足が岩のように固い。階段を昇った瞬間、俺はそれを実感した。
手に持っている紙袋を今すぐ放り投げたい気分だった。
これでもかと言わんばかりに押し込まれているのは、くすねてきたビールの山。
喧騒が鳴り止まない会場に辟易し、一人静かに飲もうと考えた結果なのだが、
今となっては、それはただ忌々しいものでしかない。
今日一日の苛烈な忙しさと、その後に開かれた怒涛の打ち上げ。
アルコールが残った身体にあるのは、鬱陶しい頭痛と眠気だけだった。
届けられた物資は通常と何も変わらない品ばかり。
手紙を始め、本やら食料から家具などの日用品が俺たちの目の前に置かれていた。
問題なのはその数だ。打ち合わせの段階で、機密を運ぶわけではないとは知っていたが、
そのあまりの常軌を逸した量に俺やその他の人間は目を丸くした。
一体何のために、とは思ったが、俺たちのような下っ端にそれが伝わることはない。
そして文句一つ漏らさず、俺はその馬鹿げた量を一日の業務ですべて片付けた。
「おう、お疲れ」
部屋には先輩がいた。相変わらず狭苦しい部屋の中で椅子に座り、机に酒を並べている。
どうやら一人で酒を楽しんでいたようだ。
「お疲れ様です」
今日の主役がここにいてどうする。心の隅でそう漏らしながら、部屋の中へと入る。
「お前もやるか?」
ビールの缶を掲げた先輩が俺を誘う。
だが、そんな余裕は今の俺にはなかった。持っていた紙袋を床に捨てるように置くと、俺はそのままベッドに倒れこむ。
「無視かよ。お前なぁ、少しくらい先輩をリスペクトしたらどうなんだ?」
「すんません。今日はもう限界です」
疲れとは違う別のものが、俺の気分を一層暗いものにしていた。
「相変わらず可愛くない奴だな。ビール奢る程度じゃ丸くはならないか」
「当たり前じゃないですか。五十ですよ五十。あんな安いビールじゃ割に合いませんよ」
吐き捨てるように言う。勝てると踏んでいた賭けに破れたこと。それが気分が滅入る一番の理由。
予定していたものが水の泡と化し、辛い仕事がさらに辛いものとなった。
鬱屈とした気分を抱えながらでは、労いとして出された酒の山も、何かの冗談としか思えない。
無敗を誇っていたチャンピオンが負けたことは、仕事の合間に小耳に挟んだ。
大きなイベントであるから、結果は艦内にいればまず知ることができる。
最初、友人からそれを聞いたときは、我が目を疑った。
が、友人のその慌てぶり。そして会議室での先輩の言動。
それらがふと頭を過ぎると、その話は妙に現実的なものになっていた。
友人の話は本当だった。王者の一方的な展開だったはずが、
皆が気づいたころにはすでに彼は劣勢に追い込まれていたという。
そして、そのままカウンターを浴びて倒れてしまったそうだ。
不用意な右ストレートに合わせた完璧なカウンター。
拳が顎に突き刺さる様子を、友人は身振り手振りで教えてくれた。
聞いたところによると、チャンピオンを倒した人物は、彼よりも二周りほど小さい男らしい。
しかも、所属こそ軍人だが、その勤務先は艦内の厨房。しかも役割は皿洗い、というのだから驚きだ。
勝てるはずがない。誰もがそう思ったはずだ。当然、皆がチャンピオンに賭けた。
結果、その金はすべて一部の物好きの手に渡った。先輩がその一人だった。
馬鹿のような倍率。先輩はその上に大金をつぎ込んでいた。
単なる娯楽としては異常なまでの配当を受け取り、一夜にして金持ちの仲間入りを果たした彼。
「それで逃げてきたのか?」
そんな彼が聞いてくる。
「ええ、後輩をいじめるのも飽きたので」
「誰だ」
「ニールですよ」
「ああ、あいつか」
そう言うと、彼はさらに持っていた酒を口に運んだ。
この酒も、さきほど自分が持ってきた酒も、そして打ち上げに用意した酒も、すべて彼が用意したものだ。
「あいつだけどな。最近お前に似てきたんじゃないか? 態度といい行動といい、一体どういう教育してるんだ」
「もちろん『先輩に会ったら逃げろ』と教えています」
先輩の目が細められたが、いつものことなので弁解もしない。
彼もまた何事もなかったように新しい缶を開けていた。
「で、そいつは何をやらかしたんだ」
飲みながら彼は言う。
