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19.


一体自分は何をしにきたのだろうか。燦々と照りつける日光にさらされながら、ユエルはふとそんなことを思う。


だが、額に汗を滲ませ、歯を食いしばりながら階段を昇る現時では、その思考ももはや意味を持たない。
両手で抱えていた四角い物体をドスンと床に置き、腰を入念にほぐしながらも彼は再び長ったらしい階段を降っていく。


常日頃から身体を鍛えることは欠かさないと決めている彼だったが、使うことが滅多にない筋肉がこの日は運悪くフル回転。
特に重量感のある荷を抱えつつ階段を昇降する作業は、彼の腰に尋常ではない負担を負わせ苦しめている。


何故自分はこんなことをしているのだろうか? 全く違う目的を持って、ここに訪れたまではいい。
その家の主が眩しいくらいの微笑で迎えてくれたのもいい。だが、そんな彼女とは別に、
家具やら何やらを積んであった巨大な荷台をそこで見逃したのは、とんでもない失態だった。
おかげで彼は、軽い荷物だけを呑気に片付けていたセネカと階段上でばったりと遭遇し、こうして引越し屋まがいの重労働を強いられている。

「――っ! ああっ!」

いかにもといった重量感のある――持ち主の趣味を満載したダンボール箱を床に下ろし、ユエルは溜まった空気を勢いよく漏らした。
残る箱の数は後一つ。だがそれでも、彼の気分が晴れることは全くと言っていいほどない。

「腰が……」
「ごくろーさん、ごくろーさん」

専ら部屋の整理専門だと言わんばかりに、乱雑に置かれた様々なものをセネカは自身が定めた場所へてきぱきと並べていく。
明らかに軽作業全開なのは言うまでもなく、鼻歌を混じりでユエルが今しがた持ってきた紙箱をビリビリと開けながら言うセネカを見て、
ユエルはそろそろ自分の堪忍袋が臨海点に達しようとしていることを感じていた。

「……なんか他に言うことないのか、お前には」
「だから言ったでしょ? ごくろーさんって」
「少しだけって言うから手伝ったんだ。なのに何だよこの量は! 滅茶苦茶多いぞ!」
「多いから手伝ってって言っても無理に決まってるじゃない。あれだよ、言葉のあやってやつ?」

足腰に力が入らず、自然に落ちていった肩にポンと手を置いてはにかむセネカ。この時のユエルの立場はもう明確だった。
元からそれなりの知識を併せ持つ彼女だ、体力全開な状態でも口喧嘩では分が悪いというのに、これではもはや勝負にすらならない。

「それに、か弱い女の子を肉体労働させるなんて真似、ユウだったら絶対しないよね、ね?」

確かに。と彼が共感する時点で全ては終わっている。「はいはい。そうです、そうですよ」と適当に相槌を打ち、
きしむ身体に油を注いで、ユエルは腰に掌を据えながら作業に戻ることを決めた。


どうにも最近、頼みという頼みを断ることが出来ない自分がいるようだ。
その全てが全て、様々な厄介事に絡んでくるのを考えれば、最近の自分の境遇は、やはり巻き込まれたというよりは、
自分が自らの手で招いたと言うほうが正しいのではないか。元々気力の沸かない身にこの結論は痛いほど身に染みる。

「あ、ユエルさん」

その最も大きな要因としては、やはりこの二人の女性との邂逅か全てなのだろうか。
心を許せる唯一の戦友。そして、こうして自分を見つめ直すきっかけを生んだソフィア・ユーグという神秘性を帯びた女性との出会いが――。

「これ、少し重い、ですね……」
「ちょ、ちょっと! 何で君がそんな重いもの持ってるんだ?」

最後の箱、即ち読書家であるセネカの真骨頂とも言うべき本の塊、その三箱目である。それをあろうことかその女性――ソフィアが運んでいるのだ。

「俺が持つよ。そんな無理しなくても大丈夫だって」
「え? でも、かなり辛そうにしてたから……」
「大丈夫、大丈夫。まだまだ余裕だよ……って重っ!」

無理な中腰だった所為か、腰の辺りに鋭い電流のようなものが流れ、ユエルは歯を食いしばってその痛みに耐えた。
少し重い? 何を馬鹿な……。これは重いという限度すら超えているではないか。しかし驚くべきではそこではない。
男であるユエルですら音を上げるこの重さを、階段上段まで「少し重い」という表現だけで軽々と運んだソフィアの腕っ節は一体何なのだ。


