殺伐とした空気とは、こういう雰囲気のことを言うのだろうか。眉間の皺をいくつも寄せながらクオは思う。
簡素な椅子に腰を預けて身体の前で足を組みながら、彼はただひたすらに待ち続けている。その口元はへの字に曲がっていた。
周りにいる人間は、クオを除くとあと三人。あからさまな怒気を全身から迸らせているアッシュが彼から見て右に。
その怨念めいたものに、どう言葉をかけて良いかを決めあぐねているロウが左に位置し、それぞれの体勢でクオと同じ椅子に腰かけていた。
そして彼らとテーブルを挟んだ先にいるのが、三人の視線を一手に受け止めているサラだ。
容赦なく向けられる複雑極まりない視線を受けてか、彼女の顔は俯いたまま一向に動こうとはしない。
出会ったときのローブ姿とはうって変わり、今のサラはラフな男物のシャツとジーンズで身を包んでいた。
体格が最も近いクオが貸し与えたものであり、その風貌は一般人と変わりないほどに馴染んでいる。
変わらないと言えば、彼女の首に巻かれている印象的な包帯。そして右耳に付けられたイルカをモチーフとしたイヤリングくらいだ。
正直、かなり似合っている。これで微笑みでもしたらどうなるかとも思ったが、
帰還したアッシュから迸るただならぬ殺気に当てられては、それが絶対にないことは明らかだった。
何度か顔を上げようと試みている素振りは見られたが、サラはことあるたびにアッシュの鋭い目とかち合ってしまう。
触れれば火傷するような彼の憤激を見て、彼女はその度に萎縮してしまっている。
偽の依頼に偽の敵。おまけにアッシュ自身が敵として認識されるという辱めを受けたのだから、彼が苛立つのも無理はない。
サラが彼の悪癖に対してなに一つ把握していなかった。それがこの状況を引き起こした直接的な原因。
事前に情報を収集していたとサラは言うが、実際は怪しいものだ。先程の会話から考えても、調べ上げられたのは精々過去の経歴程度だろう。
アッシュには過度のストレスを与えてはならないという大前提が、アッシュという人間を扱う上で最も留意すべき点であるのだが、
サラがそれを知っていたとは到底思えない。もし知っていたのであれば、
出撃前にあれほど意気込んでいた彼を、わざわざ失意のどん底に叩き落すような真似はしない。絶対に。
ならばこれは仕方ないことではないのか。クオはふと思った。言ってしまえば、そもそもこれはサラの認識不足が招いたこと。
要するに自業自得。しかしだ。いくらサラに厳罰を与えたとしても残るものなどなにもない。もちろんアッシュも気づいていることだろう。
だからこそ、彼は何もしようとしない。殴りかかったり、罵声を浴びせたりすることもない。
ただ、自分の内にたまった鬱積の処理に戸惑い、仕方なしに外に垂れ流しているだけ。
三人の中でまだ一人もサラを咎めるような行動を起こしていないのは、
それぞれが彼女を怒鳴り散らすのはまだ早いと判断しているから。
故に、彼らはサラの弁解の声を膨張するためにこの場を用意した。
「誰か、なんでもいいから喋らない?」
そして生まれてしまったのが、息苦しさすら感じるこの空気だ。
クオがこうして口火を切らなければ、おそらくこの状況はあと数分程度は続いたのかもしれない。
「そう言われてもな。なあ、アッシュ?」
「俺に聞くな」
三人が三人、サラに言葉をかけることを躊躇していた。
二人のあまりの不甲斐なさを感じて、クオは溜め息を一つ吐いてからサラを再び見た。
「お、そうだ。サラ!」
だが、クオが重い口を開こうとしたまさにそのとき、ロウが椅子から勢い良く立ち上がり、
そのままテーブルの上に両手を置きつつ、サラの眼前にまで迫る。クオの言葉はその行動の前に跡形もなく掻き消された。
「は、はいっ!」
