ARMORED CORE Stay Alive TOP

13.


木材の微かな匂いが男の鼻をくすぐる。真新しさが感じられない塗装には、年季というものがはっきりと刻まれていた。
加えてこの部屋だ。新鮮さなど一切見られない。白色で塗られた壁は所々剥げかけており、手入れも施されていない。
こんな部屋に連れてきて一体何をさせるつもりなんだ、と男は自分をここに寄越した張本人である女性を半ば睨みつける形で見ていた。


疲労困憊とはまさにこのことだ。ほんの数時間前の出来事を頭の中で整理し直し、改めてその濃密な内容を思い返していたユエルは、
活力という活力を根こそぎ奪われた己の身体を案じながら、後ろの壁に全体重を預けていた。


調子が狂っているのか、それとも狂っている調子が元に戻ろうとしているのか。ほんのわずかな時間にまざまざと見せつけられたその差異。
それが正しいのか、間違っているのかはユエルにはわからない。自身の内に込み上げるこの後悔が果たして何を意味しているのか。
まさにここ数日はこういったことばかり起こってしまっている。だが依然として彼はその正体を見極めることができずにいた。

「前からソフィアのこと知ってたんだね」

馬鹿馬鹿しい。と己の煩悶を打ち消したのと、目の前の椅子に腰掛けている女性――セネカの声を捉えたのは同時期だった。
私服から普段着へと変わった彼女の姿は、街の中を歩いていたときの凛然としたものとは異なり柔和な印象をユエルに抱かせている。


ここはセネカの自室で間違いないのだろう。そんな場所に自分は来てしまっている。当然ユエルの内心は穏やかでいられる筈もない。
彼女を視線に捉えようとすれば、否が応でもその整えられた体躯に目が行ってしまうのだから。
すらっとした脚線を始め、全体的にバランスのとれた体格をもった彼女が、椅子に座って何かしらの作業をしている。
表情には表していないが、それでも明らかに無防備とも言えるセネカの現在の振る舞いに、彼の心は激しく乱されていた。


セネカはもくもくと机の上に置かれた端末を叩き続けている。彼女の指が奏でる金属音。旋律のごとく優雅に聞こえるその効果音は、
無機質すぎる空間内に変化をもたらすものとして彼の耳に刻まれていった。どうにか気持ちを沈静化させたユエルは口を開く。

「知ってたってほどじゃねぇよ。たまたま尋ねられてそれに答えただけ」
「ふーん、そうなんだ」

遅かれ早かれ、セネカがユエルにこの疑問を持ちかけることは彼自身にもある程度察しがついていた。返答もあらかじめ考えていたものでしかない。
それで納得が得られるとは彼も考えていなかった。含んだ眼差しを向ける彼女を見ればそれが聞くだけ野暮ということが即座にわかる。


だが、純粋に信じてもらえないというもどかしさは、ユエルの中に渦巻いているのは確かなことだった。心の中で複雑にもつれるそれを、
単純な苛立ちとして昇華することに決めたユエルはとりあえずの処方として、先程からずっともたれかかっている壁へ身体を今以上に預けた。
そして全身の力を抜き、呼吸を整える意味で空気を吸い込む。目を閉じながら身体に溜まった懊悩を吐き出し、彼は再び目を見開いた。


眼前に広がったのは先程と何の変化もしていない殺風景な部屋の内面。窓すら存在しない部屋の簡素さはもはや言葉にならなかった。
家具と呼べる家具は、簡素なベッドと作業用机、そして洋服ダンスの三つだけ。
部屋の照明だけがその鮮やかな白色を振りまき、この質素すぎる部屋をかろうじて標準に近いものへと押し上げている。


セネカの年齢や性格を考えればこれはもはや異常と言わざるを得ないのだが、ユエルはそれを口に出してはいない。
なんとなくではあるが、理由を察することが彼にはできた。彼女にとってこの場所は部屋ではない。強いて言うならば……作業場だ。
ただ仕事の一巻としてここを訪れ、作業か睡眠かのどちらかをただ行うだけの作業場。その思想が具現化したのがこの部屋なのだろう。

「で、そんな偶然な再会を果たしたユウ君の心境はどうなんでしょうねぇ?」

そんな思考もいざ知らず、セネカは含んだ瞳そのままにユエルを見つめ直す。どこか歓喜に満ちているようでいて、それでいて陰湿さも持ち合わせているような視線。
気がつけばキーボードのテンポは少しだけ遅くなっていた。まるで彼女の顔、そして心情に巧く合わせているかのように。

「何を言わせたいんだ、俺に」
「別に。ただ聞いてみただけ」

セネカが言い放ったあと、また旋律が元に戻った。だが、何を考えてるかを全く掴ませないセネカに対しユエルは苛立ちを募らせる。
このままでは一生話が進まないだろう。徐々に緊迫感すら感じられるようになった空気に嫌気が差した彼は、とりあえず思いつくままに口を開いた。

「なあ、お前もしかして怒ってるのか?」
「怒ってません」

その返答を境にして彼はあることを閃く。あまりにくだらなすぎて仕方ないのだが、ユエルはとりあえずそれを試してみる。

「怒ってるだろ」
「怒ってないって。『偶然の再会記念』とかで昼ごはんご馳走になった人とか、美味い美味い連発しながら私の目も気にしないでそれにかぶりついた人のことなんか、ほんと全然気にしてないんだからね!」

そしてそれは彼女の勝手な暴露で的中し、加えて問題も見事に解決した。「ああ、そのことか」を適当に相槌を打つユエルに対し、
当のセネカは、唇をかみ締め今にも泣き出しそうな表情で彼を睨みつけている。だがその顔には敗北という文字がはっきりと滲み出ていた。


