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不器用な君へのメッセージ


『今から会いに行くから』

振動するはずのない携帯電話がブルブルと震え、トイレ掃除をしていた僕は、そのメールに驚いた。 ポケットから携帯を取り出し画面を見る。手紙の形をしたアイコンがあった。 購入してから一度も変更していなかった待ち受けの横に、確かにそれはあったのだ。

受信したメールアドレスに心当たりはなかった。 登録してあるアドレスを僕は全部記憶している。でも、こんなのは特技でもなんでもない。 それができてしまうほど、僕は友人に恵まれていない。ただそれだけのことだ。

「送る相手を間違ってますよ」

反射的にそう返信した。僕なんかにメールを送る物好きなんていない。 送信が確認できたところで、僕は携帯をズボンのポケットに突っ込み、 壁に立てかけておいたデッキブラシを手に取った。

バケツの中の澱んだ水にデッキブラシを浸し、すぐにそれを取り出して地面をこする。 デッキブラシが地面をこする音だけが響く。ずっと屈んでいるものだから腰が痛い。

それでも痛み自体はそれほどでもない。ここ数日、トイレ掃除ばかりしていたから、 身体も慣れてしまったのだろう。僕はそう思った。でも虚しくなって、僕はすぐにその思考を頭から消した。

担当していたACが任務先で破壊されたおかげで、僕の仕事は唐突になくなった。 そして、空いた期間の埋め合わせがこのトイレ掃除だった。

僕が同じ職場の人間にあまり好かれていないというのは、周りから受ける視線ですぐにわかる。 でも、それを疑問に思ったことは一度もない。その理由は僕が一番よく知っているからだ。

見た目も悪く、気の利いたことも言えず、宴会の席でも酒すら飲めない。 仕事も人並みにできず、毎日のように上司の怒声を浴び続けている。

周囲の冷ややかな視線や、叩かれ続ける陰口にはもう慣れていた。 だからこのトイレ掃除を言いつけられても、僕はなにも言わずにそれを受け入れた。

どうやら今の僕には、アンモニア臭でむせ返るこの空間で、 タイル目にこびり付いた汚れと戦う毎日の方がお似合いらしい。 でも僕は、その汚れすら満足に落とすことができずにいる。

デッキブラシをバケツの中に放り込み、僕は休憩がてら背筋を伸ばし始める。 そこで、僕は太腿のあたりが震え出したことに気づいた。またしても携帯電話だった。

僕は再び携帯を取る。機械的な手つきで折り畳まれた携帯を開け、メールが来たことを確認する。 どうせ謝罪文だろう。大した期待を抱くこともなく、僕は画面をのぞき見た。

『間違ってないよ。これ、あなたのアドレスでしょう?』

という文面の下には、確かに僕のアドレスが添付されていた。

「確かに僕のアドレスです。あなたは誰なんですか?」

ああ、そうか。僕は返信をしたあとで気づいた。これはいたずらだ。 誰かが僕のアドレスを広めてからかっているに違いない。そう思った瞬間、ひどく気分が悪くなった。

『ああ、ごめんごめん。えっと、あたしは……レナだよ』

すぐに送られてきた文面に、

「すいません。迷惑です」

と返して僕は作業に戻った。けれど、またしても僕の携帯は震え始めた。 もう携帯は見ない。このアドレスももう使えないから、仕事が終わったらアドレスを変えよう。そう思った。 僕の同僚がトイレの中に入ってきたのは、その振動が止まってからすぐのことだった。