迫力に押されたのか、つられるようにしてサラの身体が跳ね上がる。
「腹減ってないか?」
「え?」
脅えていたはずの彼女の表情がそこで固まる。この数時間の間で何度も見たリアクションだ。
彼女からしてみれば、そのまま本題に入りたかったに違いない。
現にクオもそうするつもりだった。しかし、ロウはそれとはまったく異なる問いを彼女に投げかけていた。
「腹だよ腹。空いてないのか? あ、まさかダイエット中とか?」
口元に笑みを浮かべながらロウは聞く。それを聞いたクオは影でひっそりと頭を抱える。
この馬鹿兄貴が。なんてことを聞くんだ。仮にもサラは女性だ。デリカシーというものが根本的になさすぎる。
そういうことを考えるのは男として当然ではないのか。様々な罵詈雑言がクオの内に宿る。
「い、いえ。してないです。したこともないです」
憮然とした面持ちで二人の会話を聞いていたクオだったが、サラは意外にそういう類の話は問題ないらしく、、
どこか申し訳なさそうに呟くだけで終わった。
痛い目を見るロウを頭の中で思い描いていたクオは、期待はずれの結末に静かに舌を打った。
「そうかそうか。で、腹減ってる?」
その様子に満足したのか、ロウがテーブルから身を乗り出してより一層サラに迫る。
そら見たことか。しっかりと咎めるべきところで咎めなかったから、馬鹿兄貴が調子に乗ってしまったではないか。
クオからはロウの表情を窺い知ることはできなかったが、そんな労力は始めから必要ではない。
己の欲望を充満させた下品な面が晒されていることは、まず間違いなかったから。
「……少し」
ロウの勢いに乗せられたのか、それとも本音だったのか。うっすらと頬を紅潮させ、サラはこくりと頷いてしまう。
「よしよし。なら俺に任せろ」
端から見れば、ロウが強制的に言わせたとしか思えなかったが、とにかくロウの詰問がそこで終わった。
彼はテーブルからすっと離れて踵を返す。行く先は先程まで座っていた椅子ではない。
彼が向かった先は、居間のすぐ隣に隣接されている調理場、つまりはキッチンだった。
そこでクオは顔を上げる。するとタイミング良くロウと目が合った。
勝ち誇ったような笑みから、得体のしれないなにかをひしひしと感じ取ったクオは、
次の瞬間、ロウの策略の全貌に気がつき、さっき打ったばかりの舌を再び盛大に打ち鳴らした。
やられた。「あとは任せた」ロウの瞳には間違いなくそんな意思が張り付いていた。
サラの秘密について、あらんかぎり言及するという役目を嫌った彼は、自身の得意とする料理という選択肢により、見事その場を脱出してみせたのだ。
やられた。自らの失態にクオは天を仰ぐ。悔恨に染まった表情は苦虫を噛み潰したように渋い。
「あ、あの……」
ロウが冷蔵庫の中を物色し始めたころ、ぼそりと力のない声音がクオの耳朶を打った。
振り返り、そこにあったサラを瞳に入れたクオは、彼女が言いたげにしていることを予想してから、
「安心しなよ。兄貴の料理は絶品なんだから。下手な飲食店のよりは全然食える」
と、候補に挙がったうちの一つを返してみた。幸い、大幅なハズレではなかったらしく、サラの口から否定の声は上がらなかった。
「よし。今日は“伝説の四十二番”にでもするか。サラダオイルが効いてて絶妙なんだよな、あれは」
冷蔵庫の中身を漁っていたロウはと言うと、いくつかの食材をようやく取り出し、それを調理台の上に並べていた。
刃物をくるくると器用に回し、作るのが楽しくて仕方がないといった笑みを浮かべるロウ。
クオからしてみれば、この瞬間の彼は、ACに搭乗しているときより数段恐ろしい存在だ。
それを知ってか知らずか、ロウの満面の笑みにつられて、サラの固い表情がわずかに緩む。まずい兆候だ。
