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23.


心地よい風から一転して、ひんやりと肌寒い風が肌を刺す。雲一つない快晴は陰湿な気分すらも溶かしつくすだけの温かみを持っていた。
しかし、それは日なたに限られることらしく、燦々と日が照りつける道筋から少し離れれば、そこはいつものじめじめとした日陰が待っていた。


晴れていようが、曇っていようが、その細い路地裏にはほとんど関係がないようで、
まるで日の光などなくても生きていけると言わんばかりだった。薄暗さを際立たせているその通りを、ユエルは一人黙々と通り抜けていく。


意外な抜け道を発見してからおよそ数週間。利用したのはこれで三度目か。心の中で反芻しながらユエルは歩き続ける。
人が群れを成して行き交う大通りに、ようやく耐性が身につき始めた彼であったが、未だに苦手意識は払拭できてはいなかった。


道を外れて人目がつかないような通りを何のあてもなく歩き回った結果、彼はソフィアの家の前に行き着いた。
どうにかして目立つあの通りを避けようと、様々な道を探索してきたので、近道は簡単に探し当てることができた。
距離を計算してみたところ、彼のガレージとはそれほど離れてはいなかったようで、こんな近道があるのなら、最初から教えておけよ。
と、それを知ったときの彼はあえて遠回りの道筋を教えたセネカに対し、軽い悪態をついていた。


そして今日も自らで見つけ出したルートを迷うことなく驀進し、ユエルは彼女の家を目指していた。
訪れる間隔は日増しに短くなっていた。一日分の仕事を終え、暇があれば向かう。最近はその展開ばかりだ。


仕事を終えれば自室に篭もっていたころに比べれば、幾分かはマシになっている。と彼の同僚の何人かは口にしたが、
実際のところ、依存する場所が変わっただけという意見も少なからずあった。ユエルもそれは薄々と自覚し始めていた。


自分はあの家に依存している。気が向けば、意識があの家に向いてしまうのだ。だがどうして?
そもそも自分は何に依存している? 知り合いがいるからか。それとも舌鼓を打つような料理を口にできるからか。
だがその解答は得られない。近道などを発見してしまったが故に、彼の思考の時間は恐ろしく短縮されてしまっていたから。
今回もそれは同じで、展開していた様々な思考をまとめる前に、ユエルの腕は自然と玄関のドアをノックしていた。


すでにそのころには、彼は事前に通告されている暗証番号付きのドアを潜り抜けている。
いつもなら、その瞬間になるとソフィアが向こうから出迎えてくれるのだが、今回に限ってはどういうわけか彼女の出迎えはなかった。
ドアをノックしても反応がなかった。おや、と彼がようやく違和感を持ち始めた刹那、唐突にドアが開く。

「ぬあっ!」
「あ、なんだ。ユウか」

勢い良く開かれる扉に、もう少しで顔を打ち付けるところだったユエルは、身体を後ろに逸らすことにより、なんとかそれだけは免れた。
咄嗟の反応を見せた彼が理解できなかったのか、パチパチと目を瞬かせながら、セネカがドアの隙間から顔を覗かせていた。

「お前なあ。人がいるってのにその開け方はないだろうが」
「あ、ごめんごめん」

反省の色など微塵もない平謝りであることは疑う余地もなかった。

「で、何か用?」

これも違う。ソフィアなら要件を聞かずにすぐに出迎えてくれるのだから。
顔だけを外に出し、じろじろとユエルを眺めるセネカと、普段の情景とを見比べながら彼は思った。
しかし、本来の目標にいきなり出会えたことは、彼にとっては手間が省けた分、それなりに幸運だった。

「お前、暇か? もし暇だったらちょっと付き合ってほしいんだけ――」
「あ、ごめん。今は無理」

悩む素振りすらまったく見せず、彼女ははっきりと言いきった。

「どうして?」
「ソフィアが、ちょっとね。熱出して寝込んでるの」
「熱?」 

意外な答えに、彼は目を丸くする。

「風邪か?」
「たぶん、ね」

セネカの、心なしか暗い顔色がそこでようやくユエルの目についた。
数分前から感じていた違和感に説明が施され、溜まっていた些細な疑問を解決した彼は、

「で、あたしに何か用でもあったの?」

と、身に覚えがないといった表情を浮かべながら聞いてきたセネカに対しても、努めて冷静に応えることができた。

「いや、暇だったらちょっと機体のシミレーションでも手伝ってもらおうかって思っただけだ。それほど大したことじゃない」
「それなら、あたしじゃなくて他の人に頼めばいいじゃない」
「まあ、それはそうなんだけどな」

頭をポリポリと掻きながら、ユエルはばつが悪いような素振りでセネカの顔を見た。
すると彼女は何かを思いついたように、目と口を大きく開け、そして彼に向けて言う。

「そうだ。今からあたしがあの子に料理作ってあげなくちゃいけないから、その間だけユウが見ててよ」
「見ててって。俺がか?」

自分を指差し、改めて確認を取るが、セネカは自信に満ちた表情でコクリと首を縦に動かせた。

「暇なんでしょ? あたしが作るまでの間だから。ね?」
「いや別に、それは構わないが」
「よし決定。んじゃさっさと上がってよ」

こんなことなら、暇だなんて言わなければ良かった。その所為で、言い訳の方法のいくつかを、不覚にも自分で握りつぶしてしまうとは。
そして極めつけは彼を見つめてくるセネカの、その丸みを帯びた瞳から溢れ出る懇願の眼差し。だがそれは完全無欠の罠だ。


美味そうな餌のすぐ後ろには、さながら針のように鋭く輝く彼女の計画が潜んでいる。
自分の弱点があるとするならばそれは、見破っているのに結局断りきれずに深々と嵌まってしまう、この弱々しい意思だろう。
と半ば自虐的に己を戒めたユエルは、今回もセネカの頼みを断りきれずに、渋々といった表情を浮かべながら家の中へと足を踏み入れてしまった。

