ARMORED CORE Stay Alive TOP

12.


雲と雲の隙間から零れる西日が、隙間なく建てられた建造物に反射して目に届いた。
だが視界を阻むようなその光にも彼は動じない。それ以上に厄介な事象が自身の眼前に聳え立っていたのだから。


彼は今ひたすら歩いている。雑居ビルが至るところに立ち並び、その中央には何車線もの道路、
それらに挟まれるようにして人が通るには十分すぎるほどの大通りがある。
その中でおびただしい数の群集に囲まれながらも、ユエルはただもくもくと足を動かし続けていた。


だがどうしても足がもつれてしまう。それも一度や二度ではない。まっすぐ歩くことがこれほどまでに難しいとは思わなかった。
十歩歩いたと仮定すると、その内の一歩は必ずそぐわない動きをしてしまうためどうしても体勢が崩れてしまう。
その原因は間違いなく、足の置き場もないほどに埋め尽くされた人だかりの所為だった。精一杯の悪態を並べ立てた直後、彼はまたしても足の踏み場をなくした。


目の前を歩く彼女はそんな素振りを全く見せない。行き場もないほどに狭い隙間を簡単に縫いながら彼女は先を進んでいる。
次から次へと現れる群集に逐一悩まされ続けながら、ユエルはありえねぇと漏らしつつその背中を追う。


都市の大通りほど自分に似合わないものはない。元々知っていたことだが、いざ経験してみるとその酷さには自分でも呆れてしまう。
すれ違ってもすれ違っても彼の目の前に現れ続ける人、人、人。黒や茶や金など、様々な色彩の頭部が彼の瞳に映りそして消えていく。
全身スーツに身を包み込んだサラリーマン風の男もいれば、ただ今青春真っ只中と言わんばかりの学生たち、
はたから見れば仲むつまじいカップルなどなど。およそユエルと何の関わりもない人々が、それぞれの日常を謳歌している。


そしてその誰もが周囲の人々を気にすらしない。加えて誰もが避けるという行動に慣れきっているため、
何の問題も起こらない完璧な調和が生みだされている。個人が無意識に作り出している独自の領域を汚されないように、
彼らはさながらACの如き俊敏な挙動を見せ、迫り来る障害物つまりは人を巧みにかわしていく。


今が非日常なのはユエルくらいのものだろう。ガレージかアリーナか戦場の往復しか行わない彼にとって、街など非日常以外の何ものでもない。
むしろ任務を終えたその時からの全てが、彼にとっての非日常なのだと言ってもいいのかもしれない。


と、そうこう考えるうちに今まで追っていた背中が、唐突に人ごみの中に消えた。
唯一の拠り所をなくしたユエルは渦巻いていた思考を停止させ、四方にはびこる大勢の人々を掻きわけながらその背中を探す。
数秒とかからず、その華奢な背中は見つかった。一瞬ひやりとしたが、ひとまず安堵の息を吐いてユエルは再びその背を追った。


自分はどうしてこんなことをする羽目になったのか? 慣れない行動を取り続けるユエルにそんな感情が芽生えるのは必然だった。
その原因を作ったのは間違いなく自分の先を歩んでいる彼女、セネカだ。良い意味でも悪い意味でもユエルがここにいるのは全て彼女に責任がある。


あの時、ミーシャの顔は言うまでもなく苦悶に歪んでいた。ほんの少し前の出来事をユエルは思い浮かべる。
元々山のように積まれていた筈の仕事の上に、彼はさらなる重荷を加えてしまったのだ。今考えるとやはり拙かったかもしれない。


任務を終えいつものようにノヴァをハンガーに戻せばそれで終わり、の筈だった。しかしそうはならなかった。
あのとき搬入されたACはノヴァ一体だけではない、その機体の後方には白桃色のAC、ゲーティアの姿があったのだ。


散々似たような思いを味わっているユエルならばミーシャの気持ちは痛いほど理解できる。それでもこればかりはどうしようもない。
もう一度彼と顔を合わそうものなら、自分は彼の鉄拳制裁で華麗に宙を舞い、間違いなくあの入院生活に舞い戻ってしまう。
媚びるような視線でミーシャの顔を覗き込んだときのユエルの感想がそれだった。だからこそ彼は即座にガレージを逃げだした。


あまりの理不尽さに顔を紅潮させ、怒りをあらわにしたミーシャ。あと数秒逃げるのが遅れればどうなっていたか予想がつかない。
ガレージ内の喧騒ぶりを見ればAC一体でもつらいことは簡単に理解できる。にも関わらず追加されたのは中々に損傷しているAC二体。
ミーシャではなくても怒るのは当然だろう。懇願だけを残してガレージから飛び出しただけに、その後の展開は恐怖そのものでしかない。


そしてこの事態は別の意味でも彼を追いつめていた。唯一の居場所であるべきガレージから追い出されれば彼には行くあてが一つもない。
AC一体だけならこうはならなかった。いつもならば、そのまま整備の手伝いに入るか、自室で寝るかの二つに一つ。他の選択など必要なかった。
だから拙い、非常に拙い。自分は一体どこに行き、何をしたいのか? わからない。というか自分はその分野に関しては何も知らないのだ。


