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The rotten world


獰猛な視線が全身を舐めまわす。改めて自分が窮地に立たされていることを実感し、痩身の男は唾を飲み込んだ。 心臓の鼓動は収まる気配を知らず、両足は硬直して動こうともしない。 久々に味わう恐怖を、ひしひしと感じながらも、男はただ立ち尽くすことしかできなかった。

「これは報いさ。自分のしたことに対する代価みたいなもんだ。だからお前に拒む権利はない。これからお前に起きることにもな」

壁に追い詰められ、そして死刑宣告とさえ思える言葉が突きつけられる。脅える男の前に一回りも大きい上背の男がいた。 丸太のような太い腕。黒いレザージャケットの袖からは、浅黒く焼けた肌が露出している。残虐非道の暴君。そんな印象の男だった。

「がはっ」

その厚い二の腕が、痩せこけた胸元に絡みついたかと思うと、それは一気に捻りこまれ、首筋を絞め上げる。 同時に足を蹴られ、バランスが崩れる。その拍子に後ろの壁に叩きつけられた。溜め込んでいた空気が強制的に吐き出され、恐怖に歪んだ表情がさらに醜くなる。 すさまじい膂力の前では、小枝にも等しい彼の腕では振り払うこともできない。衣服の襟がさらに首に巻きついた。

「苦しいか?」

呻き声をあげる彼に対して、燦々とした瞳が問う。酸素欠乏による顔が青ざめながら、男は必死で首を振る。

「聞こえないな」

さらに強く首が絞まった。彼の表情が驚愕に染まった。

「ああ、そうだ。言うのを忘れていた。実はな。俺はとてつもない大馬鹿なんだ。だから、ちゃんと言葉にして言ってもらわないとわからないんだよ」

邪悪な笑みとともに寄越された返答は、男にとって最悪なものだった。そして彼は気づく。この野獣にあるのは怒りではない。 こいつは、楽しんでいる。自分が苦しみ、悶える過程を、単なる娯楽としか見ていないのだ、と。

「で、苦しいか?」

どうしてこんな男をカモにしようと思ってしまったのか。意識が遠のきかけた頭で思い浮かべる。 詐欺や横領、騙しあい。その手の犯罪が日常と化した男にとっては、スリという手段は、もはや小遣い稼ぎに等しい行為だった。

暇つぶしに日銭を稼ぐ。ただそれだけが目的だった。それを思いついたとき、ちょうど彼の目の前にこの猛獣がいた。 いかにも鈍そうな中年親父。初めはそんな印象しかなかった。後姿は快活からはほど遠く、むしろ錆びついてすらいた。 問題ない。そう判断し、男の背後に忍び寄ってポケットの中に手を滑り込ませた瞬間、彼の日常は終わった。

もはや思考すら保てなくなり、男の後悔はそこで途切れた。うっすらとした視線に写るのは、 怪物の歪んだ笑みと、その怪物に連れ込まれた路地裏の小汚い壁。そして素知らぬ顔で通り過ぎる若い男――。

「ううあっ! があ……」

朦朧とした意識が、すんでのところで踏み留まる。最後の力を振り絞り、言葉にならない絶叫が自然と漏れた。 矛先は一つしかない。しかし、青年は反応すらしなかった。男の顔が絶望に染まる。 と、次の瞬間、どういうわけか怪物の腕から力が抜けた。隙間からわずかな酸素が肺へと叩き込まれる。

「た、助けて!」

謎めいた幸運に助けられ、与えられた酸素を余すことなく利用して、男は必死に助けを求める。 今度は掠れた声ではない、はっきりとした懇願を放った。聞こえていないはずがない。それでも青年は止まってはくれなかった。

「おい、待てよ」

不意に怪物が口を開く。しかし、その内容に男は呆然となる。 何故、こいつが彼を引き止めるのだ。いつしか怪物の顔がどこか不満げなものへと変わっていた。

理解に苦しむ彼などいざ知らず、青年とおぼしき男は、ようやくその足を止めた。 彼は肩を落としていた。数秒の間を置いて、青年は振り返り怪物と視線を交わす。 無愛想としか思えないほどの重く暗い表情が、喜悦に躍る怪物の表情とぶつかり、彼らはそして対峙した。





