ARMORED CORE Stay Alive TOP

06.


右腕を振り上げ、赤く塗られた装甲が目立つACは前方に散弾の雨を降らせた。弾丸が向かう先は対照的な青中心に塗り分けられたAC。
コアを正確に狙った射撃は、しかし逆間接特有の尋常ならざる跳躍力によって直撃すらしない。
中空へと飛び立った青は真下に佇む赤を見据えて自身に唯一備わるその華奢な体とは不釣合いな巨大なバズーカ砲の銃口を突きつけ、
放たれる榴弾が赤から伸びる四本の脚部の一つに突き刺さり大きくその体を仰け反らせた。


機動力で勝る青が試合を優位に進めている、誰もがそう考えていた。
だがその期待を裏切るかのように致命的とも言えるミスを青の主は犯してしまう。


僅かに見えた勝機がそうさせたのか、その体が重力に引かれ落下していく一瞬に警戒を怠ったが故に、赤に対して無防備な醜態をさらしてしまったのだ。
無論、見逃す馬鹿などいない。赤いACは体勢が崩れたのもお構いなしに
肩に備わるグレネードランチャーを展開し炎に包まれた榴弾をお返しと言わんばかりに撃ち放った。


まっすぐ突き進む榴弾に気づき、青が慌ててエネルギーシールドを展開させようとするも僅かに間に合わない。
逆に爆発の衝撃を受け止めきれないその左腕は粉々に粉砕され、
爆風の余波はさらに左腕を損失したことによりむき出しとなった駆動部にまで被害を広げた。


赤の砲火は止まない。完全に動きを封じられ、死に体をさらして地上に降り立った青のコアめがけてショットガンのトリガーを引き絞る。
前回は楽に回避された散弾は今度こそ全弾がコアに吸い込まれ青の装甲を広範囲にわたり引き裂いた。
苦し紛れに青が放ったバズーカがグレネードランチャーを吹き飛ばすも時既に遅い。
バズーカの次弾を装填するほんの一瞬の合間に何十発と弾丸を撃ち込まれ、装填を終えた頃には既に全てが終わっていた。





勝者を称える賛辞、敗者を罵倒する叱責、超満員の観客席から様々な感情を吐き出した歓声という名の大音響が轟く。
地鳴りすら起こるほどに膨らんだけたたましい声音は、それから数分ほど収まる事無く続けられ、試合を終えて佇む両者を包んでいった。


だがそれも観客にしてみれば日常の内の一つでしかない。一日に数回に渡って開かれるアリーナでの対戦事業。
彼らにとっては非現実な光景が現実的な人生の潤滑油となるらしく、毎日、超満員とはいかないがそれなりの人数が小遣い稼ぎ、
または人生においての大勝負を仕掛ける為に此処に訪れる。特に今日という日はその比率は凄まじかった。


勿論、単なる賭博目的だけでこの人気は得られない。様々なレイヴン達がルールに則り互いの雌雄を決する姿は、
例えどんな試合だったとしても映えるのだ。観客の目にはACという規格外の非日常が焼き付けられ、その姿を見た全ての人々の心を躍らせる。
爽やかなのだ。そこには死や殺意という概念は殆ど存在しない。正々堂々、ある意味最も不釣合いなその単語が唯一似合う場所、それがアリーナという場所なのだ。





E地区、通称『イーズ』と呼ばれる区画にそびえるイーズアリーナは、この日予定されている全ての試合を終え長い一日の業務を終えた、かに見えた。
普段ならば、今日一日の総括を討論しあったり、賭けの対象が終わり今日の稼ぎを確認しつつ家路に帰ろうとする人々が殆どなのだが、
それは今日に限って誰一人としていない。皆これから行われようとしている“特別な試合”を知っているからだ。


目当ては皆全員同じ、現時点で最大級の都市にあたるA地区『アーセナル』から突如移転してきたレイヴンだ。
何かと話題の尽きない彼が早々に移転後初となる試合を行う、と言う。これほど刺激的な話題を人々が無視するわけが無い。
完全無欠の田舎に分類されるE地区での試合など精々一流とは言いがたい無名か二流程度。
言ってみれば大衆から見向きもされない試合に、何百といるレイヴンの中で上から四番目に強い男という圧倒的な存在が突如現れると知れば、
そんな有名人の顔、またはACを見たい、と言った熱狂的な観客が押し寄せるのは必然だった。


