推定死亡地獄 TOP

自称死神

 静謐な朝の空気。

 地上より10m。フェンスを乗り越え、コンクリー トでできた幅10cmの縁に立つ。目視で3km先ま で見渡せる灰色の光景は、筆舌しがたいほどに美麗に 見えた。
 見飽きた、ただの雑多で近代的な都市の筈なのに。

 不意に突風が通り抜け、足元がぐらついた。
 眼下、立っている地点より10m下にはアスファル トの歩道。
 ひやりと死の匂いがした。

 より一層、この世界に生きる事が恋しくなった。

 終わりを体感しているからこそ、美しく感じる。
 これから失うからこそ、愛おしく思える。

 私は世界の美しさを失わないために、足を踏み出し た。




 昔、両親が存命していた頃、僕は彼らに「何故こん なにもこの世界は辛い所なのか?」と聞いた覚えがあ る。
 高々10歳に満たない子供がしたその発言を聞いた 彼らは、幼児が面白い単語を猿真似するように、僕が 大人の真似をして覚えた戯言として酷く模範的な解 答を用意して見せた。

 いわく「生きることは素晴らしい」「私はあなたを 愛している」と。
 でも、僕が聞きたかった答えはそんなヒューマニズ ムに溢れた言葉ではなかった。
 「何故こんなにも世界は辛い所なのか?」その答え を純粋に知りたかったのだ。

 僕にとって、この世界に生きることはとても辛い。
 理由を問われれば、僕自身明確な答えを持ち合わせ てはいないのだが、たぶん“普通”が嫌いなのだ。普 通に生きて普通に暮らす。そしてその日々に喜びを感 じる。それ以上でもそれ以下でもない。そんな僕自身 と世界そのものが堪らなく嫌なのだ。
 矛盾していて、それこそまるで取るに足らない子供 の戯言なのだが、それでも僕はいたって真面目にこの 世界を嫌悪している。


********


 さて、僕がこの世界をどれくらい嫌いなのかという と、17歳となった高校2年生の春に記念に自殺して みるほどにだ。
 何がどう記念なのかは僕も知ったことじゃないが、 その日の始業前、僕は軽い衝動に任せてわが学び舎の 屋上から飛び降りてみた。世間一般では若さゆえの過 ちと言うのかもしれない。
 約5階の高さなのだから、運が良ければ即死。
 高校の敷地に脳漿をぶちまけるのもどうかとは思っ たのだが、まあ誕生日なのだからそれくらいのわがま まは許されてもいいだろう。

 ともかく、そんなわけで、僕の飛び降りは清々しい 晴天の中決行された。
 幸いにも高所恐怖症ではなかったために、躊躇う時 間は1分となかった。
 足場をなくし、一瞬空中を彷徨った後に急速に重力 に引かれる感覚は生々しく三半規管に刻みつけられて いる。
 そこから先はよく覚えていない。

 意識が戻った時、僕は大の字になって、アスファル トに寝ころんでいた。
 そう、僕は生きていた。
 初めての自殺は失敗したらしい。
 しかも、脳漿をぶちまけるどころか、怪我ひとつし てやしない。変なところでミラクルボーイだな僕は。

 仰向けに眺める青空は僕をあざ笑うかのように澄み 渡り、人の神経を逆なでするくらいに雲ひとつなかっ た。

「死ねなかったのか」
「いやいや、君は死んだよ?」

 突然、頭の上から女性のものと思わしき軽やかな声 が降ってきた。
 この場合、僕は仰向けに寝転がっている訳だから、 頭の上とはつまり中心を僕のヘソにして頭を始点にし て時計に当てはめて考えた場合の12時の方向にな る。

 声の主を見ようと頭を動かしてみたけど、この角度 からではどうやっても頭頂部方向へ視線を巡らせられ ない。
 仕方ないので起き上がる。

「おはよう君。ずいぶん長く眠っていたね。まあ、快 眠には程遠いような顔をしていたけど」

 そこに居たのは目が醒めるほど美女だった。
 正直、失礼だとは思うが、今まで生きてきた中で見 てきた女性など比較にならないほどの容姿だ。
 長い黒い髪は濡れ羽のように艶めき、弓下がりの瞳 は全てを吸い込むような漆黒。喪服の様な豪奢な黒い ドレスは対照的に透けるような白い肌を彩る。
 ……陳腐な表現の羅列に、言ってて自分でも恥ずか しくなってきたが、つまりそれだけ綺麗だという事 だ。
 ただ、全身がゴスちっく(と言うのが正しいかは定 かではない)な黒で統一されている中で、頭に被さっ た大きな白いヘッドホンがデジタル的な記号を持ち異 彩を放っていた。