真剣に問い質したくもなったが、その気力も瞬時に失われ、彼はは全身全霊を賭けて、その荷をセネカの部屋へと運ぶ。
腕がプルプルと情けなく振動するが構ってなどいられなかった。きょとんと一部始終を見ているソフィアに助けを求めるなども当然論外だ。
男としての意地が、限界寸前の身体にほんの少しだけ力を与えたのか。顔を紅潮させながらもユエルはなんとかその重箱を運び終える。

「セネカ……。一体何だよこの本の山は……!」
「何よ、人の趣味に文句言う気? 本って良いものなんだよ。感性つくし、枕になるし、紙にもなるし。あ、使い方によっては凶器としても中々いけるかも」
「そういうことじゃなくてだな……」

完全に燃料が枯渇したらしいユエルは、まともな反論すら述べることもできず、その場――つまりはセネカの部屋の床へ崩れ落ちる。

「あれ? ねえ、セネカ。ユエルさんに何かした?」

扉から首を出してソフィアがぐたりと倒れこむユエルを眺めて言う。
状況がいまいち把握しきれていないのか、そこには彼を気遣うといった意思は残念ながら込められてはいない。

「あー、大丈夫。……だと思う、たぶん。でも、一応何か飲むものでも持ってきてあげてよ? さすがに悪いしね」
「ほいほーい」

何とも間の抜けた声を漏らしながら、ソフィアはユエルの視界から消えていった。
小刻みに鳴る音が徐々に小さくなっていく。それが階段を降っていく音であるということはを考えずともわかった。

「こんなこともたまにはいいもんでしょ?」

ぬっとセネカの顔が天井を仰いでいたユエルの視界に現れ、彼はその瞳を見つめる。

「……たまには、な」
「ユウ、かなりピリピリしてたでしょ? だから、ね」

なるほど、全てお見通しだったのか。だがそうであったとしても、ユエルの気は晴れない。
少しは気遣ってくれたつもりなのだろうが、それでもこの仕打ちはあんまりだ。
その激しすぎるギャップにふとおかしくなったユエルは表情を緩めた。最近、笑うという行動をとっていなかったことにユエルはそこで気づかされる。

「なあ、どうしてこっちに留まるって決めたんだ?」

今まで心の淵にしまい込み、そのまま言う機会を逃していた言葉。ユエルはここぞというタイミングでそれを吐き出した。
わずかにセネカの表情が険しくなったがそれも一瞬。そしてそれはすぐに何かを含んだような微笑に変わっていた。

「わからない?」
「わからないな」

意味深な問いかけに、ユエルははっきりと自分の意思を伝える。

「……復讐だよ」

思わず「えっ?」と言う声が漏れ、ユエルは倒れこんでいた身体を無理矢理起こした。

「あのね。あのヴィルゴってレイヴンにイラついてるのはユウだけじゃないんだよ。ユウはまだマシ、軽く遊ばれただけで終わりだもん。私なんかボコボコ、ほんとにボコボコだよ? 自信もプライドもごっそり持っていかれて、それで黙ってられるほど私も大人しくないの。わかるよね?」
「……ああ」
「相手がイーズに現れたんだからイーズに腰を置く。これも当たり前だと思わない?」
「うん」
「ユウだって追いかけるつもりなんでしょ、あいつのこと。なら、一緒に追った方が負担が少なくて済むよね?」
「だけど、それは――」
「だからさ、私も手伝わせてよ。ううん、違う。手伝ってよ、ユウ」

一切の妥協を許さない強い意志が彼女の瞳の中に灯っている。こうなったセネカは止められない、昔からそうだった。
硬い一枚岩のようなこの意思を砕くことは容易ではない。自分には眩しすぎる。こんな意思もろくに放てないのが今の自分だ。
曖昧な感情論だけで動く惨めな自分とは、二倍も三倍も違うのがセネカ。今の自分にあるものといえば、ラスティから受け取った一握りの情報だけ。
結局自分は周囲に流されているだけ。何を信じればいいのかもわからず、ただ強い流れに乗って漂うしかない。そこに自分の意思などあるわけがない――。

「無理だよ」
「え……」
「俺には無理だ、セネカ」

先程と全く変わらない疲れきった表情でユエルは迷いなく言った。刹那、セネカの表情が凍りついたのは言うまでもない。
余裕に満ち溢れていた表情が、彼のその一言で粉々に崩れ去り、思わず現実を否定しようとする気配がセネカの顔から滲み出ていた。

