Uneven Fools TOP

役割


高々と中空に飛び出したカラドヴルフが先に大地へと足を降ろす。無限に広がる空、そして覆いかぶさる幾重にもわたる雲の筋。 自然が生み出すその調和と比べても、大した差のない蒼白のACからは、どういうわけか、通信の一つも寄越されない。 カラドヴルフに続き、ガレージから飛び出してきたファフニールのコクピットで、ロウはそれを不審に思った。だが、

「さあ、調子こいた真似しやがったクソ野郎はどこだ!」

隠すことなど微塵も考えていないようなアッシュの直情的な咆哮が耳に響き、彼は口をつぐんだ。どうやら完全に頭に血が昇っているようだ。 調子に乗ったときのアッシュを抑えつけるのですら至難だというのに、こうなってしまっては、もはや手の施しようがない。

「おい、少しは落ち着けよ、アッシ――」
「いやがった!」

とりあえずの制止を呼びかけてはみるが、言った直後に彼はそれが無駄だということを再確認させられる羽目になった。 さらに、ロウが溜め息を吐き終えると同時期に、カラドヴルフの背中が唐突に紫の発色を見せた。

アッシュのあまりの行動の早さに思わず「お、おい!」と叫んだロウだったが、 その言葉が届くより早く、蒼白の機体は彼の視界から一瞬で姿を消してしまう。

彼の機体が向かう先にはACが二機。距離はかなりある。 レーダーの端に映る二つの光点。肉眼で確認できたのは、相手のシルエットのみ。 独特の形状から、一機はフロートタイプだとわかる。もう一機は二脚型と踏んだ。

こんな土とわずかな草しか生えていない辺鄙な場所に、どうしてACが現れるのだろうか。 当然の疑問に眉をしかめるロウだったが、しかし、オーバードブーストを吹き荒らし、 馬鹿正直に突撃していくカラドヴルフの様は、その問いをロウの頭から吹き飛ばしていた。

と、待ち構える二機のうち、フロートタイプのACがカラドヴルフの動きに気づいたのか、行動を始めた。 下手な小細工なしに突っ込んでいくカラドヴルフに歓喜するかのように、フロートの身にも光が迸り、 漆黒の機体をアッシュが誘う高速の世界へと踏み込んでいく。その爆発的な加速は、カラドヴルフにも匹敵するものだった。

フロートが向かう先は、アッシュのそれとなんら変わりはない。つまり、相対するもの目掛けて、ただひたすらにまっすぐだ。 常識外れた速度と速度が、長い長い距離を一瞬で消失させ、そして交錯。二機はほぼ同時に戦闘の火蓋を切った。

勝負もまた一瞬。ロウが確認できたころには、二機のACはすでに初撃を終え、動きを止めていた。 まさに目にも止まらぬ速さ。一部始終を完璧に捉えることは、彼の動体視力では不可能だった。

しかし、互いに距離を離したところで、互いの変貌がロウにも見えた。しかしその結末に彼は思わず絶句してしまう。 フロートには損傷らしきものは確認できなかった。だが逆に、カラドヴルフのコアには、無視できないほどの裂傷が生じていた。

フロートの左腕にはそのどす黒い装甲と同じ漆黒のブレードが装着されている。 ディスプレイに表示される情報、そして肉眼で確認できる形状。 ロウは己の感覚のみで、そのブレードが現存するパーツの中での最高峰であると断定する。

「あー。あーあー。この周波数であってる、よな?」

聞き慣れぬ声がコクピットに届く ロウは思わず耳を疑った。この周波数は三人しか知らないはずなのに、と。

外部スピーカーなどを一切介すことなく、あらかじめ知っていたとしか言えないタイミングで、 敵は彼らに接触を試みてきた。今まで起こることなどなかった不測の事態に、ロウはかすかな戦慄と不気味さを覚える。

「おーい。あってるなら返事くらいしてくれよ、なあ?」

この声の主が、あのフロートのパイロットなのであろう。 わざわざこちらの周波数までをも探し当てる目的。考えるまでもない。ロウには心当たりしかなかった。

「……誰だ、てめえは?」
「お、あってたあってた。いや、すまないな。いきなり順番が変わっちまって」

浮き沈みのないひどく落ち着いた男の声が、アッシュの怒りに塗れた態度をより一層際立たせる。 順番とは、さきほどの立ち回りのことか。だがこの口調を聞く限り、 この男はアッシュとの攻防になんら興味を示していないように思えた。 いや、関心があるというよりは、満足できなかったという表現のほうが正しいのかもしれない。

