In mother's will TOP

06.


昼過ぎから続く砂嵐は、未だに収まる気配がなかった。正面の窓からは、濛々と砂塵が飛び交う様子が窺える。 しかし、たとえ視界が明瞭でなくとも航行自体にはさほど影響はしない。 計器類やいくつかの表示灯は問題なく稼動しているだろうし、あちこちに直立しているクルーにも動揺の色は見当たらない。

ブリッジの中央で、皆と同じように直立していたトーマス・ネルソンは、 外界の自然現象にもまったく揺るがない彼らの動きを観察していた。 腕につけられた腕章は彼が海軍大佐であることを示しており、 この場にいる誰もが、彼がスピリット・オブ・マザーウィルを指揮する艦長であることを理解していた。

「艦長。コーヒーです」
「ああ、すまないね」

仕官の一人がコーヒーを差し出していた。それを受け取り、彼はそれを一口含む。 豆の渋みを味わいながら、彼は晴れることのない灰色の景色を眺めていた。

今日も異常なし、と言いたかったが、機関室からの連絡係が、記録員の一人に話かけているのが目に留まる。 連絡係が頭を下げていた。どうやら雑談の類ではないらしい。

遠目からそれを眺め、予定より遅れているのだろうと推察する。 指示を出そうと思ったとき、人の影がすっとトーマスの隣に現れた。

「艦長。現在の速度と進路についてですが」

航海指揮官でもあるティンバー・アーバスノット中佐が、抑揚のない声で告げてくる。

「わかっている。少し増速しようか」

そう言うと、彼は即座に陸図の前に立ち、自らで最適な速度を計算していく。 トーマスが結果を伝えると、通信士がそれを復唱し、命令を機関室へと送り出していった。

彼は昔ながらの航法を好んでいた。最高峰の索敵レーダーが搭載されているとはいえ、 海図やコンパスすら使えないのは海軍としていかがなものか。彼はそして幹部以下のクルーにもそれを実践させている。 指揮する場所が海から陸へと変わっても、彼のやり方は変わらなかった。

「針路そのまま」
「了解。針路そのまま」

トーマスの指令をティンバーが復唱する。 軍人家系の長男としてトーマスは生まれた。父が名づけてくれたその名は、後世に名を残した人物らしかった。 そのときからトーマスの目の前にはすでに軍人へのレールは敷かれていた。

上官の実娘が今の妻であるし、彼女との間に儲けた二人の息子もまた自分と同じ軍という道を歩んでいる。 確かな愛をは育み、十分すぎるほどの幸せを感じてはいたが、果たしてそれが自分の選択の結果なのかは彼にはわからない。

ティンバーはそんな彼とは少し違う道を歩んでいた。同じキャリアでありながら、親の背中を追ったトーマスとは違い、 彼は叩き上げて今の地位まで昇りつめていた。幹部将校でありながら、その肌は浅黒く日焼けており、鍛え上げられた筋肉が制服の上からでも判別できる。 自分のように、たるんできた腹を気にするようなこともないのだろう。命令を復唱しているよりも、外で部下と共に汗を流すほうが彼にはお似合いだ。

BFFがGAの傘下に入ってからおよそ十数年。彼とはそれ以前からの付き合いになる。 海軍に入って順調に出世し、いくつかの艦の艦長を経験していたトーマスのもとに訪れたのは、 BFFが誇る第八艦隊への移転指令。四十代後半での抜擢、それは彼にとっては一つの区切りを意味していた。

艦隊の一隻を預けられ、副長という役職まで与えられた。これ以上はない、ここが終着点だ。 だが、最後に最高峰の部隊で自分の人生をまっとうできると思えば、悪い気はしなかった。

ティンバーとはそこで知り合った。幹部でありながらも、第八艦隊という格式ばった重圧に戸惑い右往左往していたトーマスに声をかけたのが彼だった。 事情を聞いた彼は、浅黒い顔で二カッと笑い「自分が何とかします」といった。そして頼んでもいないのに、食堂を占拠するや否や乗組員をかき集めて簡易の歓迎会を開いた。 五十人を超える人間が集まったときは、さすがに開いた口が塞がらなかった。