「ど、どうして……? あれだけ遊ばれて、悔しくないの?」
「悔しいよ。そりゃもうとんでもなくイラついてる。でも、俺にはできない」

誘いを断るのは他に理由があるからだ。そういった意思を動揺が隠せないセネカに飛ばしてみたが、

「ふぅん、逃げるんだ」

半ば軽蔑するような視線がそれに覆いかぶさり、届くことはなかった。
わかりやすい挑発的な態度で迫るセネカを、彼は眉をしかめながら見つめる。

「ああ、認めてやるよ。俺はもうこれ以上面倒事に巻き込まれるのは御免だ」

徐々に険悪なムードが漂いつつあった。互いの言葉が毒に染まり始めるのも時間の問題と思えるほどに。

「……正直、ショックだよ。いつのまにか、ユウがこんな臆病になってたなんて」

すっと視線を外し、セネカはさらりと言ってのける。先程と同じ挑発であることはわかりきっていたのだが、

「あのな。これは好奇心とか仕返しとかそういった単純な問題じゃないんだ。俺はただ、そんなもののために首を突っ込むのが嫌なだけだよ」

冷静に受け止められる筈もなかった彼は、売り言葉に買い言葉でさらに場の空気を加熱させてしまう。

「妙な言い方ね。もしかして他に何かあるっていうの?」
「それは……」

あやうく口が滑りそうになったが、彼はどうにかそれを飲み込み、不信感を露にするセネカに再び視線を送る。

「いいよ。ユウが来なくても最初からあたしだけでもやる気だったし」
「そ、それは駄目だ!」

思いもよらぬセネカの言葉に、冷静を保っていたユエルの箍がそこで外れてしまう。

「やめろ。それだけは駄目だ、絶対に駄目だ。大人しく諦めろ」
「何よ。いきなり引き止めるなんて珍しい。嫌よ、絶対行くから」
「……下手すれば死ぬんだぞ。お前、プライドで命を捨てる気なのか?」

まともに戦っても勝ち目がないことは、彼女とて既に周知している筈。所詮ランク外のその他レイヴンとランク一位のヴィルゴ。
セネカの目にはその両者が半ば対等でもあるかのように見えている。もちろんそんなことは錯覚以外の何物でもないというのに。


プライド。彼女の勘違いの源は言うまでもなくこの一語に尽きる。一度決めたことならば、それが叶うまで決して止まろうとしないのがセネカだ。
他者からの干渉を病的にまで嫌い、己の決めた信念を貫こうとする姿勢は、端から見れば筋が通っていそうに見えるが、
ユエルから見ればそれは単なる不要物、または塵そのものでしかない。人はそんなもので形作られてはいないのだから。


ユエルが死という概念を悉く避けてきたのは、セネカの信念とはまた一味も二味も違った処世術を心得ているから。
死を望んでいた自分から、死を何よりも恐れるようになった自分へ。その一連の流れが、彼の中からプライドという単語を削除させた。


この瞬間に、互いが一歩も引かない均衡状態が構築されているのも、全てはお互いのそんな信念がせめぎあっているから。
この世に生を受け、そして数十年を経た上でそれぞれが見出した矜持。罵詈雑言程度では決して傷つかないその強固さは、
当分の間、二人の会話が平行線を辿り続けるであろうということを両者にそれぞれ自覚させた。


それを苦と思ったのか、セネカは討論を諦めたかのように強ばっていた表情を元に戻して、

「別にあたしが勝手に死んでも、ユウには何の関係もないじゃない」

と真剣さが微塵も見当たらない簡素な口調で呟いた。それが最も言ってはならない失言だとは彼女が知るわけもなかったのだが。

「何だよ、それ」

耳にしたユエルは、軽い失笑を漏らした刹那、眉間にいくつもの皺を形勢しながらセネカを睨み上げた。
何か考えがあったのならばこんな台詞は出る筈がない。にも関わらず彼女はそうして自ら冷静さを退け、
安易な言葉を簡単に投げ打って、その結果、ユエルの逆鱗に触れてしまった。

「ふざけるんじゃねえよっ!」

何の関心も沸かないような輩ならば彼は引き止めたりはしない。相手がセネカだからこそ、ユエルは是が非でも阻止しようとしているに過ぎない。
もう二度と失いたくないから。彼女を、彼女という存在を。心が壊れる寸前にまで陥ったあの絶望など二度と味わいたくない。
それなのに彼女はそんな想いを無下にしようとした。たとえその気がなかろうとも、冷静さを欠く今のユエルにはそれだけでも火に油を注ぐようなものなのに。


噴火しそうなほどの怒気を顔一面に晒し、溜めきれなくなったものから、順次口から怒号として空気中へ吐き出す。
ユエルの突然の咆哮に、セネカは顔を真っ青に染め、怯えたかのように後ろへ一歩後ずさっていた。