「にしてもだ。雑魚にしては良い度胸だな。咄嗟にブーストを切って機体を逸らせたのも良い判断だ」
「あ? ふざけたこと言ってんじゃねえよ。てめえ、何様のつもりだ?」

アッシュが声を張り上げる。理性という檻から飛び出したような彼の勢いは、もはや完全に我を忘れているようにしか聞こえない。

さらにロウはもう一つの事実に気づく。敵は二機いた。カラドヴルフを仕留めようとしたフロートの他に、もう一機、二脚型のACがいる。 確認していながらも、今の今までその存在を忘れかけていたロウだったが、次に信じがたい事実が思考に突き刺さり、彼は思わず顔をしかめた。

光沢のある銀色に彩色された二脚は、まったく動いていない。一歩たりとも動いた気配がないのだ。 動くなと命じられているのか、それとも単純に動く気がないのか。 まるでなにかの像のように棒立ちとなるACに対し、ロウは不審感を露にする。

「まあまあ、そう突っかかるなって。俺は褒めてんだぜ? 雑魚にしては良くできたほうだってな」

そんなロウの不信感など知らず、スピーカーの奥にいる男は飄々と言葉を紡いでいく。 しかし、その言葉の一つ一つには明らかにアッシュへの挑発が色濃く含まれている。

「さてと。頼むから、もう一人はもっと話ができるやつでいてくれよな。おい、そこの四脚さん?」

いきなりの通信に、ロウの心臓が跳ね上がる。

「なんだ?」

どこまでも光明が見えてこない現状に、唇をかみ締め、ロウは寄せられた声に素直に応じる。

「いろいろ聞きたいこともあるだろうが、とにかく俺の話を聞け。早い話、俺はお前らのことなんかどうでもいいんだ。お前らが隠し持ってるものを大人しく全部渡してくれるだけでいいだけだ。抵抗することなくな」

ただ決められたことを事務的に喋り散らす男から出た言葉。もちろんロウにも意図はわかる。 下手な言い訳など、その場凌ぎにすらならない。むしろ状況を悪化させる要因にもなりかねないだろう。

「抵抗しなければ、俺らは荷物を受け取ってさっさと帰る。その逆は、わかるよな?」

最後の部分で、男の語気が明らかに変わった。油断していた心にそれは重く圧しかかる。 操縦桿を握る手からはじわりと汗がこびりついていた。臓腑を締めつける緊張感が呼吸すら阻んでくる。

「さあ選べ。どっちだ?」
「断る」

決意が言葉として現出しようとしたまさにその時、意識していなかった方向から思わぬ声が飛びこんできた。

「お、おい、アッシュ? お前、なに言って――」

大きな裂傷を刻んだカラドヴルフが、前に歩み寄り、敵に銃口を向ける。

「なんだよ? お前だって同じ意見だろ?」
「それはそうだが……。お前、ちゃんと考えて言ってるよな?」
「なんだよそれ。俺は最初から冷静だぞ。ロウ」

冷静という単語の意味を履き違えているかとも思ったが、真剣味溢れるアッシュの口調が違うと言っていた。

「……おかしいな。すまんがよく聞き取れなかった。悪いんだが、もう一回言ってくれないか?」

逆に、やる気がないという印象を感じたフロートの男が、 今度はわずかながらに苛立ちの感情を見せ始めていた。いつ戦場に逆戻りするかも知らぬ緊迫した空間。 その中での男の変貌は、ロウの思考にもはや見逃すことのできない違和感として残った。

「『いやだボケ』って言ったんだよ。クソ野郎」

アッシュはさらに重ねる。

「なにが『大人しく荷物を寄越せ』だ。まだ昼間だぜ? 寝言は寝てるときに言えよ」

自ら受けた挑発をさらなる挑発で押し返しているつもりなのだろう。 それだけに留まらず、右腕から伸ばされた砲口からは、剥き出しの敵意が吐き出されているようにも見えた。

「ハハ、言いやがるなお前。良いのか? せっかくのチャンスがなくなってもよ」

男の口調がどんどん穢れていく。その変化はロウも隠しようのない畏怖を感じさせた。

「ああ。そんなものは俺にとってはどうでもいいことだ。てめえをぶっ殺せなくなるほうが、今の俺にとっては重要なんだよ」

鼓膜に触れる音に混じったわずかな圧力。それは徐々にロウの頭のなかに侵食し、恐怖という概念を植えつける。 だが一方で、どういうわけか物怖じすらしていないようだった。それどころか、

