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01.


青年は夢を見ていた。夢にしては妙に精巧で、夢の特徴でもある曖昧な部分は一切存在しない、酷く鮮明な光景。
当たり前だ。脳裏に映る記憶が鮮明でなければ、それは彼自身が記憶の一部を忘れかけているということと同義となる。
だがそれが許されるのはまだまだ先のこと。忘れるにはもっと多くの、計り知れないほどの時間が必要だ。それこそ永遠に近い程の時間が。
彼が見ていた夢には、少なくともそれだけの重みがあった。


不意に、青年は自分の視界が未だ暗闇に包まれていることに気づいた。夢から覚めている筈なのに、何故か視界は一向に光を捉えない。
これも当たり前。青年は動じない。何故なら、彼は今、光を受け付けぬ場所にいる。それだけのことだ。


ここは将来彼が納まるであろう棺桶であり墓。半ば確約された自分専用の棺の中が光り輝いていようものなら。それこそ逆に気味が悪い。
第一、本当に永遠に眠る時は今ではない。いつかはそうなるだろうが少なくとも今ではない。 すっと息を吸い、そして青年は棺桶に備わる一つの突起物に手をかける。闇の抱擁から抜け出し、自身の頭を目覚めさせてくれるあの鮮やかな光を得るために。
 

棺桶の蓋はすぐに開いた。それも彼が手を加えるまでもなく勝手に開いていった。
次第に、周囲を包む暗闇へ光が差し込まれていき、時間を経過する毎にその面積を広げていく。
青年は漏れた幾重の光筋を確認すると、静かに自分の身体を起こして、当分出番がないであろうその棺桶から抜け出そうとした。


しかし、それは唐突に阻まれる。彼が完全に抜け出す刹那、視界を再び暗闇が覆ったのだ。
瞬間、彼の顔面中心に強烈な衝撃が走り、解釈不能の声を撒き散らしながら、青年は再び棺桶に舞い戻ってしまう。


顔、そして背中を背後の堅いシートに盛大に背中を打ちつけ、痛みで息が詰まった。
全身を駆け巡る激痛に苦悶の表情を浮かべながら、彼は自身をこの棺の中へ押し戻した張本人を鬼の形相で睨みつける。
一人の男が外界を照らす照明を背に受けながら、憎たらしい笑みを浮かべそこには居た。


「おはよう、ユエル。良い朝だな、え?」


ユエルと呼ばれた青年の顔面に蹴りを浴びせた男は、爽やかな朝に相応しい爽やかな笑みで彼を迎える。
しかし、その天使のような微笑と人の顔面を容赦なく踏み潰す悪魔のような行動には微塵も一致している部分はなかった。

「……っ! ラスティ、お前……いきなり蹴りはねぇだろうが!」

未だ激痛が走る顔を押さえながら、思いの丈をぶつける青年――ユエル・ガナードは、二度目の挑戦にしてようやくその場からの脱出に成功した。
顔をしかめて、だがその足は鳥のように軽やかに、彼は暗い棺から飛び降りてトンと地に足をつける。
まだ目が慣れていないのか、突き刺さる照明の光が妙に痛かった。ズキズキと疼く鼻の辺りをさすりながら、
彼は開けきれないその目で正面のにやけ面を再び睨みつける。しかし、殺気すら孕んだ視線もこのラスティという男には効果がないようで、

「時間も気にしないで、ACの中で爆睡かましてる馬鹿に言える台詞か? 俺はお前のためを思って溜まりに溜まってる仕事中断してわざわざ起こしにきてやったのに、むしろ感謝して欲しいね」

と、あっさり突っ返されてしまった。

「な、何が感謝だ! 人を真夜中までこき使ったのはあんただろうが! 疲れ果ててボロボロの俺をこれの調整に駆り出したのもあんた! そんな奴に感謝ぁ? できるかボケぇ!」

耳をつんざくような絶叫がだだっ広い空間を支配する。一体何だ? とそこで働くほぼ全ての人間が、 頭上で叫ぶ黒髪の男とそれを煩わしいように聞く茶髪の男に視線を注ぎ、朝の開始を告げる恒例行事が始まったことを悟った。


