ARMORED CORE Stay Alive TOP

20.


喧騒すら聞こえない殺伐とした空間の中で、三つの機影が佇んでいる。
ところどころで建物の破片が風に乗って目の前を横切っていった。それなりの繁栄を築いた街も、
長年の紛争や災害により、いずれは荒み、そして朽ち果てていく。彼らが立つこの街も、その理からは逃れられなかったのだろう。


それを目にしても、アゼルには何も感想も浮かんでは来ない。こんな光景は何度と目にして、とうの昔に見飽きている。
既に廃れているのなら、その分遠慮する必要がなくなるため、むしろ好都合だった。
気負うことなく、思う存分戦えること。瞳に映る褐色のACを己の双眸で睨みつけ、アゼルはただそれだけに感謝していた。

「まさか、僕らに気づいている人間がいたとは。正直、思ってもみませんでしたよ」

少年とおぼしきその声が、アゼルの脳内へと運び込まれていく。無邪気すぎる感のある声質を聞くに、細工の類は行われていない。

「ああ、そうそう。『まさか自分たちの敵がこんなに若い奴だとは思わなかった』なんて言わないでくださいね。せっかくここまで出向いてきたのに、そんな雑魚みたいな台詞吐かれると失望しちゃいますので」

足元に無残に崩れ落ちたACの残骸を残し、アゼルの乗るエリュシオン。そしてレスターのラグティスが、
怪しく揺らめく褐色のACと向き合ってからすでに一分ほどの時間が経っていた。


対峙したときに感じた殺意は今は感じられない。だが、その純粋無垢な言動にも安心はできなかった。
彼の心を見透かしたかのような声色と、そこにさりげなく混ぜられた鋭い毒に、アゼルは口元をきつく結んだ。

「それにしてもわかりませんね」

滾る衝動を沈静化させられ、火蓋を切り損ねてしまったアゼルは、不意に訪れた敵からの疑問に、思考の大半を注いでしまう。

「どうしてあなたは僕たちを探していたのですか? 僕らとあなたがたには何の関係もない筈ですが」

相手の言葉には、思わず拍子抜けしてしまうような疑問が含まれていた。
だがアゼルは、小細工などまったく窺えないその口調から、ある程度の推測を巡らせ、
予定外の事態も考慮に入れつつ、情報の収集へと瞬時に作戦を切り替えることを密かに決めた。


敵側にもすでに有力な情報が出回っている確率は当然ながらあった。
だがそれは、アゼル個人に対する情報のみであり、それが直接、彼の過去――七年前の事件――に直結するわけではない。
アゼルの背後に潜むラスティが、自分の姿を曝け出すという愚行を犯さない限り、それはこの先も広まることはないだろう。


ということは、敵は未だに影で暗躍するアゼルたちの存在を掴みきれていないか、
もしくは、あえて知らないフリをしているか。このどちらかに限定されることになる。

「答える必要などない」

自身で導いた仮説を心の奥底に隠し、彼は相手の言葉を威圧的に遮った。
未だに敵の出方が窺えない異様な緊張感に包まれながら、アゼルは次に紡がれる言葉に神経を集中させる。

「フフ、随分と嫌われているんですね。ならこうしましょう。あなたがたの質問にも特別に答えることにします。情報収集はお互いに必要なことですからね」
「何だって?」

調子を乱される声がまたしても彼の鼓膜を叩いた。

「聞きたいことがあるんでしょう? 何でも構いませんよ。こちらとしても自分たちの敵の情報くらいは把握したいのです」

これが数多くの上位ランカーや、少年の足元に転がっているACをいとも簡単に屠った敵?
遊び心さえ垣間見せるこの少年らしき人間に、本当にあの身震いするような残虐さが備わっているとでも言うのか。
疑惑と不信感が募り、アゼルは猪突猛進するという先刻の感情が、ますます薄れていってしまうように感じた。
情報交換という、本来ならばありえないようなカードを、あろうことか相手側から提示するなど、当然ながら彼も思っていなかった。

「……お前の年齢は?」

どうにか主導権を握られまいと、アゼルは互いの立場を対等に戻すため、自身が感じた些細な疑問を相手に叩きつけてみる。
このままでは拙い。と本能が反射的に叫んだ結果だった。相手のペースに乗ることにメリットなどないのだ。そう心に言い聞かせながら。

「は?」

少年にとってもそれは思わぬ問いだったのか。彼はそのまま言葉を詰まらせる。

「年齢だ。質問には答えるんだろう?」
「今年で、十六になりますが」

予感が確信に変わった。やはり予想通りと言うべきなのか。十六歳、兵士としてはあまりに幼すぎる年齢だ。
いや、人間として見ても、まだ未発達な部分が目立つ年頃と言ってもいい。
若すぎるという結論を下したアゼルは、連動的に次なる仮説を打ち立てていた。

「なるほど。“はずれ”か」

そして彼は呟く。それもその場にいる人間全員に聞こえるように堂々とした口調で。

「今、何と?」

不意打ちとしては大成功と言えた。今までとはかけ離れた反応が、対面しているACから届き、アゼルは形勢の逆転を確信する。
少年の口から漏れた言葉の中には、さきほどの余裕などは欠片も存在せず、思わず戦慄を覚えてしまうほどの何かが含まれていた。
言うなればそれは、踏み込んではいけない場所に、あろうことか土足で踏み込んでしまったかのような感覚だった。

「理解できないか? なら言い方を変えよう。お前は“後期型”だ。違うか?」

少年の異変を無視して、アゼルは腹に溜まった様々な単語を並べ立てていく。
空気がはっきりと変わったのはそのときだ。いや、消え始めていた戦場が戻ってきたと言ったほうが良いのだろうか。
場違いにも思えた空気が、彼の発言一つで明確な変貌を遂げる。同時に、薄れていた戦意の昂ぶりも彼の身体に舞い戻ってきた。