問題の引き金を引いたのが彼女という存在なら、問題を解決に至らしめたのもまた彼女だった。
頭の中で延々と愚痴を零し続けていたユエルに、セネカはそっと救いの手を差し伸べた。


ACを無理矢理詰め込ませてしまったことに、やはり彼女も責任を感じているらしく、その代わりといって提案されたのが“とある場所”への招待だと言う。
どう考えても一方通行過ぎる誘いだった。それでも彼女の表情に曇っている箇所はない。
おそらく自分がこのような事態に陥ってしまうことをあらかじめ予知していたのだろう。強引に手を引く彼女の顔を眺めた彼は曖昧ながらもそれを察した。


ユエルもその誘いを断ろうとはしなかった。先程まで行く先に見当たらずに途方に暮れていたのだ。
神のおぼし召しとも言える誘いを無下に断るほど彼は愚かではない。


だからこそユエルはこうして歩み続けている。それでもやはり当の本人は内心穏やかとはとても言える状態ではなかった。
はたから見ればそれなりに威風堂々に見えなくもないが、既に彼の精神状態は限界寸前にまで陥っている。


今まで見たこともない風景、通ったこともない道、ありえない数の群集、それだけの危険要素を、
ただ他に行くところがないという理由で受け入れてしまったユエル。それがいかに愚直な考えだったか、
もうもうとした白煙をたなびかせている彼の思考回路は、それを重々頭に刻みつけていることだろう。


筋金入りの世間知らず、そして完全無欠の田舎者。レイヴンの世界だけならそれでも良いだろうが、少なくともここではそうはいかない。
都会という非現実的な場所へユエルが入りこむ限り、恐らく当分の間その呼称は彼の周りを回り続けるに違いなかった。


昔まではそんな事実にも臆することなどなかったのだ。彼にとっては所詮それも些細なことでしかなかった。
だが何故か今は違う。レイヴンとして生きていく上では必要ですらないそんな数多くの風景が網膜に投射され、
その度にユエルは不思議と、何とも言えない気恥ずかしさに襲われてしまう。


自分は数年間、こんなことすら知らなかったのか。ありとあらゆる店が並び、雲にも届きそうなビル群がそれらを取り囲む。
その下には数え切れないほどの人間がそれぞれの人生を過ごしている。そんな事実にすら自分は気づいていなかった。
当たり前すぎることだが、それでも気づくことができなかった自分がいる。ただ生きるのに必死で見ようともしなかった自分がいる。
しかしそれはもう言い訳にしかならない。知ってしまった、気づいてしまった。自分の先を常に歩き続ける彼女がそれを無言で教えてくれたのだ。


永遠に失われたと思っていた彼女がそこにいる。仕方がなかったという理由だけでユエルの頭から抹消されかけていた彼女が、
こうして彼の目の前にいる。彼の前をスタスタと歩いている。それだけで彼の中には今まで感じたことのない感情が溢れてくる。
街に繰り出した時に感じた無知という恥ずかしさ、苛立ち、そしてそんな己に対する嫌悪感。
圧し掛かっていた苦痛の一部が癒されたがゆえに発生した幾ばくかの余裕。生み出してくれたのは間違いなく彼女、セネカだった。


昨日の任務を終えてからはこういった類の発見が尽きる気配を見せない、次々と己の中で新しい何かが見つかる。
それを再確認しようとした矢先に突然人影がユエルの目に映る。全ての行動を中断してそれを避けようとする彼だったが、
身動きがとりにくい人ごみの中ということを失念していたがために、結局互いの肩をぶつけあうという結末に嵌ってしまった。


迷うことなく脳神経がユエルに指示を下し彼を振り向かせる。予想していた通り、
彼を待ちうけていたのは憤激がこもった目。「すいません」という謝罪の言葉に軽く会釈を添えた後、ユエルは再び正面を見る。
だが、元の場所に彼が振り返ったとき、またしても求めていた筈の背中がそこから消えていた。


またかよ、と舌を打ちユエルは大幅に歩幅を大きくしてその影を探した。全ての雑念をひとまず除去し、
通りを行き交う人だかりの隙間を慣れない足取りで縫っていく。だがいない。幾ら進んでも彼女の背中は見つからない。まさか、はぐれてしまった? 
その一語が脳裏にべたりと張りつき、ひやりとするものを感じたユエルは焦りを全面に晒した表情のまま、さらに索敵範囲を広げて彼女を探す。

「こっちこっち」

ユエルに届いた声は意外な方向から飛んできた。長い大通りから生えた複数の脇道、その一つにセネカがいた。
彼がわずかに目を逸らした刹那の合間に曲がったのだろう、ようやく気づいたユエルを手招きしながら誘っている。


人々の進行方向を裂くようにしてユエルはそこに向かう。しかし数秒ほどしかなかった合間に彼女はさらに先を進んでいた。
おびただしい数だった群集は一つ道を外れるだけでその数を激減させている。ほんの少し前までは足を前に出すことですら制限されていたが、
今ではそれもほとんどない。同時に明るい様相を呈していた筈の都会の外観が急にその明度を落とし、別世界とも言うべき殺風景な光景を彼の瞳に映していた。