「わかんねえならわかりやすく言ってやる。いいか。てめえは俺を激しくムカつかせた。だから殺す。跡も残らないくらいに粉々にしてやる。どうだ、これが理由だ。文句があるならいつでも聞いてやるぜ?」

アッシュは最初から普段の彼だった。相手の威圧などお構いなし、世界の中心は自分だと言わんばかりの言動。 アッシュという存在がさらなる進化を遂げて、ロウの脳髄で上書きされる。

「そうかそうか。なるほどな。よくわかった」

酷く淡々とした声がコクピット内に浸透していく。感情の篭もっていない機械的な口調に、ただならぬものを感じたロウは、 すぐにトリガーに手をかけようとした。だが漆黒のフロートは、その場にあったどのACよりも早く行動を開始していた。

風を切り裂くような鋭い加速の行き先は、さきほど仕留め損ねたカラドヴルフか。 コンマ数秒を経た後、完全な敵として認識されたフロートを同じく捉えたカラドヴルフも、待ちわびていたかのようにその漆黒を迎え入れる。

フロートのブレードがカラドヴルフの胴を寸断するか、それともカラドヴルフがすれ違い様に渾身の一撃を叩き込むか。 二つに一つ。緊張の連続で溜まりに溜まった唾液を口腔内に残したまま、ロウは数秒後の未来を推察していた。

だが奇妙なことに、壮麗なブレードの煌めきも、グレネードの爆発も起こらなかった。 カラドヴルフが間合いに踏み込んだフロートを迎撃しようとした刹那、敵はなにもせずにカラドヴルフの脇をすりぬけていたのだ。

仕留め損なった? 呆気ない緊迫の終幕。その反動なのか、ロウの肩がわずかに落ちそうになる。だが、

「アッシュ!」

不意に訪れた猛烈な悪寒が背筋を駆け抜け、命令を受け取った大脳が、半ば強制的にロウを吼えさせていた。 瞬間、大地すら揺るがすほどの大音響が轟き、この日二発目の大爆発が荒野全体に響き渡った。

フロートが撃ち放ったのは機体最大の特徴であろうグレネードランチャー。 カラドヴルフが搭載しているものとは威力、重量ともに数段上のそれが、遂に雄叫びを上げた。

爆発に次いで発生した強烈な爆風と衝撃波がカラドヴルフの右腕を一瞬で飲み込んだ。 どうにか肘から下を失うだけで済んでいたが、その砲火は間違いなくコアを狙い済ませていた。

一部始終を眺めていたロウは完全に言葉を喪失していた。敵がカラドヴルフの脇を通り抜けた瞬間、 その機体が急激な旋回を始め、カラドヴルフの背後を取ったのだ。 信じがたいような速さと洗練された機体制御を垣間見たロウは、再び絶望に顔を歪める。

オーバードブーストによる強烈な速度が生み出した慣性と、肩に装着された旋回用ブースター。その二つで敵の常識外れた動きは説明できる。 だが、簡易的なパイロットスーツと身体を固定するベルトのみでは、発生する超大な重力に耐えることはまずできない。 理論上は可能でも、生身の人間では即失神が関の山と思われていた挙動。しかし、敵はものの見事にやってのけた。

「おい、こらアッシュ! 大丈――」
「人の心配してる場合かよ。次はてめえだぜ、四脚」

加えて、あの砲撃。これで初めに車両を狙い撃ったのは二脚ではなく、フロートということになるが、 普通に考えてそんなことはありえない。タンクや四脚タイプを除いたACには、常に反動という切っても切れないような制約がある。

レイヴンにしてみれば、それはすでに常識の範疇。安定度に不安のある脚部は、 砲と名のつくものを肩に背負う場合、膝を抱えて発射態勢を取るという大前提が存在している。

それが普通なのだ。嫌ならば、選択肢は二つしか残されない。諦めて他の機体に乗り換えるか、 移動中にそれらを撃ち放ち、強烈な反動を制御できずに吹き飛んでいくかのどちらかだ。このフロートはその常識すら、軽々と踏み潰した。

これが強化人間――。これがありとあらゆる枷を外された異端の力か。信じられない。とてもではないが信じたくない。 化け物染みた速度で肉薄してくる敵の機体に、疑いようのない純粋な恐怖を感じたロウは、 握っていたトリガーをさらに絞り上げる。右腕の銃から幾重にもわたる銃弾が吐き出され、迫るフロートの装甲を穿つ。

が、巨躯を右へ左へと揺さぶる相手の回避行動が、マシンガンの火線を綺麗に分散させ、致命傷を与えさせない。 敵の鋭い動きに翻弄され、マシンガンによる迎撃を諦めたロウは、舌を打ちつつ、右肩のミサイルランチャーを起動させる。