「おい、主任が呼んでるぞ?」
「僕を?」

いかにも面倒臭いといった様子で、彼はうなずく。

「新しいACが来たんだと」

それだけ言うと、彼は僕の返事すら聞かずにトイレから出て行った。 一人取り残された僕は、とりあえず持っていたデッキブラシを置いて、トイレから出る。

扉をくぐると、またしても携帯が震えた。 僕はもう相手にしようとせず、文面を確認しないまま携帯の電源を切った。





「これ、ですか?」
「ああ、そうだ。なんか文句あるか?」

人を見下したような視線で、主任が僕を睨みつけている。

「……いえ、別に」

僕は顔をうつむけてその視線を直視しないようにした。 下っ端の整備士のなかでもさらに出来の悪い僕が、彼には気に入らないようなのだ。

だから、トイレ掃除をしろという指示も簡単に出せる。 辛い仕事も全部僕に押し付けてくる。今回もその類だった。

「トイレ掃除は今日で終わりだ。明日からこいつの整備をしろ」

主任が見覚えのないACを指差して言う。 今まさにハンガーに取り付けられようとしているそれは、僕が見ても少し遠慮したいようなものだった。

タイプは二脚。一応重量級のACなのだろうが、その面影は今はまるでない。 装甲という装甲が歪んでおり、鮮やかだったはずの塗装も剥がれ落ちて、今は金属の生々しい光沢の方が目立っている。

右腕はすでに存在せず、ちぎれた配線だけがぶらんと垂れ下がっていた。 まさにスクラップ状態。新品に交換したほうがはるかに安上がりで済むだろう。 ここまで壊されて、よく中の人間が生きていたものだ。

「期限は?」

心の中でそう呟いた僕だったが、僕は別の言葉を口にしていた。

「いつでも構わないとさ」
「え?」

意図しない言葉を耳にして、僕は思わず主任の顔を見た。 いかにも害虫を見るような、嫌悪感むき出しの能面がそこにはあった。

「そんな目で見るな。気持ち悪い。俺も送り主からは、綺麗にしてやってくれとしか聞いてないんだ。だからいくら時間がかかっても問題はないらしい。お前に最適な仕事だろ?」

なにも言い返せないまま口を閉ざす。だが、期日の良心さには正直に驚きだった。 一日で仕上げろという指示すら僕は覚悟していたのだ。

それでも面倒であるには変わりはない。レイヴンからはすでに代金をもらっているのだろう。 レイヴンが注文でもしない限り、整備士たちはこんなスクラップ状態のACを整備しようとは思わない。 今回はその類の注文があったのだろう。だから主任は、こうしてその汚れ仕事を僕に押し付けたというわけだ。

「頼むぞ」

主任が言う。

「はい」

当然のように答えたが、すでに彼は僕に背を向けて歩き去っていった。 やっかいな仕事がなくなって良かった。彼の背中からそんな感情が漏れ出しているのを、僕は見逃さなかった。





僕が部屋に帰ったのは、すでに日付が変わったころだった。担当するACの検査だけでこれだけかかってしまった。 どこが生き残っていて、どこが手遅れなのか。それを把握するだけでも一苦労だった。 損傷が激しいものだから、パーツの発注もかなりの数になるし、それを取り付ける作業はさらに重労働になる。

考えるだけで頭が痛くなりそうだった。どう考えても一人ではできるような仕事ではない。 だがあの主任のことだ。手を貸せといっても、まともに貸してくれるとは思えなかった。 他の整備士にしても同じこと。僕が頼みにいっても、まともに取り合ってくれるかは怪しいところである。

パーツの発注元の連絡先を確認しながら、明日行うことを頭の中で組み立てていく。 持ち主のレイヴンは期限を定めていないが、それでものんびりしているわけにはいかない。

頭では処理が追いつかなくなり、僕は部屋に置いてあったスケッチブックを開いた。 知らず知らずのうちに僕は興奮していた。やはりトイレ仕事なんかよりもこちらのほうが数段面白い。

真っ白なスケッチブックに、僕は今後の予定をびっしりと書き込んでいく。 本来ならこれは好きな絵を描くためのものだ。ふと思い返してみる。 いつから僕は、このスケッチブックに絵を描かなくなったのだろう。

大まかな予定が組みあがったところで、さすがに眠気が来た。 明日からの仕事に響くと考え、僕はシャワーの用意のために洗面所へと向かった。 ズボンを脱ごうとした瞬間、僕はそこに自分の携帯電話があったことを思い出した。

携帯電話をその場からベッドに向かって投げ捨て、僕はシャワーを浴びた。 濡れた髪をタオルで拭きながら、部屋に戻ろうとしたとき、僕はふとあることを思い出した。

あのときの謎のメールはどうなったのだろうか。 ふとした好奇心で、僕は部屋のベッドに転がっている携帯電話を手に取り、電源を入れた。 あれからもう何時間も経っている。さすがにもう返信はないだろう。と思い画面を見る。

