ニールの犠牲の甲斐あってか、仕事は予想以上に早く終わった。
そのまま寮内で食事を済ませ、俺は与えられた自室に戻っていた。
この寮内では一部屋につき二人が割り振られる。
狭苦しい空間に二段ベッドと机が二つ。ただそれだけの殺風景な部屋だ。
自分の城であるベッドの下に潜り込み、自前で用意していた電灯をつけた。
買っておいた雑誌を開き、読み進めていく。
「なあ、カイル。これ見てくれよ、うちの子の可愛さ」
と、そこでケイン先輩のにやけた顔が、俺の視界に現れる。
すでに布団に入っていたと思ったら、どうやら起きていたらしい。
「はいはい、可愛いですね」
「……見てねえじゃねえか」
二段ベッドの上から、彼は顔だけを覗かせている。
彼に視線を向けることなく、俺は次のページを開いていた。
「こら、カイル。俺の言うことが聞けないのか」
「はい、聞けません」
同居人である彼――仮にも先輩なのだが、俺はためらうことなくそう返した。
「なめやがって」
俺の一言が癇に障ったのか、先輩は俺の読んでいた雑誌を奪い取ってしまう。
そのまま雑誌を放り投げたかと思うと、俺の首にすっと手を回し、筋骨隆々とした二の腕で首を締め上げてくる。
「ちょ、ちょっと先輩……」
気道が狭まり、苦悶の声が自然と漏れた。
そんなこともお構い無しに、彼は俺をベッドから引きずり出す。
明らかに手加減されているとはいえ、その膂力はやはり凄まじい。
「ほら、ちゃんと見やがれ。そして俺の愛しい天使ちゃんの可愛すぎる姿を拝んで死んでしまえ!」
巻きついた腕を取り払おうとしても動かすことができない。
彼の手には小型の端末が握られていた。
片腕で俺の首を締めつつ、もう片方でそれを俺の顔面へと突きつけてくる。
「ほれほれほれ」
掌とほぼ同じサイズであるそれから液晶の画面が見えた。
腕を振りほどくことに必死で俺はそれどころではなかった。けれど、映っているものはしっかりと見えていた。
「ああっ! もうわかりましたよ! 見ればいいんでしょう、見れば!」
半ばやけになりながら吼えた。途端に先輩の腕から力が抜ける。
軽い咳が零れるとともに、俺は解放された首をさすった。
そのまま先輩の顔を睨みつける。満足そうな能面が、俺の瞳に突き刺さった。
その笑顔にどうしようもない怒りを覚えてしまった俺は、
緩みきったそれから視線を逸らし、端末の方に目を向ける。
幼い子どもとその母親と思わしき女性が、揃ってVサインをしていた。
「でよ。これ見てくれよ。この子が俺に書いてくれたんだよ。俺のためにだぞ? 嬉しいことしてくれるじゃないか」
先輩の操作により、映されていた画像が文面へと変わっていった。
『パパへ。このおてがみはちゃんととどいていますか? ナナはとってもげんきです』
先輩が見せてくれた文面には、そう書かれていた。
実の我が子からのメール。つたないながらも、どこか親しみを感じさせる文章。
先輩の頬が緩むのは当然なのだろう。
「そういや、先輩のお子さんって今いくつなんですか?」
「ん? 今年で四つだが」
もう四年になるのか、と俺は思った。このマザーウィルに派遣されて、今年で四年。
初めてこの部屋に案内されたとき、心の底から緊張していた俺がいた。
始まる新しい生活、新しい仕事。わずかな期待に胸が膨らむときもあれば、どうしようもない不安で押し潰されそうなこともあった。
そして決意を固め、扉を開けた瞬間、俺は部屋にいたケイン先輩に抱きしめられた。
不安、緊張。そんな些細な感情は、先輩の歓喜の声によって吹き飛んでいた。そのときの俺を支配していたのは困惑だった。
俺に抱きついてきた彼は、そのとき泣いていた。
わけがわからず問い質すと、彼は自分の子どもがたった今生まれたのだ、と言ってきた。
それからというもの、俺は何故か先輩に気に入られ、彼の一人娘であるナナの成長を、逐一見守る羽目になってしまった。
ほぼ毎日送られてくる彼女の画像を、先輩に無理矢理見せられ続け、そして四年もの年月が経っていた。
先輩の親馬鹿っぷりは、衰えるどころかむしろあのときよりも洗練されている。
とうの昔に飽きが来ていた俺とは違い、彼はまだまだ現役。
やる気のない俺は、あの手この手で仕掛けてくる先輩に、常日頃からつけ狙われている。
「もうそんなになるんですか。早いですね」
「子どもの成長は早いんだって。俺らだっていつのまにか年取ってるじゃねえか」
確かにそうだ。新人だった俺は、いつのまにか中堅となっており、
ベテランだった先輩は、今や有名人。それも万単位の人員を抱えるマザーウィルで名前が通るほどだ。