苦肉の策であることは本人も自覚していた。残る武装といえば、左肩に積まれた散弾砲と左腕のブレードのみ。 どちらも一撃必殺が見込めるだけの火力を有してはいるが、この状況には役に立つとは思えない。立たせる自信もなかった。

動き回るフロートをロックオンサイトが必死に追いかける。ロウは敵の動きを少しでも鈍らせるため、 イクシードオービットが起動し、銃弾を吐き出していくが、それも雀の涙に等しい行為で終わった。

迎撃用の弾幕も大した効果を示さず、その網を難なく掻い潜った敵が、遂にファフニールに攻撃を加えてくる。 牽制のように放たれるのはハンドガンの銃弾。ファフニールの紅い装甲を削るだけに留まると思われたそれは、 しかし、銃弾そのものに秘められた反動と熱を、ファフニールの各動力機関に容赦なく与えていく。

外部だけではなく、内部からも押し寄せる敵の攻撃に、ロウは一瞬気を取られ、ディスプレイから視線を外してしまう。 すぐに己の失態に気づき、意識を前に戻した彼だったが、すでに眼と鼻の先にいた敵が彼の網膜に映っていた。

敵の左手は高く振り上げられ、手首の先からは青白い閃光が迸っている。 見惚れてしまうような輝きにロウは、まるで人事のようにそれを綺麗だと思った。

わずかな諦めの感情が芽吹き、あの光が自分を飲み込むんだと頭が理解しようとする。 俺は死ぬのか。無意識にそう悟り、彼は目を閉じた。いつのまにか、トリガーを握っていた手からも力が抜けていた。

だが圧し掛かる絶望に押し潰されそうになった刹那、一発の爆音がロウの目を覚まさせた。 いつまで待っても終わりが訪れないことを不審に思い、ロウは恐る恐る目を見開く。

敵の姿はない。代わりにファフニールの足元には地面がなにかの衝撃でめくれ上がったような跡があった。 こんなもの今までなかった。形状、そして周囲から漂う煙から目算しても、それができたのはつい最近だ。

「この大馬鹿野郎がっ! おい、てめえ今諦めやがったな!」
「……アッシュか」

相変わらずの怒気を孕ませてアッシュが叫んでいる。だが彼の怒りの矛先はさきほどとは違う。 責めたてられているのはロウ自身。それは、もはや疑うべくもない事実だ。

敵の姿は捉えられない。レーダー上では、はっきりと表示されていることから、 さきほどの爆発音もカラドヴルフのグレネードだったのだろう。 事実、右腕を半分失いながらも、残った左腕を構えたカラドヴルフの姿が彼の瞳に映っていた。

「本当に鬱陶しい奴だな、お前は」

そして聞こえる敵の声。

「忠告みたいなもんだよ。そいつは俺らのなかで一番弱いんだ。だから殺してもきっと面白くないぜ?」
「ほう」

死の際を体験し、一時的な錯乱状態と陥っていたロウに、 真っ正直すぎるアッシュの言葉は、憔悴しきっていた彼の神経に再び火が灯らせた。

「それに、俺はまだ生きてる。右腕持っていったくらいで、勝手に勝った気になってんじゃねえよ」
「へえ、それは悪いことをしたな。にしてもだ、あれだけしてまだ戦う気力があるのか?」
「言っただろ。お前を殺すのは俺だ。せっかく楽しくなってきたんだ。俺を失望させるな」
「ハハ、まだ殴り足りないか」

邪悪な笑い声が聞こえた瞬間、視界から消えていたフロートが突如頭上から舞い落ちてくる。 敵の機体はもうファフニールを意識することはなく、再びカラドヴルフ目掛けて疾走していた。

「おい、ロウ。聞いてるか?」

と、敵に追われている最中にもかかわらず、アッシュの声がスピーカーに流れた。

「……ああ」
「あそこは逃げろよ」
「え?」

怒りすら滲ませた追求にロウは思わず唖然となる。理解できないロウに辟易したのか、深い嘆息が続いた。

「あのなあ。そんな機体でACとやりあうなんざ無理に決まってんだろうが。タイマンは俺の仕事だ。腕っ節もないくせに勝手に出しゃばってんじゃねえよ」
「いや、それは……」
「あんたにはあんたの役割ってもんがあるだろう。ちゃんと働いてくれよ。でないと俺が死ぬ」

