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思惑


「おら、さっさと食えよ。冷めるぞ」

山盛りに詰まれた野菜炒めがテーブルに置かれ、風味豊かな香りがクオの鼻腔に絡みつく。 腹の音が、空気を読まずに鳴り響いた。気が滅入りそうな状況にもかかわらず、クオの身体は正直だった。

丹精込めたものに手をつけようとしない彼らを見たロウは、どうやらご立腹のようだ。 俺の飯が食えないのか、と無言の圧力が掛けると同時に、 痺れを切らして、自ら小皿を四つ取り出すと、有無を言わさずそれを取り分けテーブルに置く。だが、

「おい、兄貴」
「ん?」

テーブルに並べられた皿を見た瞬間、クオが吼えた。 四つに小分けされた皿の内、明らかにサラの分量が多い。それも圧倒的に。

「ん? じゃないよ。なんだよ、これは」
「まあ、やるとは思ってたがな」

クオが当然のように異論を唱える。アッシュもその言葉に頷き、同様の意思を示した。

「いや、だって。お前ら、腹減ったって言ってないだろ」

だがロウは、半ば屁理屈に近い言動で彼らの非難を受け流す。

「にしてもこれは露骨すぎるだろうが。それにこいつは……」

アッシュが蔑むような視線をサラに向けて言う。 途中で彼の声は途切れてしまったが、その先の発言はこの場にいた誰もが予想できた。

「強化人間だ、か? それは関係ないだろ。俺の料理は誰でも食える」

もっともだ。とクオも思う。少なくともアッシュの差別的な言いがかりに比べれば百倍はマシな言い分だ。 強化人間という単語のみでサラの人格は計れない。指摘したい部分はそんなことではない。 真実を知った瞬間に言動を変化させたアッシュの浅はかさに、クオは静かに憤りを覚える。

「それにだ、アッシュ。人はみんな平等なんだ。昔の誰かが言ったらしいぞ。誰かは知らんが」
「これのどこが平等なんだよ」

正直、この理不尽な小分け方は最悪だ。贔屓にも限度というものがある。 が、そうして文句を並べたところで、食材の上に無駄な唾がかかるだけ。 一人フォークを手に取って、詰まれた野菜の上に突き立て、それを口の中へと運んでいった。

シャリと小気味良い音が口腔内に響き渡る。一度噛むだけで、野菜の中からうま味が無尽蔵に溢れてくるようだった。 どの食材も決して自分だけが目立とうとはせず、見事なまでの調和を見せている。 調味料、火の通り具合。どれもみな絶妙で、濃くもなく薄くもない完璧に近い味が、その一口分の中にぎっしりと濃縮されていた。

高級さや質の良さ。どれもまったくないただの安売り食材が、 ロウの手にかかれば、貧相でしかない調理器具と簡素な調味料だけで、これほどのものにまで昇り詰めることができる。 これできちんとした料理場にでも立てばどうなってしまうのか。想像するだけで身震いが止まらない。

勢いに任せてさらにもう一口食べる。野菜を噛み切る音が周囲にも伝わり、口論になりかけていたアッシュやロウも、 お互いの顔を見合わせ、そして両者ともばつが悪いといった様子で拳を降ろし、代わりにフォークを手に取った。

三人が食べる様子を見て一人黙ったままだったサラも、山盛りに詰まれたその野菜炒めを、端から恐る恐る小突きながら、 それを口にした。瞬間、瞳が大きく見開かれた。彼女もまた気づいたのだろう。

「うまいな」

野菜を豪快に口の中に放りこみながら、アッシュが開口一番に言う。 咀嚼されている食材が歯の隙間から丸見えだった。クオはマナーもわきまえない馬鹿から視線を逸らす。

「だろだろ。今回はちょっと調味料の量とか炒め方とかを変えてみたわけなんだが。ふむ。もしかするとこっちの方が良いのかもな」

だが、向き直った先にいたロウの口元にはまったく同じ光景があった。どいつもこいつもいい加減にしてくれ。 思わず叫びたくなったが、同じく口の中に野菜を充満させていたクオは、不幸にもその機会を逸していた。

「というわけだ。なあ、クオ?」

フォークを運ぶ手が止まる。浅く刺さった野菜がボタボタと皿に落ちていく。

「もしかして、また?」

いきなりロウに名指しされ、一瞬だけ戸惑ったクオだったが、すぐに彼の意図は読めた。

「そういうこと。こういうのはお前しかできるやついないんだからさ。というわけでデータの書き換えよろしくな」

軽く肩を落としたクオなどお構いなしに、ロウはポケットに忍ばせてあったものを彼の前に置いた。 爪ほどの大きさしかないそれはデータなどを保存する際に用いるメモリーカード。製品の名称とメモリの容量が印字されていたが、 それを見るだけでもクオの気分は曇る。これこそが彼が四六時中パソコンと向かい合うことになった最大の要因だったのだから。