己の勝利を確信しユエルは不意に曇らせていた表情までをも崩してしまう。塞がれていた隙間から入り込んできたのは、思わず声に出てしまうほどの苦笑だった。
思い出せば思い出すほどに吹き出てくるそれを抑えきることができないまま、彼は切実な悩みを笑い飛ばされ顔を紅潮させて打ち震えているセネカを見た。


こんなもの苦痛でも何でもないだろう。そう心で呟くユエル。これが今の今まで辛酸を舐め続けてきた男にできる最大限の仕返しだった。
思い返すたびに後悔の念がジワリと滲み寄ってくる。初めはよかった、セネカとソフィアの二人に、半ば強引に食事に付き合わされたまではよかったのだ。
事実、その選択は間違っていなかったと彼も思う。質素ではあるが、最大級のもてなしをされていたし、何よりソフィアの手料理はもはや絶品と言う以外になかった。


だがそこから先は地獄だった。手料理に舌鼓を打ち、栄養価に満ち溢れた滋養を取り込み、自分達を出会わせるきっかけにもなった例の色紙の話題などで、
会話にもようやく華が咲き始めた矢先に“彼ら”は現れた。好奇心という動力を漲らせ、初めて見たユエルという存在を凝視していた彼らは、
ソフィアやセネカの話にも挙がっていた孤児たち。十代初めからそれ以下の年代の少年少女たちに不幸にも興味を抱かれてしまったユエルは、その時点で全てが終わったことを悟った。


善悪の区別がまだ完全に付けられない年頃を相手にするのがどれほどの労苦なのか、わずか数刻で理解できてしまうほどに彼らは桁が外れていた。
止め処なく押し寄せる質問の雨に始まり、半ば暴力ともいえる手痛い仕打ちなどなど。
一対複数の一方的な攻撃は、その後何時間とユエルを解放することなく続けられ、彼がまさに日頃の彼らの鬱憤を吐き出すゴミ箱となりかけていたころに、
ようやくセネカからの救いの手が差し伸べられた、というのがほんの数分前までの流れだった。


意識すら飛んでいってしまうかのような壮絶さの中でも、セネカがしっかり子どもたちを煽っていたことをユエルは鮮烈に覚えていた。
だからこそ、これは当然の権利だ。とユエルは攻勢の手を緩めなかったのだが、自身の内に溜まったものをある程度吐き出し苦笑をわずかに緩めたユエルは、
口を真一文字に結んで憤慨の色を見せ続けるセネカに向かって、ようやく休戦の意味を込めた言葉を投げた。

「悪い。もしかしてまだ気にしてるのか、あの悪癖」
「悪癖悪癖、言わないでよ。これでも少しはマシになったんだからね」

誰しも抉られたくない過去がある。今の彼女にはまさにこれが該当するのだろう。
彼女の怒りを帯びていた筈の頬は、いつしか気恥ずかしさを感じさせるそれに変わり始めていた。

「どんな具合に?」
「黒焦げにはならなくなったくらい」
「……あまり変わってないって思うのは俺だけか」

ある意味好都合だった。彼女の弱みとも言うべきものを重々に知っているユエルは、
彼女によって勝手に刻まれた数々の汚名を晴らす好機と見て、あろうことか収めようとした攻撃を続行することに決めた。
悦楽に浸ったようなユエルの顔にはセネカの身を案じる気遣いなどは微塵もない、と言った類の宣言が張り付いている。

「まあ、確かに美味かったよ。彼女の料理は」
「うぅ」
「特にあのオムレツなんか最高だったなぁ。誰かさんのと違って卵料理全部が真っ黒のスクランブルエッグにならないところなんてほんと涙出そうになった」

言葉が止まらなかった。妙に心地よくてそして楽しさすら感じる。わかりたくもなかったラスティの気持ちも少しだけ理解できているのかもしれない。
心なしかさらに萎んでしまったように見えるセネカ横顔を見ながら、ユエルはそんな場違いな感情に包まれていた。

「酷い、酷いすぎるよ……。ちょっとは気遣ってよ。あたしだって、気にしてるんだからね」

そんな予想外の追加攻撃に戸惑っているのか、セネカの口から出てきたものはもはや反論ですらない陳腐な言葉の羅列。
がくん、とうな垂れ、肩を落とすそんな彼女を見てもユエルの口はこの機を逃さんと言わんばかりに止まらない。

「いいや、言ってやる。『オムライス作る!』って意気込んで、ケチャップだけの赤飯に黒焦げスクランブルエッグ乗せやがったこと、俺は忘れたわけじゃないからな」
「そ、それは昔の話なわけで。今はそんなことないもん。……たぶん」
「そりゃ良かった。あ、そっか、そうだよな。黒焦げにはならなくなったみたいだしな、確か」
「……鬼」

何を馬鹿な。これはある意味最高の褒め言葉として受け取っておくべきだ。弾ける邪悪な笑みの中で幾分かの充足を感じたユエルは、
そこでようやくその笑みに制止をかけて、歪んだ己の顔を正常な位置にまで矯正し、新たな言葉を重ねた。

「要するに、できないことを無理にするなってことだよ」
「全然ためにならない結論だよ、それ」
「なるかならないかは受け取り方次第。それはそうと――」

そう吐き捨たあとで、彼は浸っていた愉悦を完全に捨て去った。遊びはここまで――。
渋る身体に鞭打って全ての感情を新地に戻したユエルは、ようやくそこで本来持ち上げるべきであった本題を切り出す。

「さっきから何調べてるんだ?」
「え? あ、依頼だよ、次の仕事。でも、ね……」

レイヴンが手持ちの端末で調べることと言えばやはりそれしかないだろう。それは世間一般の情報とは優先度の格が違う。
企業、または依頼斡旋機構――ティル・ナ・ノーグ――から発せられる情報は逐一仕入れていかなければ、
あっという間に置いていかれるのが今のレイヴンという立場だ。先程まであった依頼が次の瞬間に消えていることなど日常茶飯事に近い。


