ARMORED CORE Stay Alive TOP

24.


街の中心部の真下で、その機体は静かに眠っていた。その機体をわずか一瞥垣間見ただけで、痛みとは違う特殊な衝撃が頭蓋を駆け回る。
強力な電流が神経に作用し、補完してあった記憶の残滓が濁流のように頭へと押し流されていく。
尽きることがない記憶の奔流を、抗うこともできずにその網膜に映し続けながら、アゼルは立ちすくんだまま眼前のACを見上げていた。

「何故だ。どうして、これがこんなところに……」

ラスティは言った。奴らに復讐できるのはこの世で二人しか存在しないと。そして彼は自身で告げた。その一人が自分であることを。
彼が言う必要不可欠な力とはこの銀色のAC――アダナキエルに相違ない。だがありえない。
そもそもこの機体が、こうして何事もないかのようにハンガーに吊るされ佇んでいること自体が、アゼルには考えられないことだった。


彼はこの機体がそれこそ姿形が判別できなくなるまでに破壊された経緯を、欠陥なく記憶に焼きつけている。
改竄などもちろんない。あのときこの機体は確実にただの鉄塊と化したのだ。この男はゼロから復元し直したとでもいうのか。
威圧感を漲らせて屹立するアダナキエルに魅入られ、まともに動くことすら危ぶまれたアゼルは、首だけを曲げて彼を見た。

「何言ってんだよ。偽物に決まってるだろうが。一緒なのは見た目だけだ」

が、アゼルが危惧した予感を、ラスティはものの見事に打ち払った。目を細めながら真意を疑ったアゼルだったが、
威圧的なその視線にも動じる気配すらない彼の態度を知ると、ようやく疑いの余地がないことを悟る。そしてある仮説が脳裏を過ぎった。

「まさか、あれから作り直したのか?」
「ああ。まだ完成もしていないがな。と言うか、いつ完成するかは完全に未定だ」
「何?」

思わぬ暴露にアゼルの目がさらに鋭利になる。こうして眺める限りでは、
あの頃と寸分も違わない銀色の怪物を、この男はそれでも未完成と言い放つのか。

「数字で言うんなら、四割弱ってところか。思いっきり鯖読んでだがな」

ラスティは咥えていた煙草を取り出し、大量の紫煙をアゼルの真正面に漏らしながら低い調子で答えた。アゼルは釈然としない。
どういうわけか。先程まであり余るほどに迸っていた自信の塊が、その口調からは感じられなかったのだ。
それがどうしても心に引っ掛かる。天下のラスティ・ファランクスが何を言うのかと。

「こいつの設計をしたのはあの男だ。あいつなしじゃ復元なんてできるわけがない。仮にこいつが完成したとしても、戦力としちゃ昔の半分程度が関の山だ」

ああ、そうだった。とアゼルは理由を悟った。不覚だった。ラスティが半ば諦めているような言動を取るそのわけを最も知っているべきだったのは、
稀代の天才と言われた男の下に最も長くいた、他ならぬ自分自身なのだ。彼が“あいつ”と漏らす人物。
隊長――ジード・フェーベルその人のもう一つの顔を、いつのまにか忘却していたアゼルは、真実を悟ると同時に自分自身を嗜め、

「いつからこいつの修理を?」

と呟いて、己が手で話題を強引に変えた。表情もさして変えることなく、ラスティはその質問を素直に受ける。

「決まってる。七年前からだ」

彼は迷わず言った。さらに続く。

「あいつらから解放されて、怪我が治ってすぐのことだ。本格的に組み始めたのは二年位前くらいだったがな。プログラムとかその辺の問題でもやたらと難儀だったが……」

彼はそこで言葉を一旦切った。短くなっていた煙草を捨てるためである。
ポトリと落ちたその煙草を靴の底で念入りに踏みつけた後、再び彼の口は開いた。

「一番難しかったのは、こいつを隠す場所探しだった」

親指をクイっと動かし、それを銀色の機体に向けながら彼は言った。確かに、とアゼルも頷く。
木を隠すなら森の中と言ったところか。ACの歴史上運よく設置された地下ガレージは、非合法のACを隠すにはもってこいであるし、
何よりこの頭上にはラスティが己の手腕のみで築いたアリーナ。そしてE地区に登録されている多くのレイヴンのACを置くガレージがある。