いつになく真面目な彼の声がロウには癪だった。まさか、こんな猪突猛進馬鹿に諭されるなど思ってもみなかったから。

「な、なんだよその言い方は。一人で突っ走ってボコボコにされた奴に言われたかねえよ!」

思わず現状すら忘れ、彼は感情に任せて反論を並べ立てる。突っかかってくることを想像していたロウだったが、 しかし、通信機の裏からは、場違いにもほどがあるような苦笑が流れ込んできた。

「ああ、認めるよ。さっきのは、正直マジでヤバかった」
「そりゃそうだ。あんだけ無防備に突っ込んだらな」

ほら見ろ。やはりお前は馬鹿なままだ。とロウはいつも通りの優越感に浸ろうとする。だが、

「いや、そういう意味じゃなくてだな」

アッシュから否定の声が寄せられ、その声にロウは眉をひそませた。

「どういうことだ?」

続けて尋ねる。

「思ったより反応が鈍かったんだよ。こいつがな」

そう言って、彼は残った左腕をぐるぐると回す。

「だから思うように動かせなかったっていうか……。つーか、それででかいの食らっちまったんだから、言い訳にはできねえか。まあ、とりあえず大丈夫だよ。もう全部把握した。右腕一本はさすがに高いが、今度はさっきみたいにはいかねえよ」

反省と自嘲。独り言のように話すアッシュの声には、その両方の感情が入り乱れているように思えた。 連戦の影響、すでにそれは色濃く出現し、自分たちのACを確かに蝕んでいたということなのか。

軽微な損傷と決め付けて、特に気にしなかった自分自身の甘さが露呈され、ロウは唇を噛む。 普段なら情けなさに呻き声の一つや二つは出るのだが、あいにくそんな余力は彼にはなかった。

アッシュの言う通りだ。自分は何もしていない。仮にこのまま戦闘が続行していたなら、 自分は間違いなくアッシュが殺されるまで、この場で傍観を続けていただろう。 援護できる機会はいつでもあった。だが自分はそれすらしなかった。なぜか? 簡単だ、敵が怖かったからだ。

今思えばなんと馬鹿らしい行動か。正攻法では絶対に勝てないと確信したにも関わらず、 強化人間という存在。そして見せつけられた圧倒的な技量の差を受けたとき、彼はただ驚嘆し、絶望し、我を見失った。

自分はアッシュやクオとは違う。相手の土俵に踏み込み、蹴散らせるようなタイプではない。 それは特に対AC戦、つまりは今のような状況でロウは幾度となく辛酸を舐めてきた。最初からすべてわかりきったことだった。

自分は弱い。だがそれでも、その二人から早々に敗北宣言を勝ち得たものが、彼には一つだけある。 以前のAC戦で相手の戦術の裏を取ったこと。サラの芝居を誰よりも早く見抜いたこと。 それらに由来する彼の洞察は、クオに言わせれば、並の人間の比ではないのだと言う。

これは彼にとっての純粋な力。生き抜くために独自で学びとった最大にして最強の武器。 「兄貴にしかできない」あのクオにそう告げられたときは、信じられなかった。それでも今は違う。

「いいか。俺はこいつをぶっ殺したあとに、あの遅刻野朗を殴り倒す。そのときはお前も一緒だ。違うか?」

きっと来る。そう信じ続けて出撃を待ち望んでいたのに、肝心のクオはまだ姿を見せてはいない。 その事実は、ロウの別の部分に強い炎を点した。それは戦闘による高揚ではない。ただ約束を違えたものに対する純粋な怒りだ。

「ああ、そうだ。もうとっくに五分も経ってるしな」
「五分?」
「こっちの話だ」

自分は確かにそう言った。彼もまた頷いていた。少なく見積もっても最初の戦闘からすでに五分は有に超えている。 生きて帰ったら真っ先に殴ってやろう。日頃の鬱憤もそのときにまとめて払えばいい。 吹き飛ぶクオの姿が目に浮かぶ。なんと面白そうなシチュエーションだろう。思わずロウは笑ってしまいそうになった。

だが、それが見たければ働かなくてはならない。しかし、彼にしてみればそれは随分とわかりやすい目標だった。 死ぬとか生きるとか、そんな小難しい言葉はロウには必要ない。

「なんとか我慢しててくれよ。アッシュ」

目を閉じ、深く息を吸い込む。作業に必要な酸素を肺の許容量限界まで取り込んだ彼は、 すべての準備を終え目を見開いた。眼前に広がるのは、さきほどと全く変わらない荒野の風景。 そして、離れた位置でひたすらに逃げ惑うカラドヴルフと追う漆黒のフロートACの姿が見える。