場の空気を一変させた要因は十中八九、アゼルが放った“後期型”という言葉。
発端は、七年前の事変終結と同時期に、強化技術研究に必要不可欠な素材が、何者かの手によって悉く破壊されるという事件にまで遡る。


世界の目から身を隠すことに躍起になっていた当時のアーネンエルベに、
それを復元するだけの資金力はなく、断片的なデータだけをかろうじて残しただけという段階に留まっていたのだという。


数年後、徐々に復活の兆しを見せ始めた彼らの傍らには、事変当初と何ら変わらない戦力があった。
どこで何をしたのかは、アゼルが把握することはできなかった。無論、それは情報源であるラスティでさえも同じこと。
七年前に実戦投入されていた三人の強化人間の呼称にあやかり、彼らは新生“ゾディアック”と呼ばれ、精鋭中の精鋭として組織内に組み込まれていた。


人数、そして実力さえも未知数な彼ら精鋭部隊は、生まれ持った才能や適合能力から導き出される結果を元に、
その才能をありとあらゆる手段を用いて極限まで強化するという、かつての三人とはまた違うコンセプトの基にして生み出されていた。


ラスティの話によると、場合によれば、脳やその他の中枢器官への手術すら必要としない例もあり、
わずかな薬物投与と耐性試験のみでも生産が可能ということから、
従来の強化人間よりも被検体への負担は、飛躍的に軽くなるという利点が大きく誇張された。


当然、従来のものとは単純な戦力比では劣ってしまうが、量産体制という名目を整えるため、
アーネンエルベの狂人たちは、あえて替えの効かない虎の子の強化人間よりも、利便性に富むこちらを選んだのだという。
もちろん倫理的な観点から考えれば、これもまた道を大きく踏み外した禁断の領域であることに違いはない。


と、ここまでがラスティの弁なのだが、おそらく彼のことだ。これがどこまで真実なのかは正直定かではない。
だが、全てが嘘というわけでもないのもまた事実である。むしろ、眼前の少年がただならぬ反応を示した今では、
アゼルの中でくすぶり続けていたこの理屈は、ようやくの真実味を深めたかのように見えた。

「ついでにお前の質問にも答えてやる。俺たちは、お前を殺しにきたんだ。“アリエス”」

再び昂ぶってきた戦意が、まるで相手の神経を逆撫でさせるような発言をアゼルに繰り返させる。
御しきれない高揚が表面化したのか、彼は遂に少年の呼称までをも告げ、後戻りの効かない領域へ自らで足を踏み込んでいった。

「あまり俺たちをなめるな」

少年に与えられたコードネームはアリエス。そして、巨大なレーザーライフル二挺を構えた暗褐色のACは<アガスティア>と名づけられている。
敵の名前や機体の名称など、既に周知の事実だった。アゼルは最後通告の如く、それを相手に告げる。


敵の数? 種類? 能力? 敵から与えてもらうようなもの最初から要らない。情報源はしっかりと確保している。
だからこそ、彼は敵を捕え、さらには拷問を加えるといった生易しい手段を取る必要がないのだ。


全員例外なく皆殺し。慈悲も情けも、与えるつもりは毛頭ない。
誰であろうと敵と認識したものは問答無用で地獄へ叩き落とす。それこそがアゼルが望む唯一無二の願いなのだから――。

「フフフッ、アハハハハハッ!」

突然、耳をつんざくような騒音がコクピットを包む。収束する気配すらないような永遠にも思えるその笑い声。
一体、どこから聞こえてくるのだろうか。ふとアゼルは思い、そして気づく。この甲高い声質は間違いない、あの少年のものだった。

「……最高だよ、お前」

何かとてつもない邪悪なものに心を許してしまったかのように、彼の口調が大きく変わった。
愚弄、嘲り、そして侮蔑。止まない笑みの奥には、それらをふんだんに含んだ純粋な悪意がある。最初に感じたあの殺意はこれだったのだ。

「お、おい。アゼル。こいつは……」

恐怖すら覚えるその狂人染みた笑声にアゼルは息を呑んだ。レスターも同じような感想を抱いたのだろう。
狂っている。まるで、頭の中から何か大切なものを取り除かれてしまったかのようだ。
まさかこれが、この少年の本質だとでも言うのだろうか。アゼルは否定しなかった。何故なら、証拠と成り得るものは、敵の足元に転がっていたのだから。

「僕がはずれ? どこの口がそんなくだらない冗談を吐いているんだ?」

渇ききった嘲笑の残りかすを吐き出すように、少年は言う。もうそこに少年らしき無邪気さはない。
あのACに乗っているのは、少年の皮を被った怪物だ。見下しているとしか思えないような口調がそれを如実に物語っている。

「ちょっと猫被ってたらこれだもんな。しかも『俺たちをなめるな』だって? 雑魚が一人前に笑わせてくれるよ。それは僕の台詞だ」

すべてアゼルたちの出方を窺うための演技。ある意味納得だ。
これで、敵が行ったとされるありとあらゆる残虐非道すべてに説明がつく。

「にしても、さすがは“準危険人物指定”だけのことはあるか。とりあえずマークしておいて正解だったね。まさか僕のコードまでばれてるとなると、フフフ……」

敵――アリエスは歓喜に打ち震えているのか、楽しくて仕方がないといった口調が続いていた。
アゼルは理解する。彼は争いを求めているのだと。見逃す気なども毛頭ないのだろう。
二機のACを屑鉄に変えても、まだ飽き足りないというのか。言葉の端々から血に餓えた獣の如き圧迫感が感じられた。

