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最強男も楽じゃない!


僕は最強だ。だから絶対に負けないのである。

世の中の仕組みがどうなっているのかは僕にはわからない。だけど僕は最強だ。少なくともそういうことらしい。 僕の命を狙う敵はとても運が悪い。いろいろな手段で向かってこようとも、結局は僕が勝ってしまうのだ。

これが仮に物語だとすれば、これほど面白くない物語はない。 戦えば間違いなく勝ってしまう主人公に誰が共感できるというのか。 だから僕を主人公にしてはいけない。たとえ興味本位だとしても、それだけはオススメできない。

そんな僕には大事なパートナーがいる。最高の女性だ。顔も良い、家柄も最高、おまけに僕とは相思相愛。 互いの両親にもきちんと挨拶は済ませているので、修羅場や駆け落ちなどは考えられない。 二人ともまだ若いということで、籍を入れるまでは進んでいないが、それも時間の問題でしかない。

だれもが嫉妬しそうな境遇だが、現実なんだから仕方がない。僕は知らない。 そんな愛しのマイハニーの家系は、とてもお金持ちだ。そのためなのか、彼女は少しわがままなところがある。

「ねえ、レイヴンになってくれない?」

ある日、ハニーが僕にこんな提案を持ちかけてきた。 とある喫茶店でデートをしていたときのことだ。

「いいよ。ハニーがそう言うのなら」

注文していた紅茶を一口含んだあとで答えた。 なんとも豪勢なパフェをつついていたハニーは、いつもの屈託のない笑顔をかえしてくれた。

すぐに理由を問いただすのが普通なのだろうが、僕は聞かなかった。 だてに何年も交際しているわけではない。彼女のいいたいことはなんでもわかる。

「もし断りやがったら、狭苦しいトイレに一ヶ月放置してやる」

的なオーラを彼女がほとばしらせていたら、だれだってうなずくものだろう。

「わあ、ありがとー」

二人のあいだに余計な詮索はいらない。これも二人の愛情があってこそなせることだ。

「ようこそ、新たなるレイヴン。君を歓迎しよう」

そして僕はレイヴンになった。試験を受けてACに乗り込み、敵を倒した。それで終わりだった。 拍子抜けだった。こんな簡単になれるものなのか。 こんなものでいいのか、と、審査官に小一時間ほど問いつめたかった。

「末恐ろしい才能だな、君は」

ACに降りたとき、誰かがそんなことを言っていたような気がする。でもよくおぼえていない。

「しかし、だ」

他の言葉はほとんど覚えていなかったが、 次の言葉はしっかりと僕の記憶に残っていた。

「どうしてそんなに顔色が悪そうなんだ?」

納得いかないといった男の表情はとても印象的だった。 他人から見れば、僕の操舵技術は神がかっていたのだろう。

その並外れた技量に、みんなが僕にあこがれのまなざしを向けるはずだった。 けれどそうはならなかった。当たり前だ。 男二人に両肩を支えられ、顔面蒼白に加えて涙や涎を垂れ流している僕に、だれがあこがれなど抱くというのか。

一人では立ってもいられないほどに憔悴した僕は、そのまま医務室へと運ばれ、診療所のベッドで寝かされた。 朦朧とする意識の中、ふと医務室内の鏡に目がいった。 自分のあられもない姿が、そこにははっきりと写されていた。

全身から汗を吹き出し、服はべっとりと湿っていた。顔は青ざめ、生気は欠片も見当たらない。 鏡に写ったそんな自分を眺めて僕は思った。こんな姿、ハニーにはとても見せられるわけがないと。 ベッドに横たわりながら、僕はしばらくなにもできず、天井をただぼんやりと眺めていた。

僕は最強だ。それは変わらない。そんな僕にも、実はたった一つだけ、誰にも言えないような秘密がある。

それが一週間前の出来事。ハニーとは毎週一回この喫茶店でデートすることが決まっているので、間違いない。 先週、彼女が食べていたあのパフェに挑戦しているのだけど、すでに胃が悲鳴をあげている。

どうして女の子には別腹という機能が備わっているのだろうか。 山積みにされたこの特大パフェを、いとも簡単に平らげたハニーの姿を思い浮かべ、僕はそんなことを思う。

「でね、最近のお兄ちゃんってば、またパパとけんかしたみたいなのよ」
「また?」

うん、と彼女はうなずく。最近の彼女は、いつもこの話題ばかりである。実は少しうんざりしていた。 兄が家出していること、その兄と両親との仲があまり良くないこと。愚痴の内容はだいたいこんな感じである。

「パパはちゃんとお兄ちゃんに稼業を継いで欲しいんだって。でもあたしのお兄ちゃんって、すごく理想が高いっていうか、頑固というか。とにかくそんな言い争いばっかり」
「ふーん」

僕はあまり興味がなかった。せいぜい、金持ちにもいろいろあるんだなと思う程度だ。 底にたまったアイスクリームをすくい取り、口の中に放り込む。 味なんてもうどうでもよかった。とにかく早く溶けてほしかった。

「ねえ、ちゃんと聞いてる?」
「え? ああ、聞いてる聞いてる」

アイスが外に出ないように咄嗟に口を押さえる。

「うん。なら、いいんだけどね」

僕の返答に、ハニーは今日も可愛い笑顔を見せてくれた。栗色のショートヘアーがそよ風に揺れ、 さわやかな表情を際立たせていた。今日もハニーの可愛さは変わらない。

「でね、ここからが本題なんだけど。先週あなたに『レイヴンになって』って頼んだよね、あたし」
「あ、うん。ちゃんとなったよ」

僕はうなずく。するとあのときの光景が脳裏に蘇ってきた。一気に不安になる。 僕は狭いところがとにかく大嫌いだ。怖くて怖くてたまらない。 最強であるこの僕が、こんなことでは絶対にいけないのだろうが、怖いものは怖いんだから仕方がない。