『迷惑って、あたしをいたずらかなにかだと思ってるの?』
『って返信くらいしなさいよ! 携帯見ろ!』

電源を入れ受信件数を調べてみると、そこには大量のメールが叩き込まれていた。 そのありえない量に僕は目を疑った。

『無視するとか男として最低ー!』
『携帯見てよー』

よほどの暇人なのか、メールは十分に一度のペースで送信されていた。

『け』『い』『た』『い』『を』『み』『ろ』『!』
『あ、まさか電源切ってる?』

時間が経つにつれ内容が徐々に変化していく様子を、僕はわずかな期待と興奮を抱いたまま追っていく。

『もしかして、もう寝ちゃった?』

怒涛のメール攻撃はこの文章を最後に唐突に終わっていた。送信された時間は今からおよそ五分前。 僕が電源を切ってから、このメールの送り主は十分の一度の割合で今までメールを送り続けていた。

僕を相手にして、ここまで粘着質に嫌がらせをするような人間はたぶんいない。 もしかすると、この相手は嫌がらせが目的ではないのかもしれない。そう思わせるまでの粘着ぶりだった。

「いや、まだ起きてる。これから寝るところ」

そんな心の揺らぎが僕にこんな返信をさせてしまった。 送ったあとでもう取り消せないことに気づき、僕はベッドの中で自己嫌悪に陥る。

そこで携帯電話が唐突に震えた。それに呼応して僕の心拍数が跳ね上がる。 やはりただのいたずらだったとしたら。不安は晴れない。携帯を握る僕の手は汗でじっとりと湿っていた。

『おやすみ』

けれど、その文面を見たとき、僕はその行動を少し後悔した。





そして、僕と彼女――レナとの間にちょっとした交流が生まれた。 交流と言っても、もちろん顔をつき合わせて、なんてものではない。 仕事の合間に、忍ばせていた携帯を取り出して、送られてきた文面に返信を書くだけだ。

彼女が一体誰で、なんのためにこんなことをしているのか。 それがずっと僕の頭に付きまとっていた。メールで聞ければいいのだが、僕はできなかった。 そのせいで彼女から返事が来なかったら。そう考えると無性に怖かった。

仕事中に携帯電話を使うことは本来禁止されている。 だけど、このガレージで僕のことを気に留める人間なんて、ほとんどいない。 だからちょっと工夫すれば、まず気づかれることはなかった。

業者が搬入してきたパーツを、協力してこの小汚いACに取り付けていく。 手伝ってくれるのは、まだ勤務して間もない新人ばかり。 同期の連中や、自分より格上の人間は一人もいなかった。

単純にACが好きで、下手の横好きで整備士となったまではいいが、現実はそう甘くもない。 後輩に指示を飛ばしているから気づかれてはいないが、実際、彼らは自分よりも手際が良かった。

『不器用な整備士ってどうなの?』

そんな今日の出来事をあらかた愚痴り終えたあと、レナからこんな返事が来た。 くたくただった僕の身体に、その文章は正直辛いものがあった。

「一応試験はちゃんと通ったんだよ。ギリギリだったけど」
『ふーん。整備士ってみんな器用だと思ってた』
「それは偏見」
『いやでも、見た目的にはそう思わない?』
「そう見えるのかな……?」
『見えるよ。みんな浅黒くて腕とか丸太みたいなイメージなんだけど。おかしい?』
「間違ってはいないけど、全員がそうってわけでもない」