「どうして私って仕官なんかやってるんでしょう?」

それが彼の口癖だった。だがそれも嫌味には聞こえない。 地位、役職に拘らず、誰に対しても気を配る姿勢。そしてその明朗快活な性格によって、彼の周りには自然と人が集まるのだ。

「将校って普通は下から神聖化されるものじゃないですか。そういうのが私は嫌なんですよね。ほら、よく『上官の命令には従え』って言うじゃないですか? でもこれって『部下の命令は聞くな』ってことではないでしょう?」

このような発言を彼が平気でしているからこそ、一年前の珍事は起こったのかもしれない。 コーヒーの残りを喉に流し込みながら、トーマスは思った。 一人の民間人の名前が、あの事件をきっかけにマザーウィル全土に伝わったのは、彼が裏で糸を引いていたからに他ならない。

「そういえば、この前の試合はどちらが勝ったのだ?」

退屈さに負け、トーマスは呟いた。

「厨房のコックが勝ちました。大金星ですよ」

ティンバーは目立たぬように、彼の耳元でそう囁く。

「それは君が以前から言っていた彼か?」
「ええ。偶然見つけた原石ですよ」

彼の散策癖はどうやら健在らしかった。

「相変わらずだな、君も。配達屋の彼といい、面白い人間を見つけるのが上手い」
「あまり言わないで下さい。ただでさえ副長にサボり魔って睨まれているんですから」

ティンバーが苦々しく笑う。

「なら彼には、民間人の飲酒を君が認めていることも告げようか?」

今朝の報告で、トイレで酔いつぶれている人間がいた、と顔を真っ赤にして怒っていた副長を思い出し、 彼は聞いてみた。ティンバーの顔は予想通り青ざめていた。

陸軍出身者の最高位に位置する副長は、そのプライドの影響か、いささか頭の固い部分がある。 よく言えば実直なのだろうが、いつもフラフラしているティンバーとは折り合いが悪いらしい。

「冗談だよ。飲酒禁止なんてルールは我々軍人のものだ。民間人にまでそれを押しつける気はない」

トーマスはにやりと笑う。

「それにいざとなれば、服務規程違反として君を懲罰房にぶちこめば済む話だ。まあそんなもので懲りる君ではないだろうがね」
「いつもご迷惑をおかけします」
「構わないさ。私は楽しいからね」

本当に彼は昔から変わらない。十年もの間、上官と部下という関係を続けていればおのずとそれがわかる。 自分は変わってしまった。軍人としての誇りや名誉を生きる糧としていた自分はもういない。 忘れもしない。あの大西洋の戦闘で、彼の誇りは徹底的に破壊され、そして蹂躙されたのだ。

リンクス戦争が佳境に差し掛かったころ、唐突にそれは起こった。 BFFの象徴でもあったメアリー・シェリーの突然の訃報。 たった一機で、BFFの全戦力数パーセントを担っていた彼女の損失は、軍部に想像以上の衝撃を与えた。

撃墜された地点が南極であるということも、軍部の焦りを増幅させる一助となった。 スフィアと呼ばれる重要拠点防衛。自身がリンクスでもあるBFFの重鎮、王小龍の提言もあり、 本部は南極の防備を固める決定を下し、旗艦であるクイーンズランスを南下させた。

トーマスやティンバーがいた第八艦隊はその護衛として同行した。そこにあのリンクスはいた。 通称はアナトリアの傭兵。奇しくもメアリー・シェリーを破った本人が、神々しいまでの存在感を見せつけ、あの夕焼けの海に現れたのだ。

何十発もの艦対空ミサイルの直撃さえも防ぎきる鉄壁の防御に、押し寄せる火力をまるで児戯のように避けきる機動力。 目的は歴然としていた。狙いはクイーンズランス。皆がそれを悟り、行かせまいとネクストの進行を阻もうとした。 だが現実は無常だった。行われたのは一進一退などではなく、ただの一方的な蹂躙だった。

大した損害も与えられず、数多の船がネクストに挑んでいっては返り討ちにあった。 ネクストが通る後には火柱と爆風が絶えなかった。連動するように展開していた船がレーダーから次々と消えていく。 まさに悪夢だった。三十にも満たないネクストが世界の根底を覆したという信じがたい事実を、彼はそのとき初めて理解できた。