 さて、ここで問題だ。「彼女は何者だろうか?」

 僕が寝転んでいたアスファルトからそう遠くないベ ンチに腰掛ける彼女はどう考えても、ここに居るには 不釣り合いな存在だ。だってこの場所は僕が通ってい る高校の敷地内で、校舎裏だから。生徒の親というに はあまりにも若々しすぎるし、職員にもこんな人はい ないはずだ。
 じゃあ生徒?
 まさか。一応制服高だし、何よりこんなに綺麗な生 徒がいたら、その存在を知らない方がおかしい。

 まあ、百歩譲って、彼女が学校にいてもおかしくな い人物(百歩譲る時点で確定的なのは言うまでもな い)だとしても、先ほど彼女が言った言葉に何と返せ ばいいのかが僕には分らない。
 先ほどといっても「おはよう君〜」の方ではなく て、その前に彼女の存在に僕が気付かされた一言。
「いやいや、君は死んだよ?」の方だ。

 流れ的にこの言葉は僕の「死ねなかったのか」発言 に対して発せられたものだとは思うのだが、さて、ど ういう意味なのだろうか?

 額面通りに捉えるのなら、僕は死んだという意味だ が、でも僕は生きてはいないだろうか?
 それとももっと高度な比喩表現なのだろうか?
 あるいは自殺するという事象自体に対して、人格的 な死を隠喩した言葉なのだろうか?

 いやいや、そんなことよりまずは彼女の素性を確認 する方が先だろう。

「どちら様ですか?」
「コレかい? コレは死神だ」
「は?」
「聞こえなかったかい? し・に・が・み・だ」

 彼女は薄い微笑をたたえてそう言った。

 “コレ”というのが彼女の一人称だと気付くのに数 秒間掛かってしまった。
 それを踏まえて、彼女の言う事を理解するのに数秒 掛かってしまった。
 そして、その事実を呑みこむのに……。

 悪いが呑み込めなかった。
 というか事実とも思わない。

 彼女が何を思い、死神という単語を口にしたのかは 知らない。
 だけど、校内にいた不審者(しかも人が倒れていて 助けも呼ばないような)に「私は死神です」と言われ て安易に「そうですね」と言えるほど僕も夢見がちな わけではない。与太話だと断言してしまえるくらいに は常識とやらを身につけているつもりだ。

「へえ、死神ですか。その死神さんがなんでこんなと ころに?」
「そりゃあ、君が死んだからだろう」

 やっぱり僕は死んでいるらしい。おめでとう僕。現 世とお別れだ。ああ、そうか彼女はお迎えなのだ。こ れからあの世に僕を連れて行ってくれるということで すね。よし逝きましょう、黄泉の国へ――
 なんて思えるはずもない。
 どうやら彼女はどうしても僕を殺したいらしい。
 そして今更だが、人と話すときはヘッドホンを取っ て欲しいものだ。それがマナーだろうに。

「……じゃあ、じゃあですよ死神さんは僕を迎えに来 たんですか?」
「うん? いや、コレはもう君を送り届けた後さ」
「送り届けた? どこに?」
「地獄に」

 ……話についていけなくなってきた。いや、最初か ら置いてきぼりか。彼女の言動は終始僕など届かぬ地 平の彼方を走ってらっしゃる。
 彼女はやはり世間一般で言う電波な人のようだ。そ れか春のせいか。どっちにしろロクなものじゃない。

 なんだか怖くなってきた。リアルに不審者だよ。教 師に連絡するべきだろうか?

