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Prologue.


頬を伝わる雨。自らを映し出すような冷たい雫は、澱みきった人の心を洗い流してくれるのだろうか?  だが現実は甘くない。ひやりとする水滴は微かに残った体温だけを器用に奪っていき、男の体力を少しずつ、だが確実に蝕んでいく。

降りしきる雨のためか、人通りは少ない。が、それ以上に人目につかない細い路地裏で、 男は壁に力なく崩れ落ち、さながら路上に転がる塵の如くその場でじっと座り込んでいた。

自分の命などいっそこのまま終わってしまえばいい、以前の自分なら間違いなくそう考えていた。だが今は違う。 誰も近づこうとしない闇の中に、こうして転がっている今ですら、自分はまだ生きている。 吐いた息が掌に触れた瞬間、冷たいという感覚が皮膚を走っていた。それこそ、男が生きているという何よりの証明に他ならない。

誰かに助けてほしいわけではない、誰かを憎んでいるわけでもない。ただ、何も出来ない自分が悲しかった。 幾度となく届かなかった想いがある。届いたと思った瞬間には、それは無残に打ち砕かれ、その欠片だけが寂しく彼の手に残った。 もう自分には何もない。こんな人形の如き自分に残されたものと言えば、ただ付いているだけの手足と人形にあるまじき肌の温かさ、 そして思考の淵に眠る己の胸を引き裂くような痛みを伴った、わずかな記憶の切れ端だけだった。

男を叩く雨は激しさを増してきた。長い間、切るのを忘れていた彼の黒い髪の先端から一つ一つ雫が垂れる。 だが、それを見るのも億劫となったのか、男は静かに目を閉じて蹲った。

男――まだ青年と呼べる年ごろにも関わらず、その姿は数多くの苦難を経験してきた初老の人間を思わせた。 目を閉じた先に広がった闇に身を委ねて、青年は今日という時の終わりを感じる。 このまま闇に飲み込まれていく自分に明日再び目覚めることができるという確信はない。

無事に生還し明日という免罪符を得るのか、それともこのまま深遠の淵まで堕ちていき、思考すら飲みこむ闇と一体化する末路を辿るのか。 まさに神のみぞ知る事だ、と青年は思った。体力的にも精神的にも終わりが近いのは目に見えていた。 気を抜けばすぐに身体は闇に傾いていく。残った全体力をそれを防ぐために捧げてきたがそれももう限界だった。

ある意味、青年にとってそれは屈辱だった。幾度となく青年は願っていた。信じていれば、祈り続ければ必ず叶う。子供の頃よく聞かされた言葉。 そして男はただ純粋に全てを信じた。だが、現実は残酷な真実を青年に突きつけ、あまりに無垢すぎた当時の彼の心を修復不可能なまでに引き裂いたのだ。

願っても願っても、瓦礫に埋もれた最愛の両親は帰ってこなかった。祈っても祈っても、血に染まりきった自分を助けてくれた人は戻ってこなかった。 全ては束の間の甘い幻想。その真理を掴んだ時には既に青年は全てを失っていた。


誰も、何も応えてはくれなかった。当たり前だ、そもそも最初からそんなものは存在していないのだから。
自分は自身が勝手に創造した思念の塊を”神”と名づけて飾っていただけに過ぎない。正体に気づいたときには時既に遅く、その結果がこれだ。


暗くそして狭い繁栄という名に隠れた暗部。その中に座り込み、残り少ない命の灯火をぼんやりと眺めて過ごす日々。
明日を得られるかどうかはもう判断できない。それなのに、彼はいつの間にか訪れてくれるかもわからない明日を、 その着飾った創作物に縋ろうとしていた。そんな哀れな自分に気づき、青年は少しばかり絶望する。


もはや独りでは立ち上がることさえ出来ない。すっと立ち上がり、身を沈める暗闇から這い出すことさえできれば、 いつでも“普通”と言う名の光を浴びることができる。だができる筈もない。既にその資格は失われているのだから。
今までその“普通”を切り捨てて踏み潰していた自分が、のうのうとその光を浴びることなどできるわけがないのだ。