「何だ、それ?」

バリバリと下品な音を絶えず出し続けているアッシュが聞く。

「ああ、これ? 兄貴の作った料理のレシピ本ってところだよ。こうやって新しいもの作ったときとか、別の味付けに挑戦して上手くいった場合とかに、ここに書き込んでいくわけ。まあ、ただ食うだけのアッシュには言う必要ないって思ってたから、知らなくて当たり前か」
「食う専門で悪かったな」

軽い皮肉を受け、彼はさらに野菜を放り込んでいく。

「言っとくが、なくしたりぶっ壊したりしたやつは、その場で殺してやるから覚悟しとけよ」
「誰が壊すかよ、そんな使い道のないガラクタ」

なんだと、とロウはアッシュに噛み付こうとする。

「はいはい。兄貴的には、命の次の次くらいに大事なんだよね、確か」

絶妙なタイミングでクオがそれを制する。

「ああ、そうだ。今のうちから溜め込んでおかないとな」

確かに利用価値は皆無だ。たとえデータを盗み取ったとしても、それを再現できるだけの技術が伴っていなければ意味がない。 クオたちが留意すべきことと言えば、何らかの手違いでそのメモリーカードを紛失、または破損させた場合だけだ。

「あ、あの……」

馬鹿らしい会話が一段落ついたところで、クオはサラの声を耳にする。 気を緩めていなければ認識できなかっただろう。そのくらいに弱々しい声だった。

「どうしたんだ、サラ?」

サラに向き直って問い質しても、なぜか彼女は口を開こうとしない。 よく見れば、あれほど高く積まれていた山盛りの野菜が跡形もなく消えていた。 そして頬をわずかに赤らめ、おどおどした様子のサラがいる。なにか言いたいことがあるのに言えない。そういう種類の表情だった。

「ああ、なるほどね。おかわり?」

彼女の首がゆっくりと、しかし確実に縦に動く。

「ご、ごめんなさい。でも、もう二日もなにも食べてなくて。それにとてもおいしかったから、ついつい見境なくしちゃったっていうか、その……」

さらりととんでもないことを告げているようにも聞こえたが、本人にその自覚はないようだった。

「やっぱり駄目、ですよね? 私なんかがそんなこと言っちゃって」

怯えた様子でサラは聞いてくる。おそらく彼女自身が彼らにしてしまった行為があって下手に動けないのだろう。 当たり前のことであったが、すでにその話を過去のものとしていたクオは首を振って応える。

「いや全然普通だよ。でも残念だけどもう余ってないみたいだ。俺らの皿に載ってるやつで全部――」

そう言いかけた刹那、クオは彼を除いた二人が、咄嗟に自分の皿を囲いこんだのが映った。 それはまるで縄張りを必死に守ろうとする獣に似ている。同様の行為をクオもしようとしたが、やはり一歩遅かった。 気がつけば、サラを始め、アッシュやロウが、クオに向かって一様な視線を送りつけている。

「な、なんだよ……」

真正面に小動物のようなサラの蒼色の瞳が見え、彼は思わずたじろぐ。 さっさとそれを寄越せ。執拗に迫るその未知の意思に気圧され、耐え切れなくなったクオは、溜まった唾をごくりと飲みこむ。

「ま、まあ、あげてもいいけどさ」
「何かあるんですか?」
「条件付き」

サラの表情が強ばる。

「って言ってもそんなすぐに思いつけないから、そうだな。俺らにもう嘘をつかないこと。そのくらいでいいや。どう? 約束してくれる?」

緊張した面持ちだったはずのサラが、クオのそんな一言でぽかんとしたそれに変貌していた。 そんなことでいいのか? 無言でそう語りかけてくる彼女に、

「勘違いしないでよ。俺はただ自分の置かれた状況が知りたいだけだ。それに俺らってまだ君のこと全然知らないわけだし」

と、釘を刺しておく。腹は完全に満たされたわけではないが、 今は自分たちの置かれた、またはこれから置くべき事態を把握するほうが遥かに重要である。

「わかりました」

サラの意思をはっきりと聞いた彼は、約束通り皿に残っていたものをサラの前へそっと差し出す。 そして彼はグラスに注いである水を一気に飲み干した。同じように彼女も水を少し飲む。 次の瞬間、目の前に確かにあったはずの野菜が、とてつもない速さで消えていった。

「ごちそうさまでした。さてと……」

暴食に近いその圧倒的な速度にクオは衝撃を覚えた。ぺろりと平らげてしまった皿には見向きもせず、 そこでサラは目を閉じた。なにかの決意の表れなのだろうか。 数秒ほどそれは続き、そしてその目がかっと見開かれたとき、サラの口が言葉を紡ぎ始める。