「地獄ですか? でもここは僕が生きている世界となん ら変わらないようですけど?」
「うん。どうやら君は破滅的に察しが悪いようだね」

 失礼な。

「どうやらコレは、君に懇切丁寧に説明をしなければ ならないようだ」
「そうしてくれますと助かりますね」

 破滅的に察しが悪い僕が肩を竦めると、自称死神の 彼女は微笑みながらベンチから立ち上がった。その動 作は幻想的と感じるほどに優雅でありながら、どこか 舞台役者を思わせる現実味のない動作だった。

「君は死んだ。あそこから飛び降りて」

 校舎屋上を指差して彼女は言う。見上げてみると思 いのほか高いと感じる。

「そして君は地獄に送られることになった。自殺者は 地獄に送られるのが慣例だからだ」

 自殺すると地獄に行くというのはキリスト教の教え だっただろうか?そういえば死神というのも向こうの 考え方になるのか?

 どうでもいいことだ。

「そしてここは地獄だ」

 今度は両の腕を厳かに広げてみせる。
 でも、野球部のランニングの掛け声が聞こえるこの 校舎裏の光景を地獄とするなら、どこだって地獄にな ってしまうだろう。

 それよりも今は放課後なのか。丸々1日授業をサボ ってしまったらしい。

「理解したかい?」

 自称死神は満足そうに頷いたが、僕にはさっぱり だ。肝心なところの説明が抜けている。

「どうしてここが地獄になるんですか?」
「うん? 何故だい?」

 僕の疑問それ自体が心底わからないと言いたげに、 彼女は腕を組み首を捻った。
 正直、可愛かった。

 じゃなくて!

「いや、何故って……。だってここは僕が生まれて生 きている世界ですよ?地獄っていうのはもっとこう、 灼熱地獄とか針地獄みたいな……」
「それが地獄だと?」
「え? ええ。それが一般的な地獄のイメージですよ。 苦痛の象徴みたいなのが地獄だ……と?」

 苦痛の象徴。
 それじゃあ、まるで。

「うん。この世界は、君にとっての地獄だろう?」

 我が意を得たり。そう満足そうに笑みを浮かべなが ら、自称死神は近づいて僕の顔を覗き込む。吸い込ま れそうな漆黒の瞳には、何も映っていない。

「あ……」

 彼女が何を言おうとしているのか、それが何となく わかってきた。
 それと同時に、急に悪寒がしてきた。
 彼女の存在が、今の状況が、ひどく歪で怖い物に思 えてきたからだ。

 そもそも、この学校は無関係の人間が侵入できるほ ど不用心だっただろうか?
 僕は僕で、屋上から飛び降りたというのに、怪我ひ とつない。
 何より、何故彼女は僕がこの世界を嫌悪しているこ とを知っているのだろうか?

 考えれば考えるほど“不自然”を思い付く。
 気味が悪いほどに。

「君は自殺で死んだ。だからコレは君の地獄に運んで あげたのだよ? うん、ここは君の地獄だ」

 僕の混乱を他所に、自称死神は微笑んでいる。
 心から楽しんでいるように微笑んでいる。
 とても冗談で言っているとは思えないほど確信的な 表情で、軽やかに詠いながら。

「君はこの世界で生きるのだよ。苦痛に苛まれなが ら、その身を地獄に焼きながら――」
「そんなのっ!!」

 急に響いた大声に、自称死神はびっくりしたように 瞳を見開く。
 校舎に反響してエコーするその音量を鑑みるに、グ ラウンドまで聞こえたのではないだろうか?人が来な いか心配だ。
 だが、叫んだ張本人である筈の僕も、自分の声に驚 いていた。
 というか叫ぶ気など毛頭なかったのだが、何やら叫 んでしまった。まるで、自制の効かない思春期特有の 生理現象を露発してしまったみたいで、少し気恥ずか しい。

「そんなの、信じれませんね」

 声のトーンを落として、至極なんでもなかった風を 装い、クールに僕は言う。
 でも、どうやらそんな取って付けたようなクールさ 加減では、先ほどの失態を誤魔化せやしないらしい。 恥の上塗りとはこの事か。穴があったら入りたい。ゴ ルフのティーカップでも入れそうな勢いだ。400ヤ ードをぶっ飛んでホールインワンする自信だってあ る。

「う、うん?」

 自称死神は驚いた表情のまま、首を傾げた。
 反則的なほど愛嬌をふりまくその姿に、これでかわ いそうな人でなければ完璧なのにと、心の中で呟く。

「つまりですね、僕はあなたが言ったことを何一つ信 じられないんですよ。悪いですけど、病院に行った方 がいい」
「……」
「ええ、だいたいここは私立高校の敷地内です。誰か に見つかる前に帰った方がいいですよ。僕ももう帰り ますし」
「……」

