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Two cups of coffee


今日も俺はここに来ることができた。

薄暗い路地裏の中を、俺は一人歩いている。大都会であるにも関わらず、その通りには人の姿がほとんど見られない。 耳に響く喧騒、鼻に絡みつく生活臭。それらが、ここが街であることを証明していたが、 唯一俺の目に映る光景だけは、その事実を頑なに否定していた。

人もいない。太陽の光も、聳え立つビルに阻まれており、ここには届かない。 革靴が地面を叩く音、ただそれだけが聞こえる。敏感すぎるほどに響いている。 これが本当に都会なのか? 自分の瞳に焼きつく光景を見て、俺は思わず吹き出しそうになった。

足取りに迷いはない。すでに俺の足は、どこに向かうかを定めている。 目的地に着くまでの間、靴音は少しの乱れも見せず、同じ間隔を維持したままその空間に響き続けた。

俺が立ち止まったのは一軒の店の前。油断すれば思わず見逃してしまうほどに小さく、 それなりにさびれてもいるが、 ここが目的の場所であることは間違いなかった。 左腕にそっと目を配る。手首に巻かれた安物の腕時計は、 きちんと俺が望む時刻を示してくれていた。 良かった。今日も間に合うことができた。心の中で安堵し、俺は静かに店の扉を開く。

「いらっしゃい」

扉に付けられていた鈴の音と共に、そんな言葉が聞こえてきた。扉を閉め、俺は改めて声がする方向に視線を注ぐ。 真っ白に輝いているカップや、透明なグラス、様々な色の液体を入れたボトルなど。

棚の中で仲良く肩を並べながら、それらが綺麗に陳列されている。 そして、少し間隔を隔てた先に、木製のカウンターが部屋の奥まで伸びており、それに沿うように、いくつかの丸椅子が等間隔に並べられていた。

カップなどの容器が置かれた棚と、カウンターの間にあるわずかな隙間の中に、声の主はいた。 清潔な服装に身を包んだ、四十代そこそこと思われる男性が、 毎週同じ時間に必ず訪れる客――つまりは俺を微笑と共に迎えていた。

「いつもの頼むよ、マスター」

彼――マスターに目を合わせることなく、俺は注文だけを淡々と言い、店の中に足を踏み入れる。 入り口から最も離れた椅子に辿りつくと、迷わずそこに腰を下ろした。あらかじめ座ると決めている席だ。 この時間帯には、他の客は一人もいない。だからこそ、俺は常に同じ席に座る。座ることができる。

その場所からは、コーヒーを入れる際に用いられるコーヒーサイフォンがよく見えた。 球状のガラス容器が上下にくっついたような形の器具である。 そこからマスターの手で生み出されるコーヒーを飲むことが、俺にとって何よりの日課だった。

いつもの、という発言だけでマスターは、俺が何を注文したいのかを察してくれる。 彼は迷うことなく棚から一つの容器を取り出し、例の奇怪な器具の前に立った。 そして手に握る容器の中から、さじを使って何かをすくい取り、球状の容器の中へ放りこんでいく。

だが、俺にはどうしてもわからないことがある。作るのはあくまで人間だ。 それなのに、作られるコーヒーの味は、いつも同じなのである。豆の挽き具合、抽出時間、火力、そして撹拌。 どれもこれもが完璧な調和で成され、常に寸分違わぬ精度で、あの黒い液体が生み出される。

まさに芸術の域だ、と痛感させられたのが、俺がこの店に通いつめてそこそこの月日が経った頃。 今もそれは続いている。常連となってからかなりの時間が過ぎているが、差し出されるコーヒーの味は全くと言っていいほど変わっていない。

沸騰によって下の液体が上の球体に押し上げられ、こげ茶色の粉末と混ざり合う。 あとは適度にかき回し、 昇った液体が再び下に戻るのを待つだけ。しかし、少しでも時間や手順がずれてしまえば、味は変わってしまう。 特に、俺のようなコーヒーに対して異常なまでのこだわりを持つ人間にとっては、それは決して許されるものではなかった。

だがしかし、この店のマスターは、そんな変質的な嗜好を持つ俺さえも見事に唸らせてしまった。 この店へ執拗に通いつめてしまう理由としては、これ以上説得力のあるものはおそらく存在しないだろう。