それでも負けないのが僕の最強たる所以なのだが、そうして余裕を見せまくった結果、 僕は数十分もACに押し込められることになり、そのあいだ僕はコクピットの中で悶え苦しんでいた。

もちろん彼女も、僕のこの欠点を知っている。だが彼女に僕を心配するといった様子はない。 気づいているのか、それとも先日の僕と同じく気づいていないのか。たぶんどちらかだとは思う。

できることならもうACには乗りたくない。レイヴンという資格もどうにかして取り消せないものか。 頭の中でどす黒い考えが巡り始めるが、ハニーのいつになく真剣な顔が視界に入ったので、僕は邪推な思考をそこで消した。

「あのね」

ぽつりとつぶやいて、ハニーはそこで言葉を切る。

「うちの会社が今ピンチなの」

いつになく真剣な顔で、彼女は僕をまじまじと見つめてくる。

「パパの勤めているところの、支部みたいなところがね。その、色々とひどいことになってるんだって」

スプーンについたアイスの名残を舐めながら、僕は耳を傾ける。

「あ、それちょっと舐めさせて」

言われた通りに、僕はスプーンをハニーの口元に差し出す。迷うことなく彼女もそれを口に入れた。

「うん、美味しい」
「で、ひどいってどういう意味?」

そう聞き返すと、ハニーは僕のスプーンからすっと口を離し、

「えっとね。壊されちゃってるんだって。レイヴンが暴れちゃうせいで」

といった。

「なるほど」

彼女のいいたいことがこれでわかった。

「僕に『レイヴンになれ』っていうのは、そういうことなんだ」
「わかってくれた?」

とりあえず首を縦に振ってはみたが、同時に嫌な予感もした。 彼女の次の言葉が予想できてしまったからだ。それはもう一瞬で。

「あなたに、そのレイヴンを追い出して欲しいの。パパもあなたなら安心できるっていってるし」

すっと彼女の手が伸び、僕の手をぎゅっと握った。彼女の体温がじかに伝わってくる。 シチュエーションとしてはこれほど良いものはない。けれど僕の内心は穏やかではない。

ACに乗っただけで悶絶するというのに、彼女はその状態で僕に戦ってくれといっている。 レイヴン同士の戦いといえば、それはまず間違いなく命のやり取りになるだろう。

けれど、その辺は特に問題ではない。どうせ僕は勝ってしまうのだから。 考えるだけ時間の無駄である。実にどうでもいい。 それとは比べものにならないくらいに大事なことがある。

「お願い、できないかな?」

本音をいうならば断りたかった。でも断れるわけがなかった。

「もちろん、やるさ。決まってるじゃないか」

ハニーが落ち込む顔を見てしまったら、もう僕は立ち直れない。 身体がいかに嫌だ嫌だとわめいても、ハニーのお願いであるならば、僕に拒否権はない。

「やったー。ありがとう!」

飛び上がってしまいそうな勢いで、ハニーは握っていた僕の手をブンブン振り回しながら喜んでくれた。 やや大げさなリアクションを取るのは彼女の癖だ。その仕草がとても可愛らしいのだけれども。

「大好き」

満面の笑みを浮かべたまま、ハニーが僕にそうささやいた。甘い吐息が耳元をかすめる。 ここまでされたら男としてはやるしかない。ここまでされて黙っていられるほど僕は軟弱な人間ではない。

男の弱い部分を見事に狙われたような気がするが、たぶん気のせいだろう。 今の僕ほど幸福な人間はこの世にはいないはずだ。





「さて、いきなりなんだけど、僕はACには乗らないからそのつもりで」
「本当にいきなりですね。しかもなにげに内容がひどすぎます」

部屋のふかふかのベッドに寝転びながら、僕ははっきりと告げた。 しかし、目の前の男は大して驚いたような素振りを見せない。 ふかふかのベッドに寝転がりながら、僕は手ごたえのない反応をした彼を軽くにらみつける。

楽しいデートが終わり、僕はハニーとともに彼女の家へと足を運んだ。 いろいろと打ち合わせもあるだろうからと、今日は彼女の家に泊まろうとしたのだ。

運転手つきの高級車で、窓を全開にしながら揺られることおよそ数十分。 小高い丘の上に悠然とそびえる建物、それが彼女の家だった。

城と表現してもなんら違和感のないそれは、彼女のいかに高い身分なのかを如実に表していた。 車から降りて赤い絨毯の上を歩く。絢爛豪華な門をくぐると、 その先には、どんなスポーツの試合も楽々行えるだけの巨大な庭が広がっていた。

見わたすかぎり緑色の芝生で覆われ、それが青空と見事に調和していた。 均等におかれた木々も、その一つ一つがきちんと手入れをされているようだ。 芸術の域としか思えないそんな庭の中を、ハニーと手をつなぎながら歩くのはやはり格別だ。

僕らが玄関にたどり着いたころ、僕の身長の二倍はある巨大な扉がタイミングよく開いた。 中から出てきたのは、これまた高級感溢れるスーツを着た男たち。彼らがこぞって僕らを出迎える。

僕は案内役を振り切り、自分の部屋へと向かった。エレベーターだけは絶対に使わないと決めていた。 それでも、五分を費やして自室へと辿り着く。その部屋の前に、男が一人が立っていた。

「お嬢様から頼まれましたので」

と、彼が告げたことで、僕は大体の事情をそこで知った。 僕はこの男のことを前から知っている。いつもハニーのそばから離れようとしない執事だ。

清潔感のある黒髪は短く整えられ、高級そうなスーツを見事に着こなしている。 極めつけはその端正な顔だろう。中性的な顔立ちや、整えられた目や鼻。 その美貌から生み出される微笑みは、まさに破壊力抜群。並の女性なら間違いなく瞬殺だ。 これで年齢は三十を超えているというのだから恐ろしい。おそらく新手の詐欺かなにかに違いない。