頭の片隅でレイヴンとしての常識を反芻したユエルだったが、同時に彼はこのことがセネカの真意ではない。と確信する。
文面に表示された何かに複雑な感慨を抱き、どうしていいか分からず彼女は途方に暮れている。ユエルはそう踏んでいた。

「ちょっと、こっち来てくれない?」

予想通りと言うべきなのか、彼女からやはりそのような返答が返ってくる。ある程度予想できるものだったが故に、
ユエルが壁から離れるのは実に容易なことだった。疑惑も困惑も抱くことなく、彼はすぐに彼女の横に達する。

「これ見て」

セネカが彼に画面内の文章を見るように促す。机には置かれたノート型の端末。そこに打ち込まれている文字は酷く小さい。
彼は仕方なく自分の顔を画面に近づける。その行動は必然的に隣の椅子に腰掛けているセネカと触れ合う寸前まで近づくことを意味していた。
彼女の静かな息遣いが空気の振動に混じってユエルの肌を貫く。
視界には年相応とも言うべき健康的な白い肌、壮麗に光る金髪などが映り、ユエルは慌てて意識を画面内に集約させた。

「何だよ、これ」

思わぬ衝撃がその文面には秘められていた。まともに直視してしまったユエルは思わず言葉をなくす。

「ね、変でしょ? 普通ありえないよね、こんなこと」
「ああ。こんなこと、本当にあっていいのかよ」

なるほど、納得だ。と言えればどれだけ楽なことだろう。依頼内容はごくごく単純な施設護衛任務。テロリストらしき未確認の犯行グループが、
とある施設を襲撃すると予告してきた。その施設は依頼主にとっては非常に重要な拠点であるために是が非でもレイヴンに守って欲しい、というものだ。
文面上では何の問題もない。だが違った。読み返せば読み返すほど、ユエルにはこの任務が飛びぬけて異常だということがわかる、わかってしまう。


とにかく全てが異常なのだ。単純な護衛任務にも関わらず、その成功報酬はAC丸々一体買えてしまうほどの法外な額であり、
しかもそれは請け負ったレイヴンにきちんと支払われるという気前の良さが一つ。さらにレイヴンの定員人数に上限は存在しないことが一つ。
締め切りの時間だけが異常に短いことだけが現実味を見せてはいるが、それ以外はまさに前代未聞と言わざるを得ない。
そして何より彼らを驚かせているのは、その依頼文を寄越した依頼主の正体だった。


セネカやユエルの眼前に突き出すようにして表示されている画面には、現在の世界において全てのレイヴンを含む傭兵を統括する半独立団体、
すなわち“ティル・ナ・ノーグ”の名称とそのロゴマークがはっきりと表示されていた。これこそが異質である依頼内容をさらに異質化させている根源である。


ありえないとユエルたちが呟くこと自体に何の問題点はない。現在の体制を批判する者たちがこぞって『政府の飼い犬』と揶揄するのが、
このティル・ナ・ノーグという機構だ。その揶揄の通り、ティル・ナ・ノーグは政府と傭兵を仲介するパイプの役目を担っている。
だからこそこの機関が直接レイヴンに依頼を持ちかけることはよほどのことがない限りできないことになっている。


新資源抗争から崩壊の道を突き進んだ世界が辿り着いた新たな舞台。過去の過ちを悔やみ、その反省を踏まえて人々が確立させた新たな秩序の形。
そして今ようやく機能し始めたその調律が、まさにこの画面上で崩れようとしていた。だからこそユエルとセネカはこれはありえないと叫んでいる。

「でしょ。だからさっきからコンタクト取れないかなっていろいろ試してるんだけど、全然ダメなの。どこもさっぱり」

と、そんな言葉とともに、セネカがユエルの袖を引っ張り彼をさらに自身の傍へと引き寄せる。わずかにユエルの頬にも紅潮が生じていく。
年頃の異性二人、しかもここは女性の部屋、さらに今は限りなく密着に近い状況。様々な要素がユエルの胸を大きく跳ね上げ、彼の思考を鈍らせる。
そのため彼は彼女の意思に反して視線を逸らすことにした。だが残念ながら彼が安堵することはなかった。
視界を遮断しても、聴覚を断絶しても、拒めないようなものがユエルの傍に忍び寄ってきたからだ。


ほのかな甘い香りが彼の鼻腔に触れる。柑橘系を連想させるその香りは言うまでもなく、セネカが身につけている香水の類。
その爽やかな香りにユエルは心辺りがあった。当然だ。何故ならそれはかつてユエル本人が好きだった香りに他ならないのだから。
そんな匂いを放つ香水をあのときから数年経った今でも彼女が持ち歩く理由。そんなもの、一つしか存在しない。


しかし、そこでユエルは彼の心が無意識に忘れさせようとしていたものに気づいてしまった。気づいたとは言え、もちろんそれを表に出す愚は犯さない。
鼻に触れる香りと共に、紛れ込んでいたかつての記憶。それはユエルのものではない、それは全て“あいつ”のものだった……。
平静さを装いながらも激しい後悔が暴れまわる。覆い隠そうとした身体と心との軋轢。考えるだけで心が破裂しそうになる。
一刻も早くここから離れなくてはならない。ユエルがそう決意し、飛びのくようにして彼がセネカの傍から離れたのは、もはや必然に近かった。

「……滅茶苦茶だな」
「だよね」
「待て待て。お前、ちゃんと俺の言葉の意味わかって言ってるか?」
「え?」

不意に意識していないことを指摘されたためか、セネカがはっとしつつ彼を眺めた。乱れる内を必死で覆い隠しながら、
失望の吐息を軽く吐いて、ユエルは自分が思いついたこと全てを打ち明ける。喋り続けていた方がまだマシだ、という彼の思惑をセネカは知らない。