「ねえ、これは真剣な提案なんだけど、僕も本気でお前らの背後について知りたくなってきたよ。情報提供者が誰なのか教えてくれないかな? もし教えてくれたら、殺すのはもっと後にしてあげるからさ」

力に溺れたものの末路は破滅と相場が決まっている。この街と同じように。
いずれは廃れ消え去る運命ならば、その引導はこの手で渡してやる。全身に力を込めながら、そして彼は告げた。

「さっきも言った筈だ。俺をなめるな」
「ハハ! だと思った。これでめでたく交渉決裂、だね」

この時だけは、見事に互いの利害が一致した。和睦などどちらも求めていない。彼らが求めるのはお互いの命そのもの。
脳から神経を昂ぶらせる物質が、絶えず分泌され、アゼルの昂ぶりはもはや制御できないところにまで昇り詰めている。
その昂ぶりを、彼は遂に殺意として全面に押し出そうとする。七年もの間燻っていた感情の全てを込め、トリガーを握った。

「じゃあ、さっさと死ねよ……!」

張り詰めた空気が、その一言で弾け飛ぶ。それよりも早く敵の攻撃は開始されていた。
暗褐色のAC――アガスティアから放たれた二つの閃光。薄く光る巨大なエネルギーの塊は、
アリエスの言葉と同時に、いや、それよりも遥かに早いタイミングで彼らの元に迫っていた。


間一髪で機体をずらし、どうにか回避に成功したエリュシオンとラグティス。
それ自体は偶然でも、ましてや奇跡でもない。全ては事前情報という要素が絡んだことによる必然だ。
温厚な少年を思わせた相手が、突如として狂気を秘めたそれへと変貌したのと同じ理屈に過ぎない。
こちらの常識など軽く突き破るほどの能力を敵は持っている。単なる不意打ち程度を回避できねば、この先一分と生き残ることはできないだろう。

「レスター、予定通りに行く」
「了解だ」

通信機越しにただ一言のみを加えたアゼルは、迷うことなく機体を後退させた。ラグティスもそれに続く。

「っと、逃がさないよ」

当然のようにアガスティアが、彼らに向け追撃の閃光を走らせる。二挺の銃口から放たれた淡青色のエネルギーが、
一発、二発と二機のACのコアに吸い込まれ、発生した熱が装甲を溶解させる。爆風と衝撃が脆くなった装甲をさらに弾き飛ばした。


おかしい。射線軸をほぼ完璧に読み取り、きちんと避けていたはず。振動でガタガタと震えるコクピットの中で、アゼルは不審に思った。
敵の腕部の動きを読み、これ以上ないほどの回避行動を取った。さらに相手との距離も秒速単位で離し、動きもきちんと把握した。
しかし、避けられなかった。敵が放つ殺人的な熱波は、まるで手品のように、エリュシオンの装甲をいとも簡単に焦がしたのだ。


嫌な予感が背筋に走る。機体があらかじめどのように動くのかを把握しているかのような精密さだ。
まさか、動きを読まれているのか? 思わずアゼルは疑った。予知能力でもない限り、とてもできる芸当ではないからだ。
敵の異質さを彼はいきなり痛感する。その間にも、さらに二発の閃光がエリュシオンのコアに突き刺さった。

「ちっ! わかってはいたが、やっぱりえげつねえ……!」

防御面に難のあるラグティスからそんな叫びが聞こえてくる。

「レスター、無理はするな」
「ああ、わかってるよ。クソッタレがっ!」

彼の機体にも敵の攻撃は絶えず行われていたようで、やはり数発を装甲の中心部が焼け焦げていた。
六発目の光が、さらにエリュシオンの装甲を食い破る。このままでは計画に支障を来たす。
と、判断したアゼルは、苦悶の表情を浮かべながら、当初の予定を大幅に繰り下げ、
機体を市街地の中に飛び込ませていった。ラグティスもまた、別の経路で彼と同じ手段を取る。


倒壊しかけたビルをバリケード代わりにし、どうにか敵の射撃を中断させたアゼルは、すかさず機体の損傷具合を窺う。
結局、回避できたのは最初の一発のみで、後に放たれた攻撃は全て直撃という悲惨な結末だった。
ここ数年では見たこともないような被弾率の驚異的な高さに、思わず顔を伏せたくなる。


これが敵の本領ということなのか。頭には入っていたが、いざ目の当たりにすれば、まさしく異常としか言えない。
今まで培われてきた常識が、あの攻防の間は全くと言っていいほど通用しなかった。
しかも、あの暗褐色の機体の恐ろしさはそれだけではない。畏怖の対象は、化け物染みた能力だけに留まってはいなかった。


両手に握られたあのエネルギーライフルも、またアゼルを驚嘆させる一因だった。さすがは長く名銃と謳われ続けているだけはある。
ACの身の丈にも匹敵する巨大な銃身。一発一発のダメージが強力なのは火を見るより明らか。
問題は、それだけの威力を孕んだものを、まさに百発百中に近い精度で撃ち放ってくる存在がいることだ。


正確無比、それ以外の言葉が見つからないほどに敵の射撃能力は、常人のそれを遥かに凌いでいる。
あのアガスティアという機体には、距離という概念が存在しないのだろうか。
まさか、捕捉さえしていれば、その全てを直撃させることができるとでも言うのか。


それがラスティの言っていた彼らの能力? 何だそれは。思い描いた思考がまるで絵空事のように見え、
アゼルは思わず吹き出しそうになった。だがすぐに笑えないと己を叱責し、彼はそれを飲み込む。