そこには常に無数のACが控えており、多忙な毎日がそこで展開される。まさかその真下に、
知るものにとってはトラウマにすらなりかねないACが密かに復元されていようとはまず誰も思わない。
当時、彼がアリーナを建造すると言っても、その行動を不審に思う連中はほとんどいなかった。


普通ならば非常識でも、彼が行えばそれはすぐに常識の範疇へと収まってしまう。皆が知るラスティ・ファランクスとはそういう人間だ。
賞賛と歓声を一心に集める皆の英雄。そんな彼ならば何をしても問題ではない。そういった公論をラスティは自らで作り上げていた。

「まさか。じゃあお前は、そのためだけに?」

瞬間、アゼルの中で何かが繋がった。断片的な部品でしかなかったものが、意外なところで組み合わさり一本の線を成したのだ。
アゼルは完成したその線を覗き込み、そして純粋に目の前のラスティという男に恐怖した。否、尊敬の念を抱いたと言ってもいいのかもしれない。


今まで抱いていた彼に対する印象すら崩壊しかねないほどの重すぎる衝撃。
何故気づくことができなかったのか。いや違う。ラスティは最初から気づかせる気などなかったのだ。
途方もない計画を考え出した当初から、それをたった一人で完遂させるためだけに、彼は彼以外の人間すべてを欺き続けてきたのか。

「だけとは酷いな。十分すぎるほどの理由だろう? それとも、他に理由なんてあるのか? あるんだったら今すぐ教えてくれよ」

ラスティの態度は何一つ変わっていない。煙草の箱を覗き込み、苦い表情を浮かべながら新たな煙草に火をつける姿は、
アゼルが抱く嫌味な印象と何ら変わらない。変わったのはむしろ自分自身だ。
彼が帯びる覚悟の桁は、自分のそれを軽く凌駕している。理解してしまった今のアゼルなら、それは痛いほどにわかった。


あの戦いから七年。その間、アゼルには後悔と自責の念しか存在しなかった。だがラスティも同じだったのだ。
彼には奴らに対する怨念しかなかった。七年という途方もない月日を彼はこうして生きてきたのだ。復讐という二文字、ただそれだけのために。


レイヴンとして歩み、王者として君臨しながら皆の羨望を集め、莫大な資金を得て、アリーナ建造という前代未聞の荒行までやってのけた。
けれどもそれもすべて彼の壮大な計画の一幕に過ぎない。すべてが緻密に計算されていた。
気が遠くなるほどの計画。その一旦を知り、アゼルは文字通りに言葉をなくす。

「まあいい。で、コツコツと準備してるときにな。こいつが俺の前にひょっこり現れやがったんだ」

軽く口元を綻ばせながら、ラスティは指差す方向を少しずらした。口調からは覚悟や決意と言ったものが微塵も感じられなかった。
これは普段のラスティか。そんな彼の指が指し示す先には銀色のACではなく、アゼルの記憶にも新しい純白に彩られたAC――アイン・ソフがあった。

「ヴィルゴが?」

確認の意味も込めて、彼はラスティを眺める。

「ああ、二年くらい前だったか。いきなりズケズケと事務所まで乗り込んできたまではいいんだが、そこであいつ、俺に張り手食らわせがったんだよ」
「張り手……」
「そう、張り手だ。あれはヤバかったぞ。あの痛みは今でもよく覚えてる。あれは間違いなくミーシャ級だ」

ミーシャという人物をまだ把握しきれていないアゼルにとっては、その例えはいかんともしがたいものだったが、
目の前に突き出た鈍い表情が代わりにそれを補足していた。ともあれ、アゼルにしてみればそんなものは些細なこと。
不可視の存在であったヴィルゴが、自らの足でラスティの下に赴き、そしていかにも人間らしい攻撃を試みたことが彼には衝撃的だった。