「医者にはもう見せてあるの。彼女は嫌がったけどね」
「嫌がったって。どうして」

玄関を潜り抜けたところで、セネカはどこか気にかかる言い回しを加え、ユエルは案の定それに興味を示した。

「あの子がね。『大したことない』って言い張ったの。想像できる? 顔真っ赤にしてたのにだよ?」
「でも、結局は呼んだんだろ」
「うん。あたしの知り合いのやぶ医者だけどね。やぶ医者だからって話したら、やっと了承してくれて。この際だから、痛い出費は目を瞑るしかないよね」
「で、症状は?」
「ただの風邪。悪い菌でも入ったんだろうってあいつは言ってた」

そうか。とユエルは息をつく。セネカや彼自身ならまだしも、レイヴンでもないただの一般人のソフィアが、
正規の医者を拒むというのはどこか異常なことにも思えた。周囲の目が厳しいレイヴンなら納得できなくもないが、
彼女は一般人なのだ。不自然と言えば不自然なことである。だが、

「そういうことか。で、話は変わるんだが」
「ん?」

唐突にあることを思い出した彼は、存在していた思考のほぼすべて消し去って、再び彼女に尋ねた。
一人で勝手に悩んでいても、意味などない。先程までの思考はそうして、彼の頭から消えていった。

「その料理ってまさか、お前が作るのか?」
「そうよ、当たり前じゃない」

怪訝な目つきで、ユエルを睨みつけるセネカ。文句あるかと言わんばかりに意気揚々としているが、
ユエルにしてみれば、それは大きな間違いだった。勘違いにもほどがあるぞ。とぼそりと呟く。

「大丈夫だって。スープくらいじゃ失敗するわけないから」
「それでも失敗するのがお前なんだ。俺が思うにだ。お前が出せるものっていったら、冷蔵庫にあるプリンくらいが妥当だろう」

適当に相槌を打てるような状況でなかったことは確かだった。目の前に差し出された、どす黒い澱みを見て、ソフィアは何と思うだろうか。
いつもなら喉の奥に留める類の言葉を、彼は勢いそのままに漏らしてしまう。だが折角の彼の善意を、セネカはふんと鼻を鳴らして、

「何それー。っていうか、何でユウがそんなこと知ってるのよ?」

と、吼えながらむげにする。

「俺が買ったからだよ。お前に言われて山ほどな」

すかさずユエルが言い返す。これでもかと積まれた容器を、店内でありったけの袋に入れたことが彼の記憶に新しかった。
あれから三日も経っていない。ユエルがまだ残っていると予想がついたのは、それらの理由があったからこそだった。


当のセネカは、今の今まで忘れていたかのように心当たりのない素振りを見せていた。
買った本人ではないだから当たり前と言えば当たり前なのだが「そうだったっけ」と真顔で悩む姿を見てユエルは肩を落とす。

「とにかくだ。作るのはいいんだが、ソフィアの身体を考えてから作れ。それから、自分が作ったものにはちゃんと責任も持つこと。いいな」

念には念を入れ、警告めいた助言を加えたユエルは、「うん」と力強く頷きながらキッチンに向かうセネカの後ろ姿を見送った。
不安要素をまだまだ残してはいるものの、そんな彼女が離れたことにより、
当面の目的を失ったユエルは、不意に何かを思いついたのか、近くの階段を静かに昇り始めた。


建物の間取りのほとんどを彼はすでに理解していた。だからその足並みに迷いはない。
先日、散々こき使われながらもどうにか完成したセネカの新たな自室、その隣に彼女――ソフィアの部屋がある。


しかし、位置を把握しているとは言え、ユエルは彼女の部屋に入ったことがない。
だが問題は他にあった。躊躇いが生まれる。だがどうする、と自問する前に彼は気づいた。
そもそも大の男が、女性の部屋にズケズケと入り込もうとする時点でかなりの問題であることに。


瞬間、扉の前に立っていたユエルの掌にじわりと汗が滲み出る。しかし言われた以上やり遂げるしかない。
覚悟を決め、彼はその手でドアを数回叩く。いきなりドアノブに手を掛けようとしなかったのは、
彼にも常識というものが染みつき始めたからか。だが、返事がなかったため、彼は仕方なしに扉を恐る恐る開けていく。

「ユエル、さん?」

部屋をあらかた見渡せるまでにドアを開いたとき、分厚い毛布の先から、顔だけをひょっこり出していたソフィアと目がばったり合った。
かなりの熱が出ているのか、紅潮した彼女の頬は遠目からでもよく見える。
首だけを持ち上げているのであろうその体勢がひどく辛そうに思えたので、彼は先程までの遠慮を捨て、慌てた様子でソフィアの傍まで歩み寄った。

「ちょっとセネカに用事があって来ただけなんだけどな。君が熱出してるっていうから、様子を見に来たんだ」
「……すいません。私は大丈、夫です、から」
「あまり喋らなくて良いよ。余計な体力は少しでも使わないほうが治りが早いから」

はい。とは言わずにソフィアは頷くのみだった。熱は高そうだが、彼女の表情は取り乱した様子もなく落ち着いていた。
あまり風邪が流行するような時期でもないことがユエルの頭の中に残っていたが、今こうして病人を目の前にすれば、そんな理屈はどうでもよかった。


周りの壁にふと目をやると、どこかで見たことのあるACの姿を映したポスターに、いつかの彼女が持っていた色紙が飾られているのが見えた。
年季の入った机には、特に目が留まるようなものはなく、書棚には本ではなく、無数のディスクが詰め込まれていた。
おそらく、これ全部がラスティに関連するものなのだろう。とユエルは推測する。
乱雑に書きなぐられた色紙をまじまじと眺めてはみるが、どこがいいのかはユエルにはさっぱりわからなかった。

「なんていうか、凄いな。この部屋」

妥協を知らない徹底した追っかけの片鱗を見たユエルは、微笑を携えながらソフィアに言った。
顔の紅潮が激しかったため、完璧には見抜けなかったが、隠していた本性を見られてけろりとできるわけはない。
やはり決まりが悪かったのだろう。顔の半分を布団の中にうずめた彼女を見て、ユエルはそう思った。

「別に悪気はないさ。病人に向かって軽口を叩くような真似は、俺には絶対できないからな」
「初めて、私の部屋を見る人は、大抵びっくりするんです」

弱々しい声でソフィアが声を絞る。

「確かに驚くけども、いいんじゃないのかな? 本だらけのあいつの部屋よりかは居心地はいいと思うけど」
「ありがとう……ございます」
「それって何に対するお礼なんだ?」