FCSの補正能力を底上げか、それとも別の手段か。
少なくとも、今の彼が理解し得ぬ方法であることには違いなかった。否定という現実逃避はもう許されない。
もはや可能性の問題ではなくなっている。何故なら、それはこうして披露されてしまっているのだから。


遮蔽物に身を隠し、とりあえずの安息を得たアゼルは、与えられたわずかな時間に対策を練る。
正面からでは、まず勝ち目がない。果敢に飛び込んだ瞬間に、あの精密射撃を叩き込まれるのがオチだ。


迫り来る弾幕の中を掻い潜ることや、多少の被弾覚悟で撃ち合うことさえも不可能だろう。
選択肢の大半を、戦闘前に自らで放棄せざるを得ず、彼は一人舌を打つ。


やはり当初の予定通り戦うしかない。妥協せざるを得ない立場に置かれ、彼は苦汁の決断を迫られる。
レスターには、初めからそのつもりで動いてもらってはいるが、なんとかして一人で戦えたら、という願望が彼にはあった。
だが結果として、それは不可能であるという決断を彼自身が決めた。どうしても仲間の協力がいる。一人ではできないことを成すために。


旧市庁舎前に敷かれた広大な敷地から離れて、市街地の跡が残る密集地帯へ。それが計画の第一段階だった。
結果を見れば、後退する際に敵の能力が遺憾なく発揮されてしまったわけだが、被害は作戦に支障が出るほどではないことは不幸中の幸いだった。


そう考えている合間も、彼はレーダーを逐一確認しながら敵との距離を計る。都市の名残ということもあってか、建物の数はやはり多い。
つまり、それだけ身を隠すことのできる場所が多いということだ。街の至るところに脇道があり、
それがさしずめ迷路のように複雑に入り組んでいる。奇襲にはもってこいの場所だった。


だがまだ足りない。ただ隠れるだけでは、状況は何一つ変わらない。アゼル自身がレーダーでアガスティアの動きを把握しているのと同じく、
敵もまたエリュシオンの位置を知っている。つまり、奇襲という最善策とも言える手段が、ここでは通用しないのだ。

「見ーつけた」

凄みのある低い声が、突然、スピーカーから響いた。と同時に、エリュシオンを囲んでいた建物の一つが、砂塵を巻き上げながら崩れ落ちる。
直後、目が眩んでしまうほどの光の応酬が始まるが、アゼルはすんでのところで離脱に成功しており、
元いた場所を一切振り返ることなく、彼は逃げるようにして、エリュシオンをさらに迷路の奥深くへと進ませる。


咄嗟の判断に神経の大半を注ぎ込んだ所為か、アゼルの額には冷や汗が滲み出ていた。まさに命がけの鬼ごっこだ。
どこに隠れているのかが大事なのではなく、重要視されるのは、あらかじめ見えている標的をどのように捕まえるかということ。
鬼が選択したのは壁越しからの銃撃。迷路の中を忠実に通り抜けて獲物を追うのではなく、目障りな建物ごと粉砕するという手段だった。


射撃開始をわざわざ告げるのを見る限り、敵は遊んでいる。死に直面した小動物がいかに足掻くかを見物し、楽しんでいる。
子どものやりそうなことだ。と敵の理不尽な行動に妙な納得をしてしまうが、相変わらず状況は笑えない。


幾度となく繰り返される追撃。思い浮かべるだけで、身震いしてしまうほどの寒気が背筋を走った。
その現象に疑問符が立つより早く、アゼルはその本能に従順に反応しエリュシオンを横に跳躍させる。
遮蔽物から水色の閃光が飛び出し、エリュシオンの頭部すれすれを掠めていったのはそのすぐ後だった。


今度は宣告なし。無数に建てられたビルが視界を遮り、エリュシオンからは敵の姿は確認することはできない。
しかし、敵にはその理屈が通用していない。まるで彼の姿が丸見えになっているかのようだ。


湧き上がる殺意そのままに飛び出していければ、どれほど楽か。数秒後に鉄の塊になるだけだ。と即座に却下され、
アゼルはまだ自分の理性がきちんと働くことを認識する。このまま逃げ続けること。
それが今のアゼルにできる最善の策。だが、敵に良いように弄ばれる現状は、彼の精神を限界寸前にまで蝕んでいた。


まだ動くことはできない。まだ第二段階に進むための、決定的な部分が欠けている。
それが終わるまでこの状況は続く。いや、続けなくてはならないのだ。

「ねえ。あれだけ殺すとかほざいておいてこれはないんじゃないの? それでもあんた上位ランカーなわけ? 少しはプライドくらい見せなよ」

挑発とも、単なる蔑みとも取れるアリエスの言葉が、寒気が起こりそうな哄笑と共に流れ込んできた。
平静と狂気の間を綱渡りのように行き交いする口調。裏側にあるのはやはり、自らに対する自尊心か。
自分こそが最強と信じ続け、それ以外の全てを見下しながら生きてきたことにより構築された鋼の思想。

「これは、まさか……」

と、前代未聞の能力をまざまざと見せつけられる中、アゼルはいつしか、別の観点から敵に対しての認識を深め始めていた。
行動、そして言動。その他もろもろを合わせて導き出された結論。それは、目の前の敵はやはりただの子どもでしかないのかという仮説だ。


力に溺れたものが達する偏った固定観念。他人よりも上であるというありがちな優越感。
油断という感情の裏には必ずこのような影響が必ず原因となっている。だとすれば、突き崩せるのではないのか。
鉄壁と思わせるその思考も、外部から力を加えてやれば、いずれは自重を支えきれずに自壊する。
人智を超えた怪物でもなければ、例外は認められない。戦いに塗れた七年という月日が、アゼル自身にそれを告げていた。