どうやら彼女が僕と出会う以前から、この執事は彼女の世話係をしているようだ。 ハニー曰く、彼女が子どものころは、毎日一緒にお風呂にも入っていた関係らしい。

まったくもって許しがたい暴挙だが、それはつまり、 この男はハニーの絶大な信頼を集めているということを意味している。 そんな男が、どうして僕の世話係なのだろうか。僕にはさっぱりわからなかった。

「仕方ないだろ。嫌なんだから。えっと」
「ああ、私の名前ですか」

僕がいうのを渋っていると、彼が逆に聞いてきた。迷わずうなずいた。

「お好きなように呼んでくださって構いませんよ?」
「好きなようにって……。あんたにも本名くらいあるだろ?」
「その辺は少々複雑なのです。察してください」

察するもなにも、会ったばかりの人間を気にかけるほど、僕は寛大ではない。

「んー、じゃあゴンザレスで」

命名の瞬間にも僕はさほど迷わなかった。整った彼の顔をじっと眺めると、 どこかゴンザレスっぽい雰囲気だったからゴンザレス。直感の力は偉大である。

「然様でございますか。ありがとうございます。おかげで手間が省けました」

彼もまた嫌な顔一つしなかった。だがまだ疑問は残る。

「クルンテープ・プラマハーナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラーユッタヤー・マハーディロックポップ――」
「は?」

と、突然目の前の彼がぶつぶつと何かを唱え始めた。 なにかの呪文の詠唱のようにも聞こえる。僕がぽかんとしていると、彼は途中でその詠唱を止め、

「一応、今のが私の本名です。まだ途中ですけどね。続けましょうか?」

といった。

「いや、いい」

些細な疑問がこれで解決。彼には悪いが、実は十語目くらいから聞いていなかった。

「とにかく僕はACには乗らない。乗りたくない」

悩みの種が消えたので、僕は改めて彼――ゴンザレスに向かって口を開く。

「ですが、お嬢様と約束したのではないのですか?」
「したよ」
「相手はレイヴンですよ? まさか、生身で戦うおつもりですか?」

怪訝そうな目つきで彼は僕を見つめてくる。 ベッドで寝そべっていた僕は身体を起こし、つぶやくようにいった。

「別にそれでもいいんだ。勝つだけだったらいくらでも手段はあるから。でもそれじゃ、ハニーにカッコいいところが見せられない」
「でも乗ってしまえばいろいろ面倒なことが起こる、ですか。板挟みですね」
「まあね」

もうACに乗ることは避けられない。薄々それには気づいている。 だが嫌なのだ。今なら駄々をこねてもどうにかなる段階だ。だからこねる。こねまくる。

「では、特訓でもしますか?」

わずかな沈黙のあとで、ゴンザレスが思わぬことを言ってきた。

「特訓ねえ」
「克服さえしてしまえば問題はないのでしょう? なら作戦決行までの間、挑戦してみてはいかがでしょうか?」

予想外の提案だった。克服という単語は、今まで僕の頭には存在していなかった。 原因は僕の境遇にある。なにをやっても勝ってしまう僕にとっては、努力という言葉は意味がないからだ。

「特訓って、具体的にどんなことをするんだ?」

つまり、どんなことをすればいいのかまったくわからないということ。

「そうですね」

僕の問いに、ゴンザレスはにっこり笑って答えた。僕の顔にはきっと不安がにじんでいたことだろう。 それでもゴンザレスは、僕に対してにっこりとした笑顔を向けてきた。 下心も見られないさわやかな笑みのはずだったが、僕にはなぜかそれが不気味なものにしか見えなかった。





とてつもない吐き気とめまいが僕を襲っていた。全身の汗腺はすでに全開。 汗は滝のように流れ、ポタポタと雫が頬からこぼれ落ちてくる。ベタリと張りついた髪が鬱陶しい。

「む、無理! もう絶対に無理!」

気持ち悪いといったらない。イライラするほどに長い廊下を早歩きで進む。 人とはすれ違いたくなかった。こんな汗まみれの男を見たら、抱かれる印象は決まっている。

ふらふらになりながらも、どうにか僕は洗面台のある部屋にすべり込んだ。 どうやらハニーの家の異常な広さが仇となったようだ。 部屋に足を踏み入れると、僕はすぐに着ていた衣類を脱ぎ捨てる。

アンダーシャツを床に投げた瞬間ぞっとなった。はっきりとわかる染みができたのだ。 じわじわと広がる水たまりに寒気すら感じた。搾ったらどうなるか。あまり想像したくない。

「一分二十三秒」

下着に手をかけたまさにそのとき、僕の背後から声がした。 慌てて自分の手を止め、半裸のまま後ろを振り返る。 そこにはストップウォッチとタオルを手に持ったゴンザレスがいた。男前の顔がにやついている。不愉快だ。

「おめでとうございます。自己最低記録更新ですよ」
「嫌味?」
「いえいえ、ただの事実報告ですよ。にしても、やればやるほど記録が短くなっていくとは。鉛筆の芯みたいですね」

彼の小言は聞かなかったことにした。彼が投げたバスタオルを手に取り、全身に包む。 もはや負け惜しみとしかいえなかったが、いわれっぱなしはさすがに腹が立った。 濡れた髪を豪快にふきながら、僕はゴンザレスをにらみつける。

特訓の第一段階は、屋敷にあるただのトイレで十分間座り続けるというもの。 簡単に思えるが、いざやってみると洒落にならない。僕にとっては拷問と同じだ。

それもただのトイレではない。自宅にあるようなユニットバスとは違い、この家のトイレは何故か便器しかないのだ。 ハニーの父親が東洋の文化に興味を持っているとは聞いていたけど、何故その趣向をトイレにだけ傾けたのか、僕にはさっぱりわからない。