「勝手に死んでも、だと……! もう一回言ってみやがれ! たとえお前でも今のは我慢できな――」

もちろん、当のユエルにそんな動きは見えてはいない。彼は紅潮させた顔をそのままにしてさらに続けようとしたが、

「はい、冷たい飲み物持って来ましたよ」

突如、彼の首筋にコップが当てられ、その冷涼さによって完全に喪失していた平静が彼の元に帰ってくる。

「とりあえず、これでも飲んでちょっと頭冷やしててください」
「ソフィア……」

優しい微笑の裏に静かな怒りを携えながら、彼女は手に握ったコップをユエルの口元に寄せる。
彼の制止が掛かる前にそれは彼の唇にまで押しつけられ、中に入っていた柑橘系の液体を喉に流し込んでいく。
ひんやりとした冷たさが食道を通り抜けるのと同時に、それは込み上げていたユエルの怒りまでをも冷ます効果を示した。

「帰ってきたらいきなりこれはないですよ。ねえ、セネカ。わけを説明してくれる?」

コップを押し付けながら、ソフィアは目線をセネカへと向け直し、若干棘を含んでいるような口調で尋ねる。
視線が逸れたことにより、安定性を失ったコップが今にもユエルの口から外れそうだった。
そんな危機的状況を瞬時に察知したユエルは、すっと己の腕を伸ばしてそこで初めてコップを自分の手に取った。

「あ、え、えっとね。何ていうかその……」

自分のものとは違う力がかかったことに気づいたソフィアは、ユエルを一瞥するとすっと手を離して彼にコップを手渡すと、再び振り返った。
完全にユエルに背を向けた彼女の表情は彼には窺い知ることはできなかったが、セネカの口ごもる姿を見ると大方の予想はついた。

「……悪い、俺の所為だ。ちょっと熱くなりすぎてたな。君も勘違いするなよ。セネカに非はない。悪いのは全部俺だ」

全ての元凶は自分。それを既に自覚していたユエルはこれ以上状況が悪化しないようにと、二人の会話の中へ静かに押し入る。

「そう、なんですか」

ソフィアは彼の前に向き直り、いかにも意外だと言わんばかりの様子で呟いていた。考え込む姿を数秒ほど晒した後、

「喧嘩の最中に泣きそうになるセネカ、久しぶりに見ました。二人とも仲が良いんですね」

と彼女はまだ納得がいかないといった口調で再び口を開いた。
一体何を考えていたのか。それを激しく問いたくなるような内容だった。それはユエルだけではなくセネカも同じだったようで、

「何でそれで仲が良いって言えるのよ。ソフィア」

ソフィアの意味不明なそれに呆れた様子で言い返していた。対するソフィアと言えば、さも当然のかのように胸を張りつつ、

「ほら、喧嘩するほど――って言うじゃない」

さらなる混沌を生み出しかねない言葉を堂々とさらけ出す。素っ頓狂なそんな言葉に、
完全に毒気を抜かれたユエルとセネカは、押し寄せた無数の脱力感と虚脱感を、巨大な溜め息として虚空に投げ出すしかない。


仲が良い。外から見ればやはりそう見えるのだろう。確かに気を使わず、ありのままをさらけ出せる相手というのは、
ユエルにとってはセネカくらいしかいない。彼女と再会する以前は、いつもいつも己の本心を隠し続けて生きていた。
ラスティと出会ったことで無理矢理それを引きずり出される羽目にはなったが、とにかくそれ以前まではそういう存在は誰一人としていなかったのだ。


親友。ユエルにとってのセネカは間違いなくそのカテゴリの中に当てはまる。それは今も決して変わらない。
だからこそ許せないことがある。親友と認めているからこそ、引くに引けない状況というものがあるのだ。
そういう意味では、ソフィアの言うことも深く考えてみれば理解できないことに思えてくる。


しかし、彼の中に今ある感情はそんなものではない。そんな陳腐なものではとても説明がつかないほどのものだ。
思わず激昂してしまうほどに巨大で、そしてすぐ爆発してしまうような熱い感情。
互いの持つ信念がこれほどまで苛立つものとは思わなかった。こんなもの、以前からわかりきっていた確執だと言うのに。


どうして自分はこうも彼女がいなくなることを恐れているのか。どうして彼女の信念を歪めてまで引き止めようとしているのか。
異様なほどにそれに拘ろうとする自分自身が、ユエルには理解できなかった。

「そ、そうだ、ソフィア。君ってラスティのファンだったよな?」

ユエルが部屋の中がいつのまにか沈黙で溢れかえっていたことに気づいたのはそれからすぐのこと。
慌てた様子で心に広がっていたそんな靄を吹き飛ばしながら、彼はふとした提案をソフィアに聞いた。