「どうぞ」

と、俺が下手な分析に力を入れているときに、それは静かに俺の前に置かれた。 真っ白なカップ、そしてその中には、液面がわずかに輝いて見えるほどに澄んだ黒色の液体。 うっすらと湯気が立ち昇るのを一通り眺めた後、俺はその闇に視線を落とした。

「飲まないのですか?」

マスターが、一向に口をつけない俺に問う。疑心など欠片も見当たらない彼の微笑が目につき、俺もまた表情を少し緩めて言った。

「あんただってわかってるだろ? いつもいつも同じなんだからさ」
「ええ、知ってます。なんと言うのか、少し聞いてみたかっただけですよ」

と、含んだ笑いを見せるマスターの傍に、コーヒーが入ったカップがもう一つ置かれていた。 もちろんこれはマスターのものではない。そろそろか、と俺は再び左腕の腕時計に目を配った。 長針はさきほど見たときよりもわずかに傾いている。秒針の動きにいたっては止まる気配がない。

異変は、俺が現在の時刻を確認し終え、自分の顔を正面に戻そうとした時に起こった。 唐突に、扉が勢いよく開かれる音が木霊し、さらに、扉に付属していた鈴の音が俺の鼓膜を貫く。

俺が入ってきたときとは、音の質が根本的に違う。千切れてしまうかのごとく荒れ狂う鈴が、その勢いを物語っていた。 無作法な扉の開けかたに、俺は無意識に扉のほうへと視線を寄せてしまう。犯人の正体をすでに知っているのにもかかわらず。 案の定、扉の前には、一人の男がそわそわした様子で立っていた。店の中にいる俺とは、完全に種類が違う男だった。

金色に輝く短髪に蒼い瞳、少々小柄だが、それなりに鍛えられているのが服の上からでも判別できる。 そして何より、全身から漲る覇気が違っていた。とても一般人が醸し出せるような雰囲気ではない。 つまりは――同じ穴のムジナというわけだ。種類は違えど、初めて会ったときから、俺はその金髪に己と似通った香りを感じている。

「よ、おっちゃん。今日も来たぜ」
「いらっしゃい」

金髪の男も、俺と同じくマスターに目を向けようとはせず、彼は奥に座っている俺とは対照的に、最も扉に近い席に座った。

「ご注文はいつものですか?」
「もちろん。ついでにアレもよろしくな」

マスターは、あらかじめ残しておいたもう一つのカップをすっと金髪に手渡す。 カップを置く小皿には、あらかじめ角砂糖が二つ置かれており、 さらにマスターはミルクが入った小瓶を隣に並べていた。

「そうこれだよ、これ」

それを見た金髪が、差し出されたものに対し能天気な喜悦を漏らす。彼は迷うことなく二つの角砂糖を手に取り、 コーヒーの中にそれをさっと投げ込むと、次の瞬間には、ミルクを充満させた容器を傾け、 くるくると手首を回してそれを注ぎ込んでいた。五周ほど回ったところで、ようやくその動きは止まる。

未だ黒いままの液面を眺めて、俺は軽く溜め息を吐く。ああ、なんてことを。 今頃、金髪に用意されたコーヒーは、清澄な黒色から汚らしい褐色という、実に愚かしい変化を遂げたことだろう。 俺にはそれが無性に許せない。しかし、俺はその憤りを彼に面と向かって言ったことはない。いつもいつも、ただ黙って見つめているだけだ。

人のこだわりなど、それこそ千差万別。そんなことは百も承知している。 だからこそ何も言わない。なんて馬鹿なことをするんだ、と叫びたいのは山々だが、 その衝動を毎回必死に抑え込んでいるからこそ、俺は今まで、一度たりともこの金髪と言葉を交わさずに済んでいる。

「最近の調子はどうですか?」
「ん? ああ、絶好調だぜ。今日は結構良い勝ちかたをしたんだ」
「それは良かった」

俺が初めてこの店を訪れたときからこの男はいた。 あまりおしゃべりが好きではない自分とは違い、金髪は必要以上に多弁だったため、話を盗み聞くだけで、ある程度のことはわかった。

彼もまた俺と同じく、いつも決まった時間に現れ、決まった席につき、同じ注文を繰り返すことを日課としているらしい。 けれども、訪れる頻度などはこの際関係ないだろう。必要なのは、俺が店に来るとき、この男も必ず店を訪れるという、この事実だけだ。