あぁ、また始まった。その場で働く整備士達の誰もがそう思ったことだろう。朝になるといつもこうなのだ。
朝っぱらから叫びまくる馬鹿にそれを仕方なく――いや違う、最初から聞く気すらない自分達の雇い主の構図。


しかし誰もそれを止めようとはしない。わずかに視線は向けるものの、それはほんの僅かな時間だけ。
気がつけば皆何事もないように自らの仕事を再開し、作業音という名の喧騒が、颯爽とその場の主役に躍り出て、本来の日常が帰ってくる。
罵声が奏でるBGMは、あと数分もしないうちに間違いなく終曲を迎える。皆それを経験的に知っているのだ。だから何も言わない。

「こき使う、ねぇ。借金まみれで、朝昼晩と毎日三食喰わしてもらって、おまけに寝る所まで用意してもらってる奴が、こき使われるのを嫌うのか? そりゃ贅沢すぎるだろ。こき使われなくても余裕で返せる額なら俺も少しは考えるが、そうでない奴にとやかく言われる筋合いもないし、第一、お前にはそんな権利すらない。借りたら返す、出来なきゃ体張って返す。これ全世界一般共通の常識。おわかり?」
「……う」

グサリ、音が鳴るならそう聞こえただろう。痛い所を突かれた。正論と言う刃でだ。
口は根本的に悪いが、ラスティの言うことはいつも的を突きすぎた正論そのものであって、ユエルにとっては非常にたちが悪い。
しかもユエルには彼を上回る正論を持っていない。さらに悪いことに、覆す発言力も語彙力もないのだ。
始める前からから勝負は決まっていた。それを理解しているのか。ラスティはとどめだ、と言わんばかりに誇らしげに言葉を続ける。

「それに自分のACの調整を怠る奴はそれこそ大馬鹿だ。それで整備不良なんか起こして死にでもしたらそれこそネタ以外の何物でもない。俺はそれを思って一整備士としてお前に助言したつもりなんだがなぁ。……で、なんか文句でもあるのか?」
「……ないです」

がくりと肩を落とし、ユエルは通算何百回目かの負けを認める。しかしラスティはそれに満足するような様子を見せることはなく、

「ったく、余計な手間取らせるなって。言ったろ、俺は忙しいんだ。だから、さっさと準備して来い」

間髪入れずに淡々とした声をうなだれているユエルにぶつけていた。

「……は? 準備って、何の?」
 
今の状況がほとんど見えていないユエルに、ラスティは呆れ果て、大きくため息をつく。
そして彼は仕方なさそうに、自分の腕に巻く腕時計をそっとユエルに見せ、針と針が織り成す現実を目の前に突き出した。

「試合。開始まで一時間を切っておりますが……!」
「……! や、やばっ!」

高価そうな腕時計が刻む長針と短針を眺めたユエルは、ようやく自分の置かれている状況に気づいたようだった。
みるみるうちに彼の顔が引き攣っていく。瞬間、ラスティの視界から彼が消えた。当然、そんな挙動を人が取れる筈がない。
そう見えただけだ。それだけの素早さで作業用リフトに飛び乗っていたのだけのことだった。


素早く降下スイッチを叩き、指示された命令に従ってリフトは降下していく。が、元々人を素早く快適に運ぶというような目的に造られたわけでもない代物だ。
極めて鈍く降りていく動き自体に何ら罪はない筈なのだが、その鈍さを受け入れられるほど、今のユエルには余裕というものが根本的に不足していた。
あまりの遅さぶりについに痺れを切らしたのか、ラスティがわずに目を逸らした一瞬で、彼はまだ降りきっていないリフトから身を乗り出し、 重力という自然の力に身を委ねて落下していた。


やはり地上との距離がそれなりにあったようで、地表に達した瞬間の激しい衝撃が彼の身体全身を駆け巡っていく。
電流でも浴びたような痛みが高速で身体を駆け巡ったが、歯を食いしばって彼はそれをどうにか耐えきった。
震える足を抱えながらも休む暇すら見せず、痛みが残る身体のまま彼は即座に全開に達する。

 
鬼の形相と共に「どけぇー!」という叫びを撒き散らし、広い広い空間を全力疾走するユエル。そしてそれを垣間見て「何事だ?」かと驚く整備士一同。
土煙すら上がりそうな猛烈な勢いを遥か上方で眺めているラスティは、作業着のポケットに隠し持っていた煙草の箱から 一本の煙草を手に取り、そこから発する煙を静かに味わいながら、その光景の一部始終を眺めていた。