大丈夫、此処でも十分やっていける。自らが死を望まない限り人はどこであろうが生きていける。
願いや祈りとは全く違うやり方で、無理矢理胸に刻み込んだ想いが、青年をいつまでもこの場所へ縛りつけていた。


もう十分だろう、と身体がそこで静止を促す。巡る思考に幕を下ろして青年は全身に僅かに力を込めた。
すると、今まで夢中になるあまり気づかなかった周囲の状況が容易に感じられるようになる。
まるで危険を察知するセンサーのように、皮膚の神経一つ一つが空気中の違和感を探索する。そして何かを見つけた。


目を閉じているため正確ではないが以前までそこにはなかった何かが今はある。青年は身体を硬くしてそれに備えた。そして目を開く。
いつのまにか肌を刺す冷たい雨は身体を叩いていない。聴覚が地面を叩く音を捉えているはずなのに何故だろう。不審に思い、青年は顔を上げた。


そしてその先に現れていた一人の男を見つける。





「……誰だ? あんた」


残った体力の一部を用いて青年は尋ねた。と、同時に再び周囲の状況の変化を見極める。
こんな状態でも昔の癖が飛び出してきたことに正直うんざりしたが、まあ損ではない、と言い聞かせ彼はその癖を受け入れた。


長身の男だった。全身を主に黒が目立つ服装で包み込み、ブラウンの髪、眼鏡、そして口には一本の煙草を咥えて、こちらを凝視している。
雨が肌を叩かなくなったのは男の持つ傘が自分を覆ったから。雨の当たる角度を見事にカバーして、男は青年の前に見下げる形で立っていた。

「誰でもいいだろ。どうせこんな機会じゃなければ二度と会うこともないんだ。聞くだけ無駄。ただの通りすがり、それで十分だろ」
「何しに来た?」
「お前を笑いに来た。……いや、違うな、馬鹿にしに来た」
「何?」

嗤っている。顔も知らない男が自分を嗤っている。理不尽な行動に怒りを覚えるも殺気一つ放つ力もなく、青年は微かに呟くだけで終わった。
一通り笑い声が響いた後その声はピタッと止み、同時に全身が震えるような感覚が、肌を不意に突き刺して青年は何事かと男に視線を注ぐ。
見えたのは感情など全く篭っていない能面。この男が自分を嗤っていた? 重ならないイメージに青年が疑問に思う刹那、 決して動かぬと思われた鉄仮面の口が静かに開いた。

「お前は一体何だ? 腐るとこまで腐った塵か、それとも悲劇の主人公でも気取る単なる馬鹿か。どっちだ?」

思いもよらぬ、そしてあまりにも幅の狭い二択だった。青年は答えない、否、答えられなかった。何故かはわからない。
自分の今の状況は明らかに前者、なのに心に痛みが走った。その感覚が違うと叫び、全身が震えて声が出ない。
それらが意味するのは拒絶。語ることすらできない数多くの要因が彼の行動を抑制し、口を閉ざさせていた。

「前の方なら救いようがない、さっさと死ね。だが後なら、救いは十分にある。簡単だよな、馬鹿を矯正するだけなんだから」

そう、それだ。言葉に出来なかった想いを目の前の男が代弁する。

「俺はどちらでもない。……邪魔だからもう消えてくれ」

だが青年は全く正反対の答えを口にした。彼に刻みこまれた記憶がそうさせたのだ。もう一人残されるのは嫌だ、傷つきたくない、俺にもう構うな――。
様々な感情が答えを得た瞬間に湧き上がり、彼がそこから這い出すことを許さなかった。

「はずれだ、正解は後者。というより前者はありえない」

さも聞いていないと言わんばかりに男は話を勝手に進めていく。こいつは何を言っている? もうどうでもいい、放っておいてくれ。
その意思を表すかのように、彼は膝を抱えてその中に顔を沈めた。これ以上体力を消費するべきではないと思考が命令し、目を閉じる。