旗艦であるクイーンズランスは、抵抗もむなしく海の藻屑と化し、 六大企業の一角を簡単に壊滅させた化物も、目標を達成したとわかるや、残存戦力を見向きもせず戦域から離脱していた。

トーマスの船はかろうじて沈没を免れていた。 彼の船は奇跡的にもネクストの標的とはならなかったのだ。

生き残った彼は、同じく残存する艦とともに海上に取り残された。 何も考えられなかった。撃破された船からの救助要請が、トーマスから思考する間を奪い取っていた。 戦場跡で、コジマ汚染対策用の防護服をまとい、彼は海上でもがく人間を助け続けた。

橙色に染まる地平線が上空の薄暗い青と混ざり合う幻想的な光景。 その下では、救命胴衣をまとった何万という人間が海上に投げ出されていた。

酷く冷静な頭で、彼はその光景を見ていた。あれ以上の地獄があるのだろうか。 炎がゆらめき、あちらこちらで悲鳴が聞こえる。もはや人の死骸と船の残骸の区別もつかない。 最強と信じ続けていた軍が自分の目の前で壊滅したという事実は、トーマスにとっては耐え難いものとなった。

BFFの体制は事実上崩壊し、南極に残されたノーマル部隊ものちに壊滅的打撃を被った。 勝者と呼べる勝者もおらぬまま、リンクス戦争は終結。立役者となった一人は死亡し、アナトリアの傭兵はどこかへと消えた。

混乱の最中、崩壊寸前だったBFFを立て直したのは、かつては敵対していたGAだった。 GAの庇護のもと、経営体制を普及させた本部は、マザーウィルを生み出し、トーマスをその指揮官に任命。 そうして彼は十年以上もの間、真面目に艦長としての責任を果たしてきた。

「艦長」

鋭い声が鼓膜を刺激し、トーマスは我に返った。 副長の実直な顔が、彼をまっすぐ見つめていた。

「どうした」
「通信室からです。司令部から緊急の指令が入ったと」
「何と言っている」
「南東の方角に未確認の飛翔体を確認したとのことです。標的は現在アラビア海を北上しこちらに向かっているとのこと。緊急警戒態勢のレベル1を要請します」
「認めよう」

マイクを手に取り、警戒態勢の発令を全部署に伝える。副長も復唱し、ブリッジの空気は一気に張り詰めたものとなった。 正式なものかの確認を済ませ、文章化された指令を、トーマスやティンバー、ほかの上級士官が眺める。

「……ネクストか」
「そのようですね。今どき珍しい」

砲術指揮官の呟きにティンバーが応じる。

「標的はここか?」
「だとすれば懲りない輩だ。何度撃退されれば気が済むのだろうな」
三度のネクスト撃退の経験は、彼らに十年前とは違う感覚を植えつけていた。 マザーウィルという超大型の機動要塞が、それを可能にした。

「いずれにしてもだ」

トーマスが口を開く。

「その機影が我々の脅威となれば、我々はそれを防がねばならん。ネクストが相手ならなおさらだ」

苦汁を舐めさせられた昔とは違う。そう言い聞かせるかのような口調だった。

「各部署に伝達。こちらは艦長だ。未確認の機影が現在こちらに向かっているとの報告があった。各員持ち場について事態に備えよ。これは演習ではない。繰り返す、これは演習ではない」

マザーウィル全体に指令を下す。

「私はCICに入る。情報伝達は密に行うように。後のことは頼む」
「了解です、艦長」

深い息を吐き、彼は席を立つ。

「艦長! 中継基地から連絡が入りました。機影の識別が完了したそうです」

通信士が声を荒げた。トーマスを含めた皆が振り返る。

「対象はカラードランク9。ホワイト・グリント。繰り返します。対象はホワイト・グリント。VOBを搭載し、基地との接触は七分後とのことです」

その報告を受け、皆の顔に緊張が走る。

「……副長。指揮を頼む」
「了解。艦長降りられます」

副長の復唱を最後まで聞かずに、トーマスはブリッジを後にしていた。 その拳が硬く握り締められていたことに気づいていたのは、ティンバーだけであった。



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