「そのまま小一時間くらい説教食らって、結局、無理矢理このガレージを貨す羽目になったってわけ」

そのときの情景でも思い浮かべているのか、やりきれないといった面を晒し、彼はまた煙草を吹かす。

「まあ、あいつもこれ見たら少しは納得したみたいだったけどな」

ラスティの言うこれとはアダナキエルのことだろう。恐らく、ヴィルゴもまたアゼルと同じ経緯を進み、そして彼と同じ反応を示したに違いない。

「つまり、ヴィルゴは昔からここにいた?」
「そういうこと。あいつ曰く、四年前にはもうここに住んでいたらしい」

また一つ謎だったものが解決する。積極的なアリーナ参戦を行わないヴィルゴには、どこに機体を置いているのかという疑問が常につきまとっていた。
さらに、輸送機も整備士すらも自らで調達するという拘りぶりだ。そんなヴィルゴ独自の手段の裏にも、やはりラスティが潜んでいたということなのか。

「ACを出すときも、ちゃんと専用の地下通路を用意している。出口はまあいろいろあるが、大抵は輸送機近くに繋がってる箇所を使うのが多い」
「そんな都合良い出口があったのか」

真顔で聞くと、ラスティは苦笑いを浮かべながら手を横に振った。

「ああ、ないない。そんなもんあるかよ。作らされたに決まってるだろう。あいつの溜め込んでる金の量を舐めるなよ」

さすがにそこはランカーというわけか。自らも浴びるほどの金を抱えているアゼルだったが、いざ己の金銭感覚を確かめると笑うに笑えなかった。
さらに、それだけの設備を地下に作るだけでも、一体どれだけの時間と労力が必要だったのか。
と考えてはみたものの、街中に聳えるあの壮大なアリーナを創設した目の前の男の手腕を鑑みると、アゼルの中の常識もぐらつきを見せ始めた。

「じゃあ、噂になってる専属の整備士というのは?」
「もちろんうちの連中。それも特別な奴らだ」
「と言うと?」
「俺やミーシャと同じ。昔あっち側に配属されてた連中さ。そいつらの中から生き残ってる奴を何人かすっぱ抜いて、って具合だ。俺のは偽物だからどうでもいいとしても、こいつは紛れもないオリジナルだ。整備できる奴は限られる」

自らの手で機体を葬ったラスティとは違い、あの騒乱に直接関与していなかったヴィルゴが、当時の機体を懐に隠していることは十分にありえた。
敵の一時的な崩壊に伴い、職に炙れた整備士たちや社員を、ラスティがふところに囲い込むこともまた同じことだ。
そしてアゼルは、自分たちの機体整備を行っていた整備士たちを思い出し、まさかと顔をしかめた。

「よくわからないんだが」

思わぬ予感が頭を駆け巡るが、アゼルはその思考に反して、さらに重要と思える疑問をぶつけていた。

「お前は何故そこまでしてヴィルゴに協力する? お前たち二人はこんな地下で一体何をしているんだ?」

核心を抉るかのような鋭い問いに、ラスティの表情も幾分か引き締まっているように思われた。
煙草を口から離し、物思いに耽っているような一瞬の間を置いて、彼は呟くように言った。

「あいつの頭の中には復讐することしかない。もちろん俺とは比べものにならないほどにだ。誰かが手綱を握っていなけりゃ必ず暴走する。そんな奴なんだよ、あいつは」
「答えになっていないぞ」
「確かに」

喉を震わせながらラスティは苦笑を漏らす。一つ咳払いしたのちに彼は続けた。

「そうだな…・・・。簡単なギブアンドテイクってところか。俺が情報を渡し、あいつがそれを実行する。ああ、言うのを忘れていたが、俺の依頼人は全部で二人なんだ。今まではずっと一人のままだったんだがな」

その言動に脳内の記憶が震えた。山積みとなっていた中から引き抜かれたそれは、アゼルがイーズでの初試合を終え、ラスティの前に立ったときの映像だった。
彼はあのとき確かに言った。自分は情報収拾専門。戦闘を請け負う人間は他にいる、と。ラスティと自分、そしてミーシャとかいう整備主任を交えての会話。
状況把握を迅速に進めるために上手く作用してくれた身体の仕様に感謝しつつ、彼はそしてラスティの弁に納得の意を示す。

「不思議に思わないのか? 絶対秘匿を貫いてるあいつが、堂々とお前の前に現れた理由を」
「……同じ情報をヴィルゴにも渡したから、か?」
「正解」

だからこそ、彼は送られてきた問いかけにも難なく答えることができた。

「あいつが派手に動き回ってくれるおかげで、俺の安全も保障されていた。誰が言い始めたのかは知らんが、抑止力とはよく言ったものだな」

あのときは守秘義務などと言っておきながら、この場で堂々と暴露するのは、さすがにどうかと思う彼だったが、
それだけの心変わりがラスティの中でも起こったのだろうと下手に追求することなく、あえて独白に近い彼の言葉に耳を傾けた。