四方の壁が迫ってくるかもしれないという恐怖。襲いかかってくる不安は尋常ではない。 いつかこの壁が自分を押し潰してしまうのではないか。ありえないことだけど、どうしてもそう考えてしまう。

世間では、何故かトイレが落ち着ける場所の代表格らしいが、僕にはさっぱり理解できない。 便器に座りながら新聞を読む自分の姿を想像してみる。 当然、安らぎなど得られるわけもなく、僕は込み上げてきた吐き気を押し留めた。

「困りましたね。これでACに乗ろうだなんて、無謀でしかない気がします」
「一回乗ったけどね、実際」
「それは自覚していなかったからでしょう。今は乗る前から恐怖心が先立っていますし」

初めてACに乗ったときの僕には、ある程度の余裕と慢心があった。 発狂寸前まで陥りはしたものの、それでもある程度までは身体が保ったのだ。 だが今回は違う。僕の身体には、すでにありとあらゆる恐怖心が植えつけられてしまっている。

今では想像しただけでも鳥肌が立つほどである。だからこその特訓だったわけだが、 結果はこの通り、最悪だ。ゴンザレスも困り果てたように、僕を見つめている。 その表情はいたって真面目だ。ハニーからサポートを命じられている以上、彼にもやはり思うところがあるだろう。

「……仕方ありませんね」

ゴンザレスが呟いた。ただのひらめきではないことは、表情を見ればわかった。

「少し荒療治になっちゃいますけど、構いませんか?」
「それでどうにかなるって言うんだったら」

明言していないながらも、ゴンザレスの声には確かな自信がうかがえる。

「それはやってみないことにはわかりません」

このまま成果の見えない特訓を続けるか、誘いに応じて一発逆転を狙うか。

「わかった、やるよ」

けれども、僕にもう選択肢は残っていない。僕の決心を聞いたゴンザレスは、

「では早速行きましょうか」

と、またしても怪しい笑みを浮かべると、どういうわけか、彼はそのまま部屋を出て行ってしまう。 濡れた服とバスタオルを抱え、僕は急いで彼の背中を追った。

どんどん彼の術中に嵌められているような気がしないでもないが、 すべてはハニーのためだと自分に強くいい聞かせ、僕はそれ以上考えなかった。





真っ暗でなにも見えない。僕の視界はずっと闇の中にあった。

ハニーの家から、街へと飛び出すまでは良かったのだが、 僕の視界は、その途中に渡されたアイマスクによってさえぎられてしまった。

耳にはヘッドホンもつけられ、流れ込んでくる大音量の音楽によって聴覚も遮断された。 目も耳も効かない。そんな中で頼れるものと言えば、 周囲に漂う空気と、誰かが僕の手を引く感触だけ。

本当に長い移動だった。車らしきものに揺られたと思えば、今度は飛行機のようなものにも乗せられた。 さらにまた車に乗せられ、一旦外に出たかと思うと、今度は自分の身体を持ち上げられ、 最終的には僕の身体はどこかの入り口に押し込められた。 そしてそのまま視覚と聴覚をふさがれたまま、僕は椅子らしきものに座らされている。

そこまで考えれば、なんとなく自分の置かれた状況は予想できる。 したくないけどしてしまう。だから考えない。考えたくない。 身体を動かすたびに、なにかゴツゴツとしたものに当たるのだが、それでも絶対に認めない。

耳の中で鳴り響く音楽のおかげで、不安に押し潰されることにはなかったが、それも時間の問題だろう。 ところがその直後、鳴り響いていた音楽がとたんに途切れてしまう。なにかの故障だろうか。僕は一気に不安になる。

「ヘッドホンを外してください」

と、どこかで聞いた声が響いた。言われるままにヘッドホンを外す。 すると、予期していたとおりに、僕の身体にただならぬ寒気が走った。やっぱりそうかと舌を噛む。

「あ、アイマスクはまだ外さないで下さいね」

誰が外してやるものかと吼える。 フィルターでもかかっているような声調に、嫌な予感はさらに高まっていく。

「はい、じゃあ外してください」

心臓はすでに張り裂けそうだった。頬から汗が滴り落ち、息苦しさすら感じられる。 それでも僕はゆっくりとアイマスクを外した。 外界の光に目が眩むだろうと思っていたが、意外にもすんなりと目は開いた。
コクピットからは生い茂った木々が広がっている。 周りは木々はすべて切り倒されており、しっかりとした舗装がなされていた。 遠くに険しい山々が連なっていたことから、僕はここが山の麓だと知った。

そして僕は、その施設へと続く道路上に立っている。 普段なら、物資の搬入やらで使われるものであろうが、今は僕しかいない。 広大な敷地がありながら、立っているのはAC一体というのは実に寂しい光景に思えた。

「や、やっぱり……!」

外界の光景が頭に入ったのは、そこまでが限界だった。 身体に無数の鳥肌が浮かび上がり、いつものように大量の汗が僕の皮膚から滲み出してきた。

予想通り、僕はACに乗せられていた。 トイレよりはるかに狭く、様々な機器類がさらにスペースを奪っている。まさに拷問部屋だ。 ゴンザレスがいった荒療治の意味がよくわかった。どうやら彼は僕を本気で殺す気らしい。

よくよく考えてみれば、おかしいことはまだまだたくさんある。 そもそも、このACが一体どこから出てきたのかさえも僕にはわかっていないのだ。

ACをこんな僻地に飛ばすだけでも、いろいろと手続きが必要なのはわかっていたはずだ。 それなのに、いきなり用意が整っているとはどういうことなのだろうか。手際が良すぎる。