予想通り、人々は止め処なく押し寄せ、アリーナ内は一瞬で超満員。
先に行われた赤と青の戦いを直接見る事が出来た彼らはその中から激しい抽選によって選ばれた幸運の持ち主であり、
不運にも選出されなかった者達はアリーナ内に設置されている特設スクリーンで我慢するしかなかった。
だがそれでも彼らにしてみれば些細な事でしかないのか、彼らの滾る衝動は収まる事無く増加の一途を辿っていく。
後、一時間としないうちにあの映像でしか垣間見た事がない漆黒のACが舞う。その事実だけでも彼らにとっては満足なのだ。


当然、この一大イベントを考案した男が、自身の思惑を完璧に的中させ一人勝ちしていた事も、彼らにとってはどうでもいい事だった。





外まで漏れる大歓声が耳に痛かった。
これから試合だと言うのに隣接するガレージの中で自身のACの整備をしていたユエルは、微かに地が揺れている事を敏感に感じ取る。
未だ戦闘準備もろくに整ってはいない。既に私服になりかけている作業着を身に纏い、彼は試合時刻までの余暇を静かに費やしていた。


あの歓声の矛先は当然自分に向けられたものではない。ユエルもそれは勿論承知している。
知っているからこそ、逆に何か不可思議なものが彼の奥底に澱んだ沈殿物として溜まっていくのだ。


相手は想像もしたことがない程の高みに腰を下ろす死神。
アリーナ登録をせず依頼のみを淡々とこなすフリーレイヴンという存在を加えても、その位置はやはり揺るがないだろう。
ユエルは未だにその相手を務めなければならない理由が理解できなかった。


相手が判明した時は「なんで、俺が?」と思わずラスティの言葉を疑ったのも当然だ。
心身ともに疲れきり、深い眠りの中で夢心地だった自分をラスティはあろう事か蹴り倒す事で現実へと呼び戻し、
あげく散々な叱責を浴びせかけ散々の労苦を負わされた後に、とどめとして放たれた言葉が「お前があいつの相手をしろ」だ。


元々アリーナに苦手意識のある彼に与えられた重すぎる役割だった。
初めは断る気満々だった。ボコボコにされて笑い者として晒される未来の映像が即座に脳裏を突き刺したから。
しかし、もし歴史に残る世紀の大番狂わせなどが起こったものなら、自分に莫大な報酬が転がり込むとラスティは言うのだ。
いかに強固そうに見える意思でも、餌を目の前にちらつかされれば食いついてしまうというのが悲しいかな、彼の本性であったようで、
これで断る奴など本当の馬鹿だ、とユエルは即座に掌を翻し、逆に懇願する程の勢いをもって彼はラスティの企みに難なく嵌った。


勝てる訳が無い、勝負にならない、弱すぎる。既に多くの人間によって定義された講評なのに、
あえてそれを崩そうと準備を進めているユエル。無駄だと分かっていても体が作業を止めようとはしなかった。
何故かは分からないが身体は疼いている。自分の身体はもしも、という展開を信じているのだろうか? だとすればこの疼きも説明がつく。
身体が天文学的な確率をどこかで信じているからこそ、無意識に癇に障る大音響が逆に彼の力の原動力となり闘争心を滾らせるのだ。


けれどやはり何故自分が? という疑問は残ってしまう。
ユエルの順位はE地区の中だけでも中の下程度、全地区を合わせた総合で見れば影すら無いと言うのが彼の実情だ。
当然彼よりランクが高いレイヴンはこのガレージでも数多くいる。彼らのほうが自分よりはたとえ勝てずとも多少なり善戦は出来る筈だ。
こんなアリーナではろくに実力も発揮できない男を使うのであれば、もっと別の強いレイヴンを使えば盛り上がるのではないのか?
と、当たり前の事実を述べてもラスティは聞き入れようとはしなかった。
まるでその戦いの中で予想だにしない何かが起こる事を予知しているかのように――。


「……んな訳無いよな」


たった一人静かに出番を待つ純白のACを眺め、ユエルはぼそりと呟いた。
周囲には整備士達の姿は見えない。先の試合で戦った両者の機体回収に大勢が出払っていることだろう。
どちらも損傷が激しかったようだから当分ここには誰も来ることはない。担当ではない者もこれからの一戦を観戦するために出払っている。
今頃は向こうのアリーナ内の席にでも座って、くだらない話題に酔いしれているのが容易に想像できた。