敵の射撃武器がハンドガンと背部のグレネードランチャーしかないことに着目し、 カラドヴルフは一定の距離を保ちながら、残り一本となった腕部のグレネードで牽制している。

接近さえ許さなければ、致命傷に至るような攻撃はない。アッシュはそう考えたのだろう。単純脳細胞な人間でも考え得ることだ。 そしてなにより、恐ろしく明瞭となった視界は、もうひとつの興味深い映像をロウの網膜に示していた。 どうやら敵は真正面からぶつかり合うことを避けているように見えるのだ。 絶大な威力を持つブレードにグレネードランチャー。確かに威力こそ優れてはいるが、敵はなぜかそれを積極的に使おうとはしていない。

「おい、アッシュ」
「悪いが、今ちょっと忙しい!」

それはそうだ。だが無視して彼はさらに続ける。

「おまえの肩に背負ってるミサイルだがな。今どれくらい残ってる?」
「あ? まだ一発しか撃ってないから余ってるぜ。でも、いい加減邪魔だから捨てよ――」
「捨てるな」
「は? 捨てるなってどういう……」

会話と戦闘を同時に行えるほどアッシュは器用ではなかった。反応が遅れたのはほんの一瞬だったが、敵はその隙を見逃さない。 すでに慣習となっていると思われる動きそのままに、黒きフロートはカラドヴルフの背後を捉える。

その左腕が蒼白のACの背中を突き刺さんと伸ばされる。典型的な敵の攻撃パターン。 経験か本能かは定かではないが、アッシュもまた感づいていた。 あらかじめ知っていたとしかいえないタイミングで、機体を左に逸らし、彼は見事に串刺しになることを免れた。

だが、敵の方が一枚上手だった。回避された直後にフロートは、追加ブースターを起動。 敵のブレードが、急旋回の勢いに乗って、カラドヴルフを追随する。 完璧に狙い済ましていなかったことが功を奏したのか、ブレードから零れる青白い閃光は、カラドヴルフの脇腹を掠めただけに終わった。

「……やっべえ、死ぬかと思った。おい、ロウ! 今のはてめえのせいだからな!」
「そういうことにしておく。で、捨ててないだろうな?」
「ああ、注文どおりちゃんと残してるぜ」

準備が整ったことを確認する。あとは実行するのみ。

「よし。ならそこをどけ」
「お前一体何をする気――」
「あいつを三枚におろす」
「は?」

腕は良くても、理解力に乏しいアッシュに嘆息する。 が、自身があまり人を馬鹿にする立場でないことを自覚し始めたロウは、渋々ながらも彼の疑問に応えた。

「残念だが、この会話は相手に筒抜けだ。だからこれ以上余計なことは言えない。悪いが、これからの行動は自分で考えてくれ」
「自分でって……」
「任せた」

言い終えるよりも早く、ロウはペダルを目一杯に踏み込み、ファフニールを加速させる。 アッシュから不平らしき怒声が聞こえてきたが、ロウはもはやそれを意識することはない。 座席の固定具合を軽く確かめ、機体状態を一通り確認したのを最後に、彼の口から言葉が消え、荒い息遣いだけが残る。

ファフニールの機動性など、残りの二機とでは比べる間でもなかった。だが、もう機動力など必要ない。 これ以上の強力な武器も、目を見張るような技量もいらない。必要なのは男としての度胸。

直進し続けるファフニールがフロートを捉える。トリガーを搾り銃弾を放っていくが、展開は変わらない。 急激な切りかえしで、マシンガンの雨を掻い潜るフロートは、学習意欲のない紅いACの背後を易々と奪い取る。 あからさまに無駄な動きが多かったのはロウへの嘲りのためか、それとも余裕の表れか。どちらにしてもロウにはどうでもいいことだった。

ここまではまさに理想的。頭に思い浮かべていた予定が一縷の乱れもないことを確信したロウは、すぐさま機体を右に傾けようとする。 彼の予想が正しければ、あと一秒と経たないうちに敵はファフニールを撃つ。もっとも信頼を置くあの武装でだ。

その合間で、ファフニールが半回転するのはほぼ不可能。敵が装着している追加ブースターでもない限りそんなことはできない。 精々、反転のさらに半分。つまり、振り向くことができる角度は九十度が限界だ。それで十分。

重要なのは、敵の行動が最低限見えること。斬るか、撃つか。どちらかが確認できればそれでいい。 ロウはファフニールの頭部カメラを介して見る。自身の右手側に敵がいる。肩には例の如く、邪悪な黒い砲口が開けている。 ファフニールは己の右手を限界まで伸ばす。鼓膜が破れてしまいそうな強烈な大音響が轟いたのは、その直後だった。