「大丈夫ですか?」
「や、やっぱり狭い……。おいゴンザレス。なんで、僕をこんなところに……」

本来なら、もっと大事なこと言うべきなのだろうが、僕にはそんな余裕はなかった。 そのときの僕はあまりの恐怖に唇がガタガタ震え、思うように言葉が出せないでいた。

「何故って、決まってるじゃないですか」

僕の問いかけにゴンザレスは笑い声を上げて、

「戦ってもらうためですよ」

という。しかも当然だろうといった口調で。

「は?」

最初は、彼がなにをいっているのかがさっぱりわからなかった。

「ですから、ぶっつけ本番です」
「はぁ!?」

そこまで耳にしたとき、ようやく頭が全てを理解したのか、 僕の怒りは巨大な疑問符となってゴンザレスに叩き返されていた。

「な、なに考えてるのさ、あんた! い、今の僕の状況、わわ、わかってて、言ってるわけ?」

コクピットのシートから身を乗り出して、スピーカーの先にいるであろうゴンザレスに抗議する。 だがその憤りも、周囲を取り囲む壁やらなにやらによって勢いを阻まれ、期待以上の効果は望めなかった。
「いやー、狭い狭いって気にしすぎているのが原因なのでは、と思ったんです。だから別のことで忘れさせればあるいは、と思ったわけでして」
「あ、そうだったんだ。ありがとう。って僕が言うとでも思った?」
「思うわけありません。でも私はちゃんと言いましたよ、荒療治だって」

そうだ。彼の話に賛同したのはほかでもない、この僕だ。だが、さすがに今度ばかりは度が過ぎる。 いきなりACに乗せるのもひどいが、あろうことか本物の戦場にまで連れてくるのは、さすがにやりすぎだろう。

「いいですか。あなたの相手はもうすぐそこに到着しますので、準備だけは怠らないで下さい。よろしいですか?」

準備もなにも今はそれどころじゃない。身体からは冷や汗が吹き出しているし、呼吸も乱れている。 こんな状態では、とてもではないが戦えない。できることなら、今すぐにでも逃げ出したい。

ごくりと唾を飲みこみ、僕はふるえる手で操縦桿に手を伸ばしてみる。 視線はまっすぐを維持。横の壁を見たらたぶん僕は終わりだ。 壁に押し潰されるイメージが先立って、おそらく二度と立ち直れないだろう。

「あのさ、気になるんだけど」
「はい?」

レバーをぎゅっと握り締める。だが状況はあまり変わらなかった。 乱れた気分を少しでも紛らわせようと、仕方なく喋りたくもない相手に話しかけてみる。

「どうして敵が来るって知ってるわけ?」
「連絡がありましたから。『今日、そこ襲うんでよろしく』って」

この状況ほどわけがわからないものはない。 が、わざわざ襲撃を予告する人間というのも、それと同じくらいにありえない。

「と言われましても、そう言ってきたのですから、そうとしか答えられないです」

確かに。僕は相槌を打つ。

「じゃあ、もう一つ質問。あんたは今どこにいるの?」
「あなたの後ろにある工業地帯です。そこから通信しています」

彼の声を聞き、僕はおそるおそるレーダーを見る。 建物らしき反応は確かにあった。

「ちなみに私もそこにいますので、なんとしてでも死守してくださいね」

後方にそびえる山の中腹に、対象である工業施設がレーダーに表示されていた。

「……要するに、今から敵が来るから、ここで食い止めろってこと?」
「そうなりますね」

勝手気ままにACに乗せ、あろうことか戦えとまで言われる始末。 欠点を克服したいとは確かに言った。だが彼のやっていることは無茶苦茶だ。

「そういえば、あなたに言っておくことがあります」
「なに?」

これ以上なにを言われたとしても、僕はもう驚かない。そんな自負すらあった。

「私は昨日お嬢様とお風呂に入りました」
「え?」

呼吸が止まる。たったの一秒。それで僕の自負が粉微塵となった。 全身の汗腺という汗腺が一斉に閉じ、息が詰まる。

「嘘です」
「な、なんだ。良かった……」
「それは嘘ですけど、お嬢様の秘密ならばたくさん知っていますよ。おそらく、あなたよりはね」

安堵しようとした矢先、ゴンザレスが挑戦的な口調で言う。 なにが言いたいのだろう。まさか挑発のつもりだろうか。少なくとも意味のある行動とは僕には思えない。

「そういえば、お嬢様って結構大きいですよね、あれ」

その発言で僕の心に強烈な殺意が芽生える。やはり知っている。もしかしたらとは思っていたが、 やはりこの糞執事も、ハニーの秘密を知っている。僕だけしか知らないと思っていた秘密をだ。 なにか忘れているような気がするが、気にしない。今はこの男を叩き潰すほうが先だ。

「ああ、確かに大きいね。それに、この前はあっちのほうもかなり激しかったから、僕もかなり疲れたんだ」

自分の優位性を示そうと、僕は彼女との思い出を雄弁に語ってやる。

「ああ、わかりますわかります。確かにお嬢様はあっちも激しいですね。あれは私も困ってるんですよ。片付けるときが大変ですから」
「あと、あれを咥えたがる癖だけはどうにかならないのかな? しかも僕のものをだよ? あれをされるとさ、僕のが長持ちしないんだよ」
「あれは子どものころからですよ。お嬢様は小さい頃から、旦那様のも咥えていましたし」

しかし、想像以上にゴンザレスは手ごわかった。

「……さすがに、それは嘘でしょ?」
「いえ、本当です。それにお嬢様はあちらのほうも中々お上手ですし。ああ、そういえば彼女はこっちの分野も中々――」

ハニーのいびきがとても大きいことに始まり、寝相がとてつもなくひどいこと。 そして人の歯ブラシを勝手に使い、あろうことか、それをガシガシ咥えて駄目にしてしまう悪癖。 さらには超人的なピアノの腕前を持っていることや、とあるレイヴンのおっかけをしていることなどなどなど。