これは罠だ。巧みな言葉で人の脳細胞を弄くりまわし唾液を咥内に溢れさせようとする彼の思惑だ。
ロウのそんな術中に嵌ってしまいそうだったサラを、クオは無感情に告げて引き戻す。
「あ、サラ。名前だけでおいしそうとか思ったら駄目だからね。四十二番って言ったらただの野菜炒めだから」
「や……」
一体何を想像していたのか。サラの失望をその表情で知った彼は、ふとそんなことを思う。
そしてこれ以上調子に乗られてはたまらないと釘を差すような意味で、クオはロウに向かって口を開いた。
その口調は、注意というよりむしろ警告という意味合いの方が強かった。
「ったく、なんでもかんでも変に言い回せば良いってもんじゃないよ、兄貴。なにが伝説だ。伝説なのは食材の安さくらいだろ」
「馬鹿。まだわかってないみたいだな。いいか。小難しく言ったほうが客の食いつきは良いんだよ」
そんなこと誰から聞いたのだ? そもそも本当の話なのか? それともただの自己流か? 突っ込みたい部分は山ほどあったが、
先程から話の趣旨が本来の目的と大幅にずれこんでいることを不意に思い出した彼は、そこで口を閉ざした。
クオがあっさりと引き下がった理由は他にもある。常に文句を垂れ流してはいるものの、
彼もまたロウの手料理を心待ちにしている一人だったから。話が先に進まないのも問題といえば問題だったが、
今は、これ以上の追求を重ねてロウのご機嫌が損なってしまうほうが大事だった。
ロウの卓越した手腕は、食べる者をことごとく魅了していく。
彼が一度包丁を握れば、野菜の切れ滓や残り物などが、たちまち三ツ星級の料理に早変わりし食卓に並ぶ。
まだ幼かったころから、クオはそれが待ち遠しくて仕方がなかった。もちろん今だってそうだ。
そしてふと思うことがある。顔色一つ変えずにそれらを創造できるロウはどこか普通と違うのではないのかと。
レイヴンという職が影響しているのか、それはより一層際立って見える。
戦闘の最中に見える勘の鋭さに加え、人並みはずれた独創性、そしてそれを生み出す天賦の才能。
こと料理という分野に関して、ロウの右に立った者をクオはいまだかつて見たことがない。
馬鹿兄貴と罵ってはいるが、クオが唯一天才と認める存在は、実の兄であるロウ以外にはいない。
だからこそ今回も安心して見ていられる。絶妙な手際で本来の役目から逃亡してしまったロウだが、
鼻歌を混じらせ、高速で包丁を動かしているその姿は、もはや誰の追求にもびくともしない頑強な岩を彷彿とさせるほどだ。
「さてと」
ロウの神々しいまでの存在感をひとまず意識の外に置き、クオはすっと視線を戻す。
未だ重苦しい雰囲気が消えないサラと、にべもない表情を崩さないアッシュの二人を見回してから、
「じゃあ、話してくれないか?」
と皆が最も待ち望んでいたと思われる言葉を言い放つ。
「……はい」
こくりとサラが頷く。ようやくの了承だ。だが、それを聞いてもアッシュは未だ無骨な面容を晒し続けていた。
気が短く喧嘩っ早いのがアッシュという男のはずだったが、今の彼は勢いに任せて暴走したりはしていない。
身体を焦がすような憤りを抱えているにもかかわらず、それを必死に堪えている。
普段のアッシュからしてみれば、これはありえないことだ。クオはさらに思考を巡らせる。
よくよく思い返してみれば、サラと初めて会ったころから彼の様子はどこかおかしかった。
戦闘と聞けば真っ先に飛び出してしまう悪癖は相変わらずだが、それとは別に彼はいつも以上に気合が入っていた。
そこまで考えたあとで、クオは考えることをやめた。サラが神妙な面持ちでなにかを呟いていたからだった。
「まずはご迷惑をかけたことを謝らないといけません。本当に申し訳ありませんでした」