相変わらず彼女の足は驚くほどに速い。むしろ人がいなくなったことで本来の力を発揮してしまったかのようにも感じられた。
時間が経てば経つほどに開いていく間隔に辟易し、遂にユエルは走って距離を詰めるという行為に打って出る。
そうすることでどうにか彼女の隣にまで辿り着いた彼は、開口一番で溜まりに溜まった思いの丈をぶちまけていた。

「お、おい、セネカ! お前速すぎ……」

自身の進むべきルートを瞬時に取捨選択しながら、一点の迷いなく歩き続けるセネカの姿がユエルは純粋に羨ましかった。
ようやくその誇らしい背中と肩を並べるまでに至った彼は、俺のことも考えろ、といった意思を込めて彼女にその動きの制止を要求する。

「そう? 普通だと思うけど」
「普通じゃねぇよ、俺はこんな所あんまり来たことないからよく分からないんだ。少しは気を使えって」
「来たことないって……。一応地元でしょ? あたしだって知らないよ、こんな田舎」

田舎。はっきりそう言いきられた。彼女にとってはこの大衆ですら田舎レベルに過ぎないと言うのか。
眩暈がしそうなほどにかけ離れている価値観。ユエルは深く溜め息を吐いてその大きすぎる差を思い知る。


ユエルの身体は己のペースを覆してはいるものの、どうにかセネカと肩を並べられる距離にまで達していた。
やはり己のリズムに合っていない所為なのか、足並みが揃わず時折変な歩幅になりながらも、彼は彼女の横顔を視界に入れ続けようとする。


やはり何も変わっていない。ほっそりとしたセネカの小さな顔を横目で眺めながらユエルは思った。
見れば見るほどによくわかる。昔と比べればより、大人に近づいたと言うべきなのか。
短かった金色の髪は今では腰の辺りまで伸びていて、蒼色の瞳は年を追うごとにその深みを増していったかのようにも見える。
それなりに整えられた顔つきはユエルが見知っている頃よりも一層の輝きを増していた。


が、女性らしい色気が全く感じられないその風貌からは美人という印象を連想することは難しい。むしろ男性用と思われるジャケットを着こなすその姿は、
どちらかと言えばがさつというイメージが先立ってしまうほどだ。そういう意味で、彼女は昔と何ら変わっていなかった。


可愛らしさなど今の彼女には微塵もありはしない。そう確信できるのは先日の任務でやってのけた豪快極まりない戦法を間近で見たからだ。
針に糸を通せと言われれば、彼女はかなりの確率で震えながらも頑張って通すというより、力技で無理矢理穴を抉じ開けてねじ込むという戦法に出る。
それがユエルが思い描くセネカ・キプロスという女性の全体像だったが、いざこうして会ってみてもやはりその考えは動かなかった。

「変わってないんだ、そういうところも」

と、不意にわずかな微笑を輝かせてセネカが言った。だがその彼女と並走するために高速で足を動かし続けているユエルには、
彼女の発言の意図を読み取る余裕はない。現に、次に彼が喉の奥から搾り出した言葉は「何が?」という彼女の期待を打ち砕いてしまうような発言だった。

「自分の興味ないことは死ぬまで知ろうとしないところ。昔もほとんど外出てなかったでしょ?」

お見通し、とばかりに屈託のない微笑そのままに彼女が続ける。しかしそれは彼が予期していた返答ではなかった。
予想外の返答に不意に踏み込まれたくない領域へ入り込まれたユエルは、眉間を軽く歪ませながら別の言葉をその上に重ねる。

「昔の話はいいって。それよりいつまで歩くんだ? もう結構歩いてるぞ」

さりげなく話を逸らしてユエルは今まで溜まっていた鬱憤を吐き出す。これ以上昔を掘り返されたくない、と言うのが理由の大半、
今それを振り返ることだけはしたくない。こうして語り合ってるこの時間が、過去から目を背ける方法を探す時間へと変わってしまうのが無性に怖い。
心の中では必死に叫んでいるのに、しかしそれが言葉にならない。仕方なく瞳で訴えかけてみるが、正確に伝わるとは到底思えなかった。

「もう少し。この通りを抜けたらもうすぐだから」
「待てよ。あんまり知らないって言ったのに、何でそれがわかる?」
「別に街を知らなくても家には帰れるでしょ、普通は」
「家?」

二度に渡る予期せぬ解答にユエルは思わず唖然とした。それを見たセネカは途端に何か思い出したような表情を見せ、
次の瞬間には体裁を取り繕うかのように、新たな言葉を継ぎ足していた。

「って言ってもあんまり帰んないんだけどね。一応あたしフリーだし。各地を転々ってのが普通の生活なの」
「じゃあ、今までずっとイーズに住んでたのか?」
「仕事がない時は大抵ね。でも最近はあんまり帰ってないよ、最近遠出ばっかりでさ。あー、ガキども元気にやってるかなぁ」
「ガキ? ども?」

一体どういう生活してるんだ? 思わずとんでもない想像をしてしまったユエルは、目を細めながら説明しろという意思を彼女に放つ。
受け取った彼女もそんなユエルの誤解に気づいたのか、手を大きく横に振り回しその視線に全否定という意思を送り返していた。