甘党で、おしゃべりで、そして俺と同じ職。けれども、わかったのは、たったそれだけ。 何度か目をあわせたくらいで、会話したことももちろんない。所詮客と客。俺と彼の関係など、その程度で十分だろう。
金髪は、ようやくカップの取っ手に手をかけ、中の液体を飲み始める。 コーヒーができあがってから、すでにそこそこの時間が経っている。 飲み頃の時間帯からは確実に外れているだろう。 だが、この男にはその事実が通用しない。マスターもそして俺も、そのことを知っている。何故なら、彼は正真正銘の猫舌なのだ。

だからこそ、マスターは俺の注文が入ると、いつもコーヒーを二杯作る。その内の一つを俺に渡し、残り一つを何もせずに置いておく。 後から必ず訪れるこの男のために冷ましておくのだ。男はわずかに冷めたそのコーヒーをこうして毎回飲んでいる。

そろそろ頃合いか、タイミングを見計らいながら、俺もカップを手に取り、中の液体を少しだけ飲む。 もちろん俺のコーヒーも男のものと同じように冷め始めている。何故そんなことを? そんなもの決まっている。俺も熱いものが苦手なのだ。

黒い液体が喉の奥に流れこんでいく。口腔内を通り過ぎるとき、液体が舌に触れ、その度に何とも言えない苦味が口一杯に広がる。 だがそれが何より良い。苦いとは言え、その深みはまさに絶妙だ。 功を焦りすぎたのか、コーヒーはまだ少し熱かった。俺は飲むのを止め、カップを再び元の位置に戻す。

「うまい! やっぱこれ飲まなきゃ始まらないよな」

言ったのは俺ではなく金髪の男。何がうまいだ。せっかくの純粋な味を、砂糖やらミルクやらで消し去っているお前に、 このコーヒーの素晴らしさが語れるわけがない。罵詈雑言を心の中で吐き捨て、殺気めいた視線だけ送りつけて、俺は残ったコーヒーを再び口につけた。

やはりうまい。味を変える必要など微塵もない。このコーヒーは本来の味こそが最も奥深いのだ。 それを知らない奴に、これを飲む資格などない。無言を貫いたまま俺は勝ち誇る。

これが俺の日課。いつもいつも現れる低俗な客を横目にして、妙な優越感を抱きながら、俺は毎週この店でコーヒーを飲んでいる。 あまりにも現実離れした人生を歩んでいる俺にとっての、これが唯一の安らぎだった。

しかし、俺の感慨はポケットの中で不意に震えた携帯電話によって妨害される。微細な振動のため、他の二人には気づかれていない。 素早く携帯を引き抜き、首をわずかに下に向けて、俺は「メール着信」と書かれた液晶画面を見た。 長々と無駄に多く書かれた文章から、俺は必要な箇所だけ抜き取り、内容を読み取る。

『仕事の打ち合わせがしたいので、今すぐ帰還するべし』

要約するとこんなところだろうか。時間切れ――。試合終了を告げる残酷な宣言が、俺の心に重く圧しかかる。 嫌だ、まだここにいたい。このままずっと、この店のコーヒーを飲んでいたい。頭で必死にそう願っているのに、 身体は俺の言うことを聞いてくれなかった。手が勝手に動き、残ったコーヒーが一瞬で喉の奥へと消えていく。

「マスター、ごちそうさま」

すかさず、俺の腕が主人の意思を無視して、コーヒーの代金を机の前に置いていく。 そんな行動を取る俺自身が、ここから立ち去ることを渋っているということに、気づけるものはおそらくいない。 諦めの感情を深めながら、無造作に立ち上がったそんな俺に、マスターと金髪、二つの視線が一斉に向けられた。

「あ、お帰りになるんですか?」
「……ちょっと仕事が入ったみたいだ」
「そうですか」

屈託のない微笑を浮かべて、マスターは俺を見つめる。 金髪はと言うと、俺を一瞥を加えただけに終わり、そそくさと自分のコーヒーの液面に視線を戻していた。

「ありがとうございました、また来てくださいね」

何の感情も感じない声。俺がまたここに来ることを確信している声だ。 だが、俺はその確信に応えてやることができない、どうしても。

仕方なく、いつもはあまり動かさない表情をほんの少し動かして、俺は自分の顔に笑みを作った。 営業的なマスターの声と同様に、俺のこの顔にも感情はない。だがこうするしか、俺にはマスターの声に応じることができなかった。