直撃さえしなければ、この機体は、グレネードにも耐えられる。先の任務でロウが学んだことだ。 しかし甘かった。甘すぎた。慣れたと思い込んでいた衝撃は、ものの見事に彼の意識を途切れさせていた。 視界が真っ白に染まり、直後、臓腑がまるで雑巾のように搾られる感覚が続いた。

息ができず、自分がどこにいてなにをしているのか。それすらも忘れてしまう。 五感のほとんどが機能を失い、頼るものがないという耐え難い恐怖。刹那の間が一生分の長さに感じる。

その恐怖があったからこそ、彼の意識は繋ぎ止められていた。 まだ生きている。本能のみが働く。だが、ロウの意識は完全に戻ったわけではなく、 一方的に頭に流れ込んでくる無尽蔵の情報に対して、彼はまだ対処しきれる術を思い出してはいなかった。

ロウの目にはノイズだらけのディスプレイが映っている。当然、外の景色も映っているわけなのだが、 彼はそれをまだ理解できない。ノイズの隙間から白い靄のようなものが見えているのに。 ただ見えるだけで、それを判別することができないのだ。光なのか煙なのか、それとも別のものなのか。 彼が今見えている現象を正確に説明するためには、最低でも数十秒は要するだろう。だが、それでは遅すぎる。
混乱する思考を抱えながらも、本能は徐々に異変に気づき始めた。 なぜかはわからないが、このまま安堵などしていられないと身体が叫ぶのだ。 無意識にロウの左腕に力が篭もる。その左手には固い操縦桿らしきものが握られていた。 自分はこれを用いなくてはならない。不意にそういった衝動に駆られ、彼は身体に滾るそれに後押しされ、左腕を勢いよく傾けた。

スピーカーに響く呻き声。それが不意に彼の鼓膜に触れた。同時にそれが引き金となり、彼の意識は急激な速さで回復を見せる。 頭の中で回路という回路が一斉に門戸を開け、滞っていた莫大なる情報源を一気に処理し始めていく。

時間にして一秒にすら満たないだろうが、それでも彼の記憶は無事に元の場所に戻る。 なにもかも思い出した。敵のグレネードをファフニールの右手で防ぐこと。それが彼の狙いだった。

盛大な爆発が巻き起こり、爆風と炎がファフニールの装甲を見るも無残な姿に変える。 けれども、右腕をあえて捨てることにより、その被害はある程度までは緩和することができた。 そしてロウは、残った左腕で、まだ爆発の余韻冷めやらぬ中、舞い上がる煙の中心に向かって左腕を伸ばしたのだった。

手首からは狙い済ましたかのように紅く煌く閃光が伸び、 槍を連想させる細く長いそのブレードは、白煙を突き破って、奥にいるであろう敵の急所を貫く。はずだった。

だが、さすがは強化人間。彼の思惑に反して、フロートは不意打ちに似たその攻撃さえも紙一重で避けていた。 しかしギリギリだ。回避されたことには変わりなかったが、それでも敵は確かに確かな動揺を見せた。 いかにも人間らしい感情の吐露。ようやくだ。この瞬間を待っていた。これを逃す馬鹿などいない。

「まだだ」

未練の欠片も見せずに彼はブレードの光を消し去る。息つく間もなく、ファフニールの腕が敵の右腕を掴み取った。

「てめえ……」

呻き声がさらに続いた。こんな動作は所詮時間稼ぎ。いかな精巧なマニュピレーターと言えども、 大質量のACを永久的に封じることなどできない。そんなことはロウも把握している。

敵の右手首を掴むファフニールの左腕。そこには出番を待ち焦がれていたかのように、 かろうじて残ったファフニールの左肩から、細く切り詰めた感のある砲台が、獲物に向けて狙いを定めていた。

フロートもそれに勘付き、例の旋回行動が始まる。自身の右腕を諦めたかのような動きだった。 想像通り、敵は右手があらぬ方向にねじれることすらお構いなしに、砲台の射線軸から逃れようとしていた。 そして、ファフニールの左肩から無数の散弾が発射される。襲い掛かる超至近距離からの散弾の雨。

触れたものすべてを押し潰す津波のような弾幕が、敵の装甲にぶつけられたが、 敵の急旋回が功を奏し、起死回生と思われたその一撃は、敵が捨てることを覚悟した右腕に突き刺さるだけ。 敵の右腕のみが剥がれ落ちる様に、ロウは強く唇を噛む。二機をつなぎとめていたものが外れ、両者の距離が離れていく。