敵の内に咲き乱れる普遍的な観念。それを徹底的に破壊し、致命的とも言える隙を曝け出してもらう。
頼れるものは他にはない。悩む暇もない。彼は即断する。時間は掛からなかった。悩む時間すら彼にはなかったのだから。

「できたぞ、アゼル」

時を同じくして、何よりも待ち望んでいた言葉がレスターの口から寄せられた。

「すまない、レスター」

つい、いつもの癖が出てしまい、アゼルはほんのわずかな間だけ表情を弛緩させる。

「謝られるようなことしたか、俺?」
「……いや、なんとなくな」

緊張の糸を常に張り詰めていた割には、どうやらまだ余裕があったようだ。
だがここは、一歩間違えば瞬時に命を失う戦場。次の瞬間には、朗らかに見えたアゼルの能面も、幻のように消えていた。


顔が緩んだのは、何も油断や慢心からではない。今、アゼルにはレスターという全幅の信頼を寄せる仲間がいる。
孤立無援だった今までとは違う。増加する戦力値は単純な足し算などでは計れない。これはむしろ掛け算だ。


純粋な戦闘能力、選択できる戦術の幅、連携など。全てが絡み合い、強さという概念を何倍にも跳ね上げてくれる。
仲間とはそういうものだ。たとえ甚大なリスクを孕んでいたとしても、アゼルにとっては、なくてはならないものに他ならない。


レーダーや周囲の空気を鋭敏に感じ取りながら、頭の中で作戦を練る。浮かんだ概要を見つめながら、アゼルは自らに問うた。
が、答えはあらかじめ出されていた。先の見えない鬼ごっこはここまで。今度はこちらが攻める番なのだ。
がんじがらめの制約から、ようやくの解放を許されたエリュシオンは、初めて両手の武器を正面に構え、ビルの合間から飛び出していく。


エリュシオンが遂に敵の真正面に飛び出る。マシンガン数発とショットガンが一発。それらがエリュシオンがその瞬間に放てた全弾数だった。
アガスティアが、その重い銃身を持ち上げるより早く、行動を終えた漆黒はすかさず近くの建物の隙間に飛び込んでいった。


数拍置いて、敵のレーザーが遮蔽物を貫く。だがエリュシオンはそこにはいない。
と、その後すぐにラグティスがアガスティアの背後に現れる。
先程のエリュシオンと同様に、両腕の武器を小出しに吐き散らしつつ、ラグティスもまた乱雑する遮蔽物の中へと消えていった。


どうやら自分たちが敵の視界に入っていないと、あの超人的な精度は発揮されないらしい。
敵の能力が予知能力といったオカルトめいたものでないことを理解したアゼルは、頃合いと見計らって、

「どうした? さっさと捕まえてみせろ」

と、わざと挑発的な言葉を吐き捨てる。それも、相手の神経を逆なでするかのような口調ではっきりと。

「ふうん、何をするかと思えば。こんなチマチマした方法とはねえ」

口調にわずかだが苛立ちが混ざっている。二機のACがようやく動きを見せたのがいいが、その敵がまともに仕掛けてこない。
しかもだ。攻めると言っても、行動は敵の周囲を羽虫のように飛び回るだけ。敵が煩わしさを感じるのは当然と言えた。

「そんな無闇に撃っても全然意味ないだろ? さっさと出てこいよ。出ないと日が暮れるよ?」

アリエスが呆れたような調子で聞いてくる。虫唾が走る哄笑はまだあれど、これでもう遊ぶような真似はしてはこないだろう。
アゼルは続けて、ラグティスに向けて合図を送る。返事はない。だがその代わりだと言わんばかりに、一筋の火線が上空へと舞い上がった。


ACを覆い隠すほどの建物の遥か上まで昇った一発の光点は、ある高度まで達すると、そこで霧散する。
直後、その真下にいるアガスティア目掛けて、ありったけの爆薬を満載した破片が降り注いだ。


だが、捕捉能力のない爆雷はそれ以上の行動を取れず、迷うことなく、後退したアガスティアの影を破壊するに留まる。
虚しく地面を抉る音だけを耳にして、間髪入れずにアゼルが口を開いた。

「どうしたんだ? 雑魚相手に回避行動とは、らしくないじゃないか?」
「今の内だよ。好き勝手ほざけるのは」

初めて見せたアリエスの純粋な回避運動。羽虫如きに牙を剥かれ、敵は止むを得ず逃げた。結果だけを言えば別段難しい話ではない。
しかし、これで傷を負わせた。敵の肉体にではなく、その内にある鉄壁の自尊心に、はっきりとわかる裂傷を刻むことができた。


アゼルらに対する怒りが柔和な思考能力を侵食し始めるのも、もはや時間の問題か。
思い描いた通りに事が運んでいることに、とりあえず安堵の息をついた彼は、さらなる追撃として機体をアガスティアから遠ざけていった。
レーダーを見る限り、ラグティスも別のルートを経由し、敵との距離を離していく。


敵――アリエスは必ず追ってくる。だが、弄ぶといったふざけた真似はおそらくもうしてはこないだろう。
純粋に殺しに来る。でないと困るのだ。らしくない挑発までも差し込みながら、敵の憤怒に油まで注いだのだから。


意識を現実へと引き戻し、アゼルは再び行動を開始する。
繰り返される一撃離脱の構図。逃げるように距離を離し、ある地点で再び微量な攻撃のみを加え、また逃げる。
立ち並ぶ街の残骸がそれを可能にする。気づいているか? もう命がけの逃避行は終わっているんだ。
アゼルは視線のみで敵に訴える。が、当然のように、その回答はいつまで経っても返されてはこなかった。