このまま笑って帰ることができるのならば、何も考えずに済むのなら、どれだけ良いことだろう。 ここから離れることを未だに拒否している思考を強制的に断ち切り、俺は店の扉を開けた。

また来ればいい。来週も再来週もここに来ればいい。たったそれだけのことだ。 収拾のつかない自分の頭に、救いにもならない無責任な言葉を吐き、それを鎮静剤代わりとしながら、

「ああ、また来週に」

と、だけマスターに告げて、俺は店の扉を静かに閉じた。また来週、それがどれだけ重い言葉なのかは、十分理解しているつもりだ。 必ず来る、来てやる。己の心にそう深く刻み込んで、俺は通ってきた道を再び歩き出した。

鈴がチリンと音を立てている、俺にはそれが、夢のようなこの一時を終わらせる警鐘のように聞こえた。 鈴の音はその後しばらくの間、頭の中に根強く残り、そして俺の心を激しく揺さぶり続けた。





「これで最後……!」

操縦桿を巧みに操り、俺はさっきまでと何ら変わらない命令を、再びACに下していた。 機体は何の否定もすることなく、コンマ数秒の刹那でそれを受諾し、実行する。

振り上げられたACの左腕から金色の光がほとばしる。瞬時にその腕は振り下ろされた。 眼前にいたMTに閃光は遠慮なく食い込み、装甲、配線、さらにはパイロットまでをも容赦なく切り裂いて、地面まで到達する。

光刃を妨げることすらできずに、真っ二つに寸断されるMT。 名残となった残骸は、数秒と経たずに崩れ落ち、通算何度目かの爆発音が轟いた。

『レイヴン、増援を確認しました』
「何だ?」
『ACです』

舌打ちするのにも自然に力がこもった。当然だろう、この日何体目かのMTを叩き切り、ようやく終われると思ったのだ。 その矢先にオペレーターから容赦ない知らせ。こちらの身を一切案じていないといった淡々とした口調が癪に障った。

「……了解」

飲み込めない苛立ちを口内に含みつつ、俺は言葉を重ねた。だが通信機の先にいる女性に毒を吐いたところでどうしようもない。 事実を事実として受け止め、俺は相棒――蒼白色の逆関節AC――に備えつけられた旋回ブースターを利用し、レーダーが反応を示す方向に機体を向けた。

広大な褐色の大地が見渡す限り続いていた。地平線もはっきりと見えており、 それゆえ、網膜に焼きつくその光景の中から、ほんのわずかな違和感を見つけだすことは、さして難しいことではなかった。

地平線に沈みゆく紅い日が、徐々に濃い青紫へと変わっていく。 そこに淡い翠色の光が、まるで日の光を背に背負うかのような秀麗な姿を俺に見せつけていた。

最初は豆粒大だったそれだが、一秒、二秒と経つ内に徐々に大きさが増していく。 間違いない、ACだ。四本の脚部を地面に這わせ、尋常ではない速度で、俺と相棒に迫っている。

紅く染まっていた日が、わずかに色を変えていなければ、気づくのが数秒ほど遅れていただろう。 激しく揺らめく夕日と同化してしまいそうなほどの紅。全身に彩られたそんな色鮮やかな装甲を全面に押し出して、そのACは荒野を駆けていた。

敵との距離はまだある。左腕のブレードで粗方の敵を排除していたから良かったものの、 これで弾切れなどという状況に陥っていたら、どうなっていたのだろう? 考えたくもない。 成す術なく殺される自分の姿が容易に想像できてしまい、俺は即座にそんな愚かしい想像を頭から削除した。

しかし、相棒の右手に握られているハンドガンの残弾数は、正直言ってかなり乏しい。 コアに備えられたイクシードオービットの弾数も同様で、右肩に背負った自律兵器に至ってはもう雀の涙ほどしかない。 これで今からACと一戦交えようとは、無謀にもほどがあるというものだろう。

戦いかたを選ぶ。今から行う戦闘は間違いなくそれが必要だ。正攻法でいけばまず勝ち目はない。何か考えろ。 が、俺が意識した矢先、その猶予を握りつぶしてしまうような事態が起こる。眼前に迫った驚くべき展開に、俺は直感的に相棒を上空に跳躍させていた。