彼はおそらくそのすべてを知っている。結果的に僕は返り討ちにあった。 僕が未だに知りえない彼女の秘密を、ゴンザレスは次々と語り、僕は自分の力量不足をまざまざと見せつけられた。

僕だけしか知らないと思っていたのに。身の程を知らない馬鹿は僕のほうだった。 考えてもみれば、ハニーと一緒に過ごした時間は、ゴンザレスのほうが圧倒的に長い。 それに比べて僕はたったの数年の付き合いでしかない。相手があまりにも悪すぎる。

胸が痛い。これが敗北というものなのか。 だとするなら、とてもではないが耐えられる痛みではない。

「ねえ、これで話せばいいの?」

わずかな沈黙のあと、不意に僕の耳に別の人間の声が入ってくる。 静寂を破って飛び込んできた声に、胸がざわついた。

「はい、大丈夫ですよ」

続いて聞こえてくるゴンザレスの声。

「よし」

気のせいではなかった。

「あーあー、えっと、あたしだよ。ねえ、聞こえる? 大変かもしれないけど、頑張ってね」
「ハニー?」

聞き慣れたソプラノに、開いた口が塞がらなかった。 きっと空耳だ。一瞬そう思ったが、やはり違った。スピーカーの先にはハニーがいる。

「ど、どうして彼女がここに!」

僕ではない。僕はあれから彼女に一度も会っていない。 だとすれば、もう答えは一つしかない。

「おい、ゴンザレス! 答えろ! どうして彼女を連れてきた!」

やりすぎだ。彼の行動はどうしようもなく無茶苦茶だったが、それでもこれはやりすぎだ。 僕だけならまだいい。だけど彼女だけは駄目だ。この一線だけは絶対に超えてはいけない。

「ああ、お嬢様がどうしても行きたいって言うものですから、連れてきちゃいました。アイマスクしてらっしゃったのであなたには秘密にしていましたけど」
「お前、いい加減にしろ!」

それでも彼の態度は変わらなかった。反省している素振りすらない彼に、僕は激しく憤る。 大事なハニーをこんな戦場に連れてきたこと。彼女の命を危険にさらすこと。 それはとても許されることではない。絶対に、許すわけにはいかない。

「今の状況がわかってるのか! ふざけるのもいい加減に――」
「私はふざけてなどいません。真剣なつもりです」
「ならどうして!」
「わかりませんか? あなたが勝つからですよ」

だが、凄みを帯びたゴンザレスの一声が僕の熱を奪っていった。 腰が低かった今までの口調とは明らかに異なる迫力ある声だった。

「いいですか? お嬢様はあなたが勝つと心の底から信じておられます。だからお嬢様は来られたんです」

お前は気づいていないのか。僕には彼がそういっているように聞こえた。

「あなたが羨ましいですよ。お嬢様をこんなところにまで連れてくるのですから。私には到底できないことです。正直、あなたに嫉妬します」

今まで聞いたこともない口調で彼は淡々という。 僕は反論できなかった。彼の今までの発言を思い返す。

どうして気づかなかったのか。 ゴンザレスの今までの発言や行動も、すべて相手が僕だったからこそできたことなのだ。

「敵がもうすぐ来ます。でも私たちは逃げません。あなたがいるんですから逃げる必要なんてありませんよね」

そんな彼の信頼を僕は裏切ってしまった。上辺だけの言葉に囚われて、彼の真意に気づかなかったのだ。

「勝ってください。これはあなたにしかできないことです。お願いします。お嬢様の期待に応えてあげてください。それとも、あなたはその信頼を裏切るのですか?」

最後の最後で語気を荒げたゴンザレスに、僕は圧倒され心を打たれた。 なにかが心に突き刺さり、傷口から今まで忘れていたものが零れてくる。

そうだ。僕は一体今までなにをしていたのだ。というより、なぜこんなことをしているのだ。 思い出せ。なんのために、僕はあんな地獄のような特訓まで重ねたのだ。

全部ハニーのためじゃないか。どうして僕はそんな大事なことを忘れていたのだろう。 僕の欠点も、ゴンザレスのことも、ハニーへの愛情と比べれば全然たいしたことじゃない。

このまま怖気づいたままだと、僕は誰も守れない。 こんな惨めな僕を見ても、ハニーはきっと笑ってくれないだろう。

もう怖いなどといっていられない。ハニーの命がかかっているのだ。 彼女の命を守れるのは僕だけだ。だからこそ、やるしかない。

「……調子良いこと言ってくれるね。ただの執事のくせに」
「ただの執事でも、たまには言いたいことくらいは言います」
「カッコいいこと言っても、あとできっちり殴るからね。今までのおとしまえってことで、そこんとこよろしく」

やることは決まった。腹をくくったからなのか、身体に力が沸いたような気がした。 一番大事なことにようやく気づけたからだろう。それを気づかせてくれたのが、ゴンザレスというのが、 とてつもなく気に食わないが、彼は彼なりに僕のことを考えてくれていた。 確かに行動や言動は最悪だが、彼はもしかすると僕が思っているような外道な人間ではないのかもしれない。

「負けたときは気にしないで下さい。私が命に賭けてお嬢様をお守りします。もし私が助かった時は、お嬢様のお世話はしっかりいたしますので――」
「ごめん、やっぱり殺す」
「ハハハ、いつものあなたが戻ってきましたね」

前言撤回。ゴンザレスを少しでも見直した自分が情けない。やっぱりゴンザレスはゴンザレスだ。 だれが死んでやるものか。憎たらしい彼を想像し、心の中でその二枚目な顔を潰す。

「嘘じゃない。絶対殺してやるからね」
「それは困りますね。明日は旦那様と坊ちゃまとでゴルフに行く約束なので」
「あ『是非お願いします』だって? オッケー。よくわかったよ」

