「演技はもういいよ。十分だ」
やはりこの青年は普通ではない。自分の考えが間違っていなかったことを確認し、サラは口元を綻ばせる。
しんと静まり返った格納庫内に、凛とした声音が響き渡った。殺気すら感じ取れる威圧感。
寒気すら感じさせるそれを受け止めながら、サラ・コーストはあまりに早すぎる状況に多少戸惑いを感じていた。
期待を寄せていた人物が予想通りの反応を返してくれた。それは単純に嬉しい部分ではあったのだ。だが、
「どういう、ことですか?」
まさかこれほど早く悟られるとは彼女も思っていなかった。感情の制御は最も得意とする分野だったはずなのに。
油断はない。最も期待すべき男は、裏を返せば最も警戒すべき男でもあるのだ。
そんな男を目の前にして、気を緩めるような失態だけは絶対にしない。
考えられるとすれば、自分が予測していたもの以上に、このクオという男の神経が研ぎ澄まされているということに他ならない。
「言っただろ。もう演技はなしだ。そんなものは時間の無駄にしかならない。さっさと本音を話せよ」
動揺を悟られる真似だけはしないつもりであった。騙し通せているという自信もあった。
だが彼は言った。演技だと。警戒心を剥き出しにしながら、そうはっきりと断言された。
「……わかりました」
これではもはや何を言っても通じるとは思えない。あらゆる策を思いついたとしても、また睨みをきかされてそれで終わりだ。
仕方ない。とサラはわずかな未練を残しながらも、自らの手で演技という名の仮面を外すことを決めた。
「まずはお詫びしないといけませんね。結果的には皆さんを騙すことになってしまって本当に申し訳ありませんでした」
窮屈すぎた仮面を剥ぎ取った彼女は、思う存分空気を取り込む意味で息を吸い、そして吐く。
顔を上げた彼女は、助けを求めるか弱い女性ではなく、口元にうっすらとした笑みを浮かべた女性へと変貌を遂げていた。
その変化を直に感じ取ったのか、クオの目つきが徐々に弛緩していった。
さらなる緊張が生まれると踏んでいたサラは、予想外のその行動に眉をしかめる。
「やっぱりね」
一つ一つを確認しているかのようにクオが呟く。そして、
「ああ、よかったよかった。いきなり『死ね』とか言われるかと思ってビクビクしてたんだ」
「え?」
彼の安堵の笑みを境に、クオの周囲を迸っていた殺気がピタリと消えた。
自分以上の変貌ぶりに感情の処理が追いつかず、サラの表情が崩れていく。
「あー、ビビって損した。こうなるんだったらさっさと聞いとくべきだったな」
「あ、あの」
「ん?」
一人勝手に納得しているクオを、サラには不可解に思う。
「あの、私が誰なのかとか聞かないんですか?」
そう問い質すと、彼は何故か顔をしかめてしまった。
「もしかして、聞いて欲しいの?」
「え、えっと、それは……」
まずい。これでは主導権を完全に握られてしまっているではないか。クオの動揺を誘って、こちらのペースに嵌める算段がこれではまずい。
事前に得ていた彼の情報が、何一つ役に立たない。思い浮かべていた当初の思惑が音を立てて崩壊していく。
これからどうすればいい? そう自問しても混乱する思考では、頼りになる答えは返ってこない。
「なら後回しでいいじゃん。それに俺もやることあるし」
言い終えると同時に、クオは無線機を抱えたまま、ACの下へと走り去ろうとする。
が、肝心なことを言い忘れていたのか、その途中で彼は足を止め、そのまま振り返り、
「お願いだから、邪魔にならないところでじっとしててよ」
とサラに対して釘を刺す。そして彼は備え付けられた階段を勢い良く上がっていく。昇る際の小気味良いテンポが響き渡ったころ、
それを耳にし、ふと我に返ったサラは、臆することなく彼の背中を追いかけた。
何十段とある比較的長い階段を暴れるように駆け上がり、ACの胸部辺りに増設された整備用通路まで上り詰めたサラは、
呼吸一つ乱していないクオの姿を見つける。
彼は唯一残ったACであるローゼンクランツの傍で何やら作業を始めようとしていた。