「皆さんはアーカムという企業体を知っていますか?」

唐突に問われ、始めはなんのことだか理解できなかった。残りの二人も同様の態度を示している。 企業体という単語からして、どこかの企業であるのは間違いないのだが、残念ながらクオの記憶の中に該当するものはなかった。

「いや、知らないな」

三人の首がその結果を彼女に伝えるために横に大きく揺れる。

「ではインスマスは?」

これも同じだ。聞いたことはない。

「オーゼイユは?」

そこで気づいた。彼女はわざと聞いている。あえて自分たちが絶対に知らないことを尋ねている。 だが、それになんの意味があるのか? わからない。少なくとも今は、ただ彼女の次の言葉を待つしかなかった。

「知らないのは当然です。この三つは一応は企業という形をとってはいますが、実際は別の施設ですから」
「と言うと?」
「簡単に言うなら、強化人間の製造工場。そんなところでしょうね」

そんな馬鹿な話があるのか。思わず彼女の言葉を疑ったが、真実味のある瞳が真正面に映りこみ、その猜疑心を揺るがせた。

「レイヴンであるものは依頼を受ける際、その統括機構であるレイヴンズアークを介さなければいけない。ただ、登録さえしていれば後は個人の自由。強化手術を行ってもなんら問題はない。そうでしたよね?」
「ああ、そうだ」

必要な部分だけを凝縮した暗黙の制約を、サラは暗誦でもするかのように機械的に唱えていた。 傭兵たるレイヴンはその斡旋企業であるアークを介し、依頼を請け負い、そしてその中で争う。 その枠からはみ出た場合は、容赦なく粛清がかかり、最悪追放という憂き目が待っている。

その中でも強化人間という存在はやはり異質のものとして捉えられている。 現に世間に名前が知れ渡っている、つまりはランクの上位に位置するレイヴンのほとんどは強化人間とさえ言われている。

なにを思ってかは定かではないが、力を得るために、進んで自らの身体にメスを入れることを了承した狂人の集まり。 クオはそう理解していた。人工的な臓器強化による肉体限界の向上、薬剤投与による脳内での情報処理能力の底上げ。 常人との違いなど、数えればいくらでも出てくる。人体への負荷の危険性に晒されながらも、彼らはそれを飛び越え、絶大な力を得た。

「確かにこれが最も合法的なパターンです。世間一般にもこれで通っていますしね。でも裏側では少し事情が違うんですよ」

含んだ笑みを見せながらサラが言う。そしてこのサラもまた、その強化人間というカテゴリーに当てはまる。 こんな女性がその強化人間? そう考えるだけで息が詰まった。胸が激しいむかつきを覚え、吐き気すらこみ上げてくる。

「非合法に強化人間を製造し、企業側もそれを購入して己の手駒として扱っている。これが事実だとしたらどう思いますか?」
「不可能だ。そんなことをすればアークから粛清がかかる」

クオも同じことを言いかけたが、ロウのほうがわずかに早かった。レイヴンが企業体への専属契約を結ぶことは禁じられている。 たとえ登録されていないレイヴンであってもそれは例外ではない。いくつもの粛清事例が生々しい証拠とともに残されていた。 その徹底さと容赦のなさはレイヴンの間にも噂となるほどで、後の者に対する見せしめとしては十分すぎるまでの効果を示している。

「ええ、確かにそうです。ですが実は、アークのほんの一部もその不正に噛んでいるんですよ。もちろん、彼ら全体の総意というわけではないでしょうが」
「……ありえない。アークもそんな間抜けな組織じゃないさ。そんな危ない輩がいるなら、ちゃんとマークもしてるだろうよ」

吐き捨てるロウだったが、それを嘲笑うようにサラの口元が曲がり笑みの形を作った。

「ただの保育施設をアークが監視ですか? それこそよっぽど暇でなければできませんよ」
「どういうことだ?」

場違いなサラの微笑みが癇に障ったのか、横からアッシュが鋭く言い放つ。

「私の表向きの職業はなんだと思います? 保育士ですよ。いろんな事情で預けられた子どもたちのお世話をすること。それが粛清対象なのですか?」
「それは……」

真実を包み隠さず話すこと。それが彼女と交わした約束だ。だからこれも紛れもない真実なのだろう。だと信じたい。 しかし、話があまりにも突飛しすぎている。ただの事実だけがそうして語られる反面、その過程における背景が、 まったくの未知数のままで残されてしまっている。確証に至る根拠などなにもない。サラの言葉だけが唯一の情報源だった。 やはりまた嘘をついているのか? 頭の端でそう考える。だがサラの澄み切った双眸の奥には、嘘という単語はまったく窺えなかった。

