視界がノイズに染まる。整理していたはずの情報が頭の中でかき乱され、膨大なデータが脳内で暴れ狂う。
それは単なる痛みとは違う。表現にしかねるほどの苦痛。脳を直接握りつぶされるかのような痛み、眩暈、そして吐き気。
もう限界だ。早くすべてを終わらせてしまいたい。そんな逃避がさらなる負荷を呼び起こす悪循環を生み出していく。
数十キロにも及ぶ広範囲の情景が、首につながれたプラグがによって、一度に男の頭に詰め込まれていく。見渡すは一面の荒野。
目立つものと言えば、点々と見える岩山くらい。
舗装された道路以外は人の手が加えられている様子はない。直射日光をもろに浴びた大地は乾燥し、所々でひび割れていた。
自身をつなぎとめているこのプラグ。まるで鎖のようだ。いっそのこと、これを今すぐ抜き去り、どこか遠くへ身を隠してしまいたい。
今まで幾度となく思い続けてきた願望が浮かぶ。だができない。どうしてもできない。
苦痛に苛まれるこんな日々など、後悔に身を焦がす毎日に比べればはるかにマシなのだ。
網膜の裏には無数の文字列が蠢いている。周囲の地形、風向き、温度、湿度。
ありとあらゆるデータが男の頭の中に凝縮され、文字列として再構築される。
とても目だけで処理できるものではない。津波のように押し寄せてくる膨大な情報量に抗う術はなく、
男は拒否すら認められずに、ただ一方的に必要と不必要かの二択を行い続けることしかできなかった。
その努力は、さきほどの異常事態ですべて灰燼に帰してしまった。
男から湧き出た明確な殺意が視界全体にノイズを生み出し、せっかく取り揃えた情報そのものを覆いつくしてしまった。
「おい、これは何の真似だよ。クライブ?」
「それは俺の台詞だ。お前、自分が何をしたのかわかっているのか?」
全身を漆黒に染めたフロート型ACが隣にいる。この下品な笑い声は、そのパイロットである男のものだ。
クライブと呼ばれた男は、いつしかそのACに向けて銃を構えていた。味方であるはずのものに向けて。
決して手違いなどではない。重要な情報すら簡単に捨て去れるだけの純粋な殺意。クライブに芽生えたそれは紛れもない本物だった。
「さあね。俺は撃っただけだぜ。それの何がいけないんだ?」
癪に障る笑い声がクライブの頭の中に入り込んでくる。もう我慢できない。
と、溜め込んでいたものすべてを削除した彼は、安全を確認した後に首のプラグを引き抜き、意識を現実へと引き戻した。
「……攻撃の指示は俺が出す。聞いていなかったのか?」
淡い緑色に染まっていた電脳の世界から、計器の色だけが鮮麗に輝く薄暗いコクピットへと世界が変わる。
急激な世界の変化に思わず吐き気が込み上げてくる。額に浮き出た脂汗を拭い去りながら、クライブは冷淡に言い放った。
「ああ、知ってるよ。だから俺は当てなかった。あんたの命令どおりにな」
フロートの男はクライブが命令していないにもかかわらず、威嚇と評してグレネードによる砲撃を敢行した。
命令違反は明らか。とても許される行為ではない。十分処分に値する行為だ。ましてや今回は事情が違う。違いすぎるのだ。
男の年齢は、事前の資料によれば二十代の半ば。だが、正式に実戦に出るのはこれが初めてらしい。
初陣が十代のクライブから見れば、ある意味次元の違う相手だ。そして、その隔たりこそがクライブの焦燥の原因だった。
今まで命令とあれば、どんな敵でも殺してきた。ランカーであろうが、同じ強化人間であろうが彼の敵となり得る存在はいなかった。
仲の良かった相手を殺すときでも、躊躇わなかった。失敗すれば自分が死ぬ。だから躊躇など起こるはずがなかった。
しかし今はどうだ? 表に出すことはないが、彼は今確実に躊躇っている。目標として認識している異様に巨大なあの車両。
その中に、サラがいる。唯一血の繋がった妹がだ。二十年もの間、必死に守り続けてきた彼女に、今自分は銃口を向けようとしている。
「だから、さっさとその銃を降ろしてくれないか?」
この男はその事実を知らない。ただ一方的に「連れ帰れ」という上からの命令を受けただけに過ぎないのだ。
クライブの役割は監視役。だが真実は別にある。クライブは自ら監視役を志願した。