その一人が僕だ。彼女のイメージとはあまりにかけ離れた貧相な人間がここにいる。

『でもあれだよ。大事なのは見た目よりも中身だと思わない?』
「ああ、よく言うよね」

誰もが言っている言葉だ。でもそんなのは所詮気休めでしかない。 そんなのはただの負け惜しみでしかないのに。

『男の子だってそうよ。大事なのはまず中身。顔なんかほんとどうでもいいって感じ』
「ふーん」

間を置かずに僕は続けてメールを打った。

「で、建前はそのくらいにして本音は?」
『顔ね! 性格なんてぶっちゃけどうでもいい。なくていい』

あまりの正直さに僕は思わず吹き出してしまう。

「なにそれ? 励ましてくれてるんじゃなかったの?」
『あたしが? まさか。こんなことくらいで元気が出るんだったら、そもそもあなたも悩まないでしょ』

そのメールに僕は返事を書けなかった。 僕だってこんな現状に満足なんかしていない。絵を描くのと、整備士とを天秤にかけて僕は整備士への道を選んだ。 そうやって僕は僕自身で進むべき道を歩き始めた。でも現実はこんなもの。正直辞めたいと何度も思った。

だけど僕はまだここにいる。逃げたくなかったからだ。ここで諦めたら僕は彼らに屈することになる。 絶対にそうはなりたくない。僕はそうやって歩みを止めることを必死に我慢している。

問題なのは我慢するだけで終わることだ。ここ数年はまさにそれ。 僕は前にも進もうとせず、ただずっとその場に留まっているだけなのだ。

『あ、でも君は優しそうに見えたよ』

そんなフォローも僕にはあまり効かなかった。

「君は悩みなんてないんだろうね」

陰鬱な気分が、僕の指を勝手に動かして送信ボタンを押させた。 なにをやってるんだ。と僕はすぐに自分を戒める。 と、謝罪分を書こうと思い新規作成のページを開いたとき、彼女から返信が届いた。

『あるよ』

ただそれだけが書かれていた。

「たとえば?」

僕がそう問い質すと、

『……腕がね、すごく痛いの。ねえ。あたし、どうすればいいと思う?』

と返ってきた。その内容に僕は首を傾げる。

「……よくわからないけど、それなら冷やすのが一番だと思う。もしそれでも駄目ならやっぱり医者に見てもらったら?」

当たり前のことを当たり前のように書いて送った。

『うん、そうだよね。ごめんね、変なこと聞いて』

その謝罪文で今日の僕と彼女のやり取りは終わった。





次の日、ちょっとした問題が起きた。昨日一緒に作業していた新人の一人が、突然僕に頭を下げてきたのだ。 わけがわからずその理由を問い質すと、手違いで腕部の溶接の際にミスを犯し、そのまま放置してしまったのだという。

点検を受ければすぐに発覚するような初歩的なものだから、今の内に謝らせて欲しい。そういうことだった。 人を怒鳴りつけることもその度胸もない僕は、彼を咎めることなく、ただやり直すようにとだけ言ってやった。

彼と一緒に問題の箇所を見てみると、確かにその溶接は杜撰なものだった。 必要以上まで接着させてしまったのか、重要な箇所までまるごと焼き切られている。

きちんと元に戻せとは言ったが、これは新人がするには難度が高いだろう。悪化させてしまう可能性もあり得る。 だからと言って、僕一人でどうこうできるレベルでもなかった。骨が折れる仕事であるのは誰の目にも明らかだった。

「すいません! ちょっとこっち手伝ってもらえませんか!」

僕は高らかにそう叫んだ。そして言ったあとで、自分自身でそのことに驚いた。 腹から飛び出たその絶叫に近い声が、ガレージ中の整備士の耳に叩き込まれたためか、 フロア中の人間が一斉に僕に視線を向けていた。彼らの顔にも一様に「なぜお前が?」という驚愕の感情が張り付いていた。 だけどそんなこと知らない。一番聞きたいのは僕自身なのだ。

そして今日の仕事も徹夜が確定した。何人かの整備士が手を貸してくれたおかげで、 ACの腕部は元通りに繋がった。だが彼らが手を貸してくれたのはそこまでだった。 不本意そうな顔をしていた彼らの前で、最後の点検まで付き合えというのはさすがに無理があった。

問題の箇所を中心に、これ以上ミスがないか細心の注意を払って目を配る。 普通ならここまでする必要なんてないのだが、それでも部下のミスは一応の上司である僕の責任。 そうこうしているうちに、人がどんどんいなくなり、そして最終的には照明まで落ちた。