分類上は中量型だが、脚部以外を軽量なパーツで構成している俺の機体ならば、できないことではない。 猛烈な速度で足元をすり抜けた物体はACなどではなかった。一瞬だけ垣間見たそれは、一発の榴弾。

これには俺も肝を冷やした。コクピットにはロックオンされたという警告が、一切発せられていなかったのだ。 つまり、敵はこちらをロックしていない。単純に、俺の機体を肉眼のみで狙いすまして砲を撃ったのだ。

しかもその狙いは正確無比。冗談ではない。ただでさえ最悪な状況に、これだけの芸当ができるレイヴンが新たに加わった事実。 なるほど、よっぽど俺を殺したい奴がいるようだ。だが、はいそうですか、と納得することはできない。

ふざけるな、誰がそう簡単に死んでやるか。無理難題をおしつけてくる誰かに向けて俺は吼え、そして自身を鼓舞する。 それを最後に、俺はようやく眼前にまで到達した紅の四脚に、自身の全ての意識を傾けることにした。

最悪と言えば、この四脚の外観も、その要素の一つに数えられるだろう。 大地を噛み締めている四本の足はいずれも太く、そして分厚い。綺麗な円を描いたようなコアもまた強固な装甲で覆われており、 その紅の機体に致命傷を負わせるには、生半可な攻撃では通用しないことがよくわかる。

機体が握る残り少ないハンドガンを惜しげもなく用いて、俺は四脚を迎え入れた。先程の榴弾のお返しにしては遠く及ばないが、 敵の進行方向を狂わせただけでも最低限の仕事はできた。左に方向変換した四脚に向けて、俺はさらに撃ち続ける。

しかし、敵も当然黙ったままではなかった。俺がトリガーを握り続けている合間に、 紅のACは、右肩のグレネードランチャーを展開する。しかも今度は、完全にロックオンした状態でだ。 相棒のAIもそれに気づき、今度はきちんと警告を鳴らしてくれた。と言っても、遅すぎる警告だったのだが。

俺にできる咄嗟の行動と言えば、やはり跳ぶことくらいしかない。だからこそ、俺の相棒は逆関節型なのである。 単純明快な理由だが、いざというときにはやはり頼りになる。今回も機体は放たれた榴弾をいとも簡単に回避してくれた。

だが、幸運は二度も続かない。敵の会心の一撃であろう攻撃。その隙につけ込んでやろうと思い、 空中でハンドガンを四脚に向けなおしたが、直後、得体の知れない何かが機体の右腕に突き刺さり、その行為を中断させてしまう。

鋭い衝撃が相棒のバランスを狂わせ、照準が大きく外れる。 撃ち放った弾丸も、ありえない方向へと飛んでいき、短くそして無駄な役目を終えた。無残な結果に俺は顔を歪ませる。

榴弾ではない。この異常な弾速は、どう考えても榴弾などではない。震えるコクピットの中で確信する。 だが、理解したところでどうなるものでもない。亜音速で迫るあの銃弾を止める術など、今の俺には存在しないのだから それを把握しているのか、不用意な体勢のままで地面に足を降ろしてしまった俺の前に、敵は容赦なくマシンガンで追撃をかけてきた。

必要以上に追いかけてくる火線に混じって、相棒の身体がまたしても先程と同様の衝撃に襲われる。 相棒の機動力ならば、マシンガンの羅列はある程度は回避できるが、 これだけは、敵の左手にあるスナイパーライフルだけは、いくら相棒でも回避することは難度が高かった。

これが敵の本命。マシンガンの雨を散らし、回避に溺れる隙をついてスナイパーライフルを叩き込む。 その反動に負けてバランスを狂わそうものならば、すかさず必殺のグレネードランチャーによって裁きが下されるという寸法か。

自分自身は強固な装甲に守られ、圧倒的な火力をもって敵を殲滅する。なるほど、やはりそれなりに理に叶っている機体だ。 最悪? 違う、これは好機だ。これだけの情報があれば手段は幾らでも思いつける。くぐった修羅場の数には俺も自信がある。 わずかに見えた光明を頼りに、右へ左へACを揺らせつつ、俺はあるものをそっと敵に送りつけてやった。