ガレージ内で話したときの彼女の表情には、常になにかしらの含みがあった。偽の依頼を話したとき、クオ自身がその嘘を見破ったとき。 いずれもサラははっきりとした反応をクオに示した。しかし、今はそれがほとんど見られないのだ。

「それが俺たちにどう関係あるんだ?」

淡々と話すサラにアッシュが再び疑問を投げかける。すると彼女はその質問を待っていたと言わんばかりに微笑みを一層濃くした。

「一週間前、私はその不正の一部始終が記載されているデータを盗み出し、施設から逃げ出してきました」

空気が一瞬で凍りつく。「な……」という間の抜けたアッシュの言葉だけが唯一の反応だった。 クオはなにも言わない。言えるはずがなかった。その深すぎる暗部を理解するよりも早いこの爆弾発言。

あなたたちは今までなにも知らずに生活してきましたが、実はこういうことだったんです。だからさっさと信じなさい。 サラの口調は穏やかだが、内容は猛毒以外のなにものでもない。信じろ? 絶対に無理だ。クオは心で叫ぶ。

「これをアークに直接持っていくことができれば、さっき言った不正は確実に世間に暴露されます。そうすれば粛清とまでは行かずとも、なんらかの打撃を彼らに与えることができるはずです」
「データだって?」
「ええ。不正に関与している局員全員の氏名から。取引の日時や銀行口座の架空名義まで。どれも十分な証拠になり得るものです」

サラは彼らに命令していた。けれど、高圧的な態度は一切取らない。ましてや脅そうとしているわけでもない。 穏やかに、そして懇願するかのように命令していた。矛盾しているようにも見えるが、 彼女の言っていることはつまりそういうことだ。サラは最初から拒絶されるとは思っていない。 だから高飛車な態度を取る必要も、凶器をかざして強制させることもしない。必要がないからだ。

「でも、こんなもの私一人ではどうすることもできない。逃げる際にはACを奪う余裕もありませんでした」

なぜそう断言できるのか? 答えは簡単。サラは彼らを見下している。それも徹底的に見下している。 スイッチを入れれば、文句も言わずに決められたことを実行する機械。彼ら三人はそんなものと同じように見なされている。 クオたちなど彼女の前では人としてすら認識されてはいない。所詮自分たちはただの機械と同じだ。

「……わからないな」

まるで子どもの論理だ。今まで腑に落ちなかった点を分析し、欠けていたパズルの部品を一つずつ補完していく。 そしてこの結論が出てきた。導き出された仮定を目にしたクオがまず思ったこと。 あまりに幼稚であまりに陳腐。思いもよらぬ駄作っぷりに、彼は先程とは別の意味で吹き出しそうになる。

「質問は当然あると思います。でも――」
「あー、そういうことじゃなくてさ」

クオは重い口をようやく開けて遮るように言った。唐突の話を切るのはやはりまずかったのだろうか。 サラの顔が明らかに曇っていく。だがクオにしてみれば、そんなことはどうでもよかった。

「お熱い演説は良いんだけどさ。俺たち、まだ引き受けるって言ってないよ?」

苦笑を噛み殺しながら彼は言う。どうして君はあたかもすでに了承されたかのような話し方をするのか?  それがわからない。目線のみで続きの言葉を訴えながら、クオは彼女を見つめ返す。

「っていうか、今の話聞いて受ける気なくしたよ。そんなでかい仕事しても俺たちにメリットなんかある? ないだろ」
「で、でも……!」
「君が頼もうとしてるのは、どうせ護衛とかそんなものだ。ってことは遅かれ早かれ、追っ手が必ず来るってことだよね。君のいた施設の私兵が。強化人間がだ……!」

反論させる余裕を与える気はさらさらなかった。勢いに任せて、クオは心の内に溜まった鬱積を吐き出していく。

「そいつら相手に護衛? 笑わせるなって。仮に君の話が本当だとしたら、それはヤバいことだ。君が思ってる以上にね。俺たち三人だけで解決していいことじゃない」

息つく暇もない言葉の応酬。それを見舞われたサラはと言うと、クオの予想通りに再びあの困惑の表情に立ち戻っていた。 そして彼女はこう思っているのだろう。夢想していたものがまた一つ崩れ去った、と。

自分がどれだけ突拍子もないことを言っているのかが、今の彼女には自覚できていない。 だから、いざこうして全否定されれば困惑するしかないというわけだ。クオが感じていた違和感の源泉。それがようやく見つかった。

「巻き込まれた俺たちの立場はどうなる? 君の勝手な考えで無関係な俺らまで殺す気か?」

最初のときだってそうだ。サラは三人の実力が知りたい。ただそれだけのために街一つを戦場に変えた。 無関係な民間人すら巻き込みかねない危険な状況を理解していたにも関わらず、それを躊躇いなく実行した。