「ヴィルゴっていう名前を使い続ける理由を知ってるか? 敵に向かって『ここにいるぞ』っていうあいつなりの意思表示さ。まったく、亡霊の名が泣くとは思わないか?」

いつになく多弁なラスティに、つられるようにしてアゼルは首を縦に動かした。しかし弛緩していた彼の表情が唐突に曇り、

「だが、それももう終わりだ」

という重い呟きがアゼルの耳朶を打つ。

「どうして?」
「お前だよ」

いきなり自分の名を告げられて、アゼルは内心焦っていた。だが戸惑う彼などお構いなしに、

「お前の登場は俺の予定には組み込まれていなかった。これでも最初はかなり焦ったんだぜ」

と、ラスティはさらに重ねた。笑ってはいるものの、ふざけているといった様子は感じられなかった。

「それでもお前は、結果的に俺の計画の穴を露呈してくれた」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。さっきから言っている意味が――」
「レオ」

制止など聞く余地もないということか。いつ、どうやって、どうして自分がラスティの窮地を救ったというのか。
根本的な理由を問い質したいアゼルだったが、覇気が足りないのか。彼の重厚な語りを止めるまでには至らない。


逆に聞いたこともない名前を提示され、アゼルは無意識にその名前に覚えがあるかどうかを探ってしまう。
追い縋るべき立場にいる彼が、そのような隙を晒してしまっては、今のラスティを止めることなどできるわけもなかった。

「ヴィルゴから聞いた。あいつがいたんだってな」
「誰なんだ?」
「ストーカー」
「……何?」
「冗談だよ。でも似たようなもんだ。俺が生きてるってくらいで飛び跳ねて喜ぶような奴だからな」

あの場で確認できた敵は二人。アリエスともう一人。ヴィルゴと同時期にあの場に現れた逆関節の搭乗者のみのはず。
少なくとも、アゼルの記憶にはそう刻まれていた。その後は、自身を蚊帳の外に置いた未知のやり取りだ。
わけがわからないままに彼らは撤退していき、あの場にはそしてアゼルとヴィルゴ、大破した機体に取り残されたレスターが残された。


考え得ることとしては、おそらく、アゼルが関わっていない空白の中に、レオというあの場にいなかった存在が関与していたということ。
レオなる人物とヴィルゴ、またはアリエスを含めた複数人の間で、計り知れぬ何かがあり、そこで両者が撤退に値すべき結論を見出した。
空想するならこんなところだろうか。とアゼルは行き当たりばったりで創り上げた己の夢物語を客観的に眺めてみた。

「だが、強い」

だがそこで、冗談交じりだったラスティの口調ががらりと変わり、同時にアゼルの思索は中断させられた。
苦虫を噛み潰したような苦悶の表情とともに、それは呟かれていた。過去の出来事でも思い返しているのか、
氷を連想させるラスティの瞳が、空気すら振るわせるほどにその威圧を深めていた。

「あいつの強さはそれこそ化物だ。俺みたいに余計なものがついてない分、たちが悪すぎる」

さすがにこの台詞にはアゼルも面を食らった。彼にとってのラスティとは、いつも一歩も二歩も先を歩き、
すべての人間を見下げながら、逐一彼らに向かって嘲りの言葉を吐きかけてくるような、そんな余裕綽々で憎たらしい存在であるはずなのだ。


そんな彼が疑いようのない弱音を吐いた。何故かそれがひどく腹正しかった。どうせなら聞かないほうが良かったとすら思える。
レオとはそれほどまでに常識を逸脱した存在なのか。しかし、レオという人間を知らないアゼルにとっては、明確なイメージを抱くことができない。


アゼルにとっては、あのラスティが弱音を吐いたということが何より現実離れしていた。
まるで絶対に引くことなどありえないと思っていた壁が、何かの拍子にあっさりと崩れてしまったかのように。