けれど、四年という歳月を重ねようとも、俺の心境はあのころと何も変わらない。変わったのは肩書きだけだ。
先輩と馬鹿なやりとりを交わす間の記憶しか、俺の頭に残るものはない。
裏を返せば、俺にはそれしかなかった。記憶の残滓が飛び交うだけで、俺の心はいつも空っぽのままだった。
ただ流れる日々を怠惰に過ごすだけの自分。
毎日自分の娘の成長に躍動する先輩が、俺には別次元の生き物に見える。
ケイン先輩という人間が、単純に羨ましかった。
「良いですね。仲良さそうなご家族で」
苦い感情が胸に広がり、俺はそれを吐き出すように呟いていた。
「何だよ。珍しく嫉妬してんのか? お前らしくないな。いつもの嫌味はどうしたよ?」
言い返す気力もなく投げ捨てられていた雑誌を拾う。
そのままベッドの上に腰を下ろして続きを読み始めようとする。
「そういやお前、あの可愛い彼女はどうしたんだよ。最近連絡取ってんのか?」
だが、追い討ちをかけるような一言が、俺の胸を焦がす。
「……あいつとは、もう別れましたよ。半年も前に」
先輩と目を合わすこともなく、そう吐き捨てる。
「マジか? 別れたのか?」
わずかな沈黙のあとで、先輩がそう聞いてきた。無言でうなすく。
「そうか。……どうしてだ?」
「『もう耐えられない』そう電話で言われて、それっきりです」
マザーウィルで働くことになったと告げたとき、彼女は「ずっと待っている」と言ってくれた。
会える機会は一年で数回あるかないか。
けれども彼女は、生死と隣り合わせの場所で働く俺を、それでも待つと言ってくれた。
だが四年という歳月は、想像以上に彼女を傷つけていた。マザーウィルに火の粉が降りかかるたびに、
彼女は俺の身を案じていてくれたのだと言う。それこそが彼女の心を蝕んでいく元凶だった。
そして俺は、それに気づくことができなかった。彼女は俺を愛してくれていたのだ。
だからこそ、彼女は別れると言ってきた。受話器の向こうで泣きながら話す彼女に、俺は慰めの言葉すらかけてやれなかった。
彼女の愛に応えること。それはつまり、この仕事をやめること。
愛と仕事。その両方を天秤にかけたとき、傾いたのは仕事のほうだった。
「俺はケイン先輩のように、この仕事に誇りなんか持てない。それは今だって変わっていません」
BFFに入社が決まったときから、俺は企業の奴隷となった。
国家解体戦争やリンクス戦争、発見されたコジマ粒子によって開発された新型兵器――ネクスト。
それらが生み出したものは、平和でも革新でもない。ただの破壊でしかなかった。
人々の生活基盤は、パックスと呼ばれる行政体制に委ねられた。限られた資源の節度ある再分配。
そんな体のいい言葉の中にあったのは、明確な階層化システムにおける奴隷制度に等しかった。
そして、俺がまだ小さいころ、あのリンクス戦争が起こった。
数多の企業が崩壊、または体勢を維持できなくなるまでに疲弊し、勝利した企業もまた著しい消耗を被った。
パックスを支える企業の崩壊。コロニー内に住んでいた人々にとっては、それは唯一の支えを失ったのと同義。
極めつけは、ネクストを始めとする、コジマ技術を用いた兵器の大量使用。
その結果がもたらしたものは、深刻な環境汚染と、そして秩序の崩壊。
世界中に蔓延したコジマ汚染は、俺の家族にも例外なくその毒牙を向けてきた。
「妹さんの様子はどうなんだ?」
「別に。今も変わりませんよ。両親と一緒にクレイドルで穏やかに過ごしているはずです。時々電話もくれますので、問題はありません」
あまりの苦しさに耐えかねて、近くの川辺で汚れた水を飲んだことがある。そのときは三日三晩下痢が止まらなくなった。
汚染された劣悪な環境は、身体の弱かった妹にも容赦なく襲い掛かった。
妹が熱を出しても薬がなかった。咳き込む彼女を見守ることしかできなかった。
せめて栄養のある食べものを、と思っても、手元にあるのは配給されたわずかな食料だけ。
配給用の綺麗な水を求めて、毎日何時間も列に並んで水を得た。
順番を抜かしたという程度のことで殺し合いに発展したこともある。そういう連中をもう何度も見てきた。
家族を救うために、俺はなんとしてでも働かねばならなかった。
どんな劣悪な環境でも構わなかった。とにかく金が必要だったのだ。
そんなとき、俺はあの存在を知った。
コジマ粒子で汚染された地上からの避難を目的として建造された超大型航空機。
アルテリアと呼ばれる基幹インフラ施設からのエネルギー供給により、
高度七千メートルを半永久的に飛び続けるゆりかご。それはクレイドルと呼ばれていた。
しかし、俺たちはそのゆりかごに救いを求めることはしなかった。