七、八メートルはある高さに作られた通路は、ちょうどACのコアの高さに調節されている。
それでも下を見れば、たちまち足がすくむ。並の人間が落ちればただでは済まないだろう。
「あ、あの!」
「ん?」
肩で息をしながら、サラは自分に残っている体力を振り絞って呼びかけ、彼を振り向かせる。
「どうして、私があなたたちを騙しているってわかったんですか?」
「んー。どうしてって言われると結構困るんだけどな」
後頭部を掻きながら困惑しているような表情を浮かべ、彼は少し考えた後に呟くように言った。
「強いて言うなら、全部かな?」
「ぜ、全部ですか?」
「うん、全部」
「まあ、俺も兄貴に言われるまでは騙されてたから、あんまり強く言えないんだけどさ」
まただ。彼の口からまたしても意外とも思える発言が飛び出す。
「ロウ、さんが?」
ロウと言えば、三人の中で最もサラに疑いを持っていなかった人物ではなかったのか。
それなのに彼は誰よりも早く、彼女の演技に気づいたと言うのだ。何かの間違いではないのか。確かめようとした矢先、
「うん。あ、ごめん。俺、今ちょっと急いでるんだ」
クオが悪びれた様子もなく話を遮っていた。
「あ、ちょ、ちょっと」
当然、サラは納得がいかない。だが彼は彼女からの束縛から逃れるように、
軽やかな足さばきでコアの後部にまで移動していた。急いで後を追いかけようとしたサラの耳に、
ガタンという何かの拘束が外れたような重い音が響く。
コアが開く音だというのは、サラも承知していた。
何とかして引き止めなければ。咄嗟にそれだけを思いついて彼女も彼の後を追おうとしたが、、
彼はすでにコアの中へ身体を滑り込ませており、彼女の視界から消えていた。
「そんな……」
話をろくすっぽ聞いてもらえず、一人ポツンと残されサラは途方に暮れるしかない。
仕方なくサラは通路の柵に全身を預けてもたれかかる。遠く離れた床が彼女の目に映ったが、特に恐ろしいとは思わなかった。
それよりも当初計画していた予定が、ここまで破綻してしまったことのほうがよっぽど恐ろしい。
本来ならば、もう少し混乱させ動揺を誘った後に本題を告げる予定だったのだ。
そのほうがより暴露したときの衝撃は大きくなるはずだし、さらなる動揺を誘発するきっかけにもなる。
そうなれば、もう主導権は握ったようなものだった。後は上手にペースに乗せて操ればいい。
実に簡単な話だった。
だが彼らの思考は彼女の上を行っていた。騙されているとわかっていたにもかかわらず、わざわざ僚機までつけて出撃する人間に、
自分の身の危険がないと悟ると即座に視線を逸らして、完全に蚊帳の外に置こうとする人間。
違う。自分が待ち望んでいた存在はこんな身勝手な人間ではないはずだ。
流れていく現実を拒絶しながらも、彼女は自身の計画が崩れ始めたことを徐々に悟り始めていた。
そもそも彼女は、クオと会ったことは一度もない。もちろん他の二人も同じ。
彼女が彼を理解するために用いたものは、ただの公共に出回っていた一般的な情報のみ。
それもまた、公共の設備を使って調べただけにすぎなかった。
しかし、どれもこれも漠然としていて彼の本質を掴むまでには至らなかった。
レイヴンとしての評価、戦闘スタイルの型。掲載されていたのはその程度だった。これでは人物像など一生掛かっても把握などできない。
単なる文字の羅列だけではわからない情報が確かにある。だからこそ、サラはあえてこのような手段を実行に移した。
直接の接触を持ち、彼の本質的な部分を知るために。それが計画の第一段階には極めて必要なことだったからだ。
結果的にその思考は間違っていなかった。今、こうしてそれを痛感している。クオという人間像に関しての情報はやはりガセネタだった。
常に冷静沈着で、戦闘中においてはわずかな慈悲すら与えない冷酷なレイヴン。
それが前情報でのクオの評価であったのだが、こんな紹介文を書いた奴を無性に怒鳴りたい気分だった。
それは一体誰のことだ? どこにそんなレイヴンがいる?