所変わって自分といえば、ポツンとたった一人、もうすぐ搬入が開始させる自身の愛機<ノヴァ>の前で静かに時間を浪費している。
広大な空間に寂しく佇む自分。静寂が大好きという訳ではないが、
手から汗がじわりと滲んでくる妙な緊張と興奮を抑えるには静かな場所で落ち着くのが一番だ、というのが彼独自の持論であった。


完全な修理を終えた純白の機体に視界を移し、本来なら翡翠色に輝く光学カメラと目が合ったユエルは、
ふと静かに仁王立ちして同じく空いた時間を持て余しているノヴァのその硬く暗い瞳に語りかけてみる。


初めてこの機体と出会ったのは今から二年近く前の事、ラスティが突如として引退を表明してACから降りた頃から数ヵ月後の頃だったか、
当時扱っていた初期型ACがいつの間にか今の姿に早変わりしており、「暇だったから変えといた」と勝手気ままに言うラスティの顔は今でも忘れない。
次の日、自分の口座の残高が完全に無くなって、代わりに膨大な借金の請求書を突きつけられた時、全てに気づいた。
ラスティはこの機体を与えてくれたのではない、勝手に人の金を使って買っただけなのだ、と。
悟った時にはもう遅かった。その時に垣間見せたあの男のにやけ面は、今でも脳裏に染み付いて離れない。


そして今、そんな紆余曲折を経て今の戦闘スタイルを確立させたノヴァを引っ提げて自分は此処に居る。
半ば無理矢理乗せられた全てが理解不能なあのAC、アダナキエルとは違い、装甲も機動力も攻撃力もちゃんとバランスを考えている。
間違ってもあんな偏った武装は御免だ。ライフルは同じだがブレードの代わりにスナイパーライフルも備えているし、
ミサイルの類も連動型ミサイルと併せて十分な攻撃力を示してくれる。さらに非常用として格納された武装が控えてくれているから、
間違ってもあのような拙い状況にはなり得ない筈だ。


「あのー」


だがユエルを絶対の確信へ至らせてくれない原因が一つだけある。それが“アリーナ”という概念だった。
使う手段は何でも有りである筈のレイヴンの世界に何ゆえ規則が混じってくる? といった反抗的な感情が、
第一に湧き上がってしまう為、それが自由奔放に動くユエル本来のスタイルを殺してしまっている。
実際には、各パーツに割り振られた耐久力など無い、その総合した値が無くなれば敗北などという規則も存在しない。
生き残れる事が前提のアリーナなど断じて認めたくない、認めるわけにはいかない。
レイヴンにとっての終わりとは常に生か死か、たったそれだけの筈なのだ、と信じているから。


「すいませーん」


それを正々堂々、規則に従って、爽やかに、とは笑えてくる。本来あるべき緊張感も何処へやらだ。
さらに、そんな試合だけで大きくレイヴンランクが変動するシステムも何処かおかしい気がするし、
何よりそれで企業がレイヴンの実力を目測するのだから堪ったものではない。自分と同じようにこのシステムを嫌い、
最初からアリーナへの登録義務を放棄してランクに名前が載らないフリーレイヴンという存在が生まれる事も納得といえば納得だった。
こんな借金地獄に塗れてさえいなければ、喜んで自分もその世界に加わりたい。そんな気さえ今ではしている。


「無視……」


レイヴンに人々を魅了させる格好良さなど要らない。人の為ではない、自分の為に引き金を引くのだ。
死という襲い来る恐怖を振り払う為に、自分が犯した罪の贖罪の方法を見出す時間の為に。
規則など必要ない、周囲に振りまく愛想やパフォーマンスも要らない。
今自分に必要なのはその時その時を生き残れる力、それだけなのだから。


「す、い、ま、せ、ぇ、ん!」


と、不意に後方で聞こえた轟音に、誰も居ないと思い込み無防備だったユエルは思わずはっとして振り返る。
レイヴンの特質なのか、心臓が飛び出そうになると身体が急激に緊張してしまう為、相手のどんな事態にも対応できるようになるまでの時間は、
もはや人体の反射行動に近いほどに研ぎ澄まされている。おかげでユエルの瞳にはまだ膨大な量の毒が消去に間に合わず含まれてしまっていた。
「ひゃ……!」と肩を震わせて声にならない嗚咽を漏らしていた人物の姿を見れば、それがいかに過剰であったかが良く分かる。