「あー違う、違う。そんなんじゃなくて……。えーと、何から話したら良いんだろ」

混乱する頭から必死で説明しようと彼女がもがく。数秒ほど待つと、どうやら答えが出たのか、挙動不審に近い彼女の動作が止まった。

「えっとね。いろいろあって、あたし今は孤児院みたいなところに世話になっててさ。ガキっていうのはそこの子どもたちのことなの」
「こんな場所に、そんなものあったのか……」
「あ、やっぱり気づかれてないんだ」

不敵に笑うセネカの真意がユエルにはわからない。それどころか言葉として吐き出された単語すら理解の範疇を超えていた。
都会に孤児院とは、似合わないにもほどがある。二年もの間、こんな場違いなところに建造された施設に気づかない自分も自分だが、
孤児たちの危険を顧みず、それを成した人間は常軌を逸しているとしか思えない。

「あたしはね。そこの人にちょっとした借りがあるんだ。それで維持費とか出したり、たまに子どもの警護したりとか。まぁ泊めてもらってるのは向こうの善意なんだけどね」
「そんなところに俺が連れて行かれる理由って何だよ?」
「そんなのないよ。ただあたしがあの子にユウを紹介したいだけだから。彼女もどっちかって言ったら――」

突然ユエルの足が固まった。距離が開いたことを不審に思ったセネカが彼の方向に振り向くが、ユエルは俯いたまま顔を上げようとはしない。
唇を噛み締める姿をセネカに見られたくなかったからだ。そして同時に自身の心に咲いたある一つの結論を彼女に悟られたくなかったからでもある。

「ユウ?」
「……やめろ」
「え?」

彼の制止の意味が理解できないセネカは首をかしげるしかない。それも当然だな、と反省しそこでユエルは自分の顔を上げた。
彼女が戸惑うのも無理はない。こんな複雑な気持ちを説明など出来る筈がないのだ。言葉が足りない、この想いを口にするには言葉が圧倒的に足りない。
単純に言葉を止めたくらいでは彼女は納得しないだろう。だが見当たらない、真に重ねるべき言葉が何処にも見当たらないのだ。

「俺は……ユエルだ。そいつは、もう死んだ」

内に存在するありったけの語彙を掻き集めてユエルは微かに呟く。今の自分にはこれが限界、どうしようもない現実から目を背けて彼は再び歩き始める。
動きを止めていたセネカも簡単に追い越して、彼はただ前に進むことだけに意識を集中しようとした。
だが過去という名の亡霊がそれを妨げる。必死で逃げようとするユエルになどお構いなしに、それは容赦なく彼の周囲に絡みついていった。


もううんざりだ。もう誰も呼ぶことのないと思って安心していた名前。愚かしい過去をただ逃げつづけていた臆病者。
いくらでも状況を変えることはできた。それなのに全てから目を背け、自分自身すらをも否定して逃げ続けた卑怯者、それがあの男だ。


だが、今この瞬間はっきりとわかった。会ったときから薄々感づいていた違和感。それがこれだった――。
セネカは自分を見ていない。彼女が見ているのはかつての自分、即ちあの男だ。過去の人間にしか過ぎないものを彼女は見ている。
彼女は今ここにいる自分を見ていない。あの頃とは違う生まれ変わった自分が彼女には見えていないのだ。

「ユウ?」

足を止めたセネカが先を進み続けるユエルを呼んだ。聞こえないという振りだけしてユエルは黙々とその距離を離していく。
だが、不意に鼓膜を貫いたセネカの一言が、その感情全てを彼の身体から吹き飛ばしてしまう。

「どこ向かってるかわかってるの?」

感情の暴走による行為の終焉は恐ろしく早かった。身を焦がすほどの憎しみもその一言には敵わなかったらしく、
急激に収縮していく感情の昂ぶりに代わって、猛烈な情けなさがユエルの心に染みこんできた。
再び立ち止まるしかなかった彼は、どうしようもない己の無力さを呪い、噛み締めた歯の隙間から諦めの言葉を漏らす。

「知る訳ないだろ……」

苦虫を噛み潰したような渋い表情の彼とは対照的に、再び主導権を握り返したセネカは満面の笑みを弾けさせる。
そして動きの止まったユエルの傍にまで歩み寄った彼女は、彼を哀れむという意味でポンと肩を叩いた。
肩に彼女の掌の感触がわずかに残る。ご苦労さん。彼女の手には間違いなくそのような意思がこめられていた筈だ。


そして先程と全く同じ場面が再上映され、高速で歩くセネカとそれを必死に追いかけるユエルの構図ができあがる。
目的地までその構図は崩れることはなく、ユエルはひたすら己の無力感と戦いながら必死でその背中を追い続けるしかなかった。





「……本当にここがそうなのか?」

と、言ってユエルがセネカを疑いの目で見つめてくる。既に何度も出入りしている彼女としては何も感じることがなかったが、
この外観を初めて見る人間にはやはり信じられないのだろう。まぁ当然か、と自分を納得させながらセネカはユエルが見ている建物に目を配る。