青年は落ちていく。重力の制約に抗えずただ落ちていく。このまま落ちていけば、いずれは地面に足がつく。 まるで自分の人生のようだ。ふと思った。だが己の転落人生に底はない。決定的に違う点はそこだ。

幾重にも及ぶ雲を突き抜けると、真下には森林と思われる緑がびっしりと敷き詰められていた。 隙間なく茂る緑の中に一箇所だけ、それらとは異なる金属の扉が見える。

目標視認。ディスプレイに表示された映像を防護ヘルメットごしに確認し、青年は素早く次の作業へ移行する。 人型汎用兵器――アーマードコア。ワンダーレイドの名を冠するそれに包まれながら、彼は高高度からの降下を続けていた。

ブリーフィングの説明通りに、備え付けの端末で教わったコードを打ち込み送信。 光速にも匹敵する速さで、彼の命令が扉を支える端末に送られ、扉を半強制的に開放させる。

底の見えない不気味な漆黒が、機体の真下でその口を広げた、減速すらせずにワンダーレイドは迷うことなく中へ飛び込んでいく。 途端に、外界からの光が遮断され、小汚い灰色の壁が彼を囲んだ。光と呼べるものは、コクピット内を照らす計器の発光のみである。

広がる暗黒の世界。網膜に飛び込む陰湿な光景に、青年の気分はさらに曇る。 原因は、ほんの数時間前の出来事。思い返すだけでも、はらわたが煮えくり返る。

「嫌だ」

あのとき、彼は確かにそう言った。あのやかましいオペレーターからの呼び出しに応じたまではいい。 だが、一方的に電話を切られたため、彼は集合時間に間に合わないことを伝え損なってしまった。 急がねばならない。そう考え、あの路地に足を踏み込み、そして彼はあの男に出会ってしまった。

人助けなど何の役にも立ちはしない。得られるものと言えば、感謝という体の良い自己満足くらいのもの。 そんなものに騙されるくらいなら、初めから関らないほうが良い。そう誓っていたはずなのに。

「どうして俺が助けなくてはいけないんだ?」

純粋な疑問を青年が言うと、

「普通は助けるものだろ。こんなにも助けて欲しそうな顔を見ても、お前は無視できるのか」

下品な笑い声とともに、柄の悪い男がいかにもなことを言った。 襟首を掴まれているのは、どう見ても小物にしか見えない細身の男。彼が青年に救いの視線を向けていた。

「好きにしてくれ。あんたがそいつを殺そうが、そいつがあんたに殺されようが、俺には何の関係もない」

器の低い奴ほど、都合の良いときだけ弱者の顔をするものだ。青年はきっぱりと言い放つ。 匂いでわかる。この二人は、どちらも人間の道から外れた異常者たち。もはや世界から隔絶された生きものだ。
「あらら。おかしいな。俺の見当違いか。お前みたいな人間なら、絶対に助けると思ったんだがな。あてが外れたか」

柄の悪い男が挑発めいた発言を取る。そんな当たり障りもない発言に、青年が一歩後ずさった。 その顔にははっきりとした動揺が刻まれている。

「何のことだ」
「お前のようなやつは、大勢見てきた。現実と理想のギャップにやられた負け犬。そんな感じだろ?」

やめろ、俺に思い出させるな。しっかりと閉じ込めておいた筈の過去が、生じた亀裂から漏れ出してくる。 巨大なドームで入り乱れるAC。それに魅入られ、レイヴンを正義の味方と思い込んでいた幼少時代。 何年もその思いを捨てられず、英雄という存在に憧れ続け、そして念願だったレイヴンとなり、彼の人生は栄光とは真逆の道に迷い込んだ。