 急に黙った自称死神。
 自分の嘘がばれたから黙り出したのか、それとも別 の理由か。
 彼女の表情からはそれを知ることはできなかった。 ただ何かを考えているような、そんな印象を受けた。
 でも、どっちにしろ、僕はもうこの妄想癖の権化の ような女性に付き合うつもりはなくなっていた。

 不自然だろうが何だろうが、そんなものは全部偶然 の産物。断片的に的を得ていようとも、彼女が言った ことはやはり全部与太話だろう。
 僕が自殺に失敗し悪魔が起こした奇跡のように無傷 なのを、頭のネジが緩んだ女が見て、有ること無いこ とを妄想してみせただけだ。
 たぶん僕が話しかけてしまったが故に、彼女はさら に勘違いしてしまったのだ。悪い事をした。

「それじゃあ、さようなら」

 そう一言言い残して、僕は彼女から逃げるように、 校舎裏を後にした。

 校門まで足を運んだとき、ふと、振り返ってみた が、そこには有触れたこの世界の日常が広がっている だけだった。
 僕は生きているし、世界は変わらず、そのままだ。 それは予定調和されたような至極まともな結果。

 そしてそれを結局望む僕。

 ああ、だからこんな世界なんて大っ嫌いなんだ。


********


 さて、僕は一人暮らしだ。
 寮生というわけでもなく、アパート住まい。この歳 で完全なる一人暮らしというのは少しばかり珍しいの かもしれないが、まあ、家庭の事情と言うやつだ。

 でも、裕福な親戚からの援助のおかげで、それなり に良い暮らしをさせてもらっているし、私立の高校に も通えている。
 自分たちの家庭で思春期真っ盛りの僕の面倒を見る くらいなら、多めにお金を渡して遠くにいてもらった 方がいいという意図が見え隠れしていても、感謝はし ている。

 デジタル時計が液晶ディスプレイにpm10:00 の文字を浮かび上がらせた。
 一人暮らしだろうが何だろうが学生の本分は勉強。 ということで、いつもなら小時間でも机に向かうのだ が、今日は違った。
 何故なら鞄を学校の屋上に置きっぱなしにしてきた からだ。
 我ながら間抜けだとは思うが、帰宅時に電車の中で 気付いた。急行に乗っていたこともあり、そのまま帰 宅してしまった。天気予報を見る限り今日明日と雨は 降らないだろうし、一日くらいなら置いておいても大 丈夫だろう。
 たぶん。
 見回りの警備員さん。どうか見逃してください。

 そんな訳でコンビニ弁当を食べ終わって若干手持無 沙汰になってしまった僕は鋭意テレビの観賞中。お笑 い芸人がど突き合いをしているのをボケっと眺めてい る。
 変わり映えしない日常の一幕なのだろうけど、心中 穏やかとはいかない。正直素人芸人のコントなんて頭 に入ってきやしない。

 それもこれもあの女のせい――いや、安易に自殺な んてしようとした僕のせいか。
 早朝、あの時僕は本気で死んでしまってもいいと思 っていた。
 今だって心変わりしたわけじゃないが、少し冷静に なった。少なくとも僕は餓鬼で考えなしの甘ちゃんだ とわかるくらいには。それを含めて全てが嫌で自殺し たはずなのに、それすらも苦痛を助長する一因になる とは、そっちの方がコントなんかよりよっぽどお笑い だ。誰か僕を笑ってやってくれないものか。その方が 楽になる。

 今だったら、あの自称死神が言っていたこともわか る。

 確かにこの世は僕にとって地獄だ。

 いつかは大人になって、この感情と決別するのかも 知れない。
 でも現在進行形で僕を苛立たせるこの閉塞感と焦燥 感は、やっぱり苦痛以外の何物でもない。

 そんな諸々が、ぐるぐると頭の中を駆け巡る。
 終わりのない思考を巡る様は、自分の尻尾を追いか け回り続ける犬ように滑稽だろう。

 叫びたくなってきた。
 意味なんてないけど。

 でも夜中に奇声を上げるのは学生の権利だと思う。  若さゆえの過ちパート2。
 今ここで理由もなく大声を上げれば、まず間違いな く隣人や大家に何か事件があったと思われるか、それ か異常者だと認定されてしまうかもしれない。
 でも、一瞬楽になるかも。
 そう考えると、なんて魅力的なのだろうか。