宙を舞いながら、それらは一瞬で四脚の周囲を取り囲み、蒼い光線を四脚に向けて放っていく。 連続した光の筋が、紅の装甲を何度も叩き、触れた装甲を悉く溶解させていった。

勝機にでも酔いしれていたのか、四脚は俺の機体が備えているオービットに気づいていなかったようだ。 客観的に見た俺ですら、その隙に気づくことができたのだ。よほど敵が攻撃に陶酔していたのかは、もはや言及するまでもない。

瞬時にマシンガンのマズルフラッシュが沈静化した。どうやら四脚は、三基のオービットから逃げることを優先したようだ。 最高だ。わずかに相手の攻撃の芽を摘めた。こちらの本命を叩き込むには十分すぎる成果。これならば勝てる。

四脚の攻撃が止んだ刹那、俺は相棒本来の機動力を爆発させる。市販されているブースターの中で最高出力を叩き出せるそれは、 俺の期待通りに力強い推進力を生み出し、敵に肉薄する距離にまで相棒を導いてくれた。

一秒でも二秒でも構わない、今ある全てを敵に叩き込めればそれで良かった。 そしてその機会は遂に訪れる。四脚が即座に機体の接近に気づき、迎撃のマシンガンを撃ってくる。 真正面からの突撃ゆえ、いくつもの弾丸が相棒の装甲を弾き飛ばしていくが、俺は無視した。

残ったハンドガン、そしてコアに搭載されているイクシードオービットを一気に展開し、 弾丸全てを敵目掛けて叩きこむ。真正面に肉薄しているが故に、互いの銃弾が互いの身を食い散らしていく。

だが、こちらの銃はマシンガンとは違い、圧倒的な反動と熱量を生み出すことができる。 損傷の程度、そしてコクピットに加わる衝撃を加味すれば、若干こちらに分がある筈だ。

所詮は馬鹿正直な突進でしかない。しかし、下手に動き回るよりかはこちらのほうがまだマシだ。 問題は時間。敵がスナイパーライフル、及びグレネードランチャーを構えた時点で、形勢は完全に逆転してしまう。 それまでに本命を叩き込まなければゲームオーバー。俺の残り時間はもう限りなく少ない。

使うのは今しかなかった。幾度となく俺を助けてくれた一撃。相棒の左腕から分厚い閃光が展開される。 装甲の厚さなども簡単に無視できるだけのブレード。威力だけなら最高峰に位置するそれが、今相棒の左手で発光している。 これが俺の本命、たった一撃で形勢をひっくり返すことができる必殺の奥の手だ。

「食らえ」

左腕を腰に据え、俺は静かに告げる。ハンドガンもイクシードオービットも全てはお膳立てに過ぎない。 全てはこの一瞬のため。神経を研ぎ澄ませた俺の指示に従い、相棒の左腕が四脚のコア目掛けて突きこまれる。

殺傷力を漲らせた黄金の輝きは、何の障害もなくコアに食いこみ、中にいる全てを焼き尽くす、筈だった。 しかし、刹那、俺の目の前に四脚の左腕が現れていた。差し出された左腕に刃が深々と突き刺さり、その命を奪い取る。 だがそれは、敵そのものの命ではなかった。奪えなかった。相棒の刺突は敵のコアには届かなかったのだ。

正確に言うならば、ブレードはコアに届いてはいる。 だが、かざされた左腕に勢いを減衰させられ、肝心のコクピットを飲み込むまでには至らなかったのだ。

強大な威力を孕んでいる相棒のブレードだが、絶対的に短い刀身がここで裏目に出てしまった。 差し出された敵の左腕がさらにその進行を阻み、極め付けに敵ACが重装型であったことも要因の一つだろう。

ありとあらゆる要素が、俺にとって後手に回ってしまった。

左腕を犠牲にして、敵は俺の攻撃を防いだ。その事実が俺の全てを急激に奪っていく。 ハンドガンの弾数もそこで完全に途切れ、イクシードオービットの自動射撃までもが、その悪循環に便乗して稼動しなくなる。 身体に溜まる失意と絶望。同時に眼前に広がる黒色の砲身。気づいた時、俺は相棒と共に盛大に吹き飛ばされていた。