ソフィアは無理矢理笑みを作ってユエルに返した。
時折、辛そうに顔をしかめることから、かなりの無理をしているのかと感じた彼は、

「それじゃ、俺はもう行くよ。安静にしないといけないのに、俺がいると邪魔になると思うから」

と、ソフィアの健康を気遣う意味でその場を離れることに決めた。

「いいか。熱が出ることは特に問題じゃないんだ。たぶんこれから汗をたくさんかく筈だから、その都度こまめに水分を取ること。果物を食べるのもいい。あとはひたすら身体を休める。どんな風邪でもこれが一番の対策だ」

ゆっくりと確かめるような口調でユエルは言った。ソフィアは一言一言を噛み締めるように聞いており、彼もまたそれを見ながら話していた。

「それから、これが一番重要なんだけど」

言葉を一旦切り、彼は息を整えた。ソフィアの視線が彼に注がれる。

「セネカの料理は食べるな。気分悪いとか何とか言ってごまかしたほうがいい。何か嫌な予感がするんだ」

苦しそうに息を吐いていたソフィアの表情が、その一言で緩んでいた。
彼女なりの努力で作られた精一杯の笑顔と向き合い、ユエルもまた表情を弛緩させた。

「じゃあ、俺はこれで。お大事に」

そう言ってから、自分の腰を持ち上げて部屋の外に出るまで、彼はソフィアから目を離さなかった。
ぺこりとベッドの中から頭を下げた彼女の姿を最後に、彼はそのドアを静かに閉じた。

「……何やってんだよ、俺は」

扉を閉め、近くの壁に寄りかかったユエルは、誰もいないその空間で一人苦々しい表情を浮かべていた。
気が緩みすぎている。最近の彼の悩みの種だ。一人のときは常に意識している筈のものも、この家に来てしまえばすべてのネジが緩んでしまう。


セネカと再会し、ソフィアに出会ってからは、彼にしてみれば未体験の連続だった。最近になっても新たな発見は尽きないし、
以前経験したことは徐々にではあるが慣れ始めている。今まで感じたことのない安らぎがここにはあった。
この場所を訪れば、もっと多くの体験ができる。ここだけではない。この家の人間たちと触れ合うことで、さらなる道が彼の前に広がるのだ。


けれども、複雑だった。十年以上も歩み続けてきた過去と、今の生活はまるで逆方向だ。
いくら表の平和な世界で安息の一時を過ごしたとしても、その奥に根ざすものは、常に血肉を求める破壊衝動に他ならない。
何の罪もない一般人と肩を並べて歩くことに、ユエルがどうしても抵抗感を覚えてしまうのは、ユエルなりの配慮だからなのだろう。


すでに自分は人間という枠組みを外れてしまっている。普通なら躊躇ってしまうようなことでも、
眉一つ動かすことなく突き進むことができる。突き進んでしまう。ユエルにはその自覚がある。


行ってきた悪行の数々をすべてを忘れて健全な人間に戻るなど、あまりに勝手が良すぎるというもの。
自分はもう戻れない。戻ってはいけない。人生の歯車がすでに乱れてしまったというのなら、元に戻すためには何もかもを止める必要がある。


すべてを捨てて、一から始めるか。無理だ。二年前にそう誓ったはずなのに、結局自分はここに立っている。
どう足掻いても自分はこの夕闇から逃れられない。しかしその反面、自分は心のどこかで夕闇に居座ることに安堵している。

「結局、中途半端か」

進むことも戻ることもせずに、立ち止まっているだけの男。それが今の自分の立場なのだろうとユエルは結論づけた。

「何が?」

人の気配を感じたとほぼ同時にその声は飛んできた。反射的に声のしたほうへ顔を動かすと、そこには不審そうに彼を睨むセネカがいた。
ミトンをつけたその両手には大きな皿が抱えられていた。清潔感溢れるそれからは、もくもくと湯気が立ち込めている。

「……いつからいた?」
「『何やってんだよ、俺は』からかな。いきなりぼーとした顔で石みたいに固まっちゃうんだもん。無視して素通りするわけにもいかないしね」
「まあ、それはだな。……いろいろだ」
「ふーん」

まさか全部見物させられていたのか。じろじろと怪訝そうな視線が容赦なく突き刺さり、
無防備すぎた己の顔を想像したユエルは、その気恥ずかしさにすっと顔を逸らせた。

「ん?」

だが今度は、視覚の代わりに嗅覚が異常を察知した。自然では絶対に嗅ぎ取ることのない未知の異臭。
鼻腔に触れただけで身体が拒否反応をしめすほどの壮絶な臭いは、十中八九その立ち込める蒸気の中から発せられていた。

「おい。それ、何だ?」

顔を元に戻し、ユエルが皿に溜まっている液体を指差して問う。

「何って。見ればわかるでしょ。スープだよスープ」

言いかたが気に食わなかったのか、セネカがわずかに目を細めて言う。口調から考えて、明らかに苛立っているようだった。

「異臭がするスープとか聞いたことないぞ」

と冷静に返すと、

「異臭? 嘘、ちゃんと完璧に作ったのに。自信だってあるんだから」

セネカはさらに憤慨の色を深めたようで、一方的にユエルにその皿を手渡すと、彼女はミトンを外し右手の人差し指を、その仮称スープに入れた。
そして、その指をぺろりと舐める。まさか味見すらしていなかったのか。見る見るうちに表情が無残に歪んでいく彼女を眺めていくうちに、
ユエルの背筋に悪寒が走った。寝込んでいるソフィアを思い浮かべながら、彼はここにいて良かった。と痛感する。

「……まずい」

今にも泣き出しそうなくらいに顔をくしゃくしゃにしたセネカに辟易し、彼はやはりなと落胆の色を浮かべた。
濛々と立ち上る異臭まみれのスープもどきを抱えたまま、ユエルはこの先、自分がキッチンに立っているであろうと予測し、この日二度目の深い溜め息を吐いた。





数時間働き詰めの整備士に声を掛け休憩を促す。放っておけば、作業が終わるまで腕を止めようとしない彼らを制止するためには、
無理矢理でも休ませるしかこれといって方法がない。優秀な人材を送るとは聞いていたが、それにしても優秀すぎる。
作業音がなくなり、広大なガレージに静かな空気が戻り始めたのを頃合いに、アゼルは近くの壁にもたれかかった。