「そうだよ。見た目は凄いボロボロだけど、中は普通に綺麗なんだから」
「人、ちゃんといるんだろうな?」

人気がほとんどどない路地裏に、今にも倒れそうな廃ビル。それらが皆一様に同じ表情を晒している。彼らが見ているのはその内の一つ。
日差しも当たらず、季節違いの肌寒さすら感じさせるほどの陰気さは、独特すぎるこの雰囲気の所為でもあるのだろう。


陰気な場所だからこそ人も近づかない。発展途上型の都市ゆえにまだまだ未開発の地域が数多く存在している。
その一つに自分を含めた大人数が住まう住居があった。老朽化したその外観とは裏腹にその中は最新の防犯設備で溢れかえっている。
それが地域の特性を十分に理解した精一杯の工夫だった。初めてその綿密さを見たときはセネカも面食らった。


しかし不安定な生活であることには違いない、とセネカは思う。完璧な偽装などありえない。事実、何度となく厄介事は起こった。
不良グループの溜まり場となったり、企業の裏取引に使われたりと、どこにでもあるような光景に逐一怯える日々が続いたが、
それでも今まで一度たりともこの住処の居場所が悟られることはなかった。


そしてそれを最低限に留めるのが自分の仕事なのだ。平和に限りなく近い生活に自分も一役買っていたことを、
今さらになって思い出し、セネカはわずかに口元を緩めた。自分の背中が死角の役目を果たしてくれたおかげで、ユエルにその表情が知れることはない。


生活のために必要な資金援助と、一緒に暮らしている孤児たちのボディガード。それが彼女がとある人物から現在進行形で請け負っている仕事。
自分の寝床と十分な食事、報酬はたったそれだけ。依頼主とレイヴンとの契約としては前代未聞だろう。
それでもセネカは文句一つ言うことなく頷いた。それが数年前、紆余曲折を経てレイヴンとなった彼女が初めて請け負った依頼だった。


以前までレイヴン二人に囲まれて生活していたため、ACという概念に苦手意識は持たなかった。むしろ整備の手伝いやら何やらで、
素人以上プロ未満程度の知識をあらかじめ備えていたため、逆に彼女には余裕すらあったほどだ。
初めてACに触れる者たちがほとんどのレイヴン試験で、彼女が苦労しなかったということは説明するまでもない。


自分も戦える。あのとき何もできなかった自分はこれから戦うことができる。力を手にしてこれほど嬉しいと思ったことはなかった。
あの二人と同じ土俵に立とうと決意した理由はもちろん、彼らの行方を掴もうとしたからに他ならない。
ユウ・トレイサーとエルク・ガナード。二人の安否も確認できないまま、セネカの意識はあのときぷつりと途切れてしまった。
意識が戻ったときには既にセネカは病院のベッドにくくりつけられていたため、あれからのことを知ることができずにいたのだ。


彼女自身もまた瀕死の重傷だったらしく、あと少し発見が遅れれば助からなかった、というのが医者の弁。
発見当時の出血多量ぶりを見て正直諦めかけていたらしく、それでも助かったのはひとえに彼女を発見した人物の懇願のおかげだと言うのだ。
その人物――後に女性だと分かる――の涙交じりの頼みがなければ死んでいた、ということをセネカはそのとき初めて聞かされた。


それが“彼女”との出会い。初めての任務として彼女の頼みを請け負った理由も、全てはこの出来事が深く関与していた。
そこまでして彼女が自分を助けようとした理由は今も分からない。しかし理由はどうあれ助けられたという事実には変わりはなかった。


そしてセネカはレイヴンとなる。恩人とも言うべき彼女のため、そして生死不明の二人を探すために。
だがその彼女がセネカに送ったのは祝福でも賛辞でもない、彼女が送ったのはセネカに向けてただの嘲笑だった。
唐突な蔑んだ笑いを吐き捨てられ、頭の整理が追いつかないセネカを横目に彼女はそんな冷笑を浮かべたままセネカに告げた。

「あなたは人殺しになっただけ。その程度のあなたに何ができるの?」

と。けれども微かな敵意を含んだ笑顔をちらりと垣間見せただけで、彼女はそれ以上そこで何かを告げるようなことはなかった。
その後、彼女の痛烈な発言はなりを潜め、彼女の初任務は意外すぎる契約の元であっさりと決まってしまう。


セネカが現在に至るまで彼女の世話になっているのは、彼女の人柄に単純な興味を抱いたから。
彼女には何かがある。初めて会ったときから感じていた確信。自分と同年代の女性が何故このような場所に住んでいるのか。
そしてどうやってこの完璧に近い偽装工作をやってのけたのか、だが謎は解ける気配を一向に見せず、むしろ混迷を深めていくばかりであった。


性格に関しても彼女には掴めないことが多すぎる。害虫一匹駆除するだけでその部屋にあるもの全てを崩壊させたり、勢い余って外に飛び降りたりと、
やること成すこと全てが破天荒。最初のイメージなどどこへやらだ。あのとき見せた毅然とした姿も、あの冷笑も見当たらない。
だからこそ説明がつかない。一体あれはなんだったのか? それが彼女本来の性格の複雑さをセネカが思い知った瞬間だった。