「女ですよ、女。あいつ、いつのまにか彼女作ってたんですよ。それを今まで黙ってたもんで」
「それで、どうした?」
「潰しましたよ。それはもう徹底的に」
俺たちは、いつでもどこでも一蓮托生。抜け駆けする奴は許さない。それがここでの決まりだ。
こんなもの、ただの建前でしかない。が、それでも幸福絶頂でのろけている後輩がいたら、
それは是が非でも叩き潰すのが道理。それが先輩の仕事というものだ。
「よくやった。で、後処理は?」
「トイレに捨てておきました」
「上出来だ」
最初は俺たちからの酒を快く受けていたニールも、徐々に事の異常さに気づいたようだった。
彼の焦りも、しかし、先輩という身分をちらつかせればどうということはなかった。
そして俺たちは彼を見事に良いつぶすことに成功し、事後処理として彼をトイレに放置した。
これならば、突然の嘔吐感にもすぐに対応できるため、他に迷惑は一切かからない。
ニールの酒の強さは誰もが知ることだから、万が一の心配などは誰もしない。
実に紳士的な対応だった。ベッドに寝転がっている今でもそう思う。
「そういえば」
回想にふけっていた中、俺はふとあることを思い出していた。
「この前は、ごちそうさまでした」
仕事に忙殺されていたため、忘れかけていたことを俺はようやく言うことができた。
先輩自身もそのことが意識の外にあったのか、
「ああ」
と、思い出したかのような声を上げていた。
「礼ならカレンに言えよ」
「言いましたよ。それはもちろん」
「そうか」
椅子に座るケイン先輩が、そこで俺からの視線に気づく。
「何だよ?」
「良いお父さんでしたね」
そう言うと、
「当たり前だろ。せっかくの休暇だったんだ。少しくらい父親らしくしてもいいだろうが」
彼は自信に満ちた表情を浮かべた。
「羨ましいか?」
「いえ、別に」
「ハハ、強がるな強がるな」
俺の心を簡単に見透かしながら彼は笑う。
「今度は俺が招待される番だな」
わずかに顔を紅潮させていた先輩は、勢いそのままに続ける。
まずいと思った。どうにも嫌な流れになりそうな気がしたからだ。
「招待ってどこにですか」
「お前の家」
「ああ……」
想像通りの答えに、愛想笑いを浮かべる。そして俺は彼から視線を外す。
「なんだよ」
「いえ、別に」
不自然な行動に、すかさず疑問符が飛んでくる。
俺はそれに対して言葉を濁すことしかできなかった。
はっきりと了承できるだけの自信がなかった。
あのような団欒と俺の家族、比較になるはずがない。
「家族にはちゃんと会ったんだろうな」
「会えるわけないじゃないですか。そのままこっちに戻ってきましたよ」
俺はただ仕送りを続けるだけで、ろくに帰っても来ない親不孝者。
ようやく帰れると思っても、仕事がその邪魔をする。
途絶しかけている家族との関係だが、それに対して改善策もなし。
工夫を凝らしている先輩の家族とは明らかに違う。
そんな理想像を目の当たりにした中で、俺の家族の現状を見せたところで、それは幻滅という結果しかもたらさない。
「不満そうだな」
「そりゃ不満ですよ。先輩と一緒にしないで下さい」
嫉妬、諦め、そんな感情が俺にそんな言葉を吐き出させた。
「同じだよ、どこも同じだ」
「違いますよ。先輩みたいに、ここが大好きってわけでもないですしね」
口が滑ったと思ったときにはもう遅かった。
空になったビール缶が机に叩きつけられる音が部屋に響いていた。
「事情はどうあれ、ここの連中は皆同じ理由でここにいる。好き好んでここにいるやつなんかいるわけねえよ」
強められた語気が俺の目を覚まさせる。はっとしながら、俺は先輩の顔を見た。
アルコールで赤くなっていようとも、その視線の真剣さは本物だ。
力が篭もっているのだろう。彼が握っている缶パキパキと音を立ててひしゃげていく。
「早く壊れちまえ、こんなところ」
「物騒なことを言わないで下さい」
その言葉を聞いた途端、身体が熱くなった。
「物騒じゃねえよ。ここが壊れさえすれば、俺は家に帰れるんだからな」
「じゃあ、どうしてあなたはここにいるんですか!?」
思いもよらない言葉に反射的に声を出してしまった。だが彼は、俺を見るだけで何も言おうとしない。
彼は再び酒の缶を取り出し、それを一気に飲み干していた。