青年が垣間見てきた現実に、英雄などは存在せず、ただ破壊と殺戮と蹂躙だけが繰り返される毎日。 世界を変えると豪語して、正義の味方を気取って、ありとあらゆる人々の願いを依頼という形で聞き届けてきたが、 増えたのは呪詛のようにまとわりつく恨みの声だけ。偽の依頼を何度も掴まされ、その都度、生と死の境目を味わった。

自分の力では何も解決できない。それを確信させたのが、あの火星での騒乱だ。 一つの惑星内で起きた武装蜂起の影響で、地球の治安もさらなる悪化の一途を辿った。 善悪の区別ももはや存在しなくなり、今もなおただ治安という二文字だけで、人の命が踏み潰され、焼き尽くされている。

気づけば、あの理想に燃えていた青年は、いつしかその面影すらも見せなくなり、そして彼はある結論へと至った。 この世界に救いなど必要ない、と。そして彼は思い描いていた自分の夢を、自らの手で握り潰した。 それなのに、自分は彼の声に反応して立ち止まってしまった。

「そういうやつは大好きだぜ。こんな小物より、数倍壊しがいがある」
結局、逃げるようにしてその場を離れたが、生々しい傷跡はそのまま彼の心に残ってしまった。 鬱積だけが沈殿し、ACを操る今でさえ、あの男の言葉はこびりついて離れない。

ワンダーレイドが地面へようやく降り立った。減速という操作を無難にこなし、着地は成功。 巨躯が降り立ったことにより、衝撃で地面が歪み、破片があちこちで飛び上がる。

それが戦闘開始の合図となった。随所で警報が鳴り響く。 目的は施設の制圧。ガードメカも含めて障害となるものは全て排除して構わない。 エムロードからの依頼を思い出し、青年は覚悟を決めた。今は何もかも忘れろ。自分に言い聞かせ、操縦桿を握り締めた後、

「こちらカーライル。これよりミッションを開始する」

静かに開戦を告げた。





「あーあー、こちらハングマン。今のところは異常なし。平和そのものだ。っていうか、むしろ暇すぎて死ぬ」

巨大なバズーカを握り締め、赤い巨躯が薄暗い通路を進む。鮮血のように赤く、その装甲は重厚という表現しか似合わない。 紅蓮の機体――戒世は、まるで難攻不落の要塞を連想させる。

目指すは施設の最深部。しかし戒世を駆る男は、いまだに敵の姿を拝めていないことに不満なのか、 あくびを漏らしながら、彼はオペレーターと無駄な問答を繰り広げていた。

依頼主のジオ・マトリクス社曰く、この施設を新たな拠点としたいから確保を頼む、とのこと。 だが、どうやら天敵であるエムロードも、同じくここを狙っているらしい。

似たような危険性を孕む任務を、男は何度か請け負った経験がある。 迷惑というわけではない。彼にとっては、この依頼はむしろ奇跡にも近いものであった。

男はただ破壊と蹂躙のみを願う。戦闘によって生まれる副産物、つまりは快楽を糧として彼は生きてきた。 この戒世には誰も勝てない。そんな金剛石のように固い自負が彼にはある。

敗北の味を舐めたことがない彼にとっては、その自負こそが究極の武器。 しかし、その自信は同時に、退屈という欠点を彼の心に生み出していた。

切磋琢磨という言葉ほど似合わないものはない。努力などせずとも、敵は倒せるのだ。 大した抵抗すら示せずに、砕け散る敵。美しさなどない。ため息しかそこには生まれない。

面白みも楽しみもない拷問のような毎日に終止符を打つため、男は決断した。 己の飢えを満たす快楽が、この世にないと言うのなら、自分の手で作り出せば良いのだ、と。

破壊行為には悪しか伴わない。いかなる理由があろうとも、豪華な詭弁を並べ立てても、例外はない。 ならば、その事実を享受し、純粋の悪と化せば、行為は正当化される。殺人が、破壊が、自らに快感を与えてくれる娯楽へと変わる。