緩みきっていた神経一つ一つが白煙に含まれる物質により活性化を始める。彼にとっての唯一の安らぎの瞬間。害する人間は周囲にはいない。
当然、無意味に警戒心を迸らせる必要もないわけで、彼は何の猜疑心を抱えることなく。心というもう一つの世界に足を踏み込むことができた。


もうこんな光景を見るのは一体何度目だろうか。 あの時、無意識的な衝動に任せて重すぎる氷の塊を拾い上げたは良いが、 数年を経由してしまえば、その凍てつく氷塊も見た目の上ではただの馬鹿に成り果ててしまっている。

「……まさかほんとに引っかかるとはなぁ」

わずかな思考の世界から回帰したラスティは、誰にも聞こえぬ程度の声量で呟き、溜めていた煙を盛大に吐き出す。
そしてもはや過去の面影も綺麗さっぱりなくなった。と言うより、この数年で根源的な闇を隠し通す術を会得した青年の後姿を、 徐々に遠くなっていく絶叫と共に見たラスティは、手すりに肩を預けて人工的な輝きを見せる天井を仰いだ。

「止めたんじゃないのか?」

不意に声が聞こえ、ラスティは首を上から下へと傾け直し、その声の主を探した。
いたのは少し年配ではあるが、がっしりとした体格と赤銅色に日焼けした肌の男だった。威圧感すら感じさせるその風貌から、 この場所――レイヴンにおいては我が家とも言えるガレージにおいて、重要な役職を担う人物であるとはっきりわかる男だった。

「いつ俺がそんなことをあんたに言ったよ? それよりどうだ、ミーシャ。あんたも一本」
「遠慮しとくよ。俺はこう見えても結構健康には気を使う方なんでね。しかし俺は確かに聞いた筈なんだがなあ。お前の口から、はっきりと」

使い古された作業着から隆々とした筋肉が浮き出ているその姿は、彼の経験の豊富さが尋常でないことを表している。
特に鍛えたわけでもなく自然で生成されてしまったその産物は彼――ミーシャ・フロストの放つ威圧感に更なる重みを加えていた。


その風貌が、彼のどこをどう見ても逆らえる者などいない、という事実を如実に物語る。
もちろん、勝手な想像などではなく全てが真実で、ここで働く者は過程はどうであれ、ミーシャのその低い声調から生み出される怒号と、 二、三日はどう頑張っても腫れが引かないまでの威力を伴う氷の拳を。皆必ず一度以上その身体に刻んでいる。その彼らが口を揃えて言うのだ。

「逆らうなど冗談ではない」

と。さりげなく肩を叩いて励ます彼の気配りはある意味才能だ、と一人思うラスティだったが、 残念ながら、彼の外見からそのイメージが先立つことはほとんどないに等しい。


そんなミーシャと言えども、このガレージ内に一人、逆らうことが出来ない人物がいる。
有事の時のみに適応される為、いかにその人物から健康に害しか及ぼさない煙草という物を誘われたとしても、 こうして簡単に断られてしまうが、有事の際は、彼はこんな真似はしない、できない。
逆らうことすら出来ぬほどに叩き伏せられることが目に見えているからだ。現に一人の男が、先程その魔手に挑み、手も足も出せぬまま儚く散っている。


かつて、とある分野で頂点を極めていた一人の男は、手にした莫大な財力のほぼ全てを費やすだけに留まらず、 極限なまでに完璧に敷かれた作業効率や計画性を披露し、加えて圧倒的な弁論力、相手の心理をいとも簡単に見抜く洞察力も併せ持って、 ほとんど一人で”あること”を成してしまった。それが男の偉大さを最も如実に表している話だ。
だがそれも初対面同士の単なる自己紹介にしかならず、彼にまつわる逸話、伝説はそれこそ数え切れるものではない。


ミーシャ達が働くガレージ。彼らが整備するACが舞うアリーナ。
そしてそれに関わる全てを何もない全くの虚無から、わずか数年で都市と定義されるまでに生まれ変わらせたのは、 “天才”という表現すら不適格で、どの分野においても類まれな才能を遺憾なく発揮し続け、 今もこうしてサボりを正当化している男――ラスティ・ファランクスの功績に他ならなかった。