考えごとをするのに、周りがうるさくてはかなわない。借りている自室に帰れば四六時中考え込めるのだが、
彼は立場的に、常にこのガレージに駐在していなければならないという決まりがあるため、それもかなわないのが現状だった。


溜め息を吐き、彼はハンガーに設置されている二機のACに視線を送った。
吊るされているのはエリュシオンとウルスラグナのみで、他の二機は姿形もない。
先の戦いで大破したためにそのまま破棄したというのが正解だが、その代償はかなり大きいものだった。


二機のACを完全に復元するためには大量の部品が必要だった。金額の面では問題はないのだが、
何より受注から発送、受け取りに至るまでのプロセスが破滅的に時間が掛かってしまうことが悩みの種だ。
加えて、いざ受け取ったとしても、個人個人で慣らしていた癖の数々を、もう一度一から叩き込まねばならないという調整分野での問題点も挙げられる。


つまり一連の復旧作業が完全に終わらない限り、アゼルたちは四人揃って動くことができなくなってしまったということだ。
残った二機で突っ込むという暴挙に出るなら話は別だが、そうでない限り彼らはここで缶詰めにされるという決定がすでに下されてしまっている。


そして彼は静かに修理中のエリュシオンを見る。すでにレスターや他の二人は各々の住まいに帰っている。
地下のガレージでは意識できないが、時刻だけを見るならもう時間は深夜を回っていた。
任務以外では昼夜を逆転させることはほとんどなかった彼だが、それでもここ数日の彼は夜明けの大部分をこのガレージで迎えていた。


そのまま早朝に足早に自室へと帰り、死んだように昏々と眠り続け、日が沈むころに目覚め、ガレージを見守る。
日頃の生活習慣を捻じ曲げてまでも、最近の彼がこの習慣に固執しているのは他でもない。残る三人と顔を合わせたくなかったからだ。


自分が彼らを死地に追いやりかけてしまったという罪悪感は、未だにアゼルの身体にこびりついていた。
ただの逃避であることは彼も重々に自覚しているのだが、それでもあと一歩が進めないでいる。
ほとぼりが冷めるまで、あと何日掛かるのだろうかと思っていた矢先に、このような長すぎる休暇を強制的に突きつけられてしまったため、
彼はがむしゃらに進むことさえも阻まれた。すでに、この状態を維持しようとする甘さも出始めてすらいる。


臆病者と罵られても、まともに反論する自信が今の彼にはほとんどない。まざまざと見せつけられた力の差に、
突きつけられた絶望的なまでの現実。築き上げてきたものすべてが一瞬のうちに崩れ去り、彼は彼を突き動かす原動力そのものに疑問を持ってしまった。
このまま歩んでいっても構わないのか。あるいは彼が積み重ねていた数多くのものはその程度でしかなかったのかと。

「弱すぎるな、俺は」

酒や煙草に逃げたくなる気持ちをアゼルは少しだけ理解した気がした。そういえばあの男は実に美味そうに吸っていたな。
と、久しく会っていない男の口元を想像しながら、彼は思考の海をあてもなく漂っていた。

「おお! やっぱりボコボコにされてるじゃねえか。ハハ、思ったとおりだ!」

すると、地上と地下を繋ぐエレベーターから、しんとした静寂を豪快に破壊しつくすような声が響いた。
場所が場所なら近所迷惑も甚だしいその声量に、驚きを隠せなかったアゼルは即座に目をやった。

「ラスティ……」

紙袋らしきものを手に引っ提げ、想像通りに煙草を口に挟みながらその男――ラスティはいた。
視線はアゼルではなく、傷跡残るACに向けられており、無邪気な子どものようにはしゃぐ彼の横顔に、アゼルは睨みつける。

「何をしにきたんだ。それもこんな時間に」

馬鹿にしにきただけとは考えにくかった。そんなもののために道草を食うような男ではないことを彼はよく理解している。
そして、威圧的な気配を出せる限界まで搾り出し、アゼルはラスティに向けてきつく言い放った。

「そりゃお前に用事があるからに決まってるだろ。でなけりゃ誰がこんなとこに来るかよ。何かくれるっていうなら話が別だがな」

煙草の灰をわざと床に落としても、特に悪びれた様子もなくラスティは余計な言葉を並べ立てる。

「でもだ。今回は俺がお前に手渡す立場なんだよなあ。というわけで。ほら、これ昇格祝い」

またお得意の口上か、と聞きたいと思わない彼の声に辟易せんとしたまさに刹那、
自身が抱える紙袋を漁りながら、ラスティはさも当たり前と言わんばかりに、
袋から取り出したちょうど掌に収まる程度の箱と思わしき物体をアゼルの前に差し出してきた。

「は?」

唐突に示された光景についていけなくなったアゼルは唖然としてそれを見つめ続けるだけだった。

「は、じゃねえよ。せっかく昇格したってのに、その反応はないだろ。それともランク三位なんざお前にとっては、どうでもいいってことか。さりげなく自慢かよ、おい」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。それはもう一昨日も前のことだ。今になって昇格祝いって……」

ようやく話が繋がった。発端は二日ほど前に遡る。ラスティが言うのは、正式な決定に基づき、
行方不明とされていた当時のランク三位のレイヴンのランク抹消が正式に決まったこと。
それに伴い、その一ランク下位に位置するアゼルが晴れて繰り上げ昇格と相成り、見事にトップ三の称号を射止めていたという朗報のことだ。


しかし、当の本人はと言うと、事実を知っても大した反応も示さずに単なる確認事項として済ませてしまっていた。
実力で上がったわけでもないし、今さら一ランク上がったところで仕事に変化が訪れるほどでもなかったからだ。


ヴィルゴを完膚なきまでに叩きのめしたわけでもないし、あの戦闘狂を手玉にとったわけでもない。
と、己の力と上位二人との実力差をただ冷静に分析するだけで、彼の中でのランク昇格という吉報は、早々にその幕を下ろしてしまっていた。


それを今さらぶり返すとはどういうことだ。差し出された腕を取らずに彼は怪訝な目つきでラスティを見る。
真剣に祝うつもりなら当日に訪れるのが道理だろう。と、ラスティの行動をこと細かに処理していくアゼルは、