けれども、セネカとそんな謎だらけの彼女は様々な話を重ねていくうちに意気投合し、今では親友という枠組みに入るまでの仲となっている。
同年代、というのが幸いしたのだろう。二人の距離は大量の時間を浪費することもなく、急激にその間隔を狭めることに成功していた。
彼女の神秘性など全く関係なかった。くだらない話題で時間を潰したり、一緒に街に繰り出したりと、
一般人と何ら変わらぬ生活を、セネカは彼女のおかげで取り戻すことができたのだ。


だがセネカが完全な一般人と同一化してしまうことを彼女は許さなかった。あくまで彼女をレイヴンとして定義し続け、いつも一定の距離を置く。
何故そのような行動に走るのかは分からない。そして甘えきった己をひとたび見せようものならあの冷笑が飛んでくる。
洗練された言葉の嵐で徹底的に痛めつけてくる。決して逃れられない烙印として、またその場に留めるための戒めとして。
時には泣いて、時には激昂までして、彼女はセネカを現実という名の楔で押さえつけ決して離そうとしない。


レイヴンという仕事の合間に何気ない日常に身を預けていた。そうすることが過去の傷を洗い流す最善の策だと信じていた。
忘れたかったのだ。生まれ変わった新たな自分で、新たな人生を歩めると思いこんでいた。
だが彼女はそれを決して許さない。彼女の中にあるもう一人の人格を発露させるとき、その瞳にはっきりとした殺気がこもる。
その瞳の中に親友である筈のセネカはもう映ってはいない。そこには憎しみの対象でしかない何かがあるだけなのだ。


彼女の言葉は間違っていない。現にレイヴンとなってしばらく経った後に、求めていた二人の内、一人の安否がわかった。
実に簡単なことだった。端末からそのレイヴンを検索すればそれだけで安否がわかる。単純な話だ。
だからこそ説得力がある。該当者が見つからないということは、即ちそのレイヴンは死んだという結論に直結するのだ。


一人が死亡、もう一人は未登録だったがゆえに消息不明。刃物で切り刻まれたような衝撃でその場に泣き崩れたときも、彼女は一緒に泣いてはくれなかった。
「死んだ人間相手に何故そんなに泣けるんですか?」と、同情心など欠片も見せずに淡々とそう述べただけで彼女はセネカに何もしなかった。


天真爛漫な彼女の笑顔の裏にはあるのは、変質的なまでに深い憎悪。その矛先が何なのか、セネカにそれを知る術はない。
自分一人では到底知ることができない、ましてやその本意を知ることなどもっと不可能だ。


行き場を見失っていたように見えたユエルに、彼女を紹介したいと言ったのも、もしかしたらそうした感情が作用しているのかもしれない。
友達を紹介したいという気持ちと、彼ならば彼女の力になれるのかもしれないという気持ち。
その両方を心の中で混濁させながら、セネカは隣で立ち尽くしているユエルに視線を移そうとした。

「セネカ……!」
「え?」

どうやら以前から何度も呼びかけられていたようだった。怒号の近い彼の一声で急激に彼女の意識が現実へと呼び戻される。
思索に熱中しすぎたことを自省しながらセネカはユエルを改めて見た。しかし彼女は現在の状況を理解しておらず、
間の抜けた顔をユエルの目の前に突き出していた。完璧に聞いてませんでした、と言わんばかりの彼女の表情に彼は半ば呆れ果てながら、

「え、じゃねえだろ。どうすんだよ、これから?」

と、当然の疑問を投げかける。ようやく事態を把握することができたセネカは、今自分がしなくてはならない全ての役割を思い出す。
不信感をあらわにするユエルに気圧されながらも、どうにか気を引き締めなおしたセネカは彼を納得させるべく口を開いた。

「あ、うん。ちょっとだけ待ってて。今連絡入れるから」

そう告げた後に、彼女は持っている携帯電話をジャケットの中から取り出し、メモリーの中から目的の人物の番号を探し当てる。
液晶画面に番号が表示されると彼女は迷いなくその通話ボタンを押しこみ、電話を自分の右耳へと近づけた。
コール音が始まって数秒とかからずにその電話は繋がる。妙に嬉しそうな普段通りの声が唐突にセネカの鼓膜を震わせたが、
セネカはひとまずその無邪気な声を無視し、要件だけを簡潔に告げてその通話を止めた。

「すぐ出てくるって、彼女」

用が済んだ携帯電話を元の場所に放りこみ、セネカはユエルにもう少しだけこの場に留まるよう促す。
渋々といった顔を浮かべながら首を縦に動かしユエルもそれに従った。だが彼のその表情は酷く暗い。
改めてユエルの顔をはっきりと見据えたセネカは、そこで初めて彼の変貌に気がついた。


表情を一切変えず、視線だけ動かして周囲を探っている。センサーのように辺り一面の変化を感じ取りながら、
ユエルはピクリとも動こうとはしない。全身からはわずかな異常も見逃さないといった気配が発せられている。
獲物を狙う獣のように警戒心を剥き出しにする彼の姿。しかしそれを見たセネカは場違いとも言うべき安堵の表情をそこで浮かべていた。