ACという力が可能にする。銃弾入り混じるこの世界では、理不尽な理屈などはいくらでも作り出せる。 何もかもがつまらないこの世界に身を置き続けた男は、誰よりもそれを知っていた。

幸い、舞台は用意されていた。火星でのクーデターの事後処理に追われた地球政府は、 民衆が望む治安と言う選択を捨て、代わりに軍事力強化という真逆の政策を取ったのだ。

その行為は、同じく火星支社の事後処理に躍起になっていたジオ・マトリクス社、 LCCとの対立により疲弊したエムロード社などの危機感を煽り、彼ら企業はさらなる軍事力強化が推進した。 結果、インディーズを筆頭とした武装組織の反乱も毎日のように各所で起こり始めた。

レイヴンとしては、これほど恵まれた環境はない。戦場の数は少なくなったどころか、むしろ無尽蔵に膨れ上がった。 男はそれを何より望んでいた。どこかの企業が壊滅的なダメージを被ろうが、どこかで何人死のうが、男は何も感じない。 仮に稀代の殺人者と恐れられたとしても、おそらくそれは変わらない。むしろ、自らを抹殺しにくる人間が増えることを、彼は望んでいる。

すべては己の欲望のためだけに。身の程も知らないで、罠に掛かった小物を使って暇を持て余し、 さらに面白そうな人間が通りかかったところで、男は腕の力をわざと緩めて、彼との出会いを演出した。
ほんの数時間前のことだからなのか、男の脳裏にその一幕が鮮明に再生される。流れていく痛快な光景に頬が緩んでいく。 あのとき出会った青年は、自らを縛る現実とやらに逆らおうとしたのだろう。そして想像を絶する勢いに敗北したのだ。 傍観する者にとっては、これ以上面白いことはない。運命だの宿命だの、そんなものはただの汚水に過ぎないと言うのに。

「あーあ、これだけ余裕かましてやってんのになあ」

回想の傍らで男は呟く。相変わらず敵の機影は見当たらない。巨体を揺らしながら戒世は歩き続ける。 閉所、しかもブースターすら使っていないという好条件なのに、敵からの襲撃は未だ皆無。レーダーにも反応がない。 不意打ちでも罠でも、年中不休で大歓迎するのが男の決まりだったが、小気味悪い通路だけが視界に写り、気分が滅入る。

「こりゃ、真剣に混ざってるか?」

同業者の存在がちらりと脳裏に宿る。根拠のない想像だったが、彼の能面は喜悦に歪んでいた。 鈍重なMT相手では決して味わえない生死の境界線。それを思う存分堪能できると思うだけで、彼の心は躍り狂う。

男の妄想を中断させたのは、鼓膜に飛び込む警告音だった。男の視界に灰色の空間が戻ってくる。 レーダーには無数の光点が灯っていた。 戒世が足を踏み込んだのは、とある格納庫のようだった。 薄暗い印象はそのままに、何本もの支柱が天井を支え、使われていないコンテナが無数に積み重なっている。 そんな何でもない光景を異観にしているものが、戒世が見上げる先にいた浮遊型ガードメカ――アンブレラだった。

獲物が迷いこんだ瞬間に起動する仕組みだったのだろう。あらかじめ展開されていた数十機の浮遊物体。 所詮、無機質な物体でしかない。が、それらすべてが戒世に銃口を向ける様は、ある意味壮観だった。

「すげえな、こりゃ」

感心も束の間、コクピットでほくそ笑む男の視界に、破壊的な光線が大挙して戒世に襲い掛かる。 降り注ぐエネルギーはさながら集中豪雨に思えた。唯一の標的たる戒世を、瞬間的な火力で削り落とそうとするアンブレラ。 だが、無数の光弾を浴びながらも、戒世は崩れ落ちることなく留まり続けていた。表面装甲がかすかに弾けた程度では、紅蓮の要塞は揺らがない。