「え? ええ、そうですけども」

数秒の間を置いてようやく意味を理解したのか、少しばかり驚いたような口調でソフィアは返す。

「昔のあいつの試合とか、映像で残ってないかな?」

いきなり聞くにはやはり唐突すぎたか。不意に湧き上がった自身の思惑を話すわけにもいかず、ユエルは後悔を滲み出しながらもさらに続ける。

「保存してあるやつならありますけど……」
「どれくらい?」
「一応、全部持ってます」
「ぜっ!」

絶句する彼をソフィアは若干蔑んだ様子で見つめていた。

「それくらい基本ですよ。今ならちょこっと工夫するだけでいろんなものが手に入っちゃいますからね」

これが次元の違いというものだろうか。熱の入り方がとにかく彼とは根本的に異なっている。
ユエルの期待値を遥かに超えていたセネカの変質的なまでのその執念は、やはり想像を絶するものがあった。

「じゃ、じゃあさ。あいつの引退試合を観てみたいんだけど、いいかな?」
「……あれを、ですか?」

それを境に、彼女の表情が一変していた。彼女の表情一つで、その映像の凄まじさが何となくわかる気がした。
ファンならば知らない筈がない一戦。それが今で言う元王者のラスティと現王者であるヴィルゴとの最初で最後の戦い。
ラスティの引退を決定的なものし、全戦無敗だった彼の戦績に唯一の汚点を刻み込んだレイヴン。それがヴィルゴだった。


その事実だけならば、レイヴンに詳しい人間なら誰でも知っていることだ。しかし、その内容を実際に生で見た人間は意外に少ない。
世紀の決戦を一目見ようと、尋常でない豪運を筆頭に、破格のチケット料金、またはそれを当日まで守りきる力などを限界まで費やした者だけが、
その光景を網膜に焼きつけることを許された。無論現場に立ち会えなかった者は、いつのまにか出回っていた映像でしか、彼らの戦いを見ることはできなかった。


ユエルもその中の一人。と言っても、彼が初めてラスティと出会った頃には彼は既に引退していた為、内容など確認できる筈もなかったのだが。

「無理なら別にいいよ。また他を当たるから」
「いえ、あるにはあるんですが」

妙に出し惜しむ彼女にユエルは不信感を募らせる。

「何か駄目な理由でも?」
「私、今から出かけなきゃいけないんです。それに、あれは滅多に手に入らない限定版で他のよりも画質が良くて編集も上手で、もうとにかく全部が完璧なんです。だから――」
「他人に触られたくないってことか」

ユエルはそうして彼女の言い難そうにしている表情の意味を理解した。収集家としては十分合格点の答えなのであろう。
彼にとってみれば理解しがたいことに変わりはないが、もしそれを故意に汚そうものなら、代価が恐らく弁償程度では済まないことくらいはわかる。

「ごめんなさい。あれだけは本当に駄目なんです。他のなら大丈夫なんですが――」
「まあ、それなら無理ないな」
「本当にごめんなさい」

ラスティ目当てなら他のものでも十分代用できそうなのだが、あいにく彼の狙いはヴィルゴしかない。
持ち主が近くにいただけ光明である、と心に言い聞かせ、彼は一旦退くことを決断した。

「ねえ、ソフィア? アリシアに頼めばいいんじゃない?」

とそこに、いつしか会話に入り損ねていたらしいセネカが、彼らの間にそんな言葉を差し込んできた。

「う〜ん。それも思ったんだけど、二日くらい前から連絡取れないのよ。いつもはそんなこと絶対にないのに」
「あれ、そうなんだ。旅行か何か?」
「さあ」

首を傾げるソフィアを見ても、ユエルにはそれがさっぱり理解できない。いつのまにかセネカに主導権を握られ、
一瞬で会話の輪の中から追い出されていたユエルは、当然のように割って入る。

「あ、あのさ。誰なんだ、アリシアって」
「この家の持ち主さんですよ」

ユエルの問いにも、ソフィアは全く動じずにさらりと言ってのけた。

「あれ? ここって君のじゃなかったのか?」
「私はただの居候ですよ。今じゃ子供たちの世話に手が離せないんで、ここが家っていうのも間違いじゃないですけどね。実家はコンフォートの方にあります」
「不思議な人だよ、アリシアって。ここもあっさりと貸してくれたみたいだしね」
「へえ」

未だ顔も知らない人物がここにいる。聞く所だけで想像するならば、彼女たち二人に家を預けるほどだ。放任主義的な思想がそこで窺える。


そして今は音信不通状態。これだけの要素から導き出せるものと言ったら、当然何もない。
これだけで判断しろ? とても無理だ。予測しようにも足りない部品があまりに多すぎる。