おざなりな謝罪をまずは行い、サラが頭を下げる。だがこれはすでに周知の事実。驚く人間はいなかった。
「クオさんにはもう言いましたけど、私はあの街の住人ではありません。そして、あの依頼も私が一人ででっち上げました」
「……どうしてそんなことをした?」
アッシュがようやく重い口を開き、彼女に向かってぶしつけな声色で問い質す。
今まで押し黙っていたアッシュだが、サラ自らが謝罪したことにより、自分の揺らぐ心に結論をつけたのだろう。とクオは推測する。
「あなた方の力を見ようと思ったからです」
「だから、どうして?」
鋭い眼光を正面に受けたサラだったが、今回は特に驚いた様子もなくアッシュを見つめ返して言う。
彼から語気を強めた追求がさらに続いたが、それにも動じることなく彼女は言葉を重ねた。
「私を守って欲しいからです」
アッシュの強められた語気も、彼女のその神々しい意思の前では無力だった。
状況に振り回され、戸惑うしかなかったかつてのサラと今の彼女は、根本的になにかが違う。
自分たちより遥かに卓越した存在。はっきりとしないながらも、そんな気配をクオは微かに感じていた。
と、サラの手がすっと自分の首に伸び、その手が首に巻きついていた包帯をおもむろにほどき始める。
包帯の切れ端を小さな手で握り、それをくるくると器用に回しながら、彼女は自分の白い肌を徐々にさらけ出していく。
その異様な雰囲気に、アッシュも、そしてクオさえも固唾を呑んで見守ることしかできなかった。
執拗にロウの下手糞な鼻歌がそんな状況とは無関係にクオの耳朶を打った。その場違いさに彼はわずかに苛立つ。
「これで、大体の事情は把握できると思います」
ほどいた包帯を机の上に置いた彼女が言う。だが、病的にまでに白いその肌が露になっただけ。
包帯を取ってもさほど大差はないではないか。とクオが言いかけた刹那、彼女がすっと振り返り、肩にまでかかる長髪をかきあげた。
「……それは」
アッシュの口から信じられないといった言葉が零れる。大きく見開かれた彼の瞳がその衝撃の威力を物語っていた。
言葉を失うとはこういうことを言うのか。驚愕に染まるアッシュの横顔を眺めるクオも、またその事実に絶句していた。
女性のうなじとは、元来色気や美しさを際立たせるものであると言われているが、サラの場合は違う。
クオの瞳に映るのは、機械。うなじに当たる部分に拳ほどの大きさの機械が文字通り埋め込まれていたのだ。
さらに目を凝らせば、そこにはコップの底面ほどの大きさの穴が開いており、なにかを差し込むためのものにも見えた。
が、急に胸が苦しくなり、クオは逃げるようにしてそこから視線を外して思考を中断させた。
考えられない。気が狂っているとしか言えない。あまりに生々しすぎてまともに直視できない。できるわけがない。
「理解してもらえましたか?」
押さえていた髪を下ろし、彼女が再び二人を見る。サラは何も変わっていない。
だがクオにはもう先程と同じとは考えられなかった。これが、これがあの――。
「……強化人間?」
特殊なプラグを接続させ、機体との一体化を図るもの。噂程度に聞いたものが目の前にある。
そういうことなのか? 初めからそのつもりで俺たちに近づいたのか? 無言を貫いたままクオは視線で問いかける。
騙した騙されたという以前までの話が無性に陳腐に思え、彼は心の中で吹き出してしまった。
そんな些細なものとは比較にならない。とんでもない泥沼に、自分たちは足を踏み込んでしまったのかもしれない。
油が弾ける音が聞こえる。それにともない、ロウが片手で握った大鍋を巧みに動かしているのが見えた。
まるで世界が違う。ほんの少しの距離しかないはずなのに。手が届くことはもう二度とない。
そう錯覚させてしまうほどに、その音はクオの耳にこびりつき、離れなかった。