返事はなかった。通信でも切られたかと思ったが、

「ああ、そうです」

何事もなかったかのように、いつものような腰の低い声が唐突に返ってきた。

「さきほどは失礼な発言をしてしまい申し訳ありませんでした」

突然の謝罪に、僕は少し戸惑う。

「ああ、うん。それはもういいよ」

いろんなことが一気に押し寄せたあとでは、もう怒る気にはなれなかった。

「苦しかったですか?」
「え?」
「私としゃべってるとき、ご気分はいかがでしたか?」
「……あ」

だが、ふと思い返してみると、だんだん彼の言いたいことがわかってきた。

「私に噛みつくときのあなたは、普段のあなたでしたよ。今もですけどね」

それは僕もなんとなく感じていた。彼に噛み付いている間は、 僕自身が必死であるためか、実にいろんなことを忘れている。

まさか、そういうことか。これは僕にとってはとてつもなく幸運なことだ。 なぜなら、僕はとても大事なことに気づけたからだ。僕は我慢ができる。

いかに苦手な閉所に押し込まれようとも、ちょっとコツをつかめば、僕はそれを意識の外に飛ばせる。 常にゴンザレスの顔を思い浮かべていれば、彼への怒りが恐怖心さえも覆い隠してくれる。

「さてと」

それさえわかれば、もう僕に怖いものなどない。ハニーの相手ができるのは、この世界では僕だけだ。 他の誰にも渡さない。もし手を出そうなどと考えるやからが現れたら、僕がこの手で消してやる。

が、操縦桿を握る手がまだ震えていた。寒さだろうか、それとも恐怖からだろうか。 しかし、ガタガタ震えている場合ではない。気合を入れなおすと、腕の震えは自然と収まった。

「ハハ、僕もやればできるじゃないか」

さあ、なにから始めようと考える。まずは目の前の敵を叩きつぶすのが先決だ。 と、前を見ると、なにやら見るからに弱々しそうな赤い機体が、こちらに近づいてくるではないか。

どうやらあれが敵らしい。さすがにAC。接近速度も素早い。一瞬で僕は敵の射程に入ってしまう。 こちらを射程に入れたのか、敵は機体を左右に揺さぶってきた。こちらを惑わせようとする魂胆だろう。

羽虫を思わせる鬱陶しい動きに、僕は苛立った。これでは駆除するのに時間がかかってしまう。 向こうも向こうだ。あの程度の動きで僕に勝てるとでも思っているのだろうか。なめられているとしか思えない。

こんな羽虫に苦戦するやつの顔が見てみたい。どこからバラバラにしてやろうか。 想像するだけで身体が昂ぶる。両腕を引きちぎるのが先か、それとも両足を引きちぎるのが先か。 頭の中でいろんな調理の仕方が浮かぶ。あまりに多すぎるので、なにを選んでいいのか悩んでしまう。

だが決めた。ニヤリと口元を歪めながら、僕はペダルを強く踏み込む。 いとも簡単に敵の懐に滑り込んだ瞬間、僕は確信した。

僕は勝つ。これは予感ではない。なぜなら僕は、最強だから。





「……おぇ」

やはり現実は甘くない。ACの足元で盛大に胃の中身をぶちまけながら、僕はそれを痛感する。 唯一の欠点をようやく克服できたと思っていたが、僕の我慢は結局五分も保たなかった。やはり怖いものは怖い。

「ああ、もう無理。死ぬ……」

敵の四肢を斬りおとしたまではよかったが、たまりにたまった嘔吐感がそこで大爆発。 大量の胃液が僕の喉元に迫り、たちまち戦闘どころではなくなった。

汗まみれのヘルメットを外し、コクピットを抉じ開ける。細かい毛束が額に張りついても無視。 そして滑り落ちるようにしてACを駆け下りた。ワイヤーこそあったが、あの速度だったらもう落下と同じだ。 ここまでがことの顛末。そして現在、数分前まで戦場だった場所で、僕は今盛大に吐いている。

すぐ隣には、コアだけになったACが転がっていた。コアには傷一つつけていないので、 おそらく中の人間はぴんぴんしていることだろう。脳震盪くらいは起こしたかもしれないが。

口の中を酸味で一杯にしながらも、僕はどうにか立ち上がる。と、そこに、

「お疲れさまー!」

という大声が鼓膜を叩いた。口元を拭いながら僕は声の方向に顔を向ける。 そこにはハニーが立っていた。すぐには信じられず、僕は何度か目をこする。 それでも彼女は消えなかった。幻ではない。正真正銘のハニーだった。

「ハ、ハニー!」

彼女の後ろには、小型の車があった。その運転席にはあの執事が座っている。 おそらく彼が連れてきたのだろう。だが、今の僕はゴンザレスなんかどうでもよかった。

「もう大丈夫だよ。さあおいで」

両手を広げ、熱い抱擁の準備をしていた僕だったが、

「あ、いや。ごめん。それだけは勘弁!」

なぜかハニーはそれを拒否しようとする。 疑問に思った僕だったが、身体中から汚臭が充満していることに気づき、すぎに腕を引っ込めた。 彼女が苦笑いしながら後ずさるのを見て、僕は心底自分を呪いたくなった。

今の僕は生理的に気持ち悪い姿を晒している。 口の中は胃液の酸味で一杯だし、歯のあちこちには消化物の名残が張り付いている。 おまけに大量にかいた汗のせいで、脇やら胸元から異臭までする。
「だ、だよね。さすがにそれはまずいよね!」
「う、うん」