「なるほど。これもついでか」

その作業途中で彼の行動の裏に気づく。差し出した腕を伸ばしたまま、それを聞いたラスティは、

「ばれたか。そう、ついでだ。まあ祝いっていうのは本当だがな。だからさっさと受け取れ」

ふんと鼻を鳴らした後に命令口調で彼は言う。とりあえずの疑いが晴れたのを良いことに、アゼルはようやくその箱を手に取った。
箱状の容器らしきものを手に取り、まじまじと眺めてみる。それは周囲の袋らしき材質で覆われており、
とりあえずその袋を破ることにしたアゼルは、器用な手つきであっさりとその銀紙を剥がしていった。


袋を開いた先にあったのは、直方体型の白い容器だった。容器の中は二つの領域に分かれており、
一つの空間にはさらに別の袋が二つ乗せられており、もう一つには綿棒のようなものが置かれていた。

「……何だ、これは」

祝いの品とは到底思えなかったアゼルは、再び解せないといった面持ちでラスティに視線を送った。

「うちの新商品。その試作品ってとこだ」

新商品と繰り返すように呟いたところで、アゼルは頭が鈍い痛みが走ったような気がした。
これがついでで良かったと心底思う。これで期待などしていたら、それこそ受ける衝撃は甚大だったことだろう。
ようやく解説に移れることが嬉しくてたまらないのか、意気揚々としたラスティの面構えがアゼルにとっては不快極まりなかった。

「いいか。うちのアリーナは出来て間もないから、試合営業で手一杯なんだ。ファンへの配慮なんかはとことん不親切。どっかのアンケートとかでも普通に指摘されてたからな。で、その打開策の一つが今お前が持ってるそれってわけだ」

かつての威厳とはまた違う異種のオーラがラスティの前に漂っていた。スイッチの入った彼をとめる術を知らないアゼルは、
すべてを諦め、とまらない演説に耳を傾けることに全力を注ぐことにする。

「ACの試合なんざよく戦って数分が限界。早ければ一分掛からずに終わることもざらだ。観客ってのはその数分を見るためだけにわざわざ足を運んでくる。ところがだ。映像ならまだしも、現実はそんな試合ばかりじゃない。客が見る大半の光景は、大勢の整備士やら回収班やらが入り乱れるあとかたづけの場面だ」

確かに一理ある。アリーナで戦う際には、余裕があれば客のために極力魅せようと徹してはいたが、
その後はアゼルの意識の中には刻み込まれていなかった。経験上、徹底的に脚部を破壊してしまった敵は数知れない。
ということは自分は、それだけ裏方のスタッフに圧し掛かる仕事量を無意識に増やしてしまっていたのか。

「とりあえずいろんな映像流して誤魔化してはいるが、それも限界がある。人には必ず暇を潰すような何かが必要なんだ」
「それがこれか」
「ああ。その袋の中にはそれぞれ粉が入ってる。箱の中にくぼみが二つあるだろ? 袋の一つをくぼみに入れて、残った一つを隣に入れる。あとは最初に入れた方の粉を付属してある綿棒でひたすら混ぜるだけだ」

いつしかアゼルは陰鬱だったほんの数分前とは違い、億劫ながらもラスティの展開する話に聞き入っていた。
だが、徐々に鮮明になっていく箱の正体にアゼルは段々とある疑問を抱き始める。
そして、ラスティが一呼吸置いた瞬間を見計らい、彼はそれを問い質すために閉ざしていた口を開いた。

「つまり、これは……。ただのお菓子か」
「ただのお菓子だ」

手を額に当て顔を俯けた。彼の問いにあっさりと首を縦に動かせたラスティに失望の念を抱いたこと、
そしてこんな下らない話を聞くのに、数分もの時間を費やしてしまった自分自身に対して、彼は重苦しい息を吐く。

「ひたすら混ぜていくうちに粉は自然と固まる。混ぜれば混ぜるほどその粘度は大きくなって、最終的には綿棒の先に飴玉のようになるんだ。その過程で色も変わる。あとはそれをもう片方の粉につけて食べるだけ。どうだ、画期的だろ?」
「馬鹿馬鹿しい」

温和になりかけていた雰囲気が、アゼルの強い語気で吹き飛んでいく。
まだ言い足りない様子のラスティは不満ありげながらも彼のその憤懣を受け止めたのか、

「そうか? ガキ相手には良い暇つぶしにはなると思うぜ? もちろん子ども以外にもネタは色々とあるがな。言おうか?」

先程までの緊張感のない態度を翻し、普段どおりの余裕ある口調に立ち返った。

「断る」

いい加減にしろと視線で訴えながらアゼルは荒く言い放つ。
何かしら狙いがあったのだろうか。残念そうに「そうか」と呟くラスティが彼にはどこか新鮮に見えた。


真実の悔恨すら思わせるその表情には妙な現実味があった。まさか気負いすぎた自分を和ませようとしたのか?
一連の行動をラスティなりの不器用な配慮として考えたアゼルは、己の考えなしの言い振りを心で嗜める。
当然といえば当然だったが、ラスティの口から答えが零れることは永久になかった。

「さて、じゃあ行くか」

吸っていた煙草を無造作に床に捨て、ラスティは未練など一切感じさせない淡々とした言葉を発した。

「何だよ、いきなり」

あまりの唐突さにアゼルは思わず尋ねていた。ころころ変わるラスティの態度に幻惑されるのは毎度のことだが、
今回だけはその頻度が異常に思えた。今日のラスティはどこか違う。が、そんな当の本人と言えば、
アゼルからの返答を聞こうともせずにさっさと踵を返していた。アゼルはそんな仮定を導き出すとともに、無意識に身体を動かせて追う。


小箱を適当な場所に置き、閉まる寸前だったエレベーターに飛び乗る。狭い空間に男二人が詰め込まれる。そこで彼は整備士がまだ残っていたことに気づく。
指示を送るという己の責務をいつしか忘れていたアゼルは急ぎ引き返そうとするが、無常にもエレベーターは作動してしまう。
起動ボタンを押した張本人であるラスティは、彼の意図などしげにも考えてはいないような飄々とした様子で、新しい煙草から紫煙を漏らしていた。