彼の完全なお門違いの視線に映ったのは、その毒をまともに喰らって先程の怒号を放った勢いを全て吹き飛ばされ、
怯えた子犬のような表情を浮かべていた女性――どちらかと言えば彼と同年代程度の少女――だった。
栗色の髪を腰まで伸ばしてちょこんと立つ姿は、街ならばよく見る普通の女性だったが、
屈強な男達が何人も存在するこの場所においては間違い無く不釣合いな姿であるのは確かだった。

「え、えっと、君、なにか用?」

恐怖の色が隠せないその女性の瞳から、どうやら自分が鬼の形相に近い表情になっているらしい事が判断でき、
ユエルは慌てて眉間による皺を取り除いて、無理矢理表情を弛緩させ努めて優しく聞いた。
が、脅えかけている女性の表情は少しは安らいだもののまだまだ自然体には程遠く見える。

「というか、一応此処、関係者以外は立ち入り禁止なんだけど」

出来る限り優しく、丁寧に、を考えたつもりだが、どうも自分でも納得がいかない口調になってしまう。
そういえばレイヴンとは何の関係もない一般人と話すのは彼の記憶にはあまり埋め込まれてはいない。
次に発するべき台詞も行動も思いつかないユエルは、無言でその女性を見つめる事しかできず、
気まずい空気が流れてさらに状況を悪化させた。彼の眉間の皺が最初に戻っていた事に気づく余裕は勿論無い。

「ご、ごめんなさい! すぐ出て行きます!」

深く頭を下げた女性はそのままユエルと視線を合わせようとせず、謝罪の体勢から流れるように出口の方向へと走り去ろうとする。
一体なんだったんだ、と彼が状況の終焉に安堵しようとした刹那、

「ちょ、ちょっと……!」

不意に自らの腹の奥から声が吐き出され、ユエルはその女性の行動を妨げる。その声に制止され女性は、当然きょとんとした表情で彼を見つめ返してくる。
……ちょっと待て、今、自分は何と言った? と無意識に飛び出してしまった言葉に、自分自身意味が分からなくなる。
全く先の行動が思いつかず硬直しきっていた自分が、只その場が終結に向かうのを傍観していただけなのに、
予想だにしない言葉があろうことか自らの口から無意識に漏れてしまい、何の問題も無く終わる筈だった状況を続行させてしまったのだ。


だが、そこから先が浮かばない。自分が何と言っても状況はおそらくほぼ確実に悪くなるだけ。
理由は簡単。慣れてないのだ。銃と砲の入り混じる世界しか知らない自分が、皆が雑談の為に使う数々の話題など知るわけが無いし、
知ることが出来る伝手も当然無い。そんな彼に経験が絶対的に少ない単純な会話と言う行為。まさに冗談ではない。
なら考えるだけ無駄、と判断を下しユエルは思考に頼る事を止めた。

「何か用があるんだろ? 言っていきなよ。えっと……聞くだけ聞くからさ」

意識せずともすんなり次の言葉が出た。だが先が見えない状況は何ら変わらない。なにせ次に出すべき言葉が頭のストックに無いのだ。
さっきとは別の緊張感が生まれユエルの混乱は依然として現在進行形を保つ。

「えっと、此処にラスティ・ファランクスって人居ませんか?」
「ラスティ? 居るには居るけど……」

表情には出さなかったが、まさかの出来事に彼は驚愕していた。さほど意識しない注意報が我慢できない警報に変わったように事態は深刻だ。
とにかく洒落になってない。ラスティに用があるのは全員、誰がどう見てもレイヴン、という風貌を持ったごつい親父系や、
いかつい能面むき出しの筋肉だるま系を連想するのが当たり前。事実、真実だしユエルにもそんな想像通りの男達を追い出した経験がある。


しかしだ。今現在の網膜に焼きつく現実と言えば、誰がどう見ても一般人にしか見えない若い女性一人だけ。
穏健そうなイメージを感じさせ、明らかに華奢な体格は彼がぐっと力を込めればポキリと折れてしまいそうなぐらい。
そんな全てが全くの正反対で理解不能な光景を見てパニックでも起こしたのか、遂に彼の思考は遂に煙を吐くまで崩壊し始めた。

「何で?」

と、相手に対し、半分助けを請うに近い言葉を返したのが良い証拠だ。
思考を閉じたつもりでも結局半壊寸前のそれにしか縋る事しかできない自分が酷く虚しく思えた。

「実は、あの、一緒にアリーナ見に来た友達に頼まれて、で、あの、私も欲しかったから、その、えっと……」

一瞬、女性の顔がぽっと紅潮し、何か言いにくそうにユエルと目を合わせる事を避ける。
モジモジとあからさまな挙動不審な雰囲気を醸し出しながら女性は弱弱しい声音でポツリと呟いた。