すでにレスターの準備は完了している。絶えない牽制を続けながら、彼はレーダーを凝視し、その時が来るのを窺う。
今のところ、敵がアゼルの術中に気づいた様子は見られない。誰から見ても、あの少年は彼の挑発に嵌っているとしか思えなかった。

「……鬱陶しいな」

事が上手く運びすぎているのではないか。心の隅にわずかな迷いが走るが、アゼルは気にしなかった。
アガスティアは、まんまと彼らの思惑に嵌まって、あの場所へと着々と導かれている。いまさら迷うという選択はありえない。
あそこまで誘い込むことができれば、勝利は決まったようなもの。難しいのは、そこまでどう導くかということだけだ。


もうすぐ、もうすぐで待ち望んでいた復讐が果たせる。一歩一歩目標に近づくたびに、アゼルの心は躍動する。
相変わらず固い能面の奥には、隠しきれないほどの歓喜が渦巻き始めていた。
それはアガスティアが、とある交差点の一角に足を踏み入れた瞬間、遂に臨海に達した。


アガスティアが誘い込まれた場所は、何の変哲もないただの交差点の中。
異なるのは、移動を妨げる障害が左右前後ともに存在しないこと。
そして十字路の至るところに、ラグティスが事前に仕掛けたおびただしいほどの地雷が点在していることだ。


敵が交差点に入った刹那、その地雷の大部分が猛烈な轟音とともに炸裂する。
これまでとは比較にならないほどの振動が周囲一帯に広がり、衝撃が地面を砕く。
抉り取られた地面に、当然のようにアガスティアは足を絡め取られた。
不恰好に体勢を崩した敵への追い討ちなのか、それに連動するように複数の筋が上空に舞い上がる。


エリュシオンは単なる囮役に過ぎない。今回の主役はアゼルではなくレスターなのだ。
近距離特化のエリュシオンでは、どう頑張っても敵の射撃能力から逃れられない。それが現実だ。
だからこそ、彼らはこの舞台を選んだ。そして、そのステージを最大限活かすことができるのは、レスターのラグティスを置いて他にはいなかった。


ラグティスはエリュシオンが敵の弾幕からの逃亡を図っている最中に、この場所に一種の聖域を作り上げた。
それは踏み込んだもの例外なく飲み込む魔の領域。土埃が舞う中、抉られた地面の中心でアガスティアはもがいていた。
その上空で二発の爆雷が弾け、無数の火薬が真下のAC目掛けて降り注いでいく。


これで終わるわけがない。舞い上がる粉塵で機影が見えなくなっても、アゼルは尖っていた神経を緩めなかった。
アリエスは必ず逃げ切る。逃げ道は四つ。前か後ろか左か右か。あの少年はその内のどれを選択するのか。


そしてアゼルは、少年は必ず前か後ろに逃げることを知っていた。何故なら、
地雷が炸裂するどさくさに紛れ、彼とラグティスは互いの武器で十字路の周辺のビルを崩し、左右を塞いでいたからだ。


塞ぐと言っても、付近の建物を軽く壊し、大量の残骸を道の上にばら撒いた程度だが、
爆雷という死の鎌が頭上を揺らめいている瞬間に、悠長に道を選ぶ余裕などない。人はそういう時こそ、より安全な方向を反射的に選びたがるものだ。


前方のエリュシオン、そして後方のラグティスが敵を迎え撃つ体勢を整える。
ショットガンを早々に放棄し、ビルの破片をばら撒くために用いたブレードを左手に抱えながら、
エリュシオンは敵が来るのを待つ。だが、数秒待っても敵の姿は土煙と爆炎の中から飛び出してはこない。


敵は後ろに退くことを選んだのか。直後、上空の爆雷が未だ炎揺らめく地面を一層の爆炎で彩った。
その跡を踏み越えながら、エリュシオンは敵の姿を追うために地面を蹴る。


視界を覆うほどの濛々とした煙を潜り抜けた先に暗褐色のACはいた。ラグティスもまたアガスティアの後方にいた。
これでもう敵は逃げられない。左右を遮蔽物で囲まれ、前後を二機のACが挟み撃ちにしているのだ。
上空に逃がすことも許さない。アガスティアの頭上には、真新しい発光体が真っ白な筋を描き、敵を睥睨している。


エリュシオン、そしてラグティスが、それぞれの手でもぎ取った好機を逃すまいと、ありとあらゆる武装を撃ち放つ。
だが、アガスティアからは悲鳴の一つすら上げず、ようやくの正攻法に打って出た彼らに向け、右腕をゆらりと持ち上げる。


標的にされたのはエリュシオンであった。だが、あらかじめ覚悟していたことだ。
どちらかが敵の的となったとしても、前と後ろ、すなわちどちらかの攻撃は必ず通る。


エネルギーの塊が大挙して押し寄せ、エリュシオンの装甲を砕いていく。コクピットに響く警告音などアゼルの耳には入らなかった。
止まることなどできない。目の前の敵にとどめを差すまでは、握ったトリガーは決して離さない。離すわけにはいかない。
たとえこのままこの機体が崩れ落ちようとも、ラグティスの攻撃は確実に敵の背後を捉えている。
何より、このまま一歩でも動かなければ、敵は即座に爆雷によって跡形もなく粉砕される運命にあるのだ。

「さてと……」

どこにも逃げ場はない。このままこの状態が維持されればまず間違いなく敵は死ぬ。彼の念願であったものがようやく成就される。
七年を費やし、ただひたすらに待ち望んでいた復讐が完成する。長かった日々にようやく光明が見える――。