やはり何も変わっていない。緩んでいた表情が急に険しくなる姿は、セネカの記憶に内在する彼と完璧に一致する。
それが彼女には無性に嬉しかった。やはり死んではいなかった、彼は生きていたのだ――。


機械を連想させる瞳。自分が体験したことのない別世界を生きてきた者の瞳だ。初めて彼と会ったとき、まずその瞳が印象に残った。
そんな彼と自分を結びつけたのはエルク・ガナードという一人の男。両親が共に病気で失っていた彼女の親代わりとなってくれたのが彼だ。
ユエル・ガナード、いや、ユウ・トレイサーはそんな彼に連れられて自分の前に姿を現した。


出会う人間を間違えば自分もこうなっていたのかもしれない。ガラス玉のような空虚な瞳を見てまずそう思った。
この少年は出会うべき人間を間違え、そして自分は間違えなかった。そんなお門違いの優越感に当時のセネカは埋もれていた。


エルクと自分、そして彼の共同生活はそうして始まる。けれども徹底的な無愛想を貫く彼にはいつも悩まされていた。
まるで命令されなければ動くことのできないおもちゃと同じではないか。彼女が真っ先に吐いた言葉がこれだ。
彼のそんな態度がどうしても気に食わず、彼女は頻繁に彼に噛みついたがいつも無視され相手にもされなかった。


考え方もものの見方も違う人間との出会いは、まだ精神的にも幼かったセネカには衝撃的なものとなっていた。
月日が経ち、ようやく彼が言葉を発するようになったと思えば、出てくる言葉は「消えろ」だの「殺す」だのといった汚い言葉ばかり。
さらに言葉が出るようになった頃には、価値観の矯正という目的の元、二人は常に壮絶な口論を繰り広げていた。
彼との溝はとてつもなく広かった。けれどそれは時間を積み重ねるごとに、また言葉を交わす度に、徐々にではあるが縮まっていった。


数年も経てば幾重にも連なっていた氷もほとんど解け、彼は笑顔すら見せ始めるようになる。
さらに面白いことに、あれほど周囲に牙を向いていた獣が実は一般常識に異常なまでに疎かったのだ。
セネカとエルクはこの事実を大いに利用した。今まで苦労させられた報いとして、二人はこぞって彼を弄くり倒した。
毎日のように三人の間で笑顔が絶えなかったのはその頃だけ。あの時ほど全てが楽しかった日々はない。そう断言できるほどにあの日々は輝いていた。


決して不安がなかった訳ではない。時折見せる彼の行動や発言が彼との間に決定的な溝があることを示していた。
彼がレイヴンになったこともその一つ。戦うことしかできない彼だ、再び戦場に舞い戻ることは決して不自然ではない。


セネカが急激に彼に惹かれていったのも丁度この頃だった。決して恋愛対象としてではない、それ以上に彼は自分にとってなくてはならない人間になっていた。
だからこそ無性に怖かった。一生変わることのない隔たり。それがいつか自分たちを永遠に引き離してしまうのではないか、と。 
時が経つにつれその想いは強まっていった。だがまさかそれが現実になるなど、その時の彼女にはとても信じられるものではなかった。


しかしそれは悲劇という最悪の結末で訪れた。築きあげてきたもの全てが一瞬で崩れ去ってしまった。
唐突に彼から別れを告げられ、気づいた時には全てを失っていた。もう二度とあの日々は戻らない。昨日あったものが今日はもう存在しない。


もう彼らには会えない、無理矢理自分を納得させて必死で忘れようとした。引き裂かれた心を隠し通そうと決めた。
それでも、もう一度だけ彼らに会いたい、この気持ちを抑えきることが彼女にはできなかった。
数年間押し留めていた筈なのに、任務中に出会った青年に目を合わせた瞬間、彼女の気持ちは破裂した。
だからこそ彼女はあの一言を口にした。忘れようとした男の名前を口にし、青年を振り向かせたのだ。


そして奇跡は起きた。いや彼女自身が奇跡を起こした。自分の傍にいる、ずっと会いたかった彼が、今まさに自分の隣にいる。
こんなに嬉しいことはない。もう自分を偽ることも、忘れようと努めることも要らない。彼が、“ユウ・トレイサー”がここにいるのだから――。

「セネカ!」

再び自分の名前が耳に響き、セネカは思わず見とれていたユエルの横顔から目を離した。
今回響いた声は彼の口から漏れたものではない。その声質は明らかに女性のものだった。


彼女がきた。そう確信したセネカは、建物の入り口に視線を配ろうとして振り返った瞬間、
栗色の髪を携えた女性が彼女に向かって飛びつこうとしていた。言葉を漏らす余裕もなく、セネカの視界はその人影で埋まってしまう。

「ほんと、試合の後連絡もなしにどっか行っちゃって! 心配したん――」
「ちょ、ちょっ、と……。く、くるじい……」

普段の彼女だ、と安堵する間もなく猛烈な力が彼女の首に掛かり、セネカの視界が突然歪んだ。
とても人間とは思えない嗚咽。それが実は自分の口から漏れていることがセネカには信じられない、信じられる筈がなかった。
一瞬で現れた人影に抱きつかれたまではいい。だがあろうことか、その手は彼女の頚動脈を見事なまでに極めていたのだ。