「今からが本題だ。案内したい場所がある」

充満する煙に息が詰まった。軽く咳き込んでいたアゼルに視線を当てながら、ラスティは真剣な面持ちを晒しながら言った。

「どこだ」
「ついてくればわかる」

口中から止め処なく煙を吐き出し続け、一方的に告げるラスティに向かい合いながら、
アゼルはその決して本性を掴ませない複雑な能面を無言で見つめ続けていた。


そしてエレベーターが乗客二人を地上へと運びきる。紫煙のむせ返るような臭いから解放されると一息ついたアゼルだったが、
扉が開いたと同時に何とも言えない埃臭さが彼の鼻腔をついた。立て続けに肺を犯すようなそれに彼の苛立ちはさらに募っていく。


袖で鼻を押さえながら入ってきた道を逆走し、アゼルは出口を目指す。ふと気になり後ろを振り返ると、
半分ほどの長さまで燃やした煙草を加えていたラスティが彼のすぐ後ろにいた。

「なんだよ?」
「いや……」

紹介人なら出口までの経路が比較的難解であることも知っているのだろう。
迷ってはいないだろうかと一人前に彼を気遣ってみたアゼルだったが、それは杞憂でしかなかった。


記憶してあるルートを一縷の狂いもなく歩みきったアゼルは、そして夜の街へと足を踏み入れた。
電灯一つ灯っていないような暗闇は、眠らない街とも言われる都会とは真逆の様相を呈していた。
どぶの臭いが充満し、朽ち果てた無数のビルはどこも漆黒に染め上げられているかのような不気味さを発露させている。


霊の類が現れても何ら不思議ではないようなおぞましい廃墟区画から、アゼルは逃げるようにして大通りへと移動した。
ガレージを貸与されたころから、夜に移動することがまったくと言っていいほどになかったため、彼はいつも通っている道程の変貌ぶりに軽い衝撃を覚える。


昼間はそれなりの数の人間が往来する大通りも、深夜の風貌はまた一味違っていた。
隙間なく立ち並んでいた商店はすべてシャッターが掛けられ、栄えているとは到底言いがたいほどに凄然さをアゼルに見せる。
活気さというものが完全に消失し、ちりちりとした肌寒さだけが残る物寂しい道を二人は口を閉ざしたまま歩き続けた。


行き交う人影も当然ながら見当たらない。これがもし昼間なら軽いパニックに発展するのだろう。
と考えれば、知名度の桁が違う二人が肩を並べて歩くには、皮肉にも丁度良い舞台なのかもしれなかった。

「結構、冷えてやがるな」
「ああ」

しばらく歩いて交わした会話はたったのこれだけ。案内すると言ったラスティであったが、今まで道を指定したことは一度もない。
夜の街並みを次々と越えていくことにもまったく気に留める様子もなく彼は延々と煙草の煙を吸い続けていた。
流れ続ける沈黙に先に耐え切れなくなったのはアゼルだった。溜まった鬱屈を吐き出すように、

「おい、いい加減に行き先を話せ」

と夜の静寂を切り裂くかの如く言い寄る。

「もうすぐだ。このまま真っ直ぐ進めばすぐに着く」
「答えになっていないぞ」
「おお怖い怖い。えらく強気なんだな。さっきとは大違いだ」

アゼルの鋭い眼差しを受けても、ラスティは落ち着いた様子でそれを受け流していた。
そして閑散とした街にはっきりとした笑い声が木霊する。声の主はラスティその人。
一呼吸の間を置いて発せられた薄ら笑いに業を煮やしたアゼルは、怒りに染まる感情に任せてラスティに向けて言った。

「どうして笑うんだ?」
「いや、別に」

握った拳を口に近づけ数回ほど咳き込んだラスティは、そして自らの口腔から零れる笑声をせき止めた。
怒りの視線を否応なしにぶつけるアゼルをまじまじと眺め、彼は言葉を次いだ。

「こうやって肩並べて歩けるのも、お前がちゃんと生きて帰ってきたからなんだよなって考えてたら、何だか笑えてきたんだよ」
「俺が生きてることがそんなに可笑しいのか?」

だが、彼の言動はアゼルの神経をさらに逆撫でするものでしかなかった。ラスティは動じず、笑みの形を維持しながらさらに重ねる。

「逆だ。ほっとしてるんだよ。全員が半殺しで済んだんだろ? なら奇跡じゃないか」

いつしかそれは、侮辱しているものではなく、純粋無垢な微笑みに変わっていた。
子どものいたずらを嗜める親のように、彼の言動には悪意が感じられなかった。

「これで思い知っただろ? 身の程ってやつを」
「……ああ」

けれども、ラスティの口から零れる一語一語はアゼルの心にずしりと響く。
否定は逃避でしかない。言い回しなど一切考慮されていない真っ正直な追求を受け、彼は逃げるように視線を薄暗い空に求めた。

「で、そんなお前は今何をしているんだ? 落ち込むのもいいが、さっさと次の行動を決めてくれよ、依頼主さん」

一拍も置かない間に、続けてラスティからの揶揄とも野次とも呼べる発言が飛ぶ。
思っていたことがそっくりそのまま見透かされたことに驚きを感じつながら顔を元に戻したアゼルは、

「どうして、わかった?」

と静かに尋ねた。しかし次の展開は彼の想像の範疇を超えていた。ラスティの能面は彼の思惑とはまた一味も二味も違う一面を見せていた。
喜悦を迸らせるような表情とともに、彼の口から皮肉めいた哄笑が飛ぶ。視線はまるで珍妙なものでも見るかのように奇異なものだった。

「自覚ないっていうのがお前らしいよ。ってことはだ。お前の仲間とやらもとっくの昔に気づいているんじゃないのか? ばれてることに気づいてないのは、実はお前だけだったりしてな」