己のことしか考えていない自己中心的な行動。他人の安否など一切考慮しない独善的な思想。 これらがサラの内に潜在的に根付いている価値観だ。まるでどこかの世間知らずのお嬢様ではないか。話にならない。

「っていうのが俺の意見だよ」

予想外の言葉の波に飲まれ、サラはそこから先の言葉を失っていた。 絶望感を秘めた頭が、勢いを失ったかのようにがくんとうな垂れている。 こんなものか。と言うべきことを一通り言い終えたことを確認したクオは、溜め息を一つ吐いてから、

「というわけで、俺はものすごく反対なんですけども、お二人は意見変える気になってくれましたでしょうか?」

彼女ではなくその隣でずっと一部始終を聞いていたアッシュとロウに声を掛けた。 その声には、もはやサラを追い詰めたような覇気は欠片も残されてはいない。

「……足りないな。弟よ」

しばらく沈黙を貫いていたロウがにやりと笑いながら告げる。

「おう、全然足りない。っていうか俺の場合、途中からわけわからなくなってたから、ほとんど聞いてねえしな。無駄な努力ご苦労様だ」

アッシュからも同様の採点が送られてきた。ありえない。これだけ容赦なく言ってもまだ足りないというのか。

「あ、あの……。これは、どういうことなんですか?」

またしても蚊帳の外に置かれたサラから、半ば苦情のような質問がなされた。 事態をまったく飲み込めていない彼女に対し、クオが慌てながらもその問いに応じる。

「あ? ああ、サラには関係ない話だよ。ただ俺が多数決に負けたってだけのこと」
「た、多数決?」
「うん。賛成がこいつら二人に反対が俺一人。よってサラの提案は無事に可決されました、と」

一体、今までの自分の努力は何だったのか。憎まれ役を演じてまで二人の意見を反対へと引き込もうとしたのに。 当の彼らは固い石のように揺るぎもしない。二人の歪んだ欲望はそれほどまでに大きいということなのか。 だとすれば、まだまだ修行が足りない。クオは舌打ちを交えながら、その結果に肩を落とす。

「にしても、多数決ってのは怖いね。いやほんと。というわけで、依頼は受けるよ」
「え? え、ええ!?」

そこでようやく気づいたのか、驚愕の一声が響き渡った。あまりの騒音っぷりに思わず耳を塞ぎかけた。

「あれ? どうして驚くのさ? せっかく引き受けるって言ってるのに」
「え、で、でも……。さっきあれほど嫌だって」

唾が飛びかかろうがお構いなしにサラが追求を重ねる。

「ああ。俺がね。いや、この二人が最初から賛成する気満々だったからさ。一人くらいは反論したって良いじゃないかって思ったんだよ」
さらりとクオが言い放つ。飄々としたその声音に、サラの顔が疑念の色に染まる。 サラが言葉を紡いでいたとき、アッシュとロウはほとんど口を開いていなかった。それにもきちんとした理由がある。 二人は首を縦に振る気だった。それも最初から。だから何も言わなかった。彼女の発言を咀嚼し、吟味するだけで終わっていた。

真っ先に疑おうとしたクオとは違い、彼らはとても純粋だった。あれほど歪んでいたアッシュの顔も、 今ではサラの話の中に、それこそ先程の戦闘とは比較にならないほどの刺激を感じて喜悦に塗れている。

ロウに至ってはもっと単純。女性が困っている。それで終わりだ。 どいつもこいつも単純すぎやしないか。単細胞な彼らの思考に、そしてクオは真っ向から立ち向かっていったが、

「でも結局、こいつらは動かせずじまい。だから俺の負けってこと。だから安心しなよ」

最後にはそれも成し得ず、逆に己の無力さを十二分に噛み締める羽目になった。 しかし、文句という文句を並べ立てた結果、様々なことが推測できたことを鑑みれば、あながち無駄なことではなかったのかもしれない。

「で、さっきの話の続きだけどさ」
「は、はい」
「どうして俺ら――。いや違うな。俺なんかに目をつけたの? 俺より強いやつなんか腐るほどいるってのに」

クオの上位ランカーという肩書き。サラはそれを目当てにやってきた。アッシュとロウは始めから眼中にない。 稀代稀に見る天才と謳われるクオ・ヴァディス。そんなどこにもいない英雄像を夢想しながら。 彼自身がその肩書きをなにより嫌っているとも知らずに、彼女はのこのことやってきた。

「……これって質問ですよね?」
「うん、質問」

そんな裏の感情を押し隠しながら、クオは限りなく微笑ましい笑顔で答えていた。

「私、もう普通に喋っていいんですよね?」
「ああ。もう俺はなにも言わない。だから安心して喋りなよ」
「わかりました。えっと、なんでクオさんたちに接触したかってことですよね、確か?」
「そうそう」