「あの人がいてくれたら安心して任せられるんですが」
「いないんならしょうがないさ。今度また見せてもらえばそれでいいよ」

ソフィアが自分のコレクションに触れることを許せる人物。それだけ全幅の信頼を寄せることのできる存在だということは聞いているだけでわかった。
本心をあまり見せないソフィアと、制御の利かないじゃじゃ馬の二人を、きちんと手なずけているような人物なのだから、さぞかし立派な人なのだろう。
そう思った時点で、ユエルの頭に便宜上保護者となっているあの憎たらしいにやけ面が浮かんできた。何を馬鹿な、と彼はそのイメージを即座に消すことを忘れなかった。

「わかりました。じゃあ、私は出かける支度をしてきますね」

空になったコップを手に取り、そう言い残しただけで、彼女はそそくさと部屋から出て行ってしまった。
残された二人の間にある、重たげな空気をそのままにして。

「……というわけだ。お前も少しの間待ってみる気はないか? 相手の力量くらい見てからでも決断は遅くはないだろ?」

重苦しいその空気を切り裂くようにして口を開いた彼は、先程とは違った落ち着いた様子を心がけながらセネカに語りかける。

「そんなに行かせたくないんだね、あたしを」

執拗に迫るユエルにさすがのセネカも諦め始めた様子だった。だが彼は「当たり前だ」とさらに語気を強めていく。
あまりに強情な彼の態度に、彼女は肩を落として嘆息する。それ故に「それにさ……」とユエルが呟いていたことは全く彼女の耳には入ってこなかった。

「仲間がいなくなるのはもう嫌なんだよ」
「え?」

言い終えた後に恥ずかしさが込み上げてきた。ほんの呟きの筈だったのに、わずかだがセネカに気取られてしまった。
「ねえ、ユウ。何か言った?」と問い質してきた彼女だが、

「何も言ってないよ」

と返すユエルを見て、すぐに何もなかったかのように口を閉ざしていた。ほっと胸を撫で下ろしながら彼はその横顔を見つめる。すると、

「タンス」

という彼女の呟きが聞こえた。自分なりに結論でも出したのか、どこかすっきりとした顔には、先程まであった曇った表情が消えている。

「タンス運ぶの手伝ってくれたら考えてあげる。どう?」

普段の気の強い彼女が帰ってきた。勝ち誇ったように人差し指を彼の方向へ指して、彼女はそうしてユエルを誘ってくる。

「えらくサービスが良くなったな。そんなことでいいんなら楽勝だ。任せろ」

自身の親指をぐっと立て、彼はその誘いを了承した。タンス程度で人の安全が買えるのだ。これほど割に合った作業はない。
そう鷹を括っていたユエルだったが、不幸にも複数あるタンスやら何やらを彼が全て片付け終えたのは、それから数時間以上も後のことだった。





戦闘を行うにも、まさにうってつけだった。過去の過ちの名残、もしくは歴史の汚点と言うべきなのか。建物の多くは無残に崩れ落ち、
地面のアスファルトは舗装もされておらず抉られたまま放置されている。そんな瓦礫の山と呼べるに相応しい旧市街地を、四機のACが駆け抜けていた。


E地区未指定区画に敵を誘い込み、そして撃滅する。それが今回の筋書きの大部分だ。簡単なように見えても、そこには思わぬ危険性が絶えずある。
例えば、絶対に目立ってはいけないことだ。A地区、つまりはアーセナルのように飽和寸前にまで膨れ上がっている状態ではとても戦闘など行えない。
あくまで事は極秘裏に行わなければ意味がなく、発覚した時点で失敗が確定する。それだけは何としてでも避けなければならなかった。


E地区――イーズが舞台として選ばれたことも必然に近いことだった。既に完成された都市であるアーセナルなどとは違い、イーズはまだまだ発展途上。
つまりは未だ開拓されていない地域、もしくは開発予定とされている区画がまだまだ十二分に存在しているということになる。
現にその未開発区画は、表沙汰にはならない裏取引や、レイヴンの仕事場としても有効すぎる場所となっていた。

「さて、獲物は餌に食いついているかな」

その中心にいた漆黒のAC――エリュシオン。その操者であるアゼルは己の集中力を高めていた最中にそんな通信を耳にした。

「そうでなければ困るさ」

通信機の先にいるレスターに向かって彼は淡々とした口調で返した。もし計画通りならば、彼らの進む先に目標がいる。
事前に用意した餌に食いついてさえいれば、後は単純だ。何の作戦も、思考もいらない。純粋に相手を叩き潰せばそれでいいのだ。


偽の依頼で適当なレイヴンを現地に向かわせることは、以前の戦闘でアゼルたちの情報がほぼ確実に露見していることを予期し、
作戦の一部として決定された。自分たちに害が及ぶようなものならば、ほぼ確実に奴らは何らかの行動を起こしてくる。そう踏んだからこその作戦だ。