自分でも薄々は感づいていたことだった。だからなのか、情け容赦なく指摘するラスティにもアゼルは感情をむき出しにして反論しようとはしなかった。

「なるほど、そういうことか。周りの視線が怖いからって一人で引き篭もって、うじうじ悩んでる最中ってことだな。どうだ、大体合ってるだろ?」

黙して語らず重苦しい雰囲気を発するアゼルを見れば、誰でもラスティの発言が正解だと理解するだろう。
彼もまたそれを察したらしく、アゼルの態度を鼻で笑うと、

「下らないな、お前」

と彼なりの評価をアゼルに一方的に叩きつけた。

「たかが一度の失敗で落ち込むとか、どこまで耐性がないんだよ。気にしすぎてると将来髪の毛がヤバイぞ?」

お前に何がわかる。と内に炎を滾らせながら、アゼルは彼を睨みつける。

「失敗なんか何度でもすればいいんだ。死にさえしなければ、チャンスはいくらでもある。お前は確かに失敗した。でもそれだけだ。ならガタガタ抜かしてないでさっさと次の準備でも始めろ、この馬鹿が」

わかるわけがない。返答は至極あっさりとしたものだった。嫌々という様子で吐き出された言葉の数々には、
どこか惹きつけられるような説得力があった。まるで何度も何度も身をもって体現したかのような発言に、アゼルは己の言い分の薄っぺらさを悟る。


ラスティはそれから一言も喋らなくなった。再び夜の街らしい静寂が戻る。
どうやら彼はアリーナのある方角に向けて歩いているようだった。しかし今まで通ってきた道は決して最短経路ではない。
あえて遠回りするということは、目的地はアリーナではないのだろう。もくもくと歩き続けるラスティの横顔を眺め、彼はそう見当をつけた。


結果から言えばまさにその通りで、彼はアリーナに向かっているわけではなかった。
巨大なドーム上のアリーナが聳え立つ傍らにポツンと立った建物の前で、ラスティはピタっと立ち止まった。
ビルと表現するのも躊躇うほどの小さいこれこそが真の目的地なのだろう。ポケットから当たり前のように鍵を取り出し、
ラスティは当たり前のように入り口の扉を開いた。そして迷うことなく中へと入り込んでいく。アゼルも続いた。


中はそれなりにこみいっていた。受付があり、待合場所らしいところには質素なソファーがいくつか置かれている。
観葉と思わしき植物もバランスよく配置され嫌な感じはしない。至って不自然なところのない間取りに、アゼルは自然と不安を抱いた。


当のラスティは近くの扉を開けるのでもなく、また階段を昇ることもしなかった。彼はそんなものには目もくれず、
受付口を飛び越え、その奥においてある棚の一つに手をかけていた。泥棒めいたその手つきに不審さを際立たせた刹那、その棚が唐突に動いた。
棚が元あった場所には新たな扉があり、ラスティはそれを難なく開ける。アゼルも恐る恐る覗き込んでみると、そこには地下へと下る階段が伸びていた。

「よくこんなもの作れたな」
「ここで働いてる人間で、これを知ってるのはほんの一握りだ。警備員とあとはそれぞれの会社の重役か。金握らせて頼んだらあっさりと承諾してくれた」
「なるほど」

完全な不法侵入がまかり通る理由がこれでわかった。あの廃ビルの地下に隠されたガレージ然り、ここ然り。この男は一体いくつの秘密を抱えているのか。
まるでこの街全体を我が家の庭のように掌握している感のあるラスティに改めて畏怖を感じながら、アゼルは彼が手招きするその階段に足を掛けた。


階段は酷く長いものだった。らせん状に連なっていて、下を覗いてみると最下層まではかなりあるようだった。
セメントで固められた足場を一歩一歩下るたびにコツコツという音が共鳴する。

「ちなみにお前、自分が戦ってる理由をまだ復讐とかいうふざけたものにしていないか?」

長い階段下りも中盤に差しかかったころ、ラスティが唐突に言った。

「……どういう意味だ」
「そのままの意味だよ。あれだけボコボコにされてもまだ復讐とかいうふざけた単語が吐けるかどうか。それが聞きたいだけだ」

先程までの無言の合間に彼もまた考えていたのか。いや違う。はっきりとしたその口調は、この場所で問うことをあらかじめ決めていたに違いなかった。
殺すと誓った敵に逆に打ちのめされ、気を落としている自分の決意を今一度確認しようと言うのか。

「答える前に忠告しといてやる。もし『そうだ』なんて口にしてみろ。言った瞬間に殺してやる。そこのところを覚悟しろ」

口を開こうとした刹那、それが違うことがわかった。今までの本性を掴ませない飄々とした態度を完全に捨て凄惨な一言を口にするラスティ。
状況が今一つ理解しきれないアゼルだったが、こちらを振り向いたラスティが持つ黒い物体を見た瞬間、彼もすべてを察した。

「何の真似だ?」
「俺は本気だぞ、アゼル。これがおもちゃに見えるか?」

脅しではない。見上げる形でアゼルに拳銃の銃口を向ける彼の目を見ればそれは簡単にわかる。
あの冷徹な視線。ちらっと見ただけで冷や汗が吹き出るその双眸。隠そうともしない怜悧な激憤を全身から吹き出すその様は、
間違いなくラスティ本来の姿に他ならない。普段の彼は猛獣のような獰猛さを持つこの人格の代用品でしかないのだろうか。


そして常に噴火の危険性を孕むその人格を、無理矢理檻に押し込めて抑えつけている。
正直恐るべき精神力としか言えなかった。そしてそれはアゼルという人間の介入により解放された。
いや、ラスティ自らが解放したと言ってもいい。知るものが限られたこの場所でなら、何をしても露見することは少ない。
ここに誘い込んだのは、これが目的か。彼の書いた台本に見事に乗せられていたアゼルはようやく彼の真意を理解した。

「いいか、よく聞け。あいつらに復讐するなんて大層な台詞を吐けるのは、俺の知る限りじゃこの世界には二人しかいない。その中にお前は含まれていないんだ。どうだ? ちゃんと、記憶したか?」
「そんなこと誰が決め――」
「黙れ」

いつ引き金に手がかかるやもしれない緊迫した空気が漂う。黒光る銃口がねめつける中、アゼルはしかし取り乱すこともせずに冷静にそれを見た。
この手の立ち回りは何度も経験している。この場合、平静さを欠いた相手から順番に死んでいくのが道理だ。