「くっ!」

全身が容赦なく撹拌されていく感覚、内臓が押し潰されるかのような衝撃もコクピットの中で暴れまわる。 無意識に働いた感覚が、咄嗟にACを立て直そうとしたのは奇跡だった。胃の中の様々なものが逆流してくるのを必死で堪えながら、 俺はどうにか意識を保っていた。だが、ACが食らった損傷の方が、俺に比べれば遥かに酷いものだった。

コクピットに鳴り響いている警鐘が全てだ。無防備な懐に榴弾を食らえば、こうなることは目に見えている。 今の相棒は何層もの装甲が剥ぎ取られ、無残ともいえる損傷の爪痕を晒している筈だろう。今この瞬間に機能停止になっていないのが不思議なくらいだ。

それに比べて敵はどうだ。左腕を失っただけで、敵の鮮やかな紅は未だにその煌きを失ってはいない。 これが勝者と敗者の姿なのか。そんな諦念に近い感情が俺の頭によぎった。 しかし予想に反して、俺の思考はそれを頑なに受け入れようとしない。そこで俺は知る。俺の心は、まだ諦めたわけではないようだ、と。

ふざけるな、思考が半ば諦めかけていた身体に代わり命令する。そしてそれは俺の瞳にあの光景を映していく。 見えたのは、あの道、あの鈴付きの扉、あの店の内装、あのマスター、そしてあのコーヒー。そんな何気ない光景だった。 そうだ、忘れていた。頭の淵に追いやっていたはずの光景を見て、俺は唐突にあることを思い出していた。

「……そうだよな」

決して手がないわけではない。ただ、あまりに自殺行為に等しいがために、実行に移すだけの度胸が俺にないだけなのだ。 しかし、今となってはもう恐れている場合ではない。ハンドガンもイクシードオービットも弾切れ。 残った肩部のオービットも残り三発しかない。やはり頼りになるものと言えば、一つしかなかった。

選択の余地など初めからなかった。俺はそこで悟る。是が非でも掴みとらなければならないものが、俺にはあったのだ。 そのためには危険を顧みてはいけない。考えてもいけない。必要なのはそんな愚かな行為ではない。

何かを求めるのならば、それを得る為に努力を欠かすことはできない。待つだけでは何も得ることはできない。 命を賭けなければならないのならば、文字通り賭ければいい。それが唯一の方法ならばやるしかない。ただそれだけだ。

四脚からマシンガンの迎撃が再開され、それが最後の賭けを始める合図となった。 まだ動ける、とAIが告げている。了承。そして俺は迷うことなく、満身創痍の相棒を敵目掛けて疾走させる。

敵の弾幕目掛けて突っこんだために、無数の銃弾が相棒の痛々しい身体をさらに穿っていく。だが、もう関係ない。 決着をつけるまで動ければそれでいい。 俺はペダルを緩めることはない。 そんな鬼気迫る意思が相手にも届いたのか、四脚は堪らずグレネードランチャーを構え始めた。

轟音と共にそれは勢い良く吐き出され、俺の眼前に迫った。もう一度まともに食らえば命はない。 だからこその賭けだ。俺は機体の右腕をそっと前に突き出し、覚悟とともに榴弾を迎え入れた。もちろん、ペダルは踏みこんだままで。

凄まじい衝撃と爆発による閃光。右腕だけで防ぎきれるものではないことは最初から承知している。 衝撃の余波が相棒の身体を叩き、安定性に欠ける逆関節の体躯が大きく仰け反った。

それでも相棒は踏ん張ってくれた。もちろん右腕は完全に吹き飛ばされ、全身の損傷はさらに酷いものとなった。 だが、まだ機体は動いている。炎にその身を焼かれ、限界寸前にも関わらず、相棒はその炎を突き破り、俺に敵の姿を映してくれた。

爆炎の中から現れた蒼白のACを見て、敵も動揺したのか、マシンガンの火線がわずかに乱れた。 それでも、こちらの勝機はまだ薄い。もう一つ、あと一つだけ越えなくてはならない壁がある。

そのために俺は必死にフットペダルを踏み続ける。 グレネードランチャーが再装填されるまでの刹那、それが俺に残された最後の時間。

四脚との距離はどんどん狭まる。相棒の機動力は伊達ではない。だがそれは、いつ止まってもおかしくない状況にある。 整備士から文句を言われるのは確定だ。けれども今はそれを苦に感じない。むしろ是非聞きたいくらいだ。 馬鹿馬鹿しい妄想が一瞬だけ浮かび、俺は少しだけ口元を緩めた。しかしそんな場違いな感情もそこで途切れる。