「この男はまだ組織の戦力としては怪しい。だから自分が同行して使えるかどうかを判断する」と。
事情を知るものたちからは、予想通り厳しい視線が飛んできたが、クライブは「彼女は自分を信じきっている。だから簡単だ」と言い張り、
強引に彼らの首を縦に振らせた。周囲からの不満の声は、それ以上上がらなかった。それだけの信頼をクライブはすでに勝ち得ていたのだ。
これほどまでに優秀で命令に忠実な存在はいない。そう言われるまで、実に十年かかった。
一緒に釜の飯を食った仲間ですら躊躇いなく惨殺できる精神は、才能とまで言われ、その無慈悲さや冷酷さは怪物とまで評された。
彼らはそしてクライブに全幅の信頼を寄せた。それらすべてが、信頼という二文字を勝ち取るためだけに行った、彼の計画だとも知らずに。
「わかった」
だからこそ、まだ悟られてはいけない。なにがあろうと絶対に。そのために隣の男を殺す必要があるのならば迷わない。
調子に乗って勝手に死んだ。そう報告すれば良いだけのことだ。なんらかの制裁は与えられるだろうが、
今や組織随一の戦力にまで成り上がった彼を切り捨てることは、まずないだろう。予想ではなく確信だった。
「しかし、意外だな。噂じゃあんたのことを『心がない』だの『人間じゃない』っていう輩がいるんだが。実際会ってみると、だいぶ違うな」
「……何が言いたい?」
「別に。“兄妹”って良いなって思っただけだ」
含みのある声がクライブの脳裏に突き刺さり、彼の顔が大きく歪んだ。やはりこんな奴と来るのは失策だったか。
こんな雑魚に気取られるほどに、いや、元から勘だけは働くのかもしれない。そうでなければここまで生き残ってはいまい。
または、自分の演技力はいざと言うときに頼りにならないか。前者なら問題はないが、後者なら正直最悪だ。
「お、ようやく出てきたみたいだな」
男の一言でクライブは我に返る。見れば、図体の大きい例の巨大車両の後部が開き始めていた。
直方体に近い形状をしたコンテナ。その側面の一つが剥がれるようにして開かれていく。
「ってなんだなんだ。えらく凝った造りじゃねえか、おい」
確かに他では見たことのない形式だ。輸送機ならばそのまま投下が基本であるし、大型ヘリの類を用いたとしてもそれは同じ。
誰の手も借りぬため、この車両で発進、整備、帰還のすべてを賄っているのだろうか。
そこまで想像した後でクライブは思考を中断させた。考えたところでなんの意味もない。どうせもう会うこともないのだから。
側方の一枚が完全に剥がれ、今度はその上部が二枚目として剥がれ始めた。
彼が見ている地点からはおそらく三枚目であろうもう一枚の側面があったので、相手のACの姿は確認できなかったが、
事前の情報で、すでにその中にあるのは三機と調べがついている。だから特に意識するまでもなかった。
「け、ランク外か。つまらないな。雑魚相手じゃやる気なんか出ねえってのによ」
男が愚痴を零す。すでに相手の識別を終えてしまったのだろう。
「で、どうするんだい。クライブさんよ。さっさとぶっ殺して積荷頂いちまう?」
「行くなら一人で行け」
相変わらずの人を見下しているかのような言動に対し、クライブはあっさりと言った。
「は?」
当然のように、唖然としたような声が漏れる。
「俺はお前の監視役だ。肩を並べて戦うとは一言も言っていない」
彼は最初からそのつもりだった。こんな男と、付け焼刃にしかすぎない連携など求める気も毛頭ないし、
かといって尻拭いをする気もない。自分はあくまでただの保険。最悪の事態が発生したときに用いる始末屋のようなものでしかない。
「……なるほどねえ。譲ってくれるってのか」
だが、男は特に反論を並べ立てるわけでもなく、愉快痛快と言わんばかりに声を弾かせていた。
「どう取ってもらっても構わない。想像に任せる。だが忘れるな。お前への指令は、対象を無傷で奪還することだ」
遠慮を知らないその笑い声に苛立ちを深めながらも、彼は努めて冷静に応える。
「ああ、知ってるぜ」
「もう一度さっきのような真似をしてみろ。今度は完全な命令無視と判断して、俺はお前を無条件に処理する。いいな? これが試験だということを忘れてもらっては困る」