意外なことに、このガレージにおける彼の役職は主任の補佐に就く副主任。当の主任はミーシャがさも当然と言わんばかりに就き、 どういうわけか今この瞬間まで至っている。何故そうなったのか? 答えは「いつのまにか自然にそうなっていた」だ。


話し合うこともせず、それは本当に即効で決まった。昔から互いを知り合う友であった二人だからこそ成せる境地か、 絶対的なカリスマ性を見せつける半面、鋼鉄の如き自信の塊で構築され、 妥協と言う言葉すら存在しないラスティという男ではでは部下をまとめ上げるなど絶対に不可能。
ミーシャもまた副主任などに収まりきれる器などでは到底ない。両者はそれを感覚的に悟っていたのだ。


それは互いが相手を知り尽くしていたから成せる選択であって、何年も昔から数多くの苦難を共有してきた二人だからこそである。
お互いの欠点を知りつくし、時には叱責し、またある時には励ましたりといった数々の経験が彼らの絆の深さを示していた。
そして、その絶対的な信頼は今も欠けることはない。

「空耳だよ。それか夢で聞いたか、ボケが始まったかだ。こんな美味いもん誰が止めるか」
「ハハ、そういうことにしておくよ。しかし吸い過ぎには気をつけろよ。そのうち体ぶっ壊すぞ」

半ば雑談めいた口調でミーシャは言う。親身になって心配しているという気配は微塵も存在しない。
皆の知る限りでは、一度として窮地という状況に陥った試しがない男に、些細な忠告など、するだけ無駄ということなのだろう。


短くなった煙草を踏み潰し、新たな二本目に火をつけながらラスティは、やはり人を運ぶには遅すぎるリフトを経由しつつ、ミーシャの前に立った。
頭半分ほど高いラスティの顔がミーシャの目前に迫る。確実に度が入っていない利用価値のわからぬ眼鏡の先に、 曇りのない瞳を見たミーシャは、そこに彼本来の徹底的な冷徹さと非情さがまだ存在することを確認してから、

「ところで」

と、切り出し、話を別の話題へと切り替えた。

「何かあったのか? 今ユエルが何か叫びながら走り回ってたが……」
「あぁ、それか。試合の時間が迫ってるぞ、って言ってやった。そしたらあれだ。笑っちまうよな」

ラスティの顔にさっきまでは剥がれていた筈の邪悪な笑みが帰ってくる。笑いを堪えることができずに腹を抱える彼の表情にミーシャは顔をしかめた。
彼の言動の明らかな矛盾点に気づいているからだ。ミーシャはその矛盾点を疑う。それは丁度、ラスティは自身が身に着けている腕時計に手を掛けている頃だった。

「オイオイ、ちょっと待てよ、あいつの試合はまだ先の予定だろ? ってお前、まさか……」
「我ながら上出来だと思うんだが、どう思う?」
 
腹から笑い声を盛大に吐き出して、時計の針を元に戻しながらラスティはそう問い返す。全ては仕組まれていた、ラスティという一人の男の手によって。
笑いが収まらない彼を視界に入れ、真実を知ったミーシャはあまりの馬鹿馬鹿しさに言葉を失う。肩を落として大きくため息を吐き、 やってられない、そしていい加減にしろという意思を示しながら、くだらなすぎるその行為に、ミーシャは半ば軽蔑の目を彼に注いだ。

「どう思うって、いい加減にしろよ……。お前のいじめであいつが最後に愚痴こぼしに来るのは俺の所なんだからな」
「いじめじゃねぇよ。教育だ、きょーいく」
「どっちでもいい、ともかく少しは自重しろよ。大事な働き手だ。こき使っていざって時に死なせちゃ元も子もない」
「……わかってるよ。だから今は馬鹿やらせてやれ。あいつの好きなようにな」

その瞬間のラスティの顔は、先程までの笑みは全くと言って良いほどに感じられなかった。
相手を叩き伏せる罵詈雑言も、子供じみた嫌がらせも、全ては綿密な計算の元に成り立っている。