「記憶したかって聞いてるんだよ。質問してるのは俺だ。黙ってうなずくか、ごみと一緒に捨てられるかだ。さっさと選べ」

ラスティが怒る根源はアゼルの行動理由にある。確かに七年前、アゼルは信じるにたるものすべてを敵に奪われた。
仲間を殺され、指導者すらも失った。だが、彼らの命を燃やし尽くしたのは、あの三人ではない。
アゼルの仲間を殺したのは、彼の目の前にいる男――ラスティであり、アゼルが全幅の信頼を置いていた指導者たる人間は、自らで命を絶った。


敵側からしてみれば復讐などというのは言われようのない冤罪であり、単なるこじつけでしかない。
確固たる理念がアゼルにはない。かりそめの理屈で過ごしてきたはいいが、もうそれでは太刀打ちできないのだ。


ラスティが暴挙に出る理由はこれ一点に尽きる。己が信じるに足る理念を見つけろと。彼はそんなメッセージとともにアゼルに銃を向けている。
そう鑑みれば、今までのラスティの言動は、今現在の彼の覚悟を計るための誘導尋問だったのだろうか。


しかし、これはいつかは答えなくてはならない道。このまま悩み続けるわけにもいかない。
崖の淵に立たされて今こそ、自身が言える最良の答えを示さなければならないときなのかもしれない。


覚悟すら決められないような愚かな自分ならここで撃たれて果てるほうがいい。
アゼルはあえて自らを濁流に飛び込ませ、絡み合う感情の渦の中に手を伸ばして答えをまさぐる。
過去の記憶、そして今の状況。すべてを吟味し、そして彼は見つけた。

「……どちらも違う」
「何?」

命の危険に晒されているというのに、アゼルは温和な表情へと変貌し、諭すような口調でラスティに向かって言った。

「復讐なんて大それたことじゃない。俺が戦う理由は、責任だよ」
「責任?」
「そう、責任だ。俺はあそこにいた。だから行動を起こす責任がある。見て見ぬ振りができるほど俺は器用じゃないからな」

自分は落ち込んでいる場合ではなかった。自分にはすべてを清算するという義務がある。
果たしきれなかったものたちの責任すべてを背負うとあのとき誓った。そして今、仲間を守るという責任も新たに背負った。
守れなかったという泣き言など最初から許されなかったのだ。守れるかではない。守るのだ。責任とはそういうことだ。


放棄するなど論外だ。実現できないと言うのなら、それに見合うだけの実力をつければいい。
仲間という戦力がある以上、自らも彼らに安全という名の保障を提供する必要がある。
それにはさらなる力がいる。ランク三位という名目などはいらない。
必要とするのは目の前の男がかつて体現したようなあの絶対的な力。求めるとすればもうこれしかない。


己が導ける精一杯の結論を彼は覚悟を決めてラスティに訴えた。撃たれるかと目を閉じたアゼルだったが、
それを聞いたラスティの口からは、盛大な笑い声が洪水のように漏れた。近所迷惑甚だしいほどの爆笑が周囲を包んだ。
口角泡を無数に飛ばすラスティは、そして一しきり笑い狂うとすっとアゼルの前から銃口を逸らせていた。

「ハハハ。責任か。なるほどなるほど」

神の恵みかは知らないが、さきほどまで尋常ではない激情をぶちまけていたラスティが、
どういうわけか銃を収めていた。どうやら認められたのか、とアゼルは微かに思い緊張を解く。

「来いよ。まだ先はあるだろ」

さきほどのやりとりがなかったかのように、すっと牙を隠してしまったラスティは、また同じペースで階段を下っていた。
猜疑心が色濃く残りつつも問うべき相手が離れてはどうしようもなかった。アゼルはその身に残るわだかまりを抱えたまま、その背中を追う。


だがそこで別の疑問が出てくる。何故ラスティはあの冷徹な人格をその身に残しているのかということだ。
少なくともアゼルには見出すことができない。他人の思考に対しては容赦なく見透かすラスティだが、
実のところ、彼の心情は誰も見透かすどころか、聞いたこともない。
そんな盲点をアゼル、いや、ラスティに関わるすべての人間が今まで見逃していたことが、尚更彼には疑問だった。

「お前は体験した。だからもうお前は俺やあいつと同じ領域に入ったってことだ。痛い目見る前に言っておいてやるが、ここじゃ綺麗事や模範的解答は一切意味を持たない。笑われたいなら話は別だがな」

独り言のように呟くラスティのそんな言葉を耳にしながら、ようやく長すぎる階段を下りきり、アゼルの視界に再び扉が映る。

「必要なのは言葉じゃない、力だ。いくら御託を並べ立てようが、そんなものはアリーナの前評判より役に立たない。自分でこっち側に踏み込んできたお前は、それを知る義務がある」

意味深な言葉を発し、そしてラスティはその扉を開く。開き始める扉の隙間から膨大な量の光量が目に突き刺さり、彼は手で目を覆った。
段々と目が慣れてくるに従い、扉もまた人が通るには十分すぎるほどの広さにまで至る。


視界に飛び込んできたのは妙に見慣れた光景だった。燦々と輝く電灯が天高く設置され、
何百人もの人間が収納できそうなほどの広大な空間。貸し与えられたものと何ら変わらないガレージが、扉の先にあった。

「これは……」

足を踏み込んだ瞬間、彼は言葉を失いその場に棒立ちとなった。提示された真実に思わず倒れこんでしまうような衝撃が走る。
目をこすってもおそらく目の前の現実は変わらない。それでも彼は否定したくなった。ある筈のないものが、こんな場所に置かれていては誰もがそう思うだろう。


アゼルの視線は眼前に聳え立っている二体のACに釘付けだった。
細身のシルエット、そして鮮やかな銀色の装飾は忘れもしない。七年前、アゼルの前に立ちふさがり、
多くの仲間の命を刈り取った最悪の存在ことサジタリアスの乗機――アダナキエル。目の前で跡形もなく粉砕した筈の機体が、どういうわけかそこにあるのだ。


そしてもう一機、純白の装甲の隙間から金色の発光を覗かせる壮麗な二脚型ACは、
先日の戦いで姿を見せた現トップランカーであるヴィルゴが駆っていた機体――アイン・ソフそのものであった。

「これが俺の復讐だ」

静かにそしてはっきりとラスティは言った。その揺るぎない双眸もまたハンガーに掛けられた二体のACに注がれていた。



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