サラが妙に疑り深く彼に問う。ここまで彼女を疑り深くしたのは一体どこのどいつだ。 ロウから威圧的な視線が飛んでくる。彼がいる向きには向かないでおこう。クオは瞬時に決断を下して視線を逸らした。

「この乗り物です」

一呼吸置いたあとで、彼女がはっきりと言った。

「乗り物って。もしかして、この車のこと?」
「はい。アーカム――つまりは私の所属していた研究所にはまだ複数の強化人間がいました。手は打っていますが、私がデータを盗んだことも、すでにそこの局員に察知されていることでしょう」

迷いなく淡々と説明を加えていく。さらに彼女は続けた。

「彼らの情報網なら標的の所在地を特定することなど簡単です。でも、あなた方にはそれがない。なにせ常に移動しているんですから」
的を射た彼女の言葉にクオだけではなく、残った二人もまた関心を示すような顔を浮かべていた。

「もちろん他のレイヴンは移動もします。けれど、その移動手段は大抵公共のものを利用しているに過ぎません。その程度ではすぐに調べられてしまいますので、彼らの包囲網にまず間違いなく引っかかる」
「ふうん。だから事前に俺たちの動きを調べ上げて接触してきた。そういうことなのか?」
「はい」

この輸送車もどきを使い始めてまだ一週間と少し。アーカムなる施設からサラが脱走した時期とも重なっている。

「じゃあこのままずっとこの状態だったら、敵と対面する確率はだいぶ低いってことだね」
「そうなりますね」

これにはクオも違和感を覚えた。

「……随分余裕なんだね、君は。普通ならもっと慎重になるべきじゃないの? いくら確率が少ないって言ったって全くないわけじゃないだろ?」

追われているという自覚があるのに、なぜかサラの振る舞いには余裕すら垣間見えている。 己の答えに自信を持っているのか。彼女には毅然としたものは見受けられた。

「ええ。でも内部に協力者がいるんです。だから、当分の間は追っ手の心配はないと思います」
「協力者?」
「ええ。私の――」

そのときだった。空気を切り裂くかのような音が一瞬耳に入ったと思ったまさに刹那、 彼らがいた空間がまるで下から突き上げられるかのように跳ね上がっていた。

地震のような大きな縦揺れ。突発的なその衝撃は生半可なものではなく、 その場にいた四人全員が、吹き飛ばされるように椅子から転がり落ちた。

身構えてもいない無防備な身体が咄嗟に受身をとってくれるはずもなく、クオは床に叩きつけられる。 これからのこと。報酬のこと。現実味の薄いサラの言葉のこと。それらすべてがその衝撃一つで彼の頭の中から消え失せていた。

「……おい、みんな大丈夫か?」

ふらつく身体をどうにか起こしながら、クオはロウの声を微かに聞いた。なにが起こったのか。考えた瞬間、頭に電流に似た痛みが走る。 頭が痛い。床に転げる瞬間になにかで打ってしまったのだろうか。手で痛む部位を押さえながら、彼は朦朧とする視界の中で残る三人を探す。

机上に残っていたグラスや皿がテーブルの上から弾き飛ばされ、 甲高い音が響いたとともに、彼らの周囲には無数のガラスの破片がばら撒かれていた。

「ああ、なんとかな」

重苦しい息遣いとともにまずアッシュの声が聞こえてきた。

「サラは?」
「私も、大丈夫です。ちょっと、ガラスで腕を切っちゃいましたけど」

床にへたりと座り込んでいるサラの姿をクオも確認することができた。手の甲をさすっているのはおそらく怪我をした箇所だからか。

「俺も、大丈夫。頭痛いけど、ね」

問われる前にクオは答えた。そして自らの手で立ち上がりながら「でも、一体なにが起こったんだ?」と尋ねる。

「……グレネードだ」

落ち着いた声色が聞こえてきたと思った瞬間、ようやく立ち上がったクオの脇を鬼気迫る形相で誰かが通り過ぎていた。 その姿をアッシュと断定したクオは「お、おいアッシュ!」と声を掛けるが、

「絶対に間違いない。あの爆発音は忘れねえ!」

完全に寝耳に水といった様子で、彼は制止を無視して後部ガレージの方角に走り去っていく。

「とにかく外に出るぞ! クオ、お前も行けるか?」

ロウの問いに彼も首を縦に大きく振り「ああ」と早口で返す。 外を確認する必要もなかった。グレネードという単語が出たということは、もう答えは一つしかない。

「あ、サラはここにいて。なにがあっても絶対に外に出ないこと。いいね?」

叫ぶようにサラに告げると、クオは確認も取らずにガレージに向かった。 途中、家具やら洋服などが散乱している光景を目の端で捉えたが、構ってる暇はなかった。

最悪だ。廊下を駆け抜ける合間、クオはただそれだけを思って唇をぎゅっと噛む。 いきなり襲撃を喰らうなど、思ってもいなかった。だが紛れもなくこれは敵襲。 だがしかし、その事実は、彼にそれとは別の問題を思い出させてしまう。