「おお怖っ。ま、そんなことしねえよ。する必要もないしな」
今のこの男には、なにを言っても寝耳に水なのか。冗談など欠片もないクライブの最後通告も、
へらへらと笑うこの男にはおそらく届いてはいない。どこまでも戦いを求め、流れる血を欲するだけの野獣。それがこの男の本質か。
やはり、この男を使ったのは間違いだ。男のACが前進するさまを無言で眺め続けながら、クライブは結論に達した。
調整時のミスか、それとも自分の知らない新たな実験の影響か。感情の起伏が色濃く残り、忠誠度や協調性などは皆無。
組織には不要な異分子だ。自我を持つことなど、ましてやそれを自由気ままに振りかざすことなど、許されていいはずがない。
自我は、余計な感情を生み、疑問を抱かせ、いずれあらぬ方向に牙を向く。
そして中には必ずと言っていいほどに、組織に不利益な方角に進む存在が現れる。要は確率の問題なのだ。
手駒は従順なものと相場が決まっている。指揮者に合わせて踊るのが人形の本懐。
言われたことにただ首を振り、仕事をこなす。実に簡単な構図だ。しかしこの男は、その枠組みすら逸脱しようとしている。
「じゃあ遠慮なく暴れさせてもらうぜ」
機体を宙に浮かせ、ブースターの類を用いないまま、男のACはクライブの前に出る。
さきほどの言葉通りにクライブは動かない。返事すらしなかった。
動く機会があるとすれば、それは男を自らの手で殺すときだけだろう。意識だけを尖らせて、彼はふうと息を吐き、目を閉じた。
瞼の裏に描かれていたのは、最後に見た妹の顔だ。またなのか。幻覚のようにつきまとうそれに、クライブは悪態を吐く。
ことあるたびに再生される幻覚が見え始めたのは、いつものように彼女の隠れ家でもある保護施設に足を運んだあの日からになる。
クライブの脳裏に焼きついて離れようとしないのは、サラが見せた物寂しげな表情だった。
後の戦力となり得る可能性を秘めた子どもの世話。自身も狂人たちの魔手に犯されながらも、
彼女は彼女なりにきちんと仕事をこなしていた。「大丈夫か」彼がそう聞くと、
サラは決まって取り繕ったような笑顔を浮かべて「大丈夫よ」と返してきた。
あの日もまったく変わりない返答を聞き、クライブは施設を後にした。
その数時間後、彼女は組織の存亡に関わる機密を保持したまま、姿を消したのだった。
報告書をまとめている最中に、その事実を告げられたとき、彼は真っ先になぜだと問うていた。
誰も応えてはくれない。自分自身さえも。そこから先は、ほとんど身体だけが動いていた。
と言うより、平静を保っていられないほどに彼の思考は乱れに乱れていたため、使いものにならなかっただけなのだが。
すでに常備薬となっている精神安定剤を無理矢理体内にねじ込んで、
どうにか冷静さを生み出した彼は、今度は安静へと突き進もうとする身体に鞭打って、
次々と対策を講じていった。そしてその一端として、彼は今ここに立っている。
乱れる心は未だに落ち着こうとする気配がない。そこまで考えた瞬間、すさまじいほどの悪寒が身体に走った。
変わらない。これではなにも変わっていないではないか。機械に心などいらない。クライブが自身に何度も言い聞かせてきた言葉。
だが、そのすべてが根底から壊れようとしていることに、彼は気づいてしまった。壊そうとしているのは他でもない、彼自身だ。
違う。と身体が拒否反応を示す。だが止まらない。たがが外れたように押さえつけていたものが決壊した感覚。
サラという存在一つで、動揺し、取り乱す今のクライブには、冷酷な殺人マシンという評価は過大すぎる。
やめろ、やめてくれ。クライブは押し寄せる矛盾という名の追求に耐え切れなくなり、さきほど外したプラグを掴むと、
一切迷うことなく、それを力一杯首に差し込んだ。そして思考渦巻く現実から目を背け、数列しかない虚無の世界へと逃れていった。
自分もまた人間を捨てきれずにいるという矛盾。それを忘れるために。そして、悩み続ける己の心から目を背けるために。
首筋から流れこんでくる微弱な電流が、彼を攻め立てる無数の言葉を一瞬で吹き飛ばす。彼にとってのそれは、とても心地よいものだった。