この世界が乱れた根本の原因は、人口爆発における食料とエネルギーの慢性的不足にある。
クレイドル一機につき収容できる人間は、企業の発表によると最大二千万人。だが、当時完成していたクレイドルは二十機にも満たなかった。
単純計算で最大四億人。政府の要人や、医師や技術者など社会維持に必要な人材がまず優先的に選ばれ、次に金やコネを抱える人間が空へと上がる。
企業が提示した四億という数字はそれだけには留まらず、すべての人間に注目を集め、彼らの意識を空へと向けさせた。
実際、紛争や貧困であえぐ民衆にとっては、それはあまりにも少なすぎる確率。
泥水をすすって生きている貧しい人間が、空に上がることを望む。俺には傲慢に思えた。
けれど、企業側が提示した条件を見たとき、俺の考えは変わった。
リンクス戦争が終結してから以降、自社勢力を回復を迫られていた各企業は、
あるとき、条件つきでクレイドルへの優先的移住権を与えるという声明を出した。
条件は企業への就職。もちろんその雇用条件はすこぶる悪かった。
当然ながら賃金は低く、生活保障さえも十分ではない。
加えて、優先的に移住権を得るためには、より戦場に近い配置先を希望する必要があった。
後日示された募集要項には、戦闘員としてだけではなく、非戦闘員ですらも募集すると書かれていた。
同時に雇用者の家族も共に連れて行けるという文面がそこには追記されていた。
家族のために、そして妹のために。俺はその徴集に応じることを躊躇わなかった。
後に、逼迫した経営状況が生み出した愚行と批判されたその声明も、俺には関係がなかった。
入ってしまえば誰も文句は言えない。こうして俺はこのマザーウィルに奴隷として縛り付けられ、
その結果、ようやく家族の安寧を手に入れた。そして俺はそのためだけに、彼女という存在を犠牲にした。
家族への仕送りは絶対に欠いてはいけないもの。
妹や両親の生活は俺の双肩にかかっている。俺がやめてしまえば、それは家族そのものの基盤が崩れることを意味する。
それでも、俺の心には後悔の念しかない。
苦汁の選択を安易に選び取ってしまった自分、そして打開策を見出せなかった自分。
そんな自分をどうしても許せなかった。それは今も変わらない。
心が悲鳴をあげていた。荒れる感情をどうにか抑えようとする。
雑誌に書かれた文字など、頭に入るわけもなかった。
「なあ、お前最近休暇取ってないだろ?」
「ええ。取っても家に帰るだけですから。新年に少し取るくらいですよ」
先輩の唐突な質問にも、俺は努めて冷静に対応していた。
「この際だ。休暇取れよ。どうせ有給あってもまともに使ってないんだろ?」
ベッドの上から返ってきた言葉に、俺は無言を通した。返答を確かめようともせず先輩は続ける。
「この辺でパァっと使っちまえよ。そしたらさ。俺の家に来ないか? もちろん、お前が良かったらの話だが」
「何を言うかと思えば……」
突然の提案に、俺は持っていた雑誌を閉じて、ベッドの下から彼を覗き込んだ。
「先輩の家もクレイドル、ですか?」
「ああ、07だ」
寝転んでいた先輩がにやりと笑っている。
「お邪魔になると思うんですが」
「気にすんな。邪魔になるんだったら最初から誘わねえよ。ついでにお前の家族にも挨拶してこい」
どうするか真剣に悩んだ。俺なんかが先輩の家庭に転がりこんで本当に良いのだろうか。
ウジウジと悩むそんな俺に、彼ははっきりしろと言わんばかりの視線を向けていた。
「そうですね。一日くらいなら大丈夫、だと思います」
その視線に根負けし、俺はついに首を縦に振ってしまう。
一日だけ甘えよう、そう思った。迷惑になる前に退散し、あとの時間は実家で過ごせばいい。
季節はずれの帰省も、事情を話せば俺の家族もきっとわかってくれる。
「決まりだな」
俺の返事に、先輩の表情が喜悦に歪む。
「んじゃ、これ俺の家の住所と電話番号な」
待ちきれないといった表情を携えながら、俺にメモを渡すその様はまるで子どもだった。
いつだってこの人は、こういう無邪気さを忘れない。どうしてこの人はこんなにも明るく振舞えるのか。
「あの、ほんとにいいんですか?」
「しつこいぞ」
失言をたしなめられる。
「すいません」
それを最後に俺の中から疑いの感情が消えた。
「言っとくが、うちの娘はマジで可愛いからな?」
「はい。わかってます」
先輩の笑顔に釣られたのか、俺もついつい口元に微笑を作って、彼の軽口に乗る。
「惚れるなよ?」
が、あまり調子付かせるのも問題なので、それ以降はきちんと無視を貫いておいた。
出端をくじかれて不機嫌となった彼の顔を見るのは、妙に気分がよかった。