いつの間にか、相棒は再び四脚の真正面にまで辿り着いていた。 同時に、再装填を終えたグレネードランチャーが、とどめと言わんばかりにその銃口から巨大な榴弾を吐き出す。

それが相棒を包み込む刹那、俺は全ての力をこめて操縦桿を右に押し倒す。 恐るべき速度を維持したまま、相棒が大地を力強く蹴り、右にスライド。 榴弾は相棒の左肩すれすれを掠めて、虚空に消えていった。 勝った。たったこれだけの行動が、俺の命を首の皮一枚で繋ぎとめたのだ。

右方へと移動した相棒は、そのまま四脚の左脇を通り過ぎる。互いが背中合わせとなったことを確認した俺は、 すかさず相棒の左腕を展開し、コンソールにあるボタンを壊すほどの勢いをもって押しこんだ。

左肩に一つだけ残った旋回ブースターが、強力な遠心力を生み出して機体を左旋回させる。 ディスプレイの端に微かに映る黄金の光と、敵の紅い背中だけが、次の瞬間、俺の目に鮮烈に宿った。

光が敵の背中に食い込んでいくのがはっきりと見える。正面の厚い装甲に比べて遥かに脆弱な四脚の背部装甲は、 ブレードの侵入を難なく許し、黄金の刃が敵のコアを両断するまでに、そう時間は掛からなかった。





今日もまた俺はここに来ることができた。

いつもと同じ道を辿り、俺は再びこの店に足を運んでいた。相棒の大掛かりな修理のために、 今週の俺の仕事はあれだけしかなかった。得た報酬などは、一瞬でどこかに消え去ってしまい、今の俺の手元にはほとんど金がない。

当分は貧乏生活確定なはずなのに、俺という男は、そんな事実を軽く無視してここに立っていた。 筋金入りの大馬鹿だな、と自分自身を苦笑しながら、俺はいつもの扉をいつものようにくぐっていく。

「いらっしゃい」

いつもと変わらない鈴の音、同じく何も変わらないマスターの声、それが同時に俺の鼓膜に届いてきた。 その音が、俺の中に根付く数多の死線を過去のものに変化させる。そして俺がまだ生きていることを実感させてくれるのだ。

「少し顔色が悪そうですね」
「……軽く死にかけたからな」
「はは、お察しします」

事実を事実として言ってみたが、マスターの表情は何故か軽い。まさか冗談とでも思っているのだろうか。

「それで注文は、いつもので良いですか?」
「ああ、頼む」
「かしこまりました」

俺はいつもと同じ最奥の席に座る。そして、コーヒーができるまでの一部始終を眺めるいつもの日課を始めた。 どうやら今日もマスターの極意は掴めそうにもない。前に一度尋ねてはみたのだが、

「企業秘密です」

と、そのときはものの見事に断られている。 ならば自分で見極めてやろうと毎週毎週こうして眺めているのだが、 最近は、それもいい加減やめるべきなのかもしれないとさえ思い始めている。

「どうぞ」

いつもと同じく二杯のコーヒーが作られ、その一つが俺に差し出される。 残り一杯はあの金髪の分だ。今日もあの甘党男は来るのだろう。そしてまたこのコーヒーを汚していくに違いない。 そろそろか、と俺は腕時計を見る。だが、その時計が示した時刻は、すでに男が来る時間を超えていた。

「来ませんね」

マスターもそれに気づいている。来ない、来るべき時間にあの男が来ない。 突如崩れた日常に俺は激しい動揺に襲われた。まさかこんなことで調子が狂うとは思わなかった。 何か急な用事でもあったのだろうか? それとも別の理由があるのだろうか?

仕方なく俺は用意されたコーヒーを一人で飲むことに決めた。独特の苦味があってそれは間違いなくうまかった。 だが違う、何かが違う。味は変わってはいない。このマスターのことだ、変わるはずがない。 違うのは、飲んでる俺自身だ。何故? 何が違う? 戸惑う俺の顔が、コーヒーの黒い液面にぼんやりと浮かび上がっている。

結局、いつまで経ってもあの金髪の男はその姿を現すことはなかった。 


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