警備の人に、今日はここで泊まると無理を言い、懐中電灯を借りて僕は作業を続けた。 重くなっていく瞼をこすりながらも、僕はなんとか全ての部位で異常がないことを確かめた。

全ての作業が終わり、僕は倒れこむようにして床に座り込む。 誰もいないガレージで一人あぐらをかき、僕は目の前にかかったACを眺める。

ボロボロだった装甲も今は綺麗に貼り直され、損失していたパーツはすべて繋がっている。 重量二脚らしいその圧倒的な迫力はもう十分に出ているはずだろう。完成まではあともう少しだ。

と、そこで僕は携帯をポケットから取り出した。受信欄の中にレナの名前を見つける。 僕にとっては、彼女とのやり取りはもう毎日の日課にさえなりつつある。 今日は場所が少し違うけれど、メールのやり取りには場所なんて関係なかった。

「そういえば、腕の調子はどう?」

適当に何通かメールを交わしたあとで、僕は不意に昨日のことを聞いてみた。

『うん、もう大丈夫』
「医者に診てもらったとか?」
『うーん、まあ大体そんな感じかなあ』

と言葉を濁す彼女を、僕は少し不審に思う。だけどあまり気にすることはなかった。 今の僕には他に言いたいことがたくさんあったからだ。

『へー、一歩前進って感じだね』

今日の一大事件にも、彼女はいつもの明るい反応を返してくれた。

「自分でもびっくりしてる」
『良いことだと思うよ。それがきっかけになればいいんだけどね』

以前の僕では、人に助けを求めるなど絶対に考えられないことだった。 求めてもどうせ聞いてもらえないに決まっている。ずっとそう思っていたからだ。 でも、あのときはそんなことは思わなかった。自然と声が出た。

『ねえ、ちょっと聞いてもいい?』

珍しくレナがそんな内容のメールが届いた。

「いいよ」

僕がそう書くと、

『仕事やめる気ないの?』

という返信が来た。

「僕もよくわからない」
『あんまり歓迎されてないんでしょう? 辛いんだったらやめればいいのに』
「……簡単に言ってくれるよ」

それができないから僕は困っている。仕事はきちんとやっている。作業は遅いけれど、今まで手を抜いたこともない。 自分なりに一生懸命やっているつもりだ。でもそれ自体に大した意味はないと知った。一生懸命なんて、誰でもできることなのだから。

『だって簡単なことだもん』

あっさりと言い切れるだけ、やっぱり彼女は僕にとっては他人だった。 彼女にとっては人事でも、僕にとってはこれが人生そのものなのだ。簡単に済むようなことじゃない。

『やめたくないっていうのは逃げたくないってことなんでしょ? 結局、君が大事にしたいのは自分のプライドなんだよね。『あいつは根性なしの臆病者だ』って後ろ指刺されるのが怖いだけなんでしょう?』

違う。すぐに否定しようとした。僕はACが好きなのだ。触れているだけで幸せを感じることができる。 だから僕はここで働いているんだ。そう書こうとした。でも文字を打つとき、ふと思った。 本当にそうなんだろうか、と。自分に問いかけてみた。けれど、はっきりとした答えはついに返ってこなかった。

『どうせ自分はこうだから、とかなんとか言って自分で納得しちゃって、それで終わってるんだよね。変えようと思えばいくらでも変えられることなのに、自分で勝手に諦めちゃってて、やろうって気も起こらないんでしょ?』

結局、彼女から見た僕は逃げているだけなのだろうか。いや、違う。僕は逃げてすらいない。 立ち向かうこともできないばかりか、それから逃げることすら僕はできていないのだ。

『男だったら根性見せろ!』

僕の返事を待たずに、続けざまにさらなる追い討ちがのしかかってきた。 もう今日はやめよう。僕は耐え切れなくなって、携帯を閉じようとする。 だけど、そのメールには続きがあるようだった。画面をスクロールさせていくと、