「こんな調子じゃ日が暮れるぞ」

自らが死に淵に立っていることすら知らない無人兵器の群れ。彼は哀れみを込めて呟き、トリガーを握る。 戒世の背から二発のミサイルが放たれる。が、その推進力はミサイルとしては落第点に近いものだった。 殺傷力など見るからに期待できないそれに、アンブレラも、さして気にも留めていないといった様子で、絶えずレーザーの雨を注ぐ。

敵の懐まで潜り込んだ二発のミサイルが、そして本性を曝け出した。中心部で弾けたかに見えたミサイルから、 さらに無数の小型ミサイルが四方に飛び散っていく。一発一発から大量の推進剤がばら撒かれ、入り乱れる白煙がその乱雑さを物語っていた。 目標視認もろくにされていない小型ミサイルは、己の欲望のままに動き始め、延長線上にあったアンブレラを巻き込んでいく。

「ははは、こりゃいい! ガードメカが塵のようってか」

轟く爆音。機能を失い、羽虫のように墜落していくアンブレラの姿に、男は歓喜の声を上げた。 こんなか弱いガードメカを製造するために、一体何人もの人間をこき使い、そしてどれだけの費用を割いてきたのだろう。 人間の給料の何百倍、何千倍を誇る精密機械が、たったの数秒で無駄となった。

こんな結果のためだけに、必死に働き、必死で汗を流し、必死で生きている奴らがいる。 人生の大半を無駄にしたそんな間抜けたちを想像し、男はそれを楽しみ、そして嘲笑う。 これだからやめられない。さらなる喜悦を覚えた男は、

「さて、本番といこうか」

と、顔面を歪ませながら、戒世を前進させる。アンブレラの亡骸から黒煙と炎が舞い上がり、 その不気味な明滅が、戒世の鮮やかな紅に、より一層の存在感を刻んでいた。





青年の瞳に映りこんだのは、おびただしい数のMT――レッドウォッチャー。赤い蜘蛛を思わせる気味悪い巨躯が、 床を這いずりながらワンダーレイドの元へと押し寄せてきた。あからさまな嫌悪感を抱き、青年は操縦桿を握りしめる。

地面を隙間なく埋め尽くすレッドウォッチャー、その数は計り知れない。狙いを定める暇もない。 直感でワンダーレイドの腕を操り、ライフルの銃口がまばゆい閃光を灯した。

特定の獲物を見定めないまま、放たれた複数の弾丸はそれぞれが思うがままの進路を取り、うごめく紅の蜘蛛を弾き飛ばす。 所々で大破したレッドウォッチャーが破片とともに宙を舞った。炎を纏ったそれが群れの中へと落下し、同族のいくつかを道連れにする。 だが、敵の数は減ったようには見えなかった。反撃とばかりに放たれるおびただしい機銃の嵐に、青年は不本意ながらも回避行動を余儀なくされる。

加えて、眼前のディスプレイには、レッドウォッチャーとは異なるMTが目立ち始めていた。 ある意味、そこらを這いずり回る赤蜘蛛よりも有名な逆関節型MT――ワイルドグースが、 レッドウォッチャーの機銃に混ざって、ワンダーレイドに対し反撃を講じていた。

機銃の猛追を掻い潜り、銃を手当たり次第に乱射していた青年だったが、さすがにライフル一本では分が悪いことを察する。 回避行動は維持しながら、ワンダーレイドは乱雑だった照準を一点に絞り、再度ライフルを放った。 大群の左端へと集められた弾丸の雨は、猛烈な破壊力を局所的に生み出し、そこにいた赤蜘蛛、そして逆関節を易々と噛み砕く。

結果、ごくごく狭い範囲ではあるが、押し迫る大量のMTの中に、どうにかACが滑り込めるだけの隙間が生まれた。 ワンダーレイドは迷わずその隙間へと機体を走らせ、気味悪く蠢動する敵の背後に回りこんだ。

敵の優秀なAIたちは、瞬時に動きを察知したのだろう。 無駄のない動作で、自らの砲火を消し去り、照準が外れた銃座を、ワンダーレイドがいる側面へと向け直していた。 無数のガードメカが放つ集中砲火は、当然ながら衰える。青年は自らの中枢器官にその事実を叩き込み、操縦桿を握る。