頭に血液が回らなくなった彼女の意識が徐々に遠のいていく。死ぬ――。そんなまさかの展開を感じるまでに、
その手はすっと彼女の首から離れたが、直後、彼女の肺が本来得る筈だった空気を取り戻そうと緊急稼動する。
その代償として激しく咳き込んでしまったセネカは、朦朧とする意識の中で精一杯の悪態を吐き、いつもと変わりない彼女の行動を呪った。

「あ、ごめん」

本人にことの重大さを理解している素振りは全くない。無理もない、これが彼女にとっての普通なのだから。
きょとんとした表情が、まるで何も知らない傍観者のように咳き込むセネカをじっと凝視している。
わかってはいるのだがそれでもやはり文句の一つでも言わなければやってられない。
我慢の限界を超えたセネカは、正常に戻りかける己の心肺機能を肌で確認しながら彼女を睨みつけ声を荒げる。

「……あ、ごめん。じゃないって! 今本気で絞めてたでしょ!」
「え、嘘? 絞めてなんかないよ私」
「いや、あれは絶対本気だった……!」
「違います! たまたま掴みやすいところに首があったから……」
「ほら、やっぱり本気じゃない!」
「本気じゃないってば!」

やはり話が噛み合わない。己が犯そうとした殺人行為を自覚すらしていない彼女を相手にしても時間の無駄だ。
半ば敗北宣言に近い結論を即座に受諾して、セネカは自主的に口を噤んだ。それ以上に自分にはやるべきことがある。
不意にそれを思い出したセネカは、何故か妙に勝ち誇った表情を浮かべる女性を尻目に、完全に蚊帳の存在となった青年へと視線を移し、その表情を伺った。

「君は……」

だがセネカが確認する前に思わぬ言葉がユエルの口から漏れていた。不自然な挙動から垣間見えるのは微かな動揺。
彼の視線の矛先はセネカではなく、先程セネカの前に現れた女性に向けられている。
全面に押し出していた喜悦を収めようとしていたその女性も、どこからか寄せられている視線の存在に気づき、顔を彼の方向に寄せた。

「あ」

どういうわけか彼女も固まってしまった。一体何が起こっているのかさっぱり理解することができないセネカは顔をしかめるしかない。
状況を説明できる唯一の要素は、彼女の表情に再び咲いた満面の笑顔だけ。何故そんな顔を浮かべるのかセネカにはまるで理解ができなかった。


違う、考える観点がそもそも違うのだ。理解できないのではなく理解したくない。
弾ける笑顔の中にある感情は、即ち今自分が感じているものと全く同じ。それは誰にでも感じることができる再会への喜び。

「あ、あの時はどうもありがとうございました!」

彼はともかくとして、彼女は間違いなく自分と同じ喜びを感じている。だがそれを祝福しようとする意思は何処からも沸いてこなかった。
自分の知らないところで彼らは既に出会っていた? そう考えるだけでセネカの表情から明るさが消えていく。


本当は喜んであげるべきなのに。二人の親友という存在に対して自分に出来ることといえばそれくらいしかないのに。
どうして自分はそれができないのだろう。どうしてこんな悲しい気持ちになるのだろう。

「ずっとお礼言いたかったんです。でも名前もわかんなくて……」
「え? ああ……」
「お名前教えてくれませんか?」

セネカが静かに見つめる先で、二人の男女が再会を果たした。可愛らしい微笑を浮かべる彼女が彼に名前を問う。
急な出来事に戸惑う素振りを見せながらも、彼はその質問を難なく答えようとする。二人を見つ続けるセネカに視線が向けられることはなかった。

「……ユエルだよ、ユエル・ガナード。よろしく、えっと」
「あ、私ですか? ソフィアって言います。ソフィア・ユーグ」

違う……! 思わずそう叫びたかった。そうでもしなければこの気持ちを抑えきることができそうになかった。
しかし言葉にならない。こんなにも眩しく輝く二人にそんな言葉を吐ける筈がないのだ。
それでも一人取り残されたような空虚感がセネカを包み込み、全身に澱んだ物質が次々と沈殿していく。


あれほど会いたかった青年がここにいない。彼と同じ姿をした別の誰かがそこにいる。
違う、あれは彼だ。たとえ名前が変わろうともそこにいるのは紛れもない彼なのだ。自分自身にそう言い聞かせても、
セネカの胸のざわめきは収縮する素振りを見せない。何故こんな気持ちになるのだろう? わかっている、もうわかっているのだ。


彼は自分を忘れようとしている。忘れることに挫折した自分とは違い、彼は過去を無に帰そうとしている、それも本気でだ。
そして生まれ変わった自分でこれからを生きようとしている。かつての彼に必死にしがみつこうとする自分を振り払い、
彼はユウ・トレイサーとしてではなく、ユエル・ガナードとして、目の前の彼女――ソフィア・ユーグと話をしている。

「ユーグさん、か。……よろしく」
「こちらこそ。ユエルさん」 

爽やかな空気が漂う中、その笑顔の根源を理解することができないセネカは、
その雰囲気に合わせただけの空疎な微笑みの裏で、苦悶の表情を浮かべつつ、ただその場所に立ち尽くすしかなかった。



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