頭に叩き込んでいた情報を猛烈に罵って、彼女はそれらを記憶から抹消した。
目の前にいるクオという男はそんな熟語で説明できるほど単純な存在ではない。一連のやりとりでそれは十二分にわかった。
ありとあらゆる情報網を調べ尽くしたのに、
情報に適合しているのはどれもこれも、傭兵に似つかわない体躯、などの外見的な特徴ばかりだ。
しかし彼女は心の隅でその前情報を微かに、いや、半分以上信じていた。勝手気ままに対象を想像し、顛末を創り上げていた。
だからこそ、彼女は予想外の事態に心を大きく揺さぶられてしまった。
こんなはずではない。彼はこんな人間ではないのだと。でも違った。それは傲慢でしかなかった。
一人残され、自分の感情と向き合わなければならない状況に追いやられてしまった今だからこそ、それがよくわかる。
お前ら以外の人間は屑と見なせ。虫を踏み潰すような感覚で殺せ。脅える必要はない。相手はただの屑なのだから。
あの“檻”の中で常に頭に響いていた言葉。自分たちはこの世界に生まれた新しい人間だから。旧世代の塵を見下そうが一向に構わない。そう教育されて生きてきた。
無意識下であっても、こんなことを考えていた自分に彼女は深く絶望する。違う。本当はこんなことをしたかったのではない。
彼らを騙した、否、試した理由は単に理解したかったから。
彼らがどういう反応を示し、どういう行動を取るのか。それが見たかっただけなのだ。
「よし、今日のお仕事終わり!」
気づけば、コクピットに飛び込んだクオがもう外に這い上がろうとしている。
長々とした思考に、いつのまにか相当の時間を費やしていたらしい。
サラの姿を確認したクオが、まだいたのか。といった視線を向けてきたことからもそれは明らかだった。
「周囲に敵の反応はなし。綺麗なものだ。本当に俺らを殺しにきたわけじゃなさそうだね」
急いでコクピットに飛び乗ったのは、ACのレーダーを使って周囲の索敵を行おうとしていたからだろう。
不意に索敵というどこかで聞いた言葉が脳内で流れたのも併せて、彼女はふと安堵の表情を漏らした。
「ええ、これで信じてもらえましたか?」
「まあ、一応はね」
随分用心深い性格でもあるのだな。と表情を崩さないまま彼女は思う。
「じゃあ、どうして俺らに接触してきたわけ?」
そしてクオの口からようやくその言葉が発せられた。来た。待ち望んでいた言葉がようやく来た。
形としては大幅に乱れてはいるが、どうにかここまでこぎつけることができた。
身体が急激に強ばり、彼女は口腔に溜まった唾液をゴクリと飲み込んだ後で、静かにそして強く告げる。
「あなたに依頼したいことがあるんです」
今度は偽りではなく紛れもない真実。クオも彼女の全身から迸る気配に何かを感じ取ったのか、
ふざけた様子も一切垣間見せることなく、真剣な面持ちでそれに応える。
「それって俺個人に対する依頼なわけ?」
「はい、そうです」
自信を持って彼女は言う。
「じゃあ無理だね」
「え?」
だが拒否された。しかも即答だ。身体の緊張がまたしても虚しく消えていく。
「ど、どうしてですか?」
それでも今回ばかりは彼女も諦めきれない。さらに追い縋るように続ける。
「だってさ。俺まだ子どもだよ? そういう頼みってのはちゃんと保護者を通してもらわないと」
「ほ、保護者?」
「うん。俺の場合だと兄貴ってことになるね」
クオの顔に遊び心は見えない。彼は真剣そのものだった。
一般的にはどこかおかしい発言なのだが何故だろう、それが正論のように聞こえてしまう。
「あ、もしかして兄貴のこと舐めてたでしょ?」
不穏な面持ちでいるサラに、苛立ちでも感じたのか、クオが語彙を強めて言及してくる。
彼女は何も言い返せない。図星だったからだ。このまま首を縦に動かして、
もしクオの逆鱗にでも触れたら、それこそ全てが終わってしまう。だからこそ彼女は無言を押し通そうとした。
「さっきも言ったけどさ。最初に君の正体に気づいたのは兄貴なんだぜ」
扱いやすいタイプだとは彼女も思っていた。女性ということを良いことに、媚を売り、へつらおうと近づいてくる軟派な男。
三人の中では最もわかりやすい人間と判断を下して、ほとんど相手にもしていなかった。
そんな彼がクオよりも早く彼女の正体を見破っていたと言う。とてもではないが信じられる話ではない。
「理解できないってのは当然の反応だよ。気にしなくていい。俺だってそうだもん」
「そうなんですか」
どうやらクオもまたロウに対して同じ印象を感じていたようだ。
だが、初対面と実の兄弟という絶対的な差があるにもかかわらず、こうして意見が合うのはどうしてなのか。
ふと沸いた疑問を消化しようとした刹那、クオの指が動き、下の方向を何度も何度も指し示していた。
「降りよう」サラにはそう聞こえた。頷くと彼はそのまま階段の方へと向かっていく。彼女も続いた。