だが、湧き上がった感情は裏切られたとも失望したとも違う。思えるわけがない。皆が創り上げたのはラスティとは虚像に過ぎない。
今日ここにきてそれを学んだ。何もかもを欺いてきた彼のことだ。普通に弱音も吐きたかったことだろう。
だが彼は英雄を演じ続けなければならなかった。正体を隠し続けながらたった一人で、奴らが積み重ねてきた咎を清算させるために。

「お前がいなければ、いずれ俺は死んでいた。ヴィルゴを頼りすぎるあまりに、その辺のところが無防備だったからな。その礼みたいな意味もあるんだよ。お前をここに連れてきたのは」

褒められているのか、けなされているのか。よくわからない言葉だった。

「言いたいことはわかったが、それは今後の計画に俺を利用するということか?」
「利用? 違うな。相互利益のための協力と言ってくれ」
「同じことだ」
「だが利害は一致している。目的はどうあれ、敵対している相手は同じだ。違うか?」

さすがだった。いかに弱音を吐こうとも、その卓越した言い回しは相変わらずの精度を誇っている。
何がいつものこいつらしくないだ。まったく変わりないじゃないか。アゼルは内心でそう吐き捨てた。

「これからどうするつもりだ?」

まともな反論すらできずに、説き伏せられた感のあるアゼルは不満たらたらな表情で、彼に問いかける。

「別に何も変わらないさ。朝起きて朝昼晩と飯食って寝る。その合間を使ってこいつを完成させる。その繰り返しだ。だから俺を戦力としては見るな。奴らが総出で襲いかかってきたりしない限りは、俺はACには絶対に乗らない。それはまず変わらない」

何かが劇的に変わると思っていた。否、勝手に思い込んでいたアゼルにとって、ラスティの言葉は彼自身の士気を格段に下げるものだった。
よく考えれば確かにその通りだった。たかがアゼル一人に真実を告げたところで、今後の進展に選択肢がいくつか増える程度が関の山なのだ。

「と言うよりだ。変わるのはむしろお前の方だろ。機体が直るまでの間、一体どうするつもりなんだ?」
「それは……」

痛いところを突かれアゼルの顔が曇る。目の前に置かれた自分の状況はまさに見るに耐えないもの。
機体は修理中であるし、その内のいくつかはスクラップ。搭乗者は健在だが、誰も行動と呼べるべき行動すらも起こしていない。
さらに悪いことに、その先導者たるアゼルに至っては、あろうことか自分に課せられた責任の重圧に押し潰されようとしている。

「おいおい。まさか、何もないとか言うんじゃないだろうな? 頼むから、それだけは勘弁してくれ……。ってマジ?」

ラスティの失望の声にも納得する他なかった。失敗などものともせず猛進するラスティと、一度の失敗で挫折しかけるアゼル。
差は歴然だった。どちらが優れているかなどは論じるべくもない。
こくりと頷きながら、彼はこれまでに指摘された数々の言葉を反芻しながらただこの数日間を恥じた。

「何だそりゃ。あーあ、もうさっきの話全部取り消しだ! 柄にもなく褒めた俺が馬鹿だったぜ、このクソッタレが。だったらなおさらウジウジしてる暇ねえじゃねえかよ、この馬鹿。……よし! 頭殴っていいか? そうすりゃ記憶の一つや二つ軽く吹っ飛んでだな」
「……やめてくれ」
「いいや、やめねえ。大体お前って奴はな――」

見る見るうちにラスティの顔が落胆に染まり、口からは大量の唾とともに罵詈雑言が飛び出してくる。
文句の一つも言い返せず、アゼルはただ顔をうつむける。とは言っても、アゼルが沈黙を貫く理由は他にも存在した。


ぼんやりとではあるが、彼にも今後の案は浮かんではいるのだ。だが、実行に移すには早すぎるその草案を、
未完成の段階である今に提示するような真似は、彼にはできなかった。
加えて、三人との関係が正常に戻っていない現時では、せっかくの計画もあまり意味を持たない。
よく練りもせずに話し、ラスティにあれこれと苦言を呈されるくらいならば、いっそのこと黙っていたほうがまだマシだった。