カラドヴルフ、そしてファフニールはあの戦闘の後に、整備を施したことがない。ただの一度としてだ 二機の蒼白と紅のACは、原型こそまだしっかりと保ってはいるが、銃創と呼べるものはそれこそ無尽蔵にあった。 その補修作業、細かな調整作業が済んでいない。武器弾薬の補給は事前に積み込んである替えがあるからまだいい。 だが連戦である。しかも今度の相手はMTではない、ACだ。状況がいかに絶望的かは日を見るより明らか。

「くそっ! どこのどいつだか知らないが、余裕かましやがって!」

クオたちがガレージ内に滑り込むようにして入ったときと同じくして、アッシュの怒号がけたたましく轟く。 ガレージという閉鎖的な空間がその音響をさらに増幅させていた。 彼が最上級の悪態を吐いている。これがなにを意味するのか。クオにはすぐに把握できた。

アッシュの言う通り、先程の衝撃がグレネードランチャーならば、この震動、否、襲撃は十中八九、ACによるものだ。 だとすれば必然的に矛盾が生じる。運転手たるアッシュは一緒にいた。つまり、彼らが乗っていた輸送車は停止していたのだ。

それなのに、ACを操っているであろう謎の人物は、グレネードを所持しているにもかかわらず、それを直撃させなかった。 運転席を狙って撃ち放てば確実にクオたちを消し炭にできたはず。だがしなかった。外されたのだ。 そしてもう一つ。その砲撃一発のみで、次なる敵の攻撃がない。まるでこちらを待っているかのようだ。

クオの目には、パイロットスーツに袖を通しながらACの機動準備を進めるアッシュの姿が見える。 やはりこういうことには手馴れているのだろう。不測の事態になった今でも、彼のテキパキとしたその動きには一縷の迷いも見られない。

そうだ。こんなところでおかしなことを考えている暇はない。三人の中で今最も動けるのは自分なのだ。 油を売っていていいわけがない。いつもの分析癖が顔を出したことに珍しく苛立ちを感じながら、クオは己のACへと目を向けた。だが、

「これは……」

ロウの途切れそうなほどの声色が耳に入った瞬間、クオは己の愛機であるローゼンクランツに異変を目にしていた。

「嘘だろ」

誰に言うわけでもなく虚空に向かってクオが叫ぶ。叫ばずにはいられなかった。 眼前に聳える機体、その脚部――人で言うアキレス腱の部分が大きく歪んでしまっていた。

その潰れ方はもはや目も当てられないほどに凄惨なものだった。いくつもの武装搭載用のコンテナがその機体の足元に散乱している。 そしてローゼンクランツの真後ろの壁がなにかがぶつかったときのように大きく歪んでいることから、 さきほどのグレネードの衝撃は壁を変形させるとともに、 そこに積まれていたコンテナを弾き飛ばし、ローゼンクランツの脚部に無視できない傷を生んだということになる。

それが原因なのはクオにも理解できた。ローゼンクランツは確かにハンガーに押さえられている。 今は何も問題ない。しかしあの拘束具を外せば、あの欠落した脚部で身体全体を支えきれるかどうかは怪しいところだ。

細かい部分まで見なければ判別は難しいが、左右のバランスを調整すれば応急手当くらいにはなる。 しかし今からでは時間がかかりすぎる。十分、それとも五分か。駄目だ、遅すぎる。 ましてや手負いの二機を差し置いてその時間。コンマ一秒で生死が分かれるのが戦場だ。今はその数分ですら致命的――。

「こんなときに……!」

昂ぶっていた感情が爆発する。だがクオはそれを抑えつけようとはせず、ただその怒りに身を委ねた。 怒りの矛先を誰にも向けられず、彼は一人拳を強く握り締める。 己の爪が肉に食い込み、激しい痛覚が脳へと達するが、彼は気にも留めずにさらに力をこめる。 そうするしか、もう無尽蔵に湧き上がる失意に、対処する方法が見当たらなかった。

なぜ? なぜこんなことになる? 今まともに出撃できるのは自分だけなのに。 満身創痍とはいかずとも、確かな損傷の残るカラドヴルフやファフニールでは心許ない。

今真っ先に出撃すべきなのは自分なのだ。間違っても彼らではない。それなのにこの顛末はなんだ?  神さまとやらが本当に実在して、洒落にならないいたずらでもしているのというのか? ふざけるな。