『ごめん。わけのわからないこと言いすぎだよね、あたし』

とだけ書かれていた。

「僕もごめん」

僕もなぜか謝った。謝らずにはいられなかった。 誰もいない広大なガレージで、僕はしばらく動けなかった。

それから十分ほど経ってから、彼女から新しいメールが来た。

『ほかに好きなこととかないの?』

清々しいくらいに話題が変わっていた。

「……絵を描くこと、かな」

『お、それいいね。詳しく聞かせてよ』

僕はその日、日が開けるまで彼女に自分の趣味を話した。 彼女も最後まで付き合ってくれた。寝なくていいのだろうか、と僕はちょっとだけ気になっていた。





「お前、なにコソコソやってるんだ?」

夢のような日々は必ず終わる。僕と彼女の関係にもそれは容赦なく訪れた。 彼女との交流があの主任にバレたのだ。仕事もあと数日で一段落する、そんな日だった。

「俺の仕事場で堂々と携帯使ってサボりかよ、おい?」

原因は単なる僕の不注意だった。どうせ僕のことなんか誰も見ていない。そう鷹をくくっていたから、 僕は仕事中でも携帯を使って彼女にこっそりメールを送っていた。それが不運にも主任の目に留まってしまったのだ。

「すいませんでした」

その日の主任は機嫌が悪そうだった。奥さんとうまくいっていないという噂は風の便りで知っていたから、 そのせいだろう。だからなのか、僕が必死で謝っても、彼の怒号は止まらなかった。

「携帯を寄越せ。俺が預かってやる」

逆らってはいけない。そんな防衛本能が勝手に働いて、僕は渋々彼に自分の携帯を手渡した。

「へえ。お前、女がいるのか?」

だけど、それはとんでもない失態だった。主任は僕から携帯を奪い取ると、 躊躇うことなく僕と彼女のメールをのぞき見たのだ。

「や、やめてください!」
「黙れよ。ハハ、なんだよこれ。お前隠れてこんなことしてたのか? 知らなかったよ」

彼の嘲笑が突き刺さる。

「ん、なんだ。自分で引っ掛けた女じゃないのか。やめとけ、こんな女。どうせ最後は全財産搾り取られて終わりだよ」
「……やめてください。お願いします」
「いやだね。規則破ったのはお前だろ?」

全部壊される。そう思った。唯一の安らぎになっていた彼女との交流が、この男によって握り潰されてしまう。 僕を馬鹿にするだけならそれでもいい。それなら我慢できる。でも、彼はそれだけでは飽き足らないようだった。

「お前、こいつと会ったことないんだろ? ならこれからは俺がお前の代わりをしてやるよ」
「え?」

辱めを受けるだけで終わりだと思っていた。だけどそれだけでは終わらなかった。 駄目だ。今度ばかりは僕も黙っていられなかった。

「そ、そんな! 無茶苦茶ですよ!」
「いいじゃないか。どうせ会ったこともないんだろ? お前のダサい姿なんて見たら、この女も幻滅するだろうからな」

主任が僕を睨みつけながら言う。僕は歯を噛み締めながら、その話を聞いていた。 身体の中は今まで感じたことのない感情で溢れていた。この男は僕から全てを奪おうとしている。 彼女のおかげで、僕はようやく自分のことを考え始めることができたのだ。

まだなにも始まっていない。これからだというのに、この男は彼女ばかりか、 その機会さえもこの僕から奪い取ろうとしている。許せなかった。僕はそこで自分が怒っていることに気がついた。

彼女の声が聞きたかった。彼女ならこういうときなんと言うのだろう。 咄嗟に考えて、すぐあの文面を思い出した。

『男なら根性見せろ』

間違いない、彼女ならきっとこう言う。

「安心しろよ。お前なんかより、俺の方がずっとこの女を喜ばせてや――」

その言葉が引き金となり、僕の頭でなにかが弾けた。 そこから先はよく覚えていない。気づいたら、僕は数人の男に取り押さえられていた。

もみくちゃにされながら、僕は主任が鼻や口から血を流してうめいている姿を見た。 ああ、僕は彼を殴ってしまったんだ。罪の意識からか、僕の身体から自然と力が抜けていた。 それでも僕は、取り返していた自分の携帯だけは、しっかりと握り締めて離さなかった。