「死ねよ、このクソガキがっ!」

と、そのときひどく場違いな声が、極限の覚醒状態にある頭になぜか強く響き渡っていた。
次いでレスターの叫び声が聞こえる。だが、アゼルの全身には強烈な悪寒が這い回った。
疑問に思うアゼルだったが、彼の腕はもう止まらない。エリュシオンの左腕には金色の閃光が展開されており、
あと数秒もあれば、それを腕ごと敵のコアに突き刺せるところまできている。今さら止まれるわけがなかった。


その決断がアゼルの運命を決定してしまった。漆黒の機体を叩いていたエネルギーが、突然別の方向へと向いたのだ。
刹那、アゼルの視界に無数の瓦礫が映り込み、彼はやむなくエリュシオンの速度を緩めてしまう。

「くそっ! こんなときに……!」

思わず本音が零れた。その一瞬のタイムラグの合間に、頭上の爆雷の束がアガスティア目掛けて飛来する。
周囲の建物までをも巻き込み、その壮絶さに比例するかのような轟音が、アゼルの耳元で暴れ狂った。
あたり一面に今まで以上の粉塵と煙がゆらめき、アゼルは再び敵の姿を見失う。と、そのとき、

「ハハハッ! 残念だったねえ」

と、酷く甲高い声がスピーカーに流れ込んできた。そんな馬鹿な……。
聞こえる筈がないその声を聞き、彼は我を疑うとともに、生まれてこのかた感じたことのない絶望と後悔に身を切り裂かれそうになった。


違う……! 聞きたいのはお前の声ではない。聞くべきはあいつの、レスターの声だ。
だが、そんなアゼルの思惑に反して、レスターの声は一向に聞こえてくる気配がない。

「レスター?」

煙が晴れ、不明瞭だった視界が明瞭となる。その先にはいるべき筈のACはおらず、
代わりに、もう存在していない筈の暗褐色のACが悠然と聳え立っており、アゼルをその凍てついたバイザーの閃光で睨みつけていた。
その絶望的な現実。違いと言えば片方の腕から火花を散らせていることくらいか。だが、そんな差異などで見間違えることなどありえない。
アガスティアの側面に崩れ落ちる見覚えのあるACの姿を目の当たりにし、彼はようやく見知らぬところで起こっていたことの顛末を知った。

「ま、雑魚にしては結構考えた方だとは思うよ」

必死に目の前の光景を否定しようとする意識に反して、アゼルの身体はすべての筋書きをきちんと理解していた。
アガスティアは逃げたのだ。あの少年は、二度目の爆雷が地面に降り注ぐよりも早く、機体を後退させてその場を離脱した。
その後ろに肉薄していたラグティスを、完全に無視した状態で。


さきほどの余裕が消失し、これまでにない動揺に苛まれながらも、アゼルの思考はお構いなしに状況を分析していく。
おそらく敵は、華奢なラグティスの体躯に向けて、加速させた己の機体を叩きつけたのだろう。
文字通りの体当たりだ。肩から肘にかけて、敵の機体が激しい火花が迸らせているのも、その代償と考えれば納得できた。


軽装なフォルムをしたフロートと重量二脚。どちらがより酷い損傷を被るかは、もはや考えるまでもないこと。
接触間近ということもあり、おそらくラグティスは、衝突を避けるために減速していた筈。
それら様々な要素が後手に回り、一つの結果を生み出した。すなわち、交通事故でも起こったかのように、
激しく吹き飛ばされたラグティスが、建てられた建造物に深々に突き刺さり、そのまま動かなくなったことだ。

「にしても初めてだなあ。こんな罠に嵌めようとした奴は。良かったね、人に自慢できるよ」

アガスティアは確かに損傷している。前後からあれだけの攻撃を浴びせたのだ。しかし、この絶望感は何だ?
互いにそれなりの手傷を負ってはいるが、一転して、状況は最悪を遥かに超えた。正直、ほんの数分前が幻としか思えないほどだ。
何も誤ってなどいなかった。何から何まで全て順調だったのだ。それがどうして、どこで道を見誤ってしまったと言うのか。

「面白そうだったからわざと何もしなかったけど、さすがに最後まで行ったらヤバかったね。もう少し早く終わらせておくべきだったかな」
「……まさか最初から、全部?」
「あれ? もしかして気づいてなかったわけ?」

途端に、子どもとは思えないほどに腐りきった哄笑がコクピット内を侵食する。アゼルを見下し、蔑み、罵倒し、愚弄し、嘲笑っている。
否定はできない。確かにその通りだ。前代未聞の恥さらしと無慈悲に宣告されても、もう彼に否定するだけの力は残っていない。

「まさか本当に信じてたわけ? ハハハハッ! ほんとに笑えるよ。こんなに協力してやったんだからさ。少しはおかしいって思えよ」

止め処なく溢れる狂笑は未だ治まる気配を見せない。この少年にしてみれば、確かに腹筋がちぎれるほどの結末なのだろう。
結果は最悪以上の何物でもないが、結果的には敵を誘い込むことはできた。アゼルの目論見はある意味成功していたのだ。

「頑張ってたのは認めるけどね。でもこれだけ頑張っても、お前らが殺せたのは腕一本だけ。ククク。本当に、無駄な努力ご苦労様」

計画に狂いはなかった。ただ、本当の筋書きがそれよりもずっと前から用意されていただけに過ぎない。
戦闘の際に微かに感じた疑念も、いまさら何の意味もなかった。気づいたところで、あの状態ではもうどうすることもできなかった。