急激な移動によって浮き上がっていた機体を立て直すと、その余韻すら感じさせないまま、 ワンダーレイドの右膝を地面に接地させる。それらと併行して、青年はコンソールを凄まじい速度で叩いていた。 正確無比なタイピングが、ACに武器変更を命じ、天を仰いでいた砲身が正面を向いた。

片膝をつき、どっしりと構えるワンダーレイド。左肩にはグレネードランチャーが展開されている。 狙いを定める時間はない。己の集中力に全てを注ぎ、青年は急所とおぼしき地点を見定め、トリガーを握った。 黒光る砲口から榴弾が吐き出される。派手な射出音を轟かせ、砲弾は部屋と部屋を繋ぐ通路へと吸い込まれていった。

通路の壁に突き刺さった榴弾は、そこで炸裂。直後、人外な轟音が閉鎖空間で暴れ回り、爆炎が荒れ狂う烈風と化して、通路を一瞬で支配した。 だが、限りなく狭いその通路だけでは、その紅蓮の炎を処理しきれるはずもない。 行き場をなくした炎は、通路外へと逃れるしかなく、そして数多のMTを容赦なく飲み込んでいった。

一箇所に収束した炎熱は凄まじく、炎に絡められたMTは装甲をいとも簡単に溶かされ、 次いで発生した激しい衝撃波によって、その体躯を粉々に切り裂かれた。 砕かれた破片が烈風に乗り、灼熱地獄から逃れた他のMTの命をも巻き込んでいく。

数秒にも満たない間で、通路近くにいた数十機のMTが同じような末路を辿った。 一撃で地獄絵図を構築したワンダーレイドだったが、その無慈悲な殺戮は止まらない。

従来のものよりも軽量化されたグレネードランチャー。その優れた連射力を最大限活用し、 彼は続けざまに砲弾を撃ち放った。不自由な体勢ゆえに、射角は狭いと言わざるを得なかったが、 広範囲に及ぶ爆風と、また衝撃が伝播しやすい閉所という要素が重なり、その欠陥は補われた。

あちこちで爆炎の花が咲き、真っ黒に焼けた残骸が虚空を舞う。砕けた破片がさらに別の機体に突き刺さり、 炎に飲み込まれ、巨大な黒炭と化す。逃げ延びたものも間を置いて発生した衝撃波によって切り刻まれた。

繰り返される破壊と蹂躙。だが、青年の表情は鈍く重苦しい。窮地を脱したというような喜びや安堵は見当たらない。 極大の虚しさを抱えながら、彼は己の手で開演させた阿鼻叫喚の舞台を、ただ見つめ続けていた。





「……爆発?」

扉をバズーカで吹き飛ばした直後、明らかにそれとは異なる轟音と振動が響き渡り、そして静寂が訪れた。 アンブレラとの遭遇以降、再び孤独と化した男が、その鬱積を発散させようとした合間の出来事だった。

バズーカから漂う紫煙も、どこか弱弱しく見える。うっすらと気づいていた同業者の存在。ようやく、疑念が確信へと変わった。 あいかわらず、敵の姿はまったく見えない。配備された大半が、同業者の方へと向かってしまったのだろう。 絶え間なく耳朶を打った轟音が、間接的に膨大な敵の数を説明していた。

「なんだよ。俺のいないところで派手にやりやがって」

男の精神はすでに限界だった。お預けを食らい続け、飢えに飢えた彼の心は、もはや止められない領域に達している。 涎すらこぼしかねないほどに唾液を口に集め、頭の中で妄想が嵐のように荒れ狂う。

「さあ、今から会いに行くぜ」

早く昂揚を、早く快楽を。あの爆発が平静を保っていた男のたがを外してしまった。 そして、細く狭い通路の中で、戒世の背中に尋常ではないほどの光が集まる。 燦々と輝く明光はそして次の瞬間、鈍重な戒世を亜音速へと到達させるほどの推進力へと変わった。