その次の日も、僕はいつもと変わらずに出勤した。僕を気にかけてくれる人は、やはりほとんどいなかった。 仕事の内容もいつもと大して変わらなかった。僕の周りはいつも誰もいなかった。 肝心の主任は病院に行ったらしく、今日は休みのようだった。

そんな中でも、どういうわけか僕の気分は晴れやかだった。 仕事もいつになくはかどり、予定よりも大分早くACの整備が終わってしまう。

依頼主のレイヴンにその旨を伝えると「ついでだから塗装も頼む」と言われた。 さらに詳細を聞くと「任せる」という返事が返ってくる。 彼は最後に「そっちのほうが喜ぶらしい」と言ってきたが、僕にはその意味がよくわからなかった。

塗装の仕事は僕一人ではできないので、パターンだけを考えた。 配色を考えるだけなら、僕でもできる。自慢ではないが、絵を嗜んでいたので、その辺のところは自信があった。

一晩中考えて、ようやく塗装の詳細が決まった。サービスとして、僕はエンブレムまでも考えていた。 マイクを持った女性を象ったエンブレムだ。僕が好きだった歌手がモデルである。

それを次の日担当に持ち寄って、僕はその足で辞表を出した。 主任に直接渡したかったが、彼はその日も休みだった。謝罪文とわずかなお金だけを添えて、そして僕は仕事を辞めた。





数ヵ月後、僕はちょっとしたきっかけでこのガレージを訪れていた。 仕事を辞めたあと、僕は各地を転々としながら、旅をしていたのだ。

その中で新しい仕事が決まったのは、まさに幸運だったとしか言えない。 あたり一面荒野しかない場所に、ポツンとあった水素スタンド。そこが僕の新しい仕事場だ。

車が故障し、途方にくれていたところに運良くそのスタンドがあった。 そこの店主の人がとても優しく、自分の家で泊まらないかとさえ言ってくれた。

家族の人とも打ち解けて、僕は自分の事情を話した。 すると、店主の人が働かないかと持ちかけてくれたのだ。

「たまに三十六時間営業とかあるけどね」

と、店主の人は笑いながら言っていたが、僕にとってはそんなことはいくらでも我慢ができた。 なによりまたACやMTと関われることが最高だった。 基本はお客が来たら応対する。というものだったので、暇があれば絵も描けるらしい。これが決め手だった。

そして身の回りの整理がしたいということで、僕はこの街のガレージに足を運んだのだ。 遠くから中を覗いてみると、やはり忙しさは変わっていないようだった。

あそこから逃げ出した、と思うと今でも後悔の念はつきない。 結局、僕は逃げ出すことしかできなかったのだから。

レナとのメールも仕事を辞めたときに終わってしまった。 仕事をやめたこと、少し自分で先のことを考えてみたいということを最後に記し、 僕はこれ以上メールをするのはやめようと持ちかけた。

彼女もそれに応じてくれた。彼女の最後のメールには彼女自身も、 自分の大事な人に気づいてもらえないという悩みがあったことを打ち明けてくれた。 それが僕との会話をしているうちに、元通りになった。という内容が書かれていた。

『今までありがとう』

それが彼女がくれた最後の言葉だった。

「ありがとう」

そう返信して、僕は彼女のアドレスや今まで貰ったメールを全て削除した。

新調した携帯電話を持ち、僕はスタンドの店主に「もうすぐ帰ります」というメールを送った。 ここにはもう来ないでおこう。そう決めて僕は再びガレージに目を向ける。

ふと目を凝らしてみると、そこにはあのACがあった。 僕が決めたカラーリングそのままの姿で、そのACはハンガーに取り付けられていた。 あれからずっとこのガレージにいるようで、僕としてもなんとなく嬉しかった。

と、そこで僕の携帯が振動を始める。店主の人からの返信だろうと思い、 僕はさほど考えずに携帯を開いた。でも、そこに表示されていたアドレスは彼のものとは違っていた。

僕は不思議に思い、その送られてきたメールを見た。画面にはこう記されていた。

『ジロジロあたしなんか見てないで、ちゃんと前見て歩きなさいよ』

と。


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