彼女の小さい身体をぎゅっと抱きしめ、キスくらいは交わそうと思っていたのに。 最悪の体臭とグロテスクな口内が、それらを台無しにした。

これほどまで自分の欠点が嫌になったことはない。 彼女との距離を自らの意思で離しつつ、僕は汚らしい顔のまま虚しく微笑んだ。

しかし、とりあえずはこれで僕の仕事は終わりである。 紆余曲折あったが、結果的には大団円だろう。長かった僕の苦しみも、これでようやく終わることができる。

「ああ、やっと開いたぜ、ちくしょー!」

と、思った瞬間、どこからともなくそんな絶叫が聞こえてきた。 ハニーでもない。かといってゴンザレスでもない。今まで聞いたことのない声だった。

目を向けると、なんと僕が解体したACから人が飛び出してきていた。 向こうも僕らを確認したのだろう。 コアの上から地上へ滑り降りると、その人影はすさまじい速さでこっちに走ってきた。

「ああ、お前だな。俺のACをあんなにしやがった奴は!」

ズケズケと踏み込んできた男に、僕はふと心当たりがあるような気がした。 会ったことがないのは確かだったが、どういうわけか誰かに似ている。そんな気がした。

「あ、お兄ちゃん!」

ハニーが僕の背後で叫ぶ。

「え?」

耳を疑うような発言に、僕はいつのまにか振り返っていた。 彼女はその男に手を振っていた。しかも、いつも僕に向ける以上の笑顔を振りまきながら。

「お、ハニーか。やっぱり来てたんだな」
「当たり前だよ。久々にお兄ちゃんに会えるんだもん」

僕を素通りして、男は彼女の頭をなで始める。ハニーもハニーで頬を染める始末だ。 なにがどうなっているのか、僕にはさっぱりだった。

落ち着こう。まずはそれが先だ。どうやらこの男はハニーの兄らしい。しかし待て。 確か彼女の兄は家出中ではなかったか。そんな彼がどうしてこんなところにいる。

「お坊ちゃま、おかえりなさいませ」
「おう、お前か。ってお坊ちゃまはやめろって言ってるだろ。恥ずかしいから」
「決まりですから仕方ありません」

やはりと言うべきか。ゴンザレスという存在が話をさらにややこしくする。 けれども、こんなことで動揺なんかしない。常人ならここで大混乱だろうが、僕はもう平気だ。

「そればっかりだよな、あんた。ってか、今日は親父とゴルフじゃなかったっけ?」
「ああ、それなら明日に延期してもらいました。こうすればお坊ちゃまも安心して、旦那様と話し合えますしね」
「絶対嫌だね。どうして俺があんな奴とゴルフなんかしなきゃいけないんだよ」
「でもお兄ちゃん。電話で言ってたよね。『仮に俺が負けたら、大人しく家に戻ってやる!』って」
「……」

ハニーの指摘に男の顔があからさまに歪んだ。 不本意だが、目を細めて男に言い迫るハニーの姿は、とても新鮮だった。

僕以外の人間にはこんな表情をするのか。嫉妬心をあらわにするが、 自分の体臭のせいで、僕は彼らに近寄れない。

肝心の僕はというと、彼らの会話に入れていない。というか入れる感じがまったくしない。 僕にはただその会話に耳を傾けることしかできなかった。 というか話の内容からして、彼らはすでに僕を眼中の外へと追いやっている。

「で、お兄ちゃん、負けたよね?」
「……はい」

もはやハニーすら僕のことを気にかけてはくれない。 表情豊かに会話を続ける三人を、僕は呆然としながら見つめるしかなかった。

「やっぱ、これもお前が仕組んだのか?」
「いえいえ、全部お嬢様の発案ですよ。私はお嬢様に言われたとおりに動いたに過ぎません」

聞き取ることに飽きてきたちょうどそのころ、ゴンザレスの声が僕の脳髄に突き刺さる。

「そうなのよ。あたしがこの人に頼んだの。だってお兄ちゃん、全然家に帰ってきてくれないんだもん」
「ええ。そのついでにお嬢様のボーイフレンドの欠点も一緒に治してしまおうという計画だったのですよ、お坊ちゃま」
「そういうことかよ。ったく、俺の知らないところで勝手に話進めやがって」

つまり、これは予定通りということなのだろうか。

「にしても迫真の演技だったよね」
「それは、あまり言わないでください。これでもかなり恥ずかしかったのですよ」
「ううん、すごい迫力だった」

そうだ。その迫力に僕は気圧された。 いった本人がスピーカーの奥で顔を赤らめているとも知らずに。

「なにをおっしゃっているんですか。知ってますよ、私は。お嬢様が必死に笑いをこらえていたこと」
「げ、ばれてる」

わからない。彼らがなにをいっているのか、僕にはまるで理解できない。 なんだか頭が重くなってきた。意識が遠くなっていく気がする。最近の無茶が祟ったのだろう。きっとそうだ。

「お嬢様の書かれた脚本は、どうも幼稚というか、都合が良すぎるというか。まあうまく行きましたから、別に構わないんですけどね」
「ひどいなぁ。せっかく徹夜で考えたのにー」
「おい。なんの話してんだよ、お前らは」
「お嬢様のボーイフレンドの武勇伝ですよ。坊ちゃま」

頭が重い。もうゴンザレスの皮肉に突っ込む気すら起こらない。

「ん? ああ、なるほどね。そいつがハニーのボーイフレンドってわけか」
「うん、そうだよ」

三人の視線が僕に向けられる。その内の二人はこの僕に向け、にたりと怪しい笑みを寄越してきた。 おまけにその手には見事なVサインができている。彼らの大成功といわんばかりの 頭の中にそんな表現が浮かんできた瞬間、僕の身体から自然と力が抜けた。

「おう。俺がハニー・ラプツェルの兄をやってる――」

後ろによろめき、そのまま地面に仰向けで崩れ落ちる。 三人が近寄ってくる様子と、雲一つない青空を最後に目にしながら、僕はとうとう気を失った。

「って、おいお前! 大丈夫か、おい!」

意識を失う寸前、僕は思った。確かに僕は最強だ。そう信じ続けてきた。 だけど思うのだ。今の今まで黙ってたけど、この際いっておこうと思う。

僕って本当に最強なんだろうか?


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