「糞真面目な人形も、道を外れた外道も、人をやめて腐った塵も、みんな自分を美化させて偽る馬鹿野朗だ。そうすることが格好いいと思い込んで、自己満足の殻に閉じこもり外の世界ってやつに目を向けようともしない。たとえ足元に欲しいものが転がっていたとしてもだ。泣けるくらいに単純でくだらない話だが、人ってのはそういうもんだろ? 違うか?」

しかしすぐに閉じた先に見える闇に光が戻った。もう聞くのを止めようとしたのにどうして俺は……。
再び目を開いてしまったのは無意識な反応だった。男はさらに続ける。

「なら納得するしかない。文句言ったって変えられない。変えようとしたって無駄なんだよ」

青年は再び顔を上げる。青年が張り巡らせている下手な障壁など、その言葉は容易に貫通し青年の心に強く響いていた。

「と言った所で次の問題。……お前は死にたいか、それとも生きたいか、どっちだ?」

その瞬間、過去が重なった。かつて語られた言葉。遵守すると誓い果たせなかった言葉。
そこに込められた想いだけが空回りし、生きるという表立った意味だけを変質的に守って、自分はここにいる。


最初からわかっていたのだ、こんなことをして得るものなど何もないということを。
その本質に気づいているのに無視を貫いてしまった。こうなることは簡単に予想できたというのに。
これではまた繰り返してしまう。あの過ちを。そして戻ってしまう。何の目的も見出せずにいたあの人形に――。

「死にたいならそのまま蹲っていろ、必ず死ねる。だがもし生きたいというなら、手を伸ばせ。それも死ぬ気で伸ばすんだ。二度と滑り落ちないようにな」

懐かしく心地よい響きだった。駄目だ、と制止を促す頭とは逆に、身体からは抗おうとする力が湧き出してくる。
形は違えど過去、一度自分を救ってくれた言葉だ。そしてもう二度と聞けないと思っていた言葉でもあった。
お前は誰だ? 何故また俺をそこへ戻そうとする? 何故俺にもう一度チャンスをくれるんだ? 一体何の為に?


あの時は叶わなかった想いが込み上げてきて、青年はその目に涙という人形ではできない確かな人の証を浮かべた。
やり直せるのか? 腐りきった俺でもやり直すことができるのか? ならば、生きたい。今度は間違わない、間違いたくない。
許してくれとは言わない。だが償いを考える時間が欲しい。その為に自分は生きたい。たとえ再びこの身を血で染めたとしても――。


残った力を全て注ぎ込み、青年は腕を伸ばす。思った以上に弱弱しい腕は上げるだけでも精一杯。
限界はすぐに訪れた。急激に降下していく腕を感じながら、男はやはり自分はこれがお似合いなのかと思い始めていた。


だがその矢先、彼の腕はまっすぐ一直線に伸びた、自分の力ではない。男の厚みのある手がその腕を掴みとり青年を引きあげたのだ。
男がにやりと笑った表情を視界に入れた瞬間、強烈な力が青年の身体を押し上げる。
温かみのある手が、ぐいっと上空に掲げられ青年は遂に二本の足で地に立った。


重い鉛のような身体は、しかし、すぐにポキリと折れそうなくらいに頼りない。弱りきった足が身体の重みに耐え切れず震えが止まらなかった。
だが青年は立ちあがった。底も見えない澱んだ水の底から、微かに光った一筋の輝きを自らの意思で掴み取ったのだ。
男の顔がすぐ傍まで迫っている。生気に満ち溢れたその顔から、

「生きろよ。お前のような奴はまだ死ぬべきじゃない」

と、いう声が漏れた。ぐらっと世界が傾いたのはその直後。遂に限界を超えたのか、全身に力が入らなくなり青年はその場に倒れこみそうになる。
温かい人肌が身体に当たり、支えられたということを理解する間もなく、青年の視界は一面真っ白に染まって今までとは違う夢の中へと誘われていく。
降っていた雨はいつのまにか止んでおり、空を覆う灰色雲の中から一筋の陽光が差し込んでいた。



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