「……サインを」
「え、さ、サイン……!?」

まるでハンマーの一撃だった。全てを叩き潰す威力を持つその鉄槌は複雑な感情に揺れるユエルの心情すら、
その一撃をもって吹き飛ばしていった。

「そんなの無理ですよね?」

頬を赤らめ、その時は少女に見えた目の前の女性が苦笑する。そんな無垢な表情を見据えたユエルは、
その時確かに微かな音を聞いた。何かが切れる音、即ち自らの思考が完全に崩壊したという報告。
硬い殻のようだったそれは、破裂した勢いに任せて正体の分からない何かを撒き散らす。


飛び出してきたのは超特大の大爆笑。思わず腹筋が痛むほどに笑い声が漏れ、
どっと波のように押し寄せる感情のうねりは外から漏れるあの大歓声にもひけをとらない。
何故かその時はその行為を止めようという気は起きなかった。後先など一切考えず、彼は今だけ笑うという行為に全ての力を注いだ。


別に彼女を馬鹿にした訳ではない、馬鹿にするとすればそれは自分自身。
愚かなさっきまでの自分を笑い飛ばし辱める為なのか、今の今までこんな事に気づきもしなかった自分を嘲る為か。
だが結局、それもどうでもいい、と笑った新たな自分が全てを吹き飛ばした。
その後も幾つかの自己分析が始まるが、結末に達するまでにその全てが破壊されていく。
感じた事のない妙な新鮮さに酔いしれながらユエルはしばらく声を荒げて笑っていた。

「やっぱり、おかしいですか?」
「い、いや、違うよ。なんと言うかその……よく考えてみれば、初めてかもしれない。あいつにサイン頼みに行く人」

咳払いをしてその笑いを止め、意外と言えば意外な事実に気づいた。
言われてみれば一時はレイヴンの頂点に立っていた男に人気が集まらない訳が無い。
それにあの男には世間に最強と言わしめたという実績もある。顔だって悪くは無い。
普通ならおっかけ集団の一つや二つできてもおかしくは無い筈なのだ。そんな推測が一瞬頭をよぎる。しかし、

「でもなんとなく納得できるかも。あいつ、現役の時でも今とそれほど変わってなさそうな気がする。まぁあんな性格してれば誰も近づかないか……」
 
と、彼は即座にそれを否定して、事実を事実として受け入れる。そして記念すべき公認ファン第一号となろうとしている彼女を見つめて言った。

「あいつはこの奥の事務所にいるよ。今はほとんど人いないから大声出すとか馬鹿しなければまず見つからない。で、向こうに着いたら腰を低くして接する事。適当に褒めまくって持ち上げてやればたぶんもらえる筈だよ。それでも保証はしないけど」

後ろ、即ちラスティの居る事務室の正確な方向を指差して、彼はその位置を女性に伝える。
最後に言葉を付け足してあいまいにしたのは、単純に自信が無かったから。なにせ初めてなのだから誰も予想の付けようがないのだ。
もしかしたら、ラスティが先程の自分と同じように口を半開きさせて呆然となる光景が拝めるかもしれない。
と、人事にも関わらず胸が高鳴る。もしそうならこれほど日頃の鬱憤を晴らせる最高な状況はないだろう。
ぜひ結末を自身の眼に焼き付けたいと胸が躍ったが、あいにくそれが達せられないことに気づいたユエルは内心で舌打ちして肩をすぼめた。

「……詳しいんですね、あの人の事」
「え? あ、あぁ、毎日こき使われてるから」

ユエルの声調があまりにもリアルに聞こえたのか、女性がそれを察して苦笑した。

「そうなんですか?」

と、彼女が笑いながら問うと、

「もう最悪だよ。鬼だ、あれは」

判ってくれと訴えかける口調で肩をすくめて彼は大げさに応じてみせる。


いつの間にかそのような技術まで身についていたのだろうか。いや違う、使っていなかっただけだろう。使う必要もなかったからだ。
ラスティやミーシャ、他の整備士達と話すのとはわけが違う。
まるっきり初対面、しかも同年代の人間と話すという経験が今の今までほとんどなかったユエルにとって、
今この瞬間は、全く知らない未開の地にでも放りだされた感覚だった。それでも何故か今の彼はそんな状況にも難なく対応出来ている。