 叫ぶか。
 短距離走の選手がスタート直前に肺に空気をため込 むように、限界まで空気を吸う。
 後は有りっ丈の奇声とともにこの空気を吐き出して やればいい。
 心の中でカウントダウンを刻む。

 5、4、3、2、1――

「無理」

 意気地がない僕は、結局叫ばなかった。
 無駄な疲労感と遣る瀬の無さを溜め込んで、ベッド に倒れ込む。
 なんで、こんなにどうしようもない僕で、どうしよ うもない世界なんだろうか。

「地獄、か……」

 頭の中で、あの自称死神が笑っていた。

 チャイムが鳴った。
 不意打ちの電子音に心臓が跳ね上がる。
 もう夜の11時をまわる。こんな時間に来訪者と は、奇特な事もあるものだ。
 ……叫んでないぞ?

「誰だよ……」

 ベッドから起き上がり、ドアにある魚眼レンズを覗 く。

「げ」

 ひと目見て、そんな声が出た。背筋が粟立つ。
 そこにいたのは昼間に遭った不審者。あの自称死神 だった。噂をすれば影、とかそんな感慨を抱いている 余裕はない。
 いやいや、本気で怖いし、洒落にならない。
 何で僕の家を知っている? ストーカー?

 まて、まてまて。まだそうと決まったわけじゃな い。
 そう、例えば……例えばなんだよ?!
 家に押しかけられる時点でまともな状況じゃないだ ろ――

「っ?!」

 顔面に鈍い衝撃が走る。そのまま勢いに負けて後ろ に倒れ込み、腰を強かに打ちつけた。
 それが開いたドアに顔面を強打されたせいだと気付 いたのは、魚眼レンズ越しではなく肉眼で自称死神の 美麗で引き込まれそうな笑顔を見た後だった。

 鍵、閉め忘れていたらしい。

「おや、悪いことをした。すまない君」

 春先の夜という事もあり少し冷えるせいなのか、昼 間の豪奢な黒いドレスの上にデニムのジャケットを着 込んだ彼女は、少しもすまなさそうにしていないま ま、僕にそう言った。
 相も変わらずヘッドホンを付けたままなのだが、い ったい何を聞いているのだろうか?


「な、なんでここに?」
「うん。君は言ったろう? コレの言う事が信じれない と。なので君が信じれるようにするにはどうすればい いかを考えていたのだよ」
「へ、へえ」
「そして名案を思い付いた」
「それは良かったですね」

 刺激しないように適当に話を合わせながら、痛む顔 面を手で覆う。生暖かい感触が伝った。鼻血だ。

「そう、良かっただろう? 君も信じれると思う」

 血だらけになった掌から、ことさら嬉しげな声を上 げた自称死神に視線を戻す。
 背筋が凍った。

 彼女が陶磁器のような白い手で、ジャケットのポケ ットから刃渡り10cmばかりの折り畳み式ナイフを 取り出したからだ。

「うん。信じれると思うよ?」

 聖母のような慈悲に満ちた微笑みを称え、ナイフを 握りしめ彼女は、自称死神はそう言った。


********


「信じました」
「うん?」
「ええ、そうです。ここは地獄です。理解しました。 信じました。だから先ずはその刃物を収めてくださ い」
「うん?」

 ひんやりとした夜風が開け放たれたドアから侵入し てくる。肌寒いと感じるくらいに気温は低いようだ。
 でも汗がダラダラと流れ出てくる。もちろん、暑い わけではない。冷や汗だ。

 ギラリと獲物を睨みつけるように光るナイフに、僕 はすっかり従順になっていた。恥も外分もプライドも ない。根性無しだと罵られても構いやしない。

 だって怖いじゃん。
 いくら自分なんて死んでもいいとほざいたところ で、僕はナイフをちらつかされて、平然としていられ るような神経なんて持ち合わしちゃいない。情けない クソガキだと自分でも思うが、そんなに屹然と生きれ る(あるいは死ねる)なら、世界が嫌いなんて幼稚な 感情は最初から抱かないだろうさ。
 なんだったら今から命乞いをしても良い。土下座を しろと言われたら、世界土下座コンテストで上位入賞 できるほどの土下座を見せてやる。ともかく痛そうな のは勘弁だ。