「この依頼文だよ。全部が全部滅茶苦茶だ」
「……どういうこと?」
「連中がこんな大金まで払って守ってくれって言ってる筈なのに、少しも危機感を感じないんだよこの文章には。『お願いします!』って感じより『まあ、よろしく』って感じだな」
「あ、そう言われてみれば」
「しかもだ。襲撃かける相手がご丁寧に犯行時刻まで示してる。こんなこと普通ありえないだろ?」

依頼を寄越したティル・ナ・ノーグと犯行グループ。二つの意図が見事なまでに矛盾している。まるでそれぞれが独自の思惑を有しているかのように。
ここまで内容が錯綜する依頼はユエルにとっても例のないものだった。前代未聞、その表現でもあながち間違いではないだろう。

「ってことは――」
「罠、だろうな。十中八九」
「だよね」

文面から滲み出る未知なる何か。それは空気の一部となるまでに拡散し、セネカそしてユエルまでをも侵食し始めていた。しかし、

「で、締め切りは?」
「え?」

陰湿な気配が空間全体に染み渡ってしまう寸前に、それを阻むかのようにユエルの口が開かれる。
我知らずとそれに反応したセネカが、呆然とした様子で再び彼を凝視する。その表情にはハンマーで殴られたような衝撃が窺えた。
呆然とユエルに視線を注ぐ彼女に向けて、ユエルはさらに言葉を続ける。

「依頼の締め切り。さっさと受諾しないと依頼なくなるぞ。実際もう何機か請け負ってるんだから、さっさと二人分登録しといてくれ」
「二人分って……。で、でも、さっき罠だって」
「誰も嫌だとは言ってないだろ。こんな大金ちらつかされて食いつかない馬鹿がいるかっての」

そう言ったあと、すかさずユエルは「何か書くものはないか?」とセネカに問うた。差し出されたペンと紙の切れ端を受け取ると、
彼は迷うことなく僚機登録に必要な情報全てをそこに記し彼女の手に置く。直立のまま書いたためにその字体は酷く汚い。
だがセネカは顔を歪めることも追求することもしなかった。ただその紙を手渡されたという事実に驚いていた。


この男の意図がわからない。彼女の顔にはそうはっきりと描かれていた。顔面に張り付いた困惑という二文字を、
見て見ぬふりで誤魔化したユエルは、そのままそれを完全に無視すると結論付け、囁くような口調で彼女に告げる。

「あのな。こっちは今とんでもない借金抱えてるんだ。こんな最高の依頼、見過ごせるわけないだろ?」
「あ、そういう事情なのね。そっか。そう、だよね」

どうしようもないくらいの恥ずかしさを伴った真実。自分の情けなさをまざまざと晒しつつ、彼はセネカに張り付いた感情を引き剥がそうとする。
もちろんそれはすぐに剥がれ落ちた。しかしその先にあった表情はユエルが意図していたものと違っていた。
そこにあるのは喜びと悲しみ。対極に位置しているそれらが、同じ水の中で混ざり合ったような極めて複雑な顔――。

「でも、ありがと」

底が見えないその表情にユエルが戸惑っていたころ、その言葉はセネカの口から放たれ、彼の視線を現実に引き戻していた。
状況など一切関係ないと言わんばかりに胸に響くその言葉。彼女の微笑とともに発せられたそれを無防備に受けた彼は思わず目を背けてしまう。

「い、いや、俺は別に……」
「んじゃついで『最前線配属超希望』ってメッセージも送ってお――」
「殴るぞ」

軽い舌打ちがユエルの耳にも響いた。既に机の方向に振り返ってしまったために、もう彼女の表情は読み取れない。
ただその後姿から苦笑とも取れる笑い声が聞こえてきた。たった一つの言葉で激しく揺れ動いてしまうような誰かをからかっているのだろう。
お互いの存在を見失ってからもう数年も経つ。それでもあの時と何一つ変わっていない男。もしかすると彼女はその男を笑っているのかもしれない。


だが違う。あの時とはもう全てが変わってしまった。自分も、そして彼女ですらも。昔はあんな暗い表情をするお前ではなかった。
度を超えるほどに明るく、後先考えずに突っ走る馬鹿。そんなお前が何故あんな顔をする? 一体何がお前をそんなに変えてしまったんだ?

「それじゃ、輸送機の手配とかお願いできないかな?」
「それは任せとけ。ただACの方は直に様子見ないと俺もわからないんだ。それも合わせれば目的地に着くのはたぶんギリギリになる。それでもいいのか?」
「うん、大丈夫」
「そうか。なら俺はガレージ戻って様子見てくるわ」

何気ない会話。作業的な言葉を吐くのに労力は必要ない。全ての葛藤から目を逸らし、自分の感情から逃げること。それこそが今できる最善の策だ。
身体の芯から込み上げる衝動は破裂寸前の風船のようにまで膨張している。既にユエルもそれを抑えきれない。
猛烈な轟音を立ててそれが弾け飛ぶ前に、この場から離れなくてはならない。そう彼は決めていた。だからこそ彼は全てから逃げるしかなかった。

「じゃ、またな」
「うん」

平静を装ってユエルは静かに歩き出し部屋からそっと出た。向こうの扉から彼を見つめるセネカには目もくれず、
ユエルはその扉を閉め、彼女と自分との世界を隔絶する。セネカがいた部屋と同じく、眼前には年季の入った壁が広がっている。
しんと静まり返った廊下で深く息を吐く。そして誰もいない廊下の壁に寄りかかったあとに、ユエルは文字通り自身の感情を破裂させた。