「俺はな。縋るしかなかったんだ。カレンとカレンの腹の中にいたナナを守るためには」
普段からはありえない弱々しい声が鼓膜を刺激する。
屈強で頼もしい先輩のイメージが、今は少しも感じられなかった。
「地上では出生率も低下している。健康な状態で生まれるかの保証もない。汚染された水を飲んでコレラにかかり、下痢が止まらずにそのまま死んでいった妊婦を俺は何人も見てきた。ネクストみたいな化物が動く時代にコレラだぜ? 笑える話だ。大昔に制圧したはずの病気が、今じゃ我が物顔で猛威を奮っている」
アルコールが原因だというのは明らかだった。
本来なら制する部分が、酒の影響で止まらなくなっているのだろう。
「自分の女が、そんな目に合って死んでいく姿なんて、俺は見たくない」
先輩の独白を、俺はただ静かに聞いていた。
初めて聞く彼の心情。それは新鮮であり、そしてどこか悲しいものだった。
「だからマザーウィルを選んだ、と」
「そうだ。あのときのここは俺の希望だった」
確かに同じだ。俺は思った。
このマザーウィルに救いを求めたのは他ならぬ自分たち。
なりふり構わず潜り込んだものの、そこは抜け出せない袋小路だった。
それに気づいてしまった俺や先輩は、そこからの脱却を心のどこかで願っていた。
最初から企業同士の争いに興味はない。リンクスやレイヴンに憧れも抱いていない。
ただ俺たちは、普通の生活が送りたかっただけなのだ。
「今は違うがな」
「と言うと?」
吐き捨てられたその台詞。俺は黙っていられなかった。
「カラードは怪物の巣窟だ。十年前とはわけが違う。ここはもう前ほど安全じゃない」
「その怪物にここは壊される、と。そう言いたいわけですね」
思わず声を荒げてしまう。自分でも言葉が飛び出るのを抑えられなかった。
アルコールに操られているのは、どうやら先輩だけではないようだ。
「そうは言っていないさ。飛躍しすぎだ」
「言っていますよ。でも無駄です。仮にそうなったら、俺たちはこいつの下敷きになって死ぬ。誰も逃げられない」
根拠などあるわけがない。けれども、俺は毒を吐くように言った。
「俺は逃げるからな」
だが、彼はそう言った。
「何だよ、その顔は」
呆れたような様子で先輩がこちらを見てくる。
「逃げるんですか?」
「逃げるさ。他に何がある? 心中でもする気なのかお前は? もしかして馬鹿かお前?」
「……いえ」
鋭い指摘に力なく答える。
「こいつと心中なんかする気はない。ここが壊れるんだったら、俺は喜んでここから逃げる。もちろんお前らと一緒にな」
生き残れるかと自問したとき、俺の目には光明が見えなかった。
仮に生き残ったとしても、俺には何も残らない。家族を支える術を失った役立たずになるだけだ。
だが先輩は違う。帰るべき場所がある。そして本人もあの場所へ帰るという意思がある。
だから先が見えないからといって絶望する俺とは、何から何まで違う。
「そうなったら、また一から職探しだけどな」
まっすぐなその言動に俺は笑った。
このような考えすら出てこない自分自身を罵りたかった。
「笑うところか?」
眉を潜めながら彼が聞く。
「いや、ほんと簡単に言いますね。先輩は」
「当たり前だ。俺は父親だからな。父親は家に帰るものだ」
堂々とそう言われて、俺は声を出した笑った。
やっぱり先輩は先輩だ。この人はやはりこうでなくてはいけない。
この人がこうだからこそ、俺は安心してついていけるのだ。
「お酒、ご一緒してもいいですか?」
俺はそして寝転がっていたベッドから這い出す。
「あ? 寝るんじゃなかったのか」
「誰かが下らないこと言い出したせいで眠れなくなっちゃったんですよ。責任取ってくれますよね?」
先輩はニヤッと笑いながら、
「そういうことなら喜んで」
と言って迎えてくれた。
「そういや、うちの娘がお前のこと気に入ったみたいでな。『今度いつ来るのか』ってカレンに聞いてたそうだぞ」
「そうなんですか?」
床に置いてあった紙袋から酒を取り出す。いくつかを机に置き、その一つを手に取った。
「おう。で、新しい写真があるんだ。見るか?」
「見ません」
いつものように彼の誘いを断り、俺は空けた缶に口をつけた。