「フフ、本当に大変そう。じゃ今からその鬼さんの所に行ってきますね」

ユエルの意図を的確に汲み取りクスッと微笑を浮かながらその女性は行ってしまう。
彼はさも当然のように「頑張って」と励まして送り出し、その声に押されて奥へと走り去っていく栗色をぼんやりと眺め続けた。
と、互いにもう表情を窺い知る事が出来ない距離が出来た頃、何を思ったのか、彼女が急にくるりと反転してこちらを見つめ返してくる。
思わずドキリとしたユエルの目に、すっと息を吸う彼女の仕草が映った次の瞬間、

「あの、忙しい所をありがとうございました! 試合ちゃんと見ますから頑張って下さいね!」

という一際大きい声が響いた。無人の広大すぎる空間がそれを共鳴させ増幅する。そりゃ無いだろ、さっき大声出すなって言った筈なのに。
忠告完全無視と言わんばかりに張り上げられた大音響。奔放というのか、何というのか……。
薄く口元を緩め片手を上げることでそれに応じたユエルは、彼女の姿が豆粒ほどの大きさになるまでの間、視線を変える事が無かった。


……安堵感とでも言うのだろうか。錆びきった身体に油を注がれて新たな自分が映し出されたという事実。
普通の人間なら何かが変われる、この感情はそんな希望すら持ちえる感情であるのは分かる。だがそれももう意味を成さない。
自分は今はレイヴンなのだから。既に両手一杯に拭いきれぬ血をこびり付かせているし、たとえ洗い流そうとしてもその匂いは絶対に消えない。
もはや引き返せない自分にこんな安らぎなど必要ないのだ。余計な感情は自分の死期を早めるだけ。今までそう信じてきた。


なのに、何故自分は微笑んでいる? 何故こんな晴れ晴れとした気分でいる? まさか自分はこの感覚を求めているのか? 
今だけではない。馬鹿な会話に付き合わされてその度に自分はその愚かさを呪い続けている。でも止まらない、止められないのだ。
違う、と必死に否定してもこのもどかしさは変わらない。何故、どうしてこんなにも胸が痛む……?


ラスティやミーシャに馬鹿扱いされるユエルか、単純な生存本能から自らの感情を封じようとするユエルか。
どちらが本当の自分なのだろう、という新たな思考に至ろうとした刹那、
不意に頭が何か異常事態を察知して彼を唖然とさせる。それを成した要因は彼の些細な思考も吹き飛ばす信じられないような矛盾点だった。


「あの人、何で俺が次の試合に出るって知ってたんだ……?」


先程の素っ頓狂な印象を吹き飛ばすような彼女の発言。あの女性は確かに“試合”と言った。
即ち、自分が次の試合に出る事を知っていたのだ。事前の告知ではレイヴンネームしか表示されない筈なのに。
さらにレイヴンという秘匿事項の関係上、顔写真も公に公開される事も絶対に無い。


しかし彼女は知っていた。名も名乗らなかったユエルを、何の迷いも無くこれから試合を行うレイヴンとして断定し励ました。
だがありえない、絶対に不可能なのだ。何故なら今ユエルが纏っているのは先程から整備を続けていた為に、
仕方なく着続けていただけの“整備士用の作業着”なのだから。作業着を纏う馬鹿なレイヴンなど自分以外に要る筈も無い。


顔を知っていた? そんな思考が頭をよぎったが幾ら記憶をまさぐってみてもその光景は見つからない。
完全に姿を消してしまった栗色の髪の影を見つめながらあれこれと想像を働かせてみるが、結局何も分からない。
そして時を同じくしてぞろぞろと何人かの整備士の姿が代わりにユエルの瞳に入り、彼はそこで答えの見えない自答を中断する。


試合が始まるまでの刻限が来たのだ。それは人としての時間が終わるという合図、そして同時にレイヴンという時間が始まる合図でもある。
今度こそ余計な感情は消去しなくてはならない。たとえ人であった時に許される事でも、レイヴンの時には許されない。
これまで何度も受け入れてきた事象だ。今もそれは変わらない。たとえ胸に複雑な迷いが未だ残っているとしても、それは変わらない。
深く息を吐きながらユエルは全てを切り替え、そして徐々に増え始めた整備士に合流し、ACの搬入作業を開始しようとする。


彼女は無事に誰にも気づかれずに辿り着けただろうか? それがユエルが人として考える事が出来た最後の思考だった。



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