最悪だ、何から何まで最悪だ。自分は否定してしまった。たとえそれが一瞬でも、自分は自身で定めた掟を否定したのだ。
先程まで自分が見下し、罵り、蔑んだ男が確かにいた。あろうことか自分自身がそれを認め、そして拒絶する身体を黙殺したのだ。


表面上の体裁を取り繕うためだけに自分はあの男を呼び戻した。理由は単純、セネカに気を使わせたくなかったから。他に理由などない。
自分が変わってしまったことに気づいて欲しくなかった。彼女がかつての自分しか見ていないのなら、そのまま見させてやればいい。
そう決意した結果がこれだ。だがわずかに心を許しただけで、あの男は容赦なくその毒牙を心の奥深くまで侵入させてくる。


結果として自分は見てしまった。あの男が現れそしてそこから生み出されていくある種の心地よさを。
彼の記憶から生み出されるもの全てに向けられる自分の羨望と憧憬の眼差し。それは屈辱以外の何ものでもない筈だ。


まさかこれが求めていた答えだとでもいうのか。捜していたものがまさかこんな呆気ないものということなのか。
確かに自分の中で何かが変化していることはわかる。だがそれでも、この結果を自分は求めてはいない。
認めない、認められるわけがない。こんなものが自分が熱望していた答えな筈がない。違う、絶対に、違う。


押さえつけられていたうねりが大挙して襲いかかり、彼を混乱の坩堝へと叩き落とす。脳内から分泌された伝達物質が、
彼のありとあらゆる部分を興奮させ、その身を焦がしていく。だがユエルはそれから抗おうともしない。
自分が今いかに愚直な行動をしたのか。誰よりも犯したその罪の重さを彼は知っている。だからこそ全身から迸る侮蔑と嘲笑を彼は受け入れる。


目の前の古臭い壁は、鬱積した心労のはけ口としては調度よかった。このまま勢いに任せて拳を叩きつければ、こんな壁くらいなら貫けるかもしれない。
長い階段を一歩ずつ下っていきながら、ユエルはふとそんなことを思った。だがそれはこの憤懣を外部に押しつけることにしかならない。
自身の問題を外部に責任転嫁してはいけない。自分と向かい合う度胸がないのなら、初めからこんなに苦しんだりはしていない。
誰も頼らず誰にも迷惑をかけず、たった一人で全てを納得できるものを探すと決めた。それでいい、それでいいと思いたかった。だが今は――。


どこまでも妥協が抜けきらない男だ。ふっと笑みを凝らして己の頑固さと融通の利かなさをユエルは噛み締める。
気づけば既に自分の身体は、何百段にも及ぶ階段を降りきっていた。これと言って気を留めるようなものがなかったからなのかもしれない。


だが一番に気づくべきなのは複雑な思考に身を委ねて肝心の現実すら目に入らなかった己の放心ぶりだろう。
自分自身のこととは言え、やはり呆れてくる。ようやく入り始めた現時の光景を覗きながら口元を少し曲げたユエルだったが、
ふと己の目に飛び込んできた違和感を捉えると彼は静かにその一幕を閉じた。と言うより閉じるしかなかったという方が正しいのだが。


ユエルを長い思索から遠ざけた要因は、彼の瞳に焼きついた何気ない廊下の風景。何の変哲もない廊下にその部分と部屋とを隔てる扉があるだけだったが、
そこには明らかに異質なものが張り付いていた。扉の前に付属しているのはとある金属の塊。
カードリーダーを匂わせるその特異な形と、何より自然の産物と人工的な産物とが合わさったことによる調和の乱れが露骨に出ている。


徹底した防犯設備。ここが今まで日の目を見なかったのはこういった対策が入念に施されていたからに違いない。
それにしても、正直できすぎている。随所に見受けられるそれはとても気休めのレベルとは言えなかった。
子どもたちの声も聞こえない、まるでさっきまでの喧騒が嘘のようにすら思えてくるほどだ。恐ろしいほどの静寂がまさに彼の傍にあった。


だが、ふとしたものがユエルの目に映り彼の足を止める。違和感だらけの扉が霧散している中、ただ一つだけ何の防犯対策もされていない扉があった。
観音開き式の扉というだけで、それ自体に特に奇妙な部分はない。けれどもユエルはその扉から目が離すことができなかった。
開いていたのだ。わずかにではあるが扉が開いている。錠もなければ鍵穴もない。それなのに何故ここだけが開いているのか。


不自然極まりない隙間に、ユエルの好奇心が疼いてしまうのはもはや当然と言わざるを得なかった。
微かに開いているその扉に手をかけると同時に、彼はその先にあるものを覗き込んでしまう。

「誰、ですか?」

不意に発せられた警戒心を剥き出しにした言葉がユエルの心臓を跳ね上げる。全身を凍りつかせるような感触が同時に走っていた。

「ご、ごめん!」

悪いことは重なるもので、彼はその後究極の愚行を犯す。彼は扉を閉めてしまったのだ。これでは自身の罪を暴露しているようなもの。
気づかれたという事実が彼の思考を停止させた結果と言えた。最低だ。後から後悔の念が止め処なく押し寄せてくるが、もう何もかもが遅かった。


――ソフィアがいた。あの一瞬では後姿だけにしか確認できなかったが、あの長い栗色の髪は間違いなく彼女のものだった。
扉の先がどんな部屋だったかは見えなかった。けれども彼女の姿だけははっきりと見えた。彼女の髪と清潔感溢れる白いブラウスが彼の視線を釘付けにした。


だからこそはっきりと覚えている。彼女は震えていた。服の上からでもわかる華奢な肩が上下に震えていた。
そしてユエルの耳朶を打った微かな音。間違いない。彼女は――泣いていた。