「おい、聞いてるのか?」
「聞こえてる。痛いくらいに」

自分の欠点を噛み締めながらアゼルは素直に己の罪状を認める。

「そもそもだ。どうしてそういうことになってるんだ? 俺が思うに、お前が一方的に距離離しているだけなんじゃねえのか?」

顔をしかめながらラスティが尋ねてくる。

「それはありえない。理不尽な任務ってことはわかっていたんだ。ただ二人があんな形で巻き込まれるとは思っていなかった」
「だから顔合わすのが怖いってか?」
「ああ」
「俺なら顔合わせた瞬間に殴り倒しに行くけどな」
「え?」

意識していなかった指摘を受け、思わずはっとなる。

「え、じゃねえよ。ろくに状況も知らずにいきなり戦地に置かれて、それから死ぬ瀬戸際まで戦わされてみろ。誰だって雇い主に文句は言うだろ。もしくは怒りに任せてぶっ飛ばすかだ」

確かに帰還した際に、彼らは何もしなかった。それどころではなかったというのもあるが、
自分が真に信頼されていないのであれば、顰蹙を受ける機会はそれこそ無尽蔵にあったはずだった。

「そうでもしなけりゃ、うさ晴らしにならないからな。人間ってのは器用じゃないんだ。怒りなんてものを、いつまでも腹には溜めておけない」

しかしアゼルには覚えがない。すべての事情を心得ていたあのレスターでさえも文句すら言ってはこなかった。
彼らに罪はない。あの戦地へ彼らを招いたのは自分自身で、この状況の責任もすべて自分が負うべきものだ。だがそれは違うと言うのか。

「覚えがないってお前が言うんだったら、たぶんその問題はそいつらの中じゃもう終わってる。上歩いているときに言っただろ。気づいてないのはお前だけだって」
「そう、なのか?」
「おいおい、俺に聞くなって。会ったこともない奴らのことなんか俺が知るわけないだろうが。自信がないなら直接そいつらに聞け。仮にも泣く子も黙るランカー様なんだ。そのくらいの度胸はあるだろ? にわとりじゃあるまいし」

ラスティの言動に押され、喉がふさがる思いだった。実は、彼らのことを一番理解していないのは自分なのではないか。
だとすれば、自分は今何をしている? どうして留まっている? 仮に彼らがすでに自分を待っているとしたら?
そんな仲間の手を払いのけて、自分はこの数日逃げに逃げ続けてきた。彼らの真意すら聞こうともせずにただ自分の殻に閉じ篭もったままで。

「まあ、いいがな。今に始まったことじゃないし。ったくその辺はマジで昔と変わっていないんだな、お前」

彼の意図を知ってか知らずか、静まる気配がないと思われたラスティの怒涛の追求は、そして徐々に勢いを失っていく。
十八番である透視能力でも使ったのだろうか。その後の彼は、対策は皆無と断言したアゼルに対しても、わずかな皮肉を漏らす程度であった。

「さて、これからどうする? 俺も言うことは言ったから、帰るか? あ、出口は別にあるから、帰るんならそっちから出るようにしてくれ」
「……わかった。帰ろう」

ぎりぎりまで燃やし尽くした煙草を床に捨て、靴底で何度も踏みつけながら彼は言った。
思わずはっとして現在の時刻を確認すると、すでに日が昇っていてもおかしくない時刻だった。
最後に時間を確認してから、すでに数時間も経っていたことに、アゼルは少なからず驚きを隠せなかった。


気づけば眠気も濃くなっているような気もした。自身で作ってしまった生活習慣の乱れをようやく自覚し始めながら、
彼は最初に入ってきた方角とはまた別の方向へと歩を進めるラスティの後を追う。

「そうだ。質問とかあるか? 今ならサービスしておくぞ」

人が歩くには不釣合いな広さを持つガレージで、未だわからぬ出口へと歩むアゼルに対し、ラスティはらしくもない言葉を告げていた。
彼と肩を並べたと同時にそれを聞いたアゼルは、咄嗟のことに混乱し、しばらくの間考え込んだ。
尋ねるべきことはそれこそ山ほどあったが、アゼルは最も根源に位置するものであろうと考え、

「奴らを憎んでいるのか。今もまだ」

そして言った。単純すぎる質疑だったが、彼はこれまで一度としてラスティが憎悪を言葉にしたところを聞いた試しがない。
ガレージ端に備えられた新たな階段を前にして、またかと心の中で舌を打ちながらも、アゼルは彼をじっと見つめた。