膨大な重力が身体を締め付けてくる。が、男には些細なこと。歓喜に打ち震える男の精神が、肉体的な制約すらも凌駕し、 彼はコクピットの中で笑い続けていた。舌を噛む危険性など、考えてはいないだろう。

もうすぐ、もうすぐ言葉にできないほどの楽しみがやってくる。MTなどでは味わえない本当の快楽が。 出会った瞬間に、抱きしめてやりたい気分だ。姿のわからぬ同業者に心躍らせながら、 戒世はそして細い通路を越え、今までにない広大な空間へと飛び出していく。

レーダーに反応が示される。位置は背後。男の表情はさらなる狂気に歪む。 流れるような手つきで戒世のオーバードブースターを解除した男は、激烈な慣性移動すらものともせず、 また押しかかる重力にも屈することなく、紅蓮の機体をいとも簡単に反転させてみせた。

「何だよ、こいつは」

後方へと滑る形となった戒世だったが、彼がそこまでしてまで渇望した対面は、叶わなかった。 男の網膜に焼きついたのは、ACなどではなく、ただのワイルドグース。確認した男の瞳に失望の色が灯る。
「この雑魚が。俺の邪魔をするな!」

失望が怒りへと変貌し、地面を滑っていた戒世の右腕がせり上がる。 メインディッシュまでの前菜代わり。目の前の敵をそう捉え、男は引き金を引く。

戒世が握るバズーカから三発の榴弾が一度に飛び出す。それぞれが微妙に進路を変え、ワイルドグースに襲い掛かり、 胴体に二発、残る一発が脚部に着弾。脆い装甲はあっさりと突き破られ、自重を支えきれなくなった機体が崩れ落ちる。

足りない。まるで足りない。MT一機如きでは、彼の餓えは満たせる筈もなく、 後退しながら減速していく戒世の中で、男は暴走する感情に押し潰されていた。

上がりすぎたスピードを強制的に下げるため、彼は部屋の中に無数に突き立つ柱に目をつけた。 制御できない心を抱えたまま、男は機体に微調整を施し、戒世の背中をその柱へと接地させようとする。

刹那、後方であのけたたましい爆音が再び響きわたっていた。 何だ? 戒世の減速を優先していた男の顔に疑問が浮かぶ。そして違和感。すると彼の背後に、その“何か”がいた。





あちらこちらで火の手があがっている。痕跡に興味すら示さず、ワンダーレイドは地獄を駆ける。 グレネードの直撃を受けた通路へと足を踏み込むや否や、歪んだ壁や、崩れ落ちた跡、黒焦げとなった元MTの名残が、彼の行く手を阻んでいた。

避けられるものは避け、邪魔となるものをライフルで弾き飛ばす。速度だけは決して緩めず、ワンダーレイドは通路を越え、次のフロアへ抜けた。 無数に転がる死骸が嫌でも青年の目に入る。焼け爛れた黒塊が至るところで転がっていた。

だが、残骸が散らばるその奥で、一機の真新しいワイルドグースがあった。背を向ける様子から逃げているのだと推察できた。 有人機。結論は一瞬だった。命令に従順なAIでは、まず起こらない現象だ。他にも何機かいたのだろう。 得体の知れないACが、彼らが消し炭にしていく光景を垣間見てしまえば、逃げたくなるのは当然の思考だ。

速度を緩めることなく、ワンダーレイドは距離を詰める。 敵もその動きを悟り、旋回を始める。だがもはや手遅れだった。

敵との間合いを詰めたワンダーレイドが左腕を構える。手の甲から淡い紫の光が迸り収束。刃物の形を成す。 ワイルドグースの銃口が正面に見える。瞬間、胸の前まで持ち上げていた左腕が、凄まじい速度で振り下ろされた。

