿はまさに幻想的。加えて、荒野にはあまりに似つかない雪のような白い肌。
汚らしい褐色のみの世界に、その白金と純白は特に際立ち、女神でも現れたのかと錯覚させるほどだった。
見えたのはたったの一瞬だけ。だが、たとえ一秒未満の邂逅でも、その女性の容姿はアッシュの心に強烈に刻み込まれていた。
もう一度振り返って確かめてみたい。そう思った瞬間、不意に彼の首筋に冷たい何かが押しつけられる。
「今すぐ止まれ。止まらないと撃つ」
それが拳銃だと認識するよりも早く、殺意すら覚えてしまうような怜悧な声がアッシュの耳朶を打った。
あまりの迫力にアッシュは何も考えられず、ただ言われるがままにブレーキペダルを踏み込んで車を停止させる。
一体誰の仕業なのか。そんなものは考えるまでもない。こんな理不尽な性格をしているのはあいつしかいない。
「……なあ、ロウ。どうやったらお前みたいな都合良い性格になれるんだ?」
「知るかよ。野朗だったらそのまま完全無視だったが、麗しい女性だとわかったら話は別だ。さっきもそう言っただろ?」
もはや突っ込む気力も沸かず、アッシュは首に当てられた拳銃を手で軽く払いのけ、窓の外から顔を出す。
ロウの低俗な欲望のおかげで奇跡的に形勢は逆転した。形はどうあれこれ以上の幸運はない。強ばらせていた表情が綻ぶ。
期待に胸を寄せながら後ろを見ると、同じ場所に先程の女性が微動だにせずして立ち続けていた。
そしてこちらが止まったことに彼女も気づいたのか、窓から首だけを突き出していたアッシュと、そこで視線が合う。
変わらない。一瞬だけ見えた場違いとも言える神秘さは、何一つ変わらずそのままの姿でそこにある。
遠目からでもはっきりとわかる整った顔立ちと病的なまでに白い肌。
既に完成の域に達しつつあるその魅力は、アッシュの心を初見で釘付けにできるだけの威力を孕んでいた。
「何かあったんですか!」
そんなアッシュを押しのけるようにして、ロウが新たに窓から顔を覗かせる。
ロウの腕やら身体やらに全身を押さえつけられ、身動き一つ取れなくなったアッシュは、
「せ、狭いっ! っていうか痛ぇ!」
と呻き声を上げながらも、唯一動かすことのできる首だけを巧みに動かして、その一部始終を何とか見ようと試みようとする。
「あ、あの……!」
歩み寄った彼女の姿がアッシュの瞳に突き刺さる。やはり近くで見るとその美しさがはっきりとわかる。
蒼い瞳に、快活を思わせる澄んだ声。見惚れるにはこれ以上のものはなかったが、
唯一、彼女の首に巻かれた包帯が、別の意味でアッシュの印象に深く刻まれていた。
「お願いします。助けてください!」
「……へ?」
瞬間、彼女のその叫びを聞いた三人の表情が凍った。彼女の華奢な身体が三人の目の前でくの字に曲がり、
必死で助けを求めている。ありえない。こんな都合良いことが起こるはずがない。
だが今まさに、ありえないと全否定したはずのロウの妄想が現実となっている。
懇願の声が響き渡ったとき、それを耳にしたアッシュは、正直神の存在というものを純粋に信じても良いような気がした。