「あ、ユエルさんじゃないですか」

間髪入れずに二度目の衝撃がユエルに到来する。内臓すら吐き出しかねないほどに身体が締めつけられている為か、
罪悪感を滲ませたユエルは扉から出てきたソフィアに恐る恐る視線を注ぐ。確かに驚きの色は窺えたが、彼女の表情にはどうやら憤慨はない。
と言うよりユエルの前に現れた彼女の顔にはむしろ微笑が灯っていた。心に潜ませた感情を覆い隠そうとしているのかどうかは定かではないが、
これが彼女なりの処世術なのだろう、と彼は目測する。同時に彼女の瞳の充血だけは逃れようのない真実としてユエルの目に強烈に残った。

「あ、あの、ごめん! まさか君がいるとは思わなかったんだ。ドアが開いてたからつい気になったというか、いやだからその……」
「ドアってこれですか?」

呂律が回っていない弁明を無視して彼女がユエルにそう投げかけてきた。彼は首を縦に動かし最低限の言葉だけを紡ぐ。

「ここだけ何の防犯もしてないから。気になったんだ。それでつい――」
「覗いちゃったんですね」
「ほんとにごめん!」

腰を直角近くまで曲げて彼は謝る。それだけで許してもらえるとは当然彼も思っていない。

「そうですね、じゃあこうしましょう」
「え」
「また来てくれませんか? 私同い年くらいの友達あんまりいないんです。だから……」

だが彼の耳に響いたのは予想だにしていなかった言葉。言い訳などしない。激しく罵られることも覚悟の上だった。
一瞬何を言われたのかを理解できなかったユエルは思わずその真意を確かめようと顔を上げる。

「そうしたら許してあげます」

待っていたのは弾けそうなほどに輝く満面の笑顔。それとともに理解不能な言動が矢のように飛来する。

「どうなんですか? イエスかノーで答えてください」

事態が全く飲み込めていないユエルにさらなる追い討ちが掛かった。すぐ前方にソフィアの微笑みが迫っている。

「え、えっと。……イエス」
「よし。では許してあげます」

半ば呆然自失としながらユエルは小さくガッツポーズするソフィアを見た。食事の時点で彼女の砕けきった性格の大半は把握したつもりだが、
いざこうして見ると、それは自分の予想を遥かに超えているようだ。セネカの純粋な明るさとは一味も二味も違うソフィアのそれ。
子どもらしい無邪気さを押し出すそれは、見ていて小恥ずかしいものではあるが、かと言って悪いものでもなかった。

「あ、もしかしてお帰りですか?」
「ああ」
「なら送ります」
「いいよいいよ。一人で帰れるから」

だがさっきの彼女は何だ? 今とまるで違うではないか。温かさに満ち溢れていそうなのに、どうしてあんな所に閉じこもっていたのか。
湧き出した疑問をそっと心に忍ばせながら彼はさらに会話を続ける。

「そう言わずに送らせてください。本当、ユエルさんには感謝してるんですから」

あの男に会ったことが彼女にとっては、まさしく天にも昇る心地なのだろう。あいにく彼にその気持ちは察することができない。

「もう五回くらい聞いたよ、その台詞」
「あれ、おかしいですね。私的には七回目の筈なんですけど」

いつのまにか二人は吹き出していた。会話の所為か、それとも別の何かが作用したのか。
ただ言えることは、和みにも近い雰囲気の中で、彼らの笑い声はしばらくの間、収まる気配を見せなかったということ。
純粋無垢な高笑いが静かな廊下に響き渡る。そこには下手な理由も心構えも必要なかった。

「君も相当なファンなんだな。あいつの」
「あの人の引退試合ですよ。あれを見て一発でファンになっちゃったんです、私」
「引退試合って。あいつ負けただろ、そのときは」

懐かしい話題だ、とユエルは微笑みながら思う。それはちょうど彼がラスティと初めて会ったときからしばらく経った頃の話だ。
当時のトップランカーであったラスティの唐突すぎる引退宣言。その最後の花道を飾る試合でラスティは初めて負けた。

「あれはわざとなんですよ」

誇らしげに胸を張るソフィアの顔には絶対の確信が見え隠れしている。

「聞いたんです、あの人に直接。『何で負けたんですか?』って。そうしたら――」
「そうしたら?」
「『どんなにカッコいい奴でも、引退んときは負けた方がカッコいいに決まってる』ですって。それ聞いた瞬間、ますます凄いって思っちゃいました」

まさにあの男を定言しているような台詞だ、とユエルは自分の思考内にある邪悪面を想像し、寒気に近いものを感じた。
なるほど、確かにカッコいい。彼女が崇拝するのにも何ら問題はない、むしろ納得できる。
だが何故よりにもよって敬う相手があの悪魔なのだ。奴こそ実世界に君臨する諸悪の根源ではないか、と彼は改竄された己の記憶を思い返す。


そしてユエルはふとあることを思いついた。既に彼は半ば強制的にここに再び訪れることを義務づけられている。
再び訪れるときにはあいつの残虐非道の行為を惜しげもなく暴露してやれるではないか。口約束とは言え、これを利用しない手はない。


微かな威勢だけを張り、ユエルは顔を歪めてさらに笑いの色を濃くした。自分の陰湿な行為を巧みに正当化しながら、
ある程度の計画を思いついた彼は、そこでふざけた己の精神を一時中断させ視点を現実へと引き戻した。


何を馬鹿なことをしている。自分にはやるべきことがある筈だ。だから早く戻れ。
頭からそのような類の指令が伝えられ、思い出したかのように身体が動き、それを実行すべくユエルを振り向かせる。