囮役に抜擢した二人のレイヴンは多額の報酬をちらつかせた瞬間にその役を引き受けてくれた。もちろん彼らは己の配役を知る由もない。
アゼルたちが到着するまでに生き残っていれば、それで良い。もしそうでなくても特に何の問題もない。
利用するものは何でも利用する。金であろうと、ましたや人でさえも。
人間、非情になろうと思えばどこまでも非情になれるものだ。と言っても、いくつかの例外を除けばの話ではあるが。

「なあ、アゼル。どうして俺がまた遠方で待機なんだ。いつになったら前線に立たせてくれるんだよ?」

その例外の一つに唐突に話しかけられ、アゼルはふと顔をしかめた。

「俺に一度でも勝てたら考えるよ」

と冗談交じりで言ってみたものの、瞬間「げっ」と真に受けてしまったようなジンの声が弱々しく通信機から流れた。

「冗談だ」

アゼルがそう言い直すのと同時期に、

「ブリーフィングで文句言わなかったからだ。っていうかお前あの時寝てただろ? 今さら変更なんかできねえよ」

レスターが彼に代わって、本当の理由を代弁する。自由行動と合間にどれだけリアに付き合わされたのかは定かではないが、
いつもはうるさいジンがその日に限って目をうつろにしていたとあっては、やはりよほどのことがあったのだろう。

「へいへい。わかりましたよ」

自身の非をわかっているのか。意外にあっさりとジンは折れた。

「リア。いつものようにジンのことは任せる」

一切の会話に入ってこず、ただひたすらに己のアイギスを動かすことのみに集中しているリアを気にしてか、
アゼルはあえてそんな言葉を口にしていた。非情に徹するというのが彼の気概の筈だったのだが、何故かその時だけは、その感情も薄まってしまっていた。

「わかってます」
「いつでも動けるように準備しておいてくれ。いつ戦闘に入ってもおかしくないからな」
「ええ、問題はありません」

あれだけの猛抗議をしておきながらも、ジンと共にいつもと同じ後方待機をする羽目になったリアは、今何を思っているのか。
騙されかけた上、参加しても半ば裏切られたような配置。戦闘中にはほとんど言葉を発しなくなるのが彼女の常であるため、
アゼルには余計にその心情が読み取りづらかった。だがそれも少しの辛抱。二人はまもなく彼のこれまでの行動の真意を痛感することになる。それも酷く高い確率で。

「目標地点に到着。私とジンはここで待機します」
「……了解だ」

綺麗な横一線の形を成していた四機のACのうち、その両翼が急激に速度を落として列から離れていく。
様子を見るという名目があるが、そんな名目などぎりぎりまで彼らを戦線に加えたくないというアゼルの希望が作り上げた言いわけに過ぎない。
すまない、と心の中でそんな彼らに侘びつつ、アゼルはブースターにさらなる熱を加えていた。レスターのラグティスが何の問題もなくその背中を追随する。

「……変だな」

二機になってから、ものの数分も経たない頃、アゼルはふと自分の気づいたことを言葉にしていた。
それを聞いたレスターが「何がだ?」とすかさず当たり前の問いを重ねてくる。

「音がしない。銃声も、爆発音すらない」
「そういえば。そろそろ反応があってもおかしくない筈なんだが……」

ラグティスが背負う高性能レーダーですら反応がない。その事実にアゼルは顔を引き締める。

「どう思う? レスター」
「どうって、そんなもん決まってるだろ」
「だな」

反応もない。視界にも何も映らない。ならば導き出される解答は、もう一つしかない。
薄々は感づいていたことだ。この場所に降り立った時にも、囮役のレイヴンたちは連絡一つ寄越してこなかった。
その時点で気づくべきだったのだ。彼らは既に連絡できないほどの状況に追い込まれていたということに。


つまり、アゼルの目的は既にその時点で全体の半分をほぼ完了したということになる。二機のACをそこまで追い詰める敵がこの先にいる。
人の道を踏み外してまで力に執着しようとした愚かな連中。本来の目的を忘れ、ただそれだけを追い求めている狂人どもが。


必ず殺すと心に誓ってもう四年。因縁からで言えばもう七年にもなる。それだけの長い年月を費やし、ようやくここまで辿り着いた。
この日のために生きてきたと言っても過言ではない。実現されると思っていた理想を握り潰した奴らと、それを手助けした世界そのものに変革を。
そしてその人柱として犠牲になった人間のために、あの凄惨な過去から生まれた全ての穢れを清算するために、アゼルはあの時、舞台に上がる覚悟を決めた。