「まあ、君が信じてくれたならそれでいいが」

 そう言った自称死神はあっさりとナイフを折り畳ん だ。
 だが、僕は警戒を解かない。解けない。不意を突い て彼女が襲いかかって来ても僕は何ら驚かない。そし てそのせいで明日新聞の隅っこに僕の名前が刻まれる 事になるのも想像に容易い。
 いや、昼間の彼女の行動と妄想癖を鑑みるに、新聞 の一面を飾るほどの猟奇に発展してしまうかもしれな い。レクター博士ばりの凶行を彼女が笑顔で行うのを 想像し、身震いする。
 僕にも人並みに高名心というものはあるが、そんな 風に有名になるのは出来れば辞退したい。

 どっちにしろ腰を強打したせいで、立ち上がれない のだが……。何があってもされるがまま。やっぱり土 下座しかないかな。上手くいけば同情を引ける。

 正しい土下座のポーズにどうにか体を変形させよう と僕が身じろぎし始めると、自称死神は僕の顔目掛け て手を伸ばしてきた。
 反射的に僕は目を閉じ顔を背ける。
 身の危険を感じたというよりは、ただ僕が情けない だけだ。

「うん。本当に悪い事をした」
「え?」
「血、止まらないな。コレもいささか興奮し過ぎたみ たいだ」

 夜風に当たっていたせいか少し冷えた細い手先が、 僕の頬を撫でる。
 自分の手で確認してみると、確かに今まで見たこと がないほどの量の血が鼻から流れ出しているようだっ た。大きな血管でも切ってしまったのかも。

「うん。悪い事をした」

 その言葉に、僕は何だか拍子抜けをしてしまった。
 彼女が常軌を逸した行動と言動をとっているのは変 わらない。危険人物でないと判断したわけでもない。

 でもさ、僕を気付かうように、自分の浅慮さを後悔 するように歪められた彼女の顔は、死神というにはあ まりにも人間の少女のそれに近くて。綺麗で。
 何よりも、彼女が僕のことを本気で心配しているよ うに見えた。

 だからって気を許す理由には程遠いだろうに。馬鹿 だな。僕は。

「あ、えと、取り敢えず部屋、上がりません? こんな 所でこんな格好で話すのも疲れますし」
「うん?いいのかい?」
「え、ええ。大丈夫ですよ」

 不用心過ぎるけど、でも、ここで彼女を追い返せる だけの度胸と言葉を僕は持てなかった。なんせ彼女は 刃物を持ってるし。

 それに、ひとつ気付いたこともあるんだ。彼女は人 間としては確かに常識外れで突拍子もないが、意志の 疎通がまともに出来ている。それは、自分の声しか聞 こえなくなった、メディアで聞き知る異常者とはまた 違う。

 もしかしたら、話を真面目にしてみる価値があるの かもしれない。あわよくば、相互理解の上で彼女を追 い返せるだろう。

 どうにか壁伝いに立ち上がり、床に血が垂れないよ うに鼻を押さえる。
 ああ、手にも血がついていたんだった。壁に赤黒い 手形ができてしまった。掃除を考えると憂鬱だ。

「適当に座っていて下さい。僕洗面所に行ってきます から」

 黒髪が揺れて小さな頭が頷くのを確認してから、洗 面所に向かう。

 鏡に映る僕の顔は鼻血のせいで血だらけになってい た。それに、よく見ると額にも青い痣が浮き上がって いる。腰にはまだ鈍い痛みがあるし、歩くのがやっと だ。
 軽く傷害事件じゃないのかこれは?