「君もやっぱりACが好きなんだ?」

単純な疑問だった。振り返り、玄関までの短い道程で十分消化できると踏んだ質問。だが、

「……嫌いですよ」

静かにそして唐突に、まるで後ろから銃弾でも浴びたような衝撃がユエルの背中に響いていた。温和だった空気が突如として極寒のそれへと変わり、
対応しきれなかったユエルに悪寒が伝わる。一体何だ? と不意に踵を返して再びソフィアに視線を送った瞬間、ユエルは言葉を失った。

「死ぬほど嫌いです」

何気ない言葉が彼女の触れてはいけない部分に触れてしまったのか、温かみを帯びていた筈の瞳は獰猛な獣の如きそれに変貌していた。

「ソフィア、さん……?」
「私の人生を滅茶苦茶にしたレイヴンもACも企業も、みんな大嫌いです」
「そんな、じゃ、じゃあ、あいつのファンって言うのは?」

ソフィアの変貌と慟哭が止まらない。全てを吐き出すまで静まらないかのような、そんな勢いすら孕んでいる。
数瞬前には考えられないほどの痛々しい彼女の表情。それを見てユエルは思わず尋ねていた。
彼女はそれを微笑で受け止める。だがそこに、かつての優しさなどは微塵も存在していなかった。

「あれは本当ですよ。アリーナなんていうのは所詮お遊びです。箱庭で戯れているお人形と同じですよ。そこに彼らの本質はありません」
「じゃあ何であいつに?」
「私が尊敬しているのはあの人の人間性です。とても強く見えて、実は信じられないくらいに弱い。そんなあの人を私は心の底から尊敬しています」
「あいつが、弱い?」

ユエルをレイヴンと見破ったことも今なら納得ができる。わずか一瞥で人そのものの本質を見抜いてしまうほどに研ぎ澄まされた眼力。
それを彼女は備えているのだろう。だがそれは彼女自身が求めたものでは絶対にない。その力は彼女が嫌悪するものに、あまりにも近づきすぎている。

「ずっと一緒にいるのに、そんなことにも気づいていなかったんですか?」

ソフィアの皮肉とも思える言葉が振り積もっていく。肝心なときに常に不足する自分の言語力に呆れ果てながら、
ユエルはただ無言でその場を乗りきろうとした。時間にして数十秒。だが実際はそれ以上の時の流れを経たのち、
槍の如く突き刺さる彼女の視線に耐えきれなくなったユエルは、その追求を無視して新たな言葉をそこに重ねる。

「君はレイヴンが嫌いなのか?」
「ええ、嫌いです。……いや、違いますね。憎いんです。殺したいくらいに」
「どうして?」
「この世界そのものが憎いだからですよ。企業とかACとか、そういったもの全部がです。昔のことを何一つ生かそうとせずに、己の利益しか見えていない一握りの人間が昔と何ら変わらない抗争を繰り返してるんです。それがここに住んでいる子どもたちのような可哀想な孤児たちを生み出しているとも知らずに。私はそういった人たちを絶対に許さない」

そこで彼は己の身体に熱く滾るものを感じた。何かはよくわからない。言葉で明確化することもできそうにない。
ただこれだけははっきりしている。これは怒り――。彼女の言葉に彼の身体が「違う」と叫んでいる。そうとしか説明ができなかった。

「だからレイヴンが憎い、と?」
「そうです」
「じゃあ、何で! 何で俺やセネカがここにいるんだ……!」

彼にもソフィアの口から放たれる不条理は痛いほど理解できる。だがそれは上辺の言葉でしかない。
だからこそ我慢ができなかったのだろう。彼女はただ自分を誇張しているだけ。責任を全て外部に押しつけ、
ただ目に映る全てを否定しているに過ぎない。しかしそれでは何の解決にもならない。それでは自分と同じ末路を辿るだけなのだ。

「それは……」
「嫌ってる相手をまたここに呼ぶのか? そんなのおかしいだろ」

何故自分はこんなことを言っているのか。もはやユエル自身ですらわからなくなっていた。
ただ、どうしても彼女を放っておけなかった。どうしても人ごととは思えなかった。そんな漠然としたものが彼の感情を暴走させている。

「おかしくなんて、ありません」
「じゃあなんで思いっきり否定しないんだ? それこそ自分でも気づいてる証拠だろ?」
「違いますっ!」
「違わないって。そう言ってれば楽になるんだろ? わかるんだよ。俺もそうだったから」
「え?」

感情が淡々と告げるその裏側でようやくユエルは全てに気づかされた。そしてこの不可解な行動の源泉を掴みとる。
同じなのだ。ソフィアという女性はまるで鏡に合わせたように、彼と酷似した体験をしている。心境も境遇も全てが似通っている。
だからこそ、ユエルはまるで自分を客観視しているかのような錯覚を味わっていたのだ。


そこにあるものはひたすらに醜かった。目を逸らせたくなるほどに薄汚れた思考。己を美化したかのような価値観。
そんな醜さをユエルはソフィアを通して垣間見る。だが同時にそこにある尋常ならざる量の苦痛も彼は併せて見た。

「俺も昔は君と同じこと考えてた。そうしたらラスティに言われたよ。『悲劇の主人公を演じるな』って」

いつしか、周囲を取り巻いていた怜悧な空気は薄まっていた。まるで高温に晒され溶けてしまったかのように。

「……あの人が」

似ていると確信できるからこそ、この苦しみの正体もわかる。信念すら揺るがせるほどに大きな矛盾。それは彼らに存在するもう一人の存在を肯定すること。
ユエルは過去に存在した男を否定し、そしてソフィアは先程までいたあの純粋無垢な女性を否定しようとしている。

「だから君も本当のことを教えてくれないか。どうして俺がここにいるんだ? 報酬を貰うためだけに人を殺してるレイヴンの俺が、どうして君の目の前に立ってるんだ?」

そして彼らは常にたった一人でその矛盾と戦う。けれども彼らに取れる手段と言えば、一方的に攻勢をかける思考を単純に否定するだけ。
明確な答えを示せないまま、時が過ぎ、心の中に鬱屈を押し広げ、そしてあるとき爆発させる。ソフィアがあのとき見せた涙はその一幕だったのだろう。