「俺の兄貴ってさ。戦闘になったらめちゃくちゃ弱いくせに、何故か目だけは異常に良いんだよ。本人曰く『匂いで区別する』んだってさ。意味不明だろ?」
階段をゆっくりと降りながら彼は言う。
「匂い、ですか」
「うん。俺の場合はさ。仕草とか立ち振る舞いとかでよく人を判断するんだけど、兄貴はほんと見ただけで判断しちゃうんだよ。勘っていうのかな。で、何故かそれが良く当たるんだ。やってられないよね」
いわゆる第六感というものだろう。その言葉がサラの脳裏に宿る。
「その兄貴が言うには、君と初めて会った瞬間から怪しい匂いってのがしてたらしいけど、それでも完全に確信できたのは依頼の時だったらしい」
数分とかからずに硬い地面に足をつけたクオは、目一杯背伸びをしたのちに彼女のほうを振り返った。
「君は最初に言ったよね? 『テロリストに襲われたから助けてくれ』って。で、俺も最初に調べてたんだよ。同じ区域で似たような依頼を探そうって感じでさ。もちろん依頼はちゃんとあった」
本題を器用に避けているとしか思えない言葉だった。それが耳に入ってきてもサラはもう何も思わない。
「ところがだ。そこに書いてあった内容は『テロリストの襲撃予告があったから迎撃を頼む』っていう内容だった。最初はまったく気にも留めてなかったけど、兄貴にそれを言ったらそこで納得してた。意味わからねえって俺が言ったら、あいつ「もう一度見直せ」って言ってきてさ。言われた通りにもう一回確認したら、本当だった。まさかって思ったよ」
完全に騙せていると思い込んでいた自分が無性に恥ずかしくなった。
サラにしてみれば中々に良い計画だと踏んでいたのに、まさか依頼一つで悟られるとは。
しかも彼女が知らない範囲で、そのようなやりとりが交わされていたことも、彼女の驚きを誘った。
「事前にあの街に警告を流した後で俺たちに接触して、街を救うという名目で、俺らに街を襲わせようとしたってところだね。もう今さらって感じだけど、君はあの街の住人じゃないな?」
「はい。何の関係もありません」
クオの問いにもサラは躊躇なく答える。
「何か目的があったの?」
「ありません。ただあなたたちの実力が見たかった。それだけです」
「……ふぅん」
彼の顔がわずかに歪む。だがそれも一瞬のことだった。
サラが唐突に失望しているかの表情を晒したからだ。
「でもそれはあまり意味のあるものではありませんでした」
綿密に作戦を練っていたにもかかわらず、その計画は半分成功し、残り半分は失敗しているのだ。
「どうして?」
「私は、あなたの力が知りたかったから」
クオが残ったことにより、彼女は新たに、彼の性格の大部分が未知数という情報を掴むことができた。
反面、最も頼りにすべき彼の実力そのものが明かされないまま、計画の第一段階は終了を迎えようとしているのだが。
「お願いします。助けてください。あなたの力がどうしても必要なんです」
腹筋に力を込めてサラははっきりとその意思を伝えた。
悲痛な叫びもいらない。目に涙を溜める必要もない。ただ純粋に告げた。
「……なるほどね。そういうことか」
たとえ断られたとしても、何度も挑戦してみせる。それだけの気概があった。
だがクオの反応は今まで見たことのないものだった。あれほど輝いていた彼の瞳が、いつしかその輝きを失っていた。
「やっぱり君も、同じなんだね」
淡々と告げられた言葉にサラは思わず返す言葉を見失っていた。
快活さに溢れていた表情がいつしか憂いを帯びたものへと変わり、その肌には失意という感情が張り付いている。
どういうことだ? と聞き返したかったが、悲哀に満ち溢れたその顔がそれを妨げる。
沈黙が破られたのは、クオの持っていた無線機から雑音らしき何かが響いたころだった。
それに応える間、クオは完全に彼女に背を向けていた。
何かを吹き込んでいく音だけが耳に触れていたが、もう彼の顔は窺い知ることができない。
それはまるで自分と彼との決定的な壁を象徴しているかのようだった。やはり自分は彼のことを何一つ理解していない。
いや、理解する必要はない。ただ自分の願いだけを聞き届けてくれればそれでいい。
彼、クオ・ヴァディスの持つ上位ランカーという力が欲しい。それだけだ。
彼の気持ちなどどうでもいい。必要なものは彼ではなく、彼の実力だけだ。それ以外に必要なものなどあるはずがない。
だがサラの心は乱れていた。背を向けて彼女との距離を離したクオを見て彼女は罪悪感を覚えていた。
必死で否定してみるが、心の隅に残ったそれは決して消えることなく彼女の内に残り続けていた。
どうして? 何故? 今までに感じたことのない気持ちに揺さぶられ、
必死で助けを求めるサラだったが、その声を聞いてくれる者はどこを探してもいなかった。