「……でも、ただ単に思い込みが強い、というのとは 少し違う気がするんだよな」

 冷水で血を洗い落としながら、呟いてみる。

 妄想癖を他人に押し付けるだけなら、何故僕に固執 する理由があるのだろうか?
 いや、固執とは少し違うか。僕を気にかける必要が あるのか? と言い変えた方が正しいだろう。

 妄想とは個人で完結するものだ。そこに他者の意見 なんて必要ない。僕が「自分は空を飛べる」と妄想し て、それが真実だと信じ込んだなら「それは間違い だ」と言う他人の声なんて聞きやしないだろう。だっ て妄想の中ではそれが揺るぎない真実だからだ。
 それが妄想という物だろう。

 僕が認めようと認めまいと関係なく、彼女の頭の中 では、彼女は死神で僕は死んで地獄にいるという結論 がでているはずだ。

 なら、何で彼女は僕にわざわざ認めさせようとした のだろうか?僕が信じていないという現実を許容し、 それを変えさせようと考えたのだろうか?

「……わかんね」

 どうせ他人の頭の中身をいくら考えても答えなんか 導きだせない。
 考える事を放棄。

 タオルで顔を拭き、そのままそれで鼻を押さえる。
 出血は大分止まってきているようだった。あれだけ 血を吹き出しておいてこうも早く回復するとは。すご いね。ビバ人体の神秘。

「お茶でもいれましょうか?」
「うん。いただこうかな」

 居間に戻ると、自称死神は大人しく椅子に腰掛けて いた。

「良い部屋だな」
「そうですか? まあ、高校生が住むには分不相応かな とは思ってます」
「うん? 不相応とは思わないさ。この部屋の主が君だ と聞いても違和感はない。家具や調度品のセンスも良 いし、綺麗に片づいていることにも好感が持てる」

 誉められてしまった。
 まあ、日頃から整理整頓をしていて良かったとは思 う。何だかんだ言っても、女性を部屋にあげているん だし、これでエロ本でも散乱していたら格好が付かな い。

 お湯を沸かすために、ヤカンをコンロの上に置き火 を着ける。
 ふと、視線を感じたので後ろを振り返ると、その視 線は僕が鼻を押さえているタオルへ向けられていた。

「鼻、平気か?」
「血は止まりましたし、痛みも引いたんで、大丈夫で すよ」

 沸かしたお湯で緑茶を入れ、お客様用の湯飲みがな いのでマグカップに淹れて差し出す。
 「ありがとう」と両手でそれを受け取った彼女は良 い感じに落ち込んでいるようだった。
 冷静であれば話もしやすいだろう。
 また刃物を出されたら堪らない――そういえば彼女 はあのナイフで何をするつもりだったのだろうか?よ く考えれば僕が刺されると決まったわけでもないじゃ ないか。
 そう、例えば……例えば鉛筆を削るとか?
 ごめん今の無し。この「例えば」という言葉を使っ た思考の導き出し方は僕の貧困な想像力を露呈するだ けなようだ。以後使わないようにしよう。

 よし、聞こう。このさいだから直接聞いてしまった 方が早い。

「さっきのナイフ、何に使うつもりだったんです か?」
「君に自殺してもらおうと思ってね」

 あ、やっぱり僕が刺される事になるのは変わらない のか。

「自殺って、何でまた?」
「君は本当に察しが悪いな」
「……よく言われます」
「つまりだよ? 君がコレの言う事を信じるには、この 世界が地獄だという事を証明してやるのが何よりも早 いとコレは考えたのだよ。これが死神だという事もそ うすれば逆説的に理解できるだろう?君の地獄を知る 者は君の死神であるコレ以外にいないのだから。そし て君が自殺をしても地獄に――つまりこの世界にしか 逝けないことを考えると、もう一度自殺してもらって この世界を廻ってみれば自然と理解できるわけだよ」

 言い終わると彼女は両手で包むように持ったお茶を チビチビと飲み始める。僕はその動作に見惚れつつ、 その言動の物騒さを改めて実感していた。

「え、えっと?つまり自殺して1回死んで、それでも 僕がこの世界に生きていれば、この世界が地獄だと証 明されると?」
「うん。そういう事だ」

 危なっ!!
 自分の妄想で人に自殺をさせようとするとは、やっ ぱりとんでもない危険人物ではないだろうか? 警察に ばれれば、即刻自殺教唆の罪で逮捕だよ?6ヶ月以上 7年以下の懲役又は禁錮刑ですよ? 感傷なんかで家に あげてる場合じゃなかった。そんな甘い人じゃ無かっ たよ。
 いやいや、というか彼女が危険人物なのは嫌という ほど味わってるじゃないか。今更それについて騒いだ ところでどうしようもない。それよりもどうすればお 引き取りを願えるか、あわよくば縁を切れるかを考え た方が良い。