「っと反応だ。ようやく見つけたぜ。庁舎跡のすぐ近くだ。アゼル、行けるな?」
「ああ!」

緊張もない。むしろようやく全身全霊で戦えることに全身が昂ぶっていた。レスターの言葉に思わず勢い良く答えてしまったのもその所為だ。
憎悪、復讐心。戦う理由としては十分すぎる。何の目的もなくACを動かしていた時と今回ではわけが違った。
素直に全力を出せる喜び。復讐を果たせるという高揚感。今まで押さえつけていたそれらが己の中で解放されていく。

「見えた、あれだ!」

その声と共に全神経が彼の目に注がれた。視界が開けると共に、エリュシオンのディスプレイに彼が待ち望んでいた光景が広がる。
しかし頭で巡らせていた映像とは違っている部分があった。想像の範疇ならば、ここにはACが四機いる筈だ。
だがそのACの数が足りない。二機と二機。合わせて四機と思い込んでいたが、現実はたったの一機しかいない。原因は周囲には目を配ればすぐにわかった。


足りない二機の内の一機は、崩壊した建物の一部となっていた。頭部からビルの残骸に突っ込んでおり、躯体のあちこちからは黒煙が巻き上がている。
とてもではないが、中の人間が生きているとは思えなかった。それほどまでに現実離れした光景だったのだ。
普通ならばこんなことにはならない。誰かが意図的に叩きつけでもしなければ、こんな無残な姿に変貌することはまずありえない。


そしてもう一機はさらに悲惨だった。地面の上で仰向けとなっているまでは判別できるのだが、そこには何故かコアがなかった。
頭部、両腕、そして脚部だけがその場に残り、コアの部分だけがまるで何処かに消えてしまったかのようにごっそりなくなっている。
無論、そんな手品じみた芸当などありえる筈がない。よく目を凝らせば、それが猛烈な攻撃によって無理矢理溶解させられているだけだということに気づく。

「やれやれ、またか。今日は妙に忙しい日だね」

そしてアゼルが最後に残った一機に目を向けた瞬間、今まで戦闘をしていたとは思えないほどの無邪気な少年の声が彼の鼓膜を揺らした。
確かに少年の声だった。聞き間違えてなどいない。ジンよりも年下、良くて同年代。まだ幼さを残していたその声にアゼルはわずかな動揺を覚える。


目の前に映るのは、彼が今まで狙い続けてきたACそのものなのだ。暗褐色の装甲が不気味に輝く重装型AC。
そして凶悪以外の何物でもないその狂ったような武装は見間違える筈などない。名銃と謳われる巨大な銃身を擁したレーザーライフル。
ただ一挺でも戦況を十二分に変えることができる反面、その重すぎる重量故に使う人間を選ぶ代物であるのだが、
正直、常軌を逸しているとしか言い様がなかった。目の前のACにはそれが握られているのだ。しかも右手と左腕、それぞれの腕に一挺ずつ。

「ああ、あなたですか。中々現れてくれないので困ってたんですよ」

こんな馬鹿げたACを操っているのが、少年だというのもまだ馬鹿げている。どうしたら先に到着していた二機をここまで無残に破壊できるのか。
言葉の端々からも後悔というものが全く感じられない。正真正銘、遊んでいるとしか思えないその言動。
そんな残虐性も目の前の敵にとっては、アゼルそしてレスターを返り討ちにする前の準備運動でしかないのか。


さらに嫌な予感がした。目の前のACは先日ラスティに見せた写真に写っていたACで間違いはない。だが、そこに同じく写っていたもう一機のACがいないのだ。
初めから来ていないのか。だとするならば、相当に舐められている。ランク三位のレイヴンを含め何人もの上位ランカーを狩っている彼らにとっては、
自分の相手など、たったの一機で十分だと言うのか? 剥き出しの敵意がそのまま殺気として変換され、アゼルの神経はさらに昂ぶる。

「初めまして、アゼル・バンガードさん。お会いできて光栄です」

場違いなほどに爽やかな口調で、少年らしき透明感がある声が丁寧に言葉を漏らす。
だがそんな中で、アゼルは密かに感づいていた。その声の裏にアゼル自身にも勝らずとも劣らない圧倒的な殺意が含まれていたことに。
そして彼の興奮が収まりきらないのと同じく、少年もまた獲物を狩る寸前の獣のように戦闘時の快楽に酔っている。


二人のせめぎ合いがそんな空気を生み出していた。もういつ火蓋が切られてもおかしくはない。
周囲が純粋な戦場に変貌するまでの合間、彼らはひたすら対峙したまま、その場に立ち尽くし続けていた。



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