初めから、自分はこの少年に踊らされていただけ。自身が単なる役者にしか過ぎないことに気づかず、
あたかも成功したと過信し続け、面白いように操られているとも知らずに、
そして、この最悪の結末を自らの手で手繰り寄せてしまった。これではまるで道化ではないか。


あれほど昂ぶっていた気概が今では欠片も見られず、全身への虚脱感、任務失敗という絶望、そして敵に対する恐怖心。
それらが、薬の副作用のように大挙してアゼルに襲い掛かってくる。抗うことは今の彼には不可能だった。

「あ。でも、もう一回同じことすれば、今度は上手くいくんじゃないかな? ってもう無理かあ。こいつもう動けないもんね」

レスターからの応答も一切寄越されることはなかった。
アゼルにわかるのは、ただ激しく火花を散らすラグティスが、この先動くことはないということだけ。
無残な光景を目の前にし、アゼルはただ言葉を失う。その隙を見計らっていたように、走馬灯の如き映像が彼の頭で暴れ狂った。


それは十年以上の間に積み重ねてきたレスターとの記憶。そんなものを見せるなと闇雲に否定しようとする彼だったが、
どうしても身体の震えが止まらない。止まってくれない。渦巻く感情のうねりに翻弄され、彼はレスターの安否の確認さえも蚊帳の外に置く。


まだわからない。まだ応答がないだけだ。ただの通信機の故障なのかもしれない。気を失っているだけなのかもしれない。
ラグティスはまだそこにいる。機体は死んだかもしれないが、それで彼が死んだわけではない。
にも関わらず、胸が痛いほどに締め付けられる。身体に力が入らず、弱々しく震える腕を押さえつけられない。
レスターの死という想像が、己の心を紛らわせるだけの脆い希望を、ものの見事に打ち砕いていく。


どんな言い訳も現実逃避もこの現実には敵わない。それがアゼルの視界に広がる真理だった。
既に屍に等しいラグティスには、レーザーライフルの銃口がしっかりと向けられている。レスターが死んでいればそれまでだが、
仮に彼が生きていたとしてもこれでは成す術がない。下手に動けば、ラグティスはその瞬間に、今度こそ跡形も残らず灰燼に帰すだろう。

「じゃあ、あんたも十分身の程ってやつをわきまえたところだし。こいつ殺すよ? 俺のことクソガキとか言いやがって。すごくムカついた」
「ま、待てっ! レスターには手を出すなっ!」

動かなくなったラグティスのコアにレーザーライフルの銃口が当てられる。
その光景を見た刹那、アゼルはこれまで発したことのないような大声を響かせる。
それは、七年という月日の間、彼が必死に抑えつけてきた自我が発露した瞬間でもあった。

「ハハハ、なに本気にしてるんだよ馬鹿。冗談だよ冗談。あんたにはまだ聞きたいことがたくさんあるんだ」

銃口から光が迸ることはなかった。渇いた嘲笑が何度も何度もアゼルの鼓膜を叩き続ける。
己が愚弄されているのにもかかわらず、アゼルは反論の唱えるわけでもなく、ただそのせせら笑いを聞き続けた。

「怖い?」

アリエスが問う。が、彼に言葉を選ぶ余裕すらないことを知っているのか、すぐに別の言葉が重なった。

「怖いんだったら、助けでも呼んだらどう? 例えば、そうだね」

しばらくの間を置き、再びアリエスの声が響く。

「遠くで待機してる“あの二人”とかにさ」

黙したままでいたアゼルが、その一言をスイッチに跳ね起きる。今こいつは何と言った?
思わずスピーカーに目をやるアゼルだったがが、そこには求める声はなく、ただ溢れんばかりの狂笑がこびりついていた。

「繋がるといいねえ。下手すれば二人とも、もう死んでるかもしれないから」

胸が焼け付くような熱さを示した。何故、こいつが二人のことを知っている? 姿すら見せていない筈の人間をどうして――。
そこまで考えた瞬間、アゼルの目は大きく見開かれていた。最初に感じた違和感の正体が、ようやくわかったからだ。


己の失態を戒めることもせず、アゼルは飛びつくようにしてマイクに手を掛け、待機しているはずのジンとリアに通信を送った。
繋がってくれ。という切なる願いとともに、必死の呼びかけを試みるが、彼の思惑に反し、応答は一切なく、沈黙のみがコクピットに流れ続けた。

「……っ!」

繋がったのはウルスラグナ、つまりはジンの機体のみ。アイギスに至ってはさらに酷く、通信すら繋がらなかった。
そういうことか。二人の安否すら確認できない決定的な原因を、アゼルは一人理解し、そして己の唇を噛み締める。


敵の姿を写した写真に映っていたのは、目の前のACだけではない。あの写真の中には、もう一機いた。
現れたのアガスティア一機だけだったため、アゼルは不覚にも、その重大な情報を意識の外に飛ばしていた。
今思えばなんという甘すぎた思考なのだろう。今までアガスティアが単独で行動としているとばかり思っていた。だが違った。


初めから、敵は二機いたのだ。


最初から何もかも見透かされていた。この状況を招いた最大の原因は間違いなく自分。
全部自分の所為だ。自分が何の関係もない三人の命を危険に晒した。自分の所為で三人が死んでしまう。
どうすればいい。どうすればこの絶望的な状況を打開できる? だが、問いかけてもそれに応えてくれるものは誰一人としていない。

「さっきお前が言った言葉、そっくりそのまま返してやる。……僕たちを、舐めるな」

代わりに低い声調が響く。孤独に成り果てた男は、ただその声を聞き、そして己の全てを呪うしかなかった。



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