「まあ、君はもうコレの言った事を信じてくれたみた いだからね。その必要もなくなってしまったけど」

 僕の考えを知ってか知らずか、彼女は微笑みながら そう言った。
 そうだ。僕は彼女の妄想を信じたことになっている のだった。やけくそで出た言葉がこうも役に立つとは 思いもしなかった。
 ともかく今は信じたふりをしておこう。明日以降彼 女が僕の前に現れるかなんて分かんないし、この現状 を乗り切れば警察に相談するとかいくらだって方法は ある。

 よし、じゃあ後はどうやったら彼女にお引き取りい ただけるかを考えるだけだ。と、

「うん。今日はもう失礼しよう。押しかけておいて居 座るのも悪いだろうし」

 あっさりと彼女は腰を上げた。

「あ、そうですか?」

 何とも肩透かしをくらった気分だ。
 いや、歓迎すべきことなのだろうけどさ。

 何の迷いもなく、彼女は玄関へ向かう。

「お茶ごちそうさま。すまなかったね」
「いえ、あ、送っていきましょうか?」
「うん?では甘えようかな」

 外へ出かけて、僕の言葉に嬉しそうに彼女は振り返 る。
 しまった。
 社交辞令のつもりだったんだけど。
 失敗した。


********


 やはり外は思いのほか冷え込んでいた。
 この分だと桜が咲くのももう少しかかりそうだ。と 通りがかった公園に植えてある桜並木を見て感じる。
今僕たちは近くの駅に向けて黙々と歩いている。電車 に乗ってどこかへ帰る死神とは、少し微笑ましいもの があるな。口にはしないけど。

 それにしても、夜風に当たり、冷えた頭でもう一度 考えてみるとこの自称死神の妄想は一本筋道だっては いないだろうか?
 それが信じるに値しないという結論は同じだけど、 フィクションとしては面白い。彼女の妄想は、結局の ところ妄想だけど、けして支離滅裂ではない。彼女独 自の理論によって独自の世界が創られているという か。
 何が言いたいのか分からなくなってきたけど、つま り僕は彼女の妄想に不思議と興味がわき始めていたと いう事だ。
 信じやしないけどね。

「うん。やっぱり冷えるな」
「そうですね、春とはいえまだ夜は寒いですね」
「でも、嫌いではないな。この季節の変わり目という ものは」

 腕を抱きながら感じる温度を愛しむように彼女は微 笑んだ。その顔は思いの外理知的だ。
 当然、僕は見惚れた。

 うん、聞いてみる価値はあるのかもしれない。
 僕は1つ質問をぶつけてみることにした。

「何故こんなにもこの世界は辛い所なんですか?」

 世間話を装って僕は切り出した。長年感じていた疑 問を。誰もがまともに取り合ってくれない戯言を。

 黒い双眸が僕の顔を覗き込む。

「それは“知るから”だよ。世界が辛いと知るから辛 くなる。この世は地獄だと知るから地獄になる。君が 昼に言っていた灼熱地獄。そこが地獄だと知らないも のには、到底地獄ではないだろう。君がこの世界が辛 いところだと知ってしまったからこそ、この世界は辛 いのだよ」

 なるほど、とんでもない屁理屈だが、何となく彼女 の妄想の片鱗を理解できた気がした。彼女はそう在る と考えることこそが大事だと思っているのかもしれな い。だから僕にわざわざ自分の妄想を信じさせようと したのかもしれない。

 やっぱりちょっと面白い。

 少なくとも僕の知る世界よりはずっと。

 そうこうしているうちに、駅に着いた。
 ドレスの裾を翻しながら、彼女は改札を軽やかに抜 けていく。
 ホームに上る階段の前で、くるりと振り返り一言。

「じゃあ、またな君」

 また。
 そう言われて、どう答えたものかと少し迷った。
 いっそのこと拒絶の言葉を返した方が楽であったの かも知れない。
 でも僕は、

「ええ、また」

 そう言って手を振り返していた。
 何というか、僕は本当に馬鹿だ。
 で、いつもならここで自己嫌悪に苛まれる。

 でも、なんだか、今はそんな気にならない。
 悪くない気分だった。

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