「やめてください」

だがそれでは求めている答えなど一生得られない。かつての自分と瓜二つな彼女を眺めてユエルは、そのときはっきりと悟った。
ソフィアが、そしてセネカとの出会いがそれを教えてくれたのだ。違うと叫び続けているのに、容赦なく表面化してくるかつての“彼”。
今だってそうだ。過去を後悔し彼女に説いているのはユエルではなくあの頃の“彼”に他ならない。
そしてソフィアも自分自身の中にある矛盾に戸惑っているのだろう。彼女の動揺ぶりはもう火をみるより明らかなのだから。


一方的に否定するだけでは解決にはならない。それが散々憎みきった相手に対するものと思うと正直悔しくてたまらないのだが、
“ユウ”という男を全否定する自分もいれば、確かに心のどこかでそれを認めている自分も存在している。
認めたくはない、けれども認めてもいいのかもしれない。そこには正解、不正解の概念は存在しないのだから。


今まで幾度となく悩み続けても答えが出ることはなかった。もしかするとそれは当たり前なのかもしれない。自分は後ろしか見ていなかった。
今持っているものだけで答えを創造しようとしてきた。たとえ構成する部品が足りなくてもだ。
そうして無理矢理作り上げた駄作で満足していた。しようとしていた。
世界を標的にすると言った、的外れなところからその部品を奪うこともあった。数年前の自分、そして今のソフィアがそれだ。

「認めるべきなんだ。本当は君にもどうしていいかわからないんだろ?」
「やめて……。それ以上、言わないで」
「わからないから適当な理由で誤魔化すしかない。そうなんだろ?」
「お願い、もうやめてっ!」

だがそれでは何の解決にもならない、彼らの後ろにはもう答えを構築する部品は存在しないのだ。ならばどうすればいい?
答えは簡単だ。前を向くしかない。単純な話だ。過去と決別するというわけではない。ただそれを少し脇に置いておいて前に目を向けるのだ。
そこには経験したことのないようなものが無限大に広がっている筈だ。中には彼らが追い求めていたような答えがあるのかもしれない。

「本当に嫌いなんです、大嫌いなんです。殺したいほど憎いんです。それなのに……」

それをソフィアにも気づいて欲しかった。この場に留まることがどれほど救いにならないことなのかを知って欲しいのだ。
心の裏側をわざと抉るような言い方をするのにも、そう言った意図がある。
投げかけられる言葉を拒絶するまでに動揺を深めた彼女ならば、もう気づいている筈だろう。あとはそれを認めるだけでいいのだ。

「あなたもセネカも大嫌いなんです、そうなりたいんです! それなのに、その筈なのに――」

何の解決にもなっていないのかもしれない。また終わりの見えない堂々巡りを繰り返すだけなのかもしれない。
それでもやってみる価値はある。今はそれでいい、それでいいと思う。だからこそユエルは訴え続ける。
過去という名の憎悪に囚われたソフィア。そして過去という名の怨霊にとりつかれた自分自身に向けて「もう十分だから」と叫び続ける。

「なのに、どうしてあなたたちのことを嫌いになれないんですか!?」

瞼に大粒の涙を浮かび上がらせて、ソフィアが力なく呟いていた。そこに先程までの冷徹さはない。いつのまにか消え去っていた。
所詮、彼女を取り巻く氷塊は表面上のものでしかなかった。ほんの少しだけ温風を吹きかけてやるだけで、すぐに溶けてしまうようなものだった。
そんな些細なものでしかなかったのに、彼女はそれを今まで誰にも気づかれず、誰にも打ち明けることもできずに生きてきた。きっとそういうことなのだろう。


無理もないとユエルは痛感する。彼もまた味方などいないと思い続けて悩んできた。そしてそれ故に味わってきた苦痛も理解できる。
ソフィアが経験したきた過去はまだわからない。そいて彼女が今何のために泣いているのか、それすら彼にはわかっていない。
わかったとしてもその苦痛を和らげることは恐らく今はまだできないだろう。だがそれでも自分はその苦痛を理解することができる。


今にも崩れ落ちてしまうそうなソフィアの肩に、ユエルの手がそっと置かれた。理由などない。ただ自然に手が動いていただけ。
同じく彼の胸に倒れこむようにして顔を埋めた彼女にも考えはないのだろう。そしてユエルはもう何もせずに全てを時間の経過に委ねた。

「――めん、なさい……」

ソフィアの掌がユエルの上着の袖を掴んでいる。小さな拳に込められた力は服に皺が寄るほどに大きい。そして押し寄せた嗚咽と大粒の涙。
決壊した川を思わせるその量の凄まじさにユエルはまず驚かされた。こんな小さな身体に一体どれほどの苦痛が押し込められていたと言うのか。


新たな進むべき道が見つかったような気がする。それでも彼の気持ちが晴れることはない。
可能性が見えたとは言え、彼はまだ何も掴み取ってはいないのだ。


考えることは山ほどある。自分のこと、これからのこと。様々な思考が頭の中で動いていたが、彼はそこで考えることを止めた。
今この瞬間は彼女のことだけを考えていよう。彼はそう決めたのだ。やるべきことは確かに多い。
だがせめて今だけこのままでいてあげよう。そう誓ったユエルはソフィアの泣き声が止めるまで、その場から離れることはなかった。









その同時期に、四機のACがE地区から姿を消した。多種多様な形状、武装を備えた彼らが向かう先は不明だったが、
飛び立つ最中に見えた四機中の内の一機は、まさに鴉の名を語るに相応しいまでの漆黒を身に纏っていた――。



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