実体化し厚みを帯びた刀剣状の光が、圧倒的な速度とともに、弧を描いてワイルドグースの胴体に叩きつけられる。 衝撃はほとんどない。まるで果実を切るかのように、敵の装甲は易々と切断されていった。 無数に飛び散るのは、果汁ではなく、寸断された破片。パイロットの亡骸は、おそらくそこにはない。肉片や血液すらもだ。

圧倒的な輝きを放つエネルギーの刃は、ワイルドグースの駆動部をも食いちぎり、 残存していた弾薬に引火。暴発する熱が、燃料に火を灯し、内部で破裂する。

左腕を薙いだワンダーレイドは、機体を切り裂いた後に、両肩の追加ブースターを起動させた。 通常のブースターのさらに上をいく莫大な推進力が、ごくわずかな時間で噴出し、ACという巨体すら軽々と反転させる。

胴から真っ二つに裂かれたワイルドグースは発生した衝撃波によって、機体をさらに細かく寸断された。 極めつけに、漏れ出していた炎がやがて一つの火の玉となり、数秒前まではワイルドグースだったそれを完全に吹き飛ばす。

飛び散る破片、唸る炎、衝撃波、それらをワンダーレイドは、背部ではなく己のコアで受け止めていた。 咄嗟の判断だった。結果、背面よりも頑丈な前面装甲の恩恵で、ワンダーレイドの損傷は、ごく軽微なもので収まった。

後退しながら爆発炎上するワイルドグースを眺めていた青年は、苦い表情を浮かべていた。 自らの行為を思い浮かべてみる。そして思った。ブレードなど使わなくても、敵は倒せた筈ではないか、と。

答えはわかっている。その通りだ。理由も単純。銃弾と銃弾の応酬に飽きたから。ただそれだけ。 そして何より、溜まりに溜まった鬱憤の掃き捨て場として、彼は眼前で燃え盛る元ワイルドグースを派手に散らせた。 やはり、自分も狂っている。命など、無駄に生い茂る雑草のようなもの。頭の隅にそんな考えが芽吹いてしまっている。

昔のように必死に抗おうともせず、かといってレイヴンという仕事に完全に染まりきっていない。中途半端な存在、それが自分だ。 流れに背くわけでもなく、身を委ねるわけでもない。だがそれも終わり。心や身体はもはや限界寸前なのだ。

願いごとが叶うのなら、どうかこの地獄から引き上げて欲しい。誰でもいいから、自分を救ってくれ。 今なら喜んでそれに縋ることができる。崇高な言葉で諭されれば、たとえ極悪人になろうとも構わない。 様々な陰湿な思考が青年の頭を駆け巡るが、それでも彼の心は揺れ動いていた。

気づけば、ワンダーレイドは、とある柱に背中からぶつかっていた。幸い、無意識に減速していたので問題はなかった。 だが思わずはっとなり、彼は視線を現実へと引き戻す。と、青年はそこで奇妙なものを見る。 見たこともないような反応があるのだ。位置は、自分の真後ろ、つまりは柱の向かい側ということになる。

「まさか……」

青年は驚きを隠せずに、目を見開く。彼の瞳はすでに後ろの存在の正体を掴んでいる。 そして後ろに潜む“何か”に狙いを定め、操縦桿を強く傾けていった。





二機のACが、一本の柱を介して背中を向け合った。 それも束の間、両者から瞬時に殺気が放たれ、急速離脱の後に、両機は互いに銃を向ける。

「ようやく会えたな! さあ、思う存分楽しもうぜぇ!」

戒世にまたがる男から歓喜の声が上がる。己の飢えを満たしてくれる筈の相手、 そして、こんな状況を呼び起こしてくれたこの腐った世界に、最大級の賛辞と殺気を込めて。

「もう、いい加減にしてくれ。どれだけ俺を苦しめれば気が済むんだ!」

ワンダーレイドを駆る青年から悲痛な咆哮が轟く。幾度も自分の前に立ちはだかる相手、 そして、自分を嘲笑うことしかしないこの腐った世界に、最大級の罵倒と絶望を込めて。

彼らは引き金を引く。そして銃声が二つ、静寂を破って響き渡った。


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