破綻することもなく、それは常に適度なレベルで抑えられているということに、ミーシャは最近になってようやく気づいたのだが、 ある一線を超えるとラスティは明らかな変貌を見せるという事実だけは以前から知っていた。
それは決まって、話が深刻になる直前に発せられる。勿論、今回も例外ではなかった。


ミーシャの言葉の何に反応したかは定かではないが、とにかく、その一言でラスティの雰囲気が大きく変わっていた。
その姿は先程までの意地の悪い男ではなく、どこか子供を心配する親のような姿としてミーシャには映った。

「……なるほど。お前なりの愛情表現というわけだ」

紛れもない正直な気持ちだ、とミーシャは思った。ユエルにとって今この瞬間こそ、普通の人間としていられる唯一の時間。
憂いを帯びた表情に変わったラスティの思考を、確信を持って読み取り、ミーシャはそれを言葉として具現化する。


レイヴンであるユエルにとって、この瞬間はむしろ非日常、ならばそれを最大限に享受しなければならない。
いつ崩れるか分からないこの日常こそ彼にとっての儚い幸福である筈なのだから、と。
ただ、その表現方法はユエルにとっては最悪極まりないものではあるが。

「別に、そんなんじゃ――」
「ラァスティー! てめぇ、騙しやがったなぁ!」

ラスティが否定しようと声を発しようとした瞬間、それを何倍も上回るだけの声量がガレージ内に轟いた。

「お、もう気づきやがった。意外に早いな」
「さて、んじゃ俺も仕事に戻るか。トップ二人がサボってちゃ周りに示しがつかんしな」

頃合と見て軽く伸びをしながらミーシャは踵を返し、自分のやり残した仕事を片付けるためにラスティから離れていく。
と、何かを思い出したのか、互いの声がぎりぎり聞こえる程度の位置で、彼は再びラスティに顔を向け、口を開いた。

「そうだ、ラスティ。お前今日届いた資料見たか?」
「まだ見てない。つーか溜まりすぎて見る気もしない」

仮にも副主任という重要なポストに就いているにもかかわらず、彼の態度はいかにも関係ないと言った口振りだった。

「少しは目通せよ……。今回のは普通じゃないぞ。ここ最近じゃ、一番の大ニュースだ」
「何だよそりゃ?」
「上位ランカーがこっちに越してくるらしい。しかもかなりの上玉だ」
「誰だ?」
「お前も良く知ってる奴だよ。そうだな……たぶん”元トップランカー”のお前さん目当てじゃない奴」

そう述べた後、彼は今度こそ自分の持ち場に戻っていく。だが「だから誰だよ!」という苛立ち交じりの声が彼の背を打った。
そんな人物、自分の記憶にないのだからわかるわけがない。と、でも言いたそうなラスティを想像しながらも、ミーシャはもう彼を振り向くことはしなかった。

「お、おい、ミーシャ! 最後まで言って――」
「てめぇ、よくも騙しやがって! おかげで大恥かいたじゃねぇか!」

肝心な部分を言わなかったミーシャに苛立ちを感じて声を荒げた瞬間、どそっれは耳元に響く怒声で遮られた。
いつのまにか全身を怒気を漲らせたユエルがそこにいて、肩で息をしながら精一杯の罵声を浴びせ続けている。
わずかにその姿に目を逸らしてのが祟ったのか、ミーシャの姿はもう見えなくなっていた。

「無視かよ……」

微かに呟いて、ラスティは舌打ちしながら苛立ちを表す。何故だろう、いつもならこんなことはないのだが、 今回だけは何故かとてつもない怒りが込み上げてくる。理由は視線をわずかに動かすだけで容易に解決した。
全ては、すぐ隣で勝ち目のない喧嘩を吹っかけてくるこの大馬鹿野郎の所為だ……!

「って、さっきから耳元でギャ―ギャ―うるせぇんだよ、お前は!」

ラスティの怒号で、本日二回目の口論とも言えない言葉と言葉の応酬が再び始まる。
決意を新たにユエルは雪辱を誓って、とにかく吼えたが、やはりその終焉は想像以上に早かった。
数時間後、試合開始ぎりぎりまで雑用に使いまわされるユエルの姿がそこにはあり、何も変わらぬ日常の静かに始まっていった。



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