だが直後、上空からミサイルの雨が降り注ぐ。 ファフニールの行動は、すべてこの一撃を叩き込むための布石、言わば陽動のようなものだ。

回避に次ぐ回避。敵の精神的な疲労感はすでにかなりのものになっているはず。 避けられるわけがない。と確信してロウはアッシュが放った数発のミサイルの行方を追った。

しかし、ミサイルの行きついた先は、地面でしかなかった。敵は抜群の反応で、またしても間一髪の回避に成功していた。 一瞬の気後れも判断ミスもない。考え出される決断は洗練され、そして鍛え抜かれている。

「はっ! これがてめえらの狙いかよ。こんな攻撃で俺が倒せるとでも思――」
「思ってねえよ!」

敵が吼える。しかし、突如響き渡るアッシュの咆哮に掻き消される。フロートの背中から派手な爆風の花が咲いた。 搭載されていた残弾にも火が付いたのか、ロウの想像よりも遥かに大きな爆炎が敵の背後で上がり、猛る炎がフロートを包み込む。

敵はこちらの悪あがきもミサイルで終わりだと踏んでいた。当然だ。 ロウはアッシュにミサイルの残弾数の確認を取っていた。無論、それは敵に筒抜け。 通信を盗み聞き、一部始終を把握できる敵が、ミサイルを意識することには、おかしな点はない。

しかし、筒抜けとわかっている手段を、最後の切り札とする馬鹿もまたいない。 ロウは終わらせる気など毛頭なかった。

初めてと言える直撃、そして派手に燃える爆炎を見れば、安堵という安らぎが心に忍び寄ってくる。 いつもならば容易に受け入れるそれではあったが、ロウは今それを必死に押さえ込む。なぜなら敵の反応がまだ消えてはいなかったから。

まともな打撃を与えたとは言え、まだ一撃に過ぎない。当たりどころが良ければ、 至近距離からのグレネードにも耐え切るのがACだ。ロウには経験がある。

そして予想は不運にも的中していた。もうもうと立ち込めていた黒煙が、刹那、切り裂かれたように吹き飛んでいく。 ロウもその奇怪な確認する。瞬間、前かがみの体勢で迫ってくる敵の姿がディスプレイに飛び込んできた。

「もういい。死ねよ!」

至近距離からのオーバードブースト。そうとしか説明のつかないほどの加速力だった。敵はすでに目前に迫っている。 あらかじめの心構えなど軽く無視できるほどの、まさに一瞬の出来事。ロウが操縦桿を動かすよりも早く、 フロートの左腕から光の残滓が零れ落ち、勢いそのままに左腕は振り下ろされる。狙いは、言うまでもなくコクピットだった。

ブレードがコアに食い込み、易々と装甲を溶かし裂いていく。自分の身体もまた跡形もなく蒸発する。 意識という概念が虚空へと消え、肉体もまた消し炭となり、空気と同化して消えていく。 そんな光景がロウの脳裏に走馬灯のように駆けていた。

「うーん。やっぱり詰めが甘いね」

だがまたしても何も起こらない。うっすらと目を開ける。そこには何かを必死に避ける敵の姿があった。 ロウにはその正体がすぐにわかった。即座に敵との距離を離し、 ひとまず一瞬で殺されるという事態から逃れた彼は、音の発生源を辿り、そして見つけた。

フロートと同じ黒い装甲。装甲と装甲の隙間から覗く濃いグリーン。 そして、二本のスナイパーライフルを両手に握った逆関節のACが彼の視線の先に立っていた。

「……大遅刻にもほどがあるぞ。どう言い訳する気でいるんだ、お前?」
「うわ、きついこと言うなあ」

その機体、ローゼンクランツは、ロウたちから離れた位置で腰を落とし、 戦場から一定の距離を離しつつ、自身唯一とも思える二挺のライフルで敵を狙い撃っていた。

「ったく、俺が助けなきゃ死んでたってのに、よくそんなことが聞けるね。まあこれも、さすがは俺の兄貴ってことなのかな」
「どういう意味だ、それは」
「肝が据わってるってことだよ。いろんな意味で」

いつもと変わりない調子でクオが言う。どういうわけか、その一言でロウの心が和む。 数分聞かない程度で、こうも郷愁深くなるものなのか。スピーカーの奥でクスクスと笑うクオの声は、 恐ろしく張り詰めていた神経に、さながら薬のように作用し、彼の無駄に凝り固まっていた部分を取り払っていた。

「まあ、いいや。じゃあそこの雑魚フロートさん。いきなりで悪いけど、あんた、すごく邪魔だから殺していい?」



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