ラスティにとってもこれは思いがけない質問だったのか、彼の目が一瞬丸くなっていた。
まさかというような驚きのようなものを顔に晒しながら、そして何を思ったのかふっと表情を綻ばせた。刹那、

「お前も、ガキの時点で人生を否定されてみればわかるさ。俺の都合なんざ完全無視で、勝手に誘拐して、勝手に人の頭を弄って、気づいたときには人間じゃなくなってた。そのまま家畜同然に扱われて捨てられれば、誰だって復讐の一つや二つはしたくなるものだろ」

と、彼は妙に落ち着いた調子で言い放っていた。迷いも逡巡もない断言だった。

「それとも、こんなこと考える俺はやっぱりまともじゃないのか?」

先程とは構造が異なるらせん状の階段を昇っている最中、弱々しい声で彼はそう呟いていた。
一体この男は、その胸の内にどれほどまでの労苦を背負い込んでいるのか。薄暗い明かりが、彼の心境を物語っているようにも思える。
アゼルは何を言うことができなかった。かけるべき言葉が見当たらない。否、かけられるわけがない。
彼の経験は彼にしか体験できない。他人が彼の苦しみを共有することなどは最初から不可能である。綺麗事を並べたところで事実は絶対に変わらない。

「いや、普通だ。……たぶん、そう思う」

しかし、それでも確信できたことがある。ラスティは決して間違ってはいない。ましてや異常をきたしているわけでもない。
彼の憎悪や苦しみを癒すことはアゼルにはできない。ただそれを教えることはできる。そして認めてやることはできる。
彼が抱く苦悶や葛藤、それらすべては人間誰しもが持つ普遍の感情だということを。

「そうか」

ラスティは最後にそれだけを呟いた。日頃から張り付いていたにやけ面はそこにはなく、
どこにでもいるような青年の能面がアゼルの瞳に刻まれていた。満足したのかどうかは定かではなかったが、
それ以降、彼は何も言わなくなった。アゼルもまた何も言わず、ただ出口に向けて階段を一歩一歩昇っていく。


だがそこでおかしなことに気づいた。どうやら終点に辿り着いたらしいのだが、どういうわけか出口が見当たらない。
普通ならば扉くらいあるはずなのに、目の前にあるのは漆黒の壁のみだった。不審に思い、アゼルはさらに目を細めて辺りを見渡した。


薄暗い通路の三方はすべて壁、しかも今彼らがいる場所は、中腰にならねば、頭が天井に当たるほどだ。
一本道ゆえに間違えたとも言い難く、アゼルは尋ねることを躊躇っていた。当のラスティと言えば、
なぜか辺りの壁を丹念に調べている。その合間に、彼は何かを探し当てたようで、不意に天井の壁に両腕を押し当てていた。


黙ってそれを見つめていると驚くべきことが起こった。ガリガリと鈍い音を立てながら、天井が横にスライドしていったのだ。
それはどうやら地上へ繋がっているらしく、隙間から染みこんでくる光がそれを示していた。
光量は予想外に少なく、まだ外は暗闇だということをアゼルは察した。同時にひどく埃臭い異臭が彼の鼻を突く。


ラスティに続き、開いた天井から這い出すと、そこはどうやら物置のようだった。
薄っすらと青みがかってきた外から光が零れ、その空間を薄く照らしており、使い道のわからない機材やら箱やらが乱雑に置かれていた。
そのどれもに共通していることだが、上部には目視できるほどの埃がびっしりと敷き詰められていた。


副流煙に晒されるのと同種の嫌悪感を感じアゼルは自然と顔をしかめた。
誰にも使われていない様子の物置らしき部屋は、なるほど、ラスティにとっては絶好の細工場所ということか。
新たに煙草を取り出し、至福といった様子でそれに火をつけたラスティの横顔を見つめながら、アゼルは彼の思惑を知る。


床を元に戻し、ラスティはライターを胸ポケットにしまう。彼は続けて、片方の手で煙草の箱を握りつぶしながら、
もう一方の手で、彼らの前にあった扉の錠を難なく外して扉を開けた。ここはどこなのだという疑問を抱えたまま、アゼルは一部始終を見守る。


扉の端から飛び出してきた得体の知れぬ何かが、凄まじい速度でラスティの顔面に飛び込んでいったのは、そのときだった。



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