「仕方がない。俺とアッシュが出る。応急処置でもなんでもいい。お前はどうにかしてこいつを動かせ。それまでは俺とアッシュで保たせる」

と、なにもできないという失望に包まれたクオの肩をロウの手が優しく掴む。 すると、わずかに伝わる掌の温かさが、炎のように猛るクオの怒りを、さながら魔法のように静めていった。

「何格好つけてるんだ。兄貴とアッシュの機体はまだ――」
「んなこと俺らが一番よく知ってるっての」

それでようやくの冷静さを取り戻すクオだが、無謀とも言えるロウの発言を前にして、再び声を荒げた。

「やらないよりはマシだ。そんなことよりお前はまず自分の心配をしろ。いいな? 三分で済ませろ」

鋭い針のように研ぎ澄まされたロウの瞳には、全ての事態を把握してなお、それを許容できるほどの覚悟に満ちていた。

「わかった」

クオは頷く。瞬間、肩に置かれていた手がすっと離れ、ロウは飛ぶようにしてファフニールの下へ向かっていった。

心の一部から、二人を行かせるなという反論がなされるが、クオは聞かなかった。 確かに今はこれしか方法がない。あくまで冷静に、そして機械的に事態を判断し、彼は最善と思われる選択を成した。

そしてクオは踵を返し、ガレージを一旦後にする。今はとにかく人手がいるのだ。 機体の損傷状態をチェックし、かつ適切な調節を行うという作業。ロウは三分と言ったがそんなことは実際には不可能だ。 まずクオには経験が絶対的に不足している。いや、突発的な状況から逐一最適な補正を行える人間などこの世にいるのだろうか?

いる。クオ自身は無理な話だが、それを可能にできる人間には心当たりがある。 今までの話がすべて真実なのだとしたら、ここには通常の人間とは絶対的に違う存在がいる。 だからこそ、彼はあの場所へと戻る。彼女のもとへ。彼女の助けを得るために――。

「サラ。面倒なことになった。悪いけどちょっと手伝ってく――」

だがクオの思惑は外れた。居間に足を踏み入れた瞬間、彼はその部屋に漂う異様な空気に気がついた。 割れた食器の破片がいたるところで撒き散らされていたが、それが原因ではないことはすぐにわかった。

「い、嫌……。そんな……」
「サラ?」

サラが床に膝をついている。ガラス片が散らばっていることすら頭にないように崩れ落ち、 両腕で頭を抱えながらなにかを呟いている。そこだけ極寒の地であるかのように、身体をガタガタと震えさせながら。

すぐに異変に気づき、破片を飛び越えながらサラの正面にまで近づいた彼は、そっと彼女の身体を掴む。 冷たい。それも氷のような冷たさだ。表情もひどく青ざめている。そのためなのか息遣いが荒い。
「嘘、だよね? お願いだから嘘だって言ってよ……。ねえ?」
「ど、どうしたんだよサラ。なにがあったんだ!」

サラがかすれたような声で何度も何度も同じ言葉を呟き続ける。まるでそうしていれば襲いくるなにかから逃れられると信じているように。 クオが彼女の身体を強く揺すっても、その目はクオを見ようとしない。 焦点が合っていない瞳にたくさんの涙を溜めながら、彼女は青ざめた表情のままで、

「ネルガル――」

と消え入りそうな声でポツリと呟いていた。

「ネルガル? なんのことだ? おい、サラ! しっかりしろって! サラ!」
「嫌……。嫌だよ。こんなのってないよ……!」

サラの震えは止まらない。彼の言葉も恐らく彼女には届いてはいないのだろう。 ネルガル。その言葉にどれだけの意味があるのか、クオには皆目検討がつかないが、 少なくとも彼女をここまで追い詰められるだけの効力があるのだ。ただの言葉とは考えられない。

咄嗟に彼は窓の外を眺める。舗装された道路以外は赤茶色の土と大きな岩肌しか見えないそんな荒野の中にACがいた。 人型の機体だ。機体を宙に浮かばせているのはフロートタイプか。合わせて二機のACのシルエットがクオの瞳に映る。 遠目から覗いただけだから、武装の種類までは確認できなかったが、確かにACだ。見間違うはずがない。

「兄さん――」

サラがそう呟いた瞬間、クオは思わず窓から視線を外して彼女の顔を見た。まさか、そういうことか。 サラの目尻に溜められた涙が一粒、また一粒と涙が流れ落ちる。それは収まる気配を見せることなく床にいくつもの水溜りを作る。

コロコロと表情を変えていたサラだったが、そうできた原因は彼女自身に人に誇れるだけの自信があったから。 切羽詰まった状況でもない。そう思い込んでいた彼女が、突きつけられた現実によって壊れてしまった。

たがが外れたように泣き崩れる彼女の肩に手を置いて、クオはただその嗚咽を聞き続ける。 急がなければならない。その焦燥を感じてはいたが、なぜかその場を離れることが彼にはどうしてもできなかった。



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