荷物を引きずり、空港から出ると、爽やかな日差しが俺を迎えてくれた。
ポケットからメモを取り出す。そこにはケイン先輩の住所が書かれている。
次に行くべき場所に見当をつけ、キャリーバッグを引きずりながら俺は歩き始めた。
瞼が重い。長旅の疲れだろう。だが、到着できただけでも御の字。
文句は言っていられない。
空港近くの駅に辿り着き、そこで電車を待った。
俺と同じようにバッグを抱えた人間が何人も見える。彼らとともに到着した電車に乗り込む。
進行方向にちょうど二人分の座席が均等に振り分けられていた。
窓際の席に腰を下ろし、隣の座席に荷物を置いた。客が乗った後でも空席が目立っていたから、俺の隣に人が座ってくることはまずない。
窓側に身体を預けて、俺は目を閉じ、深く息を吐く。
張り詰めていた緊張が徐々にほぐれていき、不安が期待へと変わっていくのがわかった。
ケイン先輩が休暇を取ってから数日後、俺にもようやく休みの許可が下りた。
一人しかいない部屋で荷物をまとめ、定期便に乗ってマザーウィルを後にする。ここまではそれほど問題にはならなかった。
厄介だったのは、クレイドルへとわたるための手続きだった。
何せ、俺の勤務先はアームズフォート。
領空内には、ノーマルですらまともに立ち入れないという重大拠点のため、そのチェックはかなり厳しい。
たった数メートル先に進むのに、何時間もターミナルで待たされる。
荷物検査はもちろんのこと、目つきの悪い係員に厳しい尋問までされた。
一番面倒なのがコジマ粒子汚染のチェックだ。棒のような器具で全身を舐めまわされ、不快でしかなかった。
仮にもBFF社員という俺の肩書きが、その苦痛な時間をさらに引き延ばしていた。
機密の塊であるマザーウィル勤務とあっては、さすがに周囲の目の色も変わる。
彼らの鋭い視線は十分すぎるほどわかる。機密に関わるものとして機密の保持は絶対。
少しでも漏らしてしまえば、当人はもちろんのこと聞いたものさえもが、処分の対象となる。
関係者もことごとく聴取を受け、怪しければ即拷問部屋行き。
顔の輪郭が変わるまでに殴られ、自白剤の大量投与で廃人と化す人間もいる。
機密の下では倫理観はごみと成り果てる。死ねば容疑者が減るため、むしろ都合が良い。
こうして目を閉じている俺の首にも、その爆弾つきの首輪ははめられている。
けれども、それを無理矢理外そうという気は俺にはなかった。
思考が深みにはまっていくのを実感し、俺は目を開けた。
電車はすでに発車しており、窓の外から街を一望できた。
広がる青い空は清々しく、穏やかな日差しは街の至るところに降り注いでいる。
だが、この空は偽物。クレイドルの天井に張り巡らされたスクリーンにより、擬似的に再現されたただのホログラフィである。
紛いものの空に、紛いものの日差し。だが不思議と嫌な気分はしなかった。
たとえ紛い物でも今俺の目の前にあるのは限りない真実に見える。
このゆりかごに込められた希望が、周りの光景を介して、俺の目に流れ込んでくるようだった。
電車を降りてすぐに目的の場所はあった。
改札を抜け、空高く聳えるビル街の中へと足を踏み込む。
周囲を軽く散策しながら、俺は目的のビルを探した。
壁の色が違うくらいで、どのビルも特徴と呼べる特徴がないため、見つけるまでにはそれなりの時間がかかった。
やむをえず、外で遊んでいた数人の少年たちに場所を尋ねると「ここがそうだ」という答えが得られた。
薄茶色の壁をしたビルで、他に比べれば高さはそれほどあるわけではなかった。
俺の実家より、はるかに豪勢である。いや、今にも崩れそうなあの安アパートに比べること自体が、このマンションに失礼なくらいである。
少年たちが指差したそのビルに向かい、俺はあらかじめ教えられていた部屋番号を、扉の前で押した。
「おう、今開ける」
一方的に馴染みのある声が、スピーカーから零れ、同時にカチリという金属音が聞こえた。
鍵の開いた扉をくぐり、落ち着いた橙色の電灯が照らすフロアに入る。
部屋番号の書かれた郵便受けが置かれ、その奥に上に昇るための階段が見える。
メモを片手にその階段を昇る。ちょうど三階に位置するところで、今度は廊下に出た。
ドアに書かれた部屋番号を元に、目的の番号を探していく。
近づいていくたびに、緊張が走った。メモに書かれた部屋番号を見つけても、俺はすぐには呼び鈴を押せなかった。
考えていた言葉を頭の中で復唱する。深く息を吐き、そして吐いた。
幾分か気持ちが楽になる。
「おう、よく来たな」
勢い良く扉が開き、私服姿の先輩と視線が合う。
「問題なく来れたか?」
「ええ、まあなんとか」
普段とは違う彼の姿に少し戸惑った。
「良いところに住んでますね。俺の実家とは大違いだ」
「そうか? 住んでみるとわかるが結構不便だぜ? 部屋も結構狭いしな」
正直な感想を漏らすと、彼は苦笑してそれに答える。
「パパ。この人だれー?」
可愛らしい声がしたかと思い、視線を下へと向ける。
そこにはケイン先輩の丸太のような足をつかむ少女がいた。
「おう、ナナ。この人がパパが言ってたお友達だよ」
少女の目はこちらに向けられている。警戒心からか、その目は鋭く細められていた。
そんな彼女の疑いの視線に気づいたのか、
「ほら、ちゃんと挨拶しろ」
と、先輩が嗜めるように言う。何故か俺に。
「こんにちはー」
理不尽な命令にも身体が勝手に反応していた。
「……こんにちは」
俺のぎこちない笑顔が気に入らなかったのか、少女の機嫌に変化は見られなかった。
そんなことなどいざ知らず、先輩は太腿にしがみついていた少女を優しく持ち上げる。
「ほら、さっさと入れよ。今、カレンが昼飯作ってるんだよ」
「あ、はい」
少女を抱えたまま、先輩が奥へと消えていく。俺は扉を潜り抜け玄関へと入った。
家族で撮ったのであろう写真などが廊下に飾られている。
「お邪魔します」
そこで俺は、かねてから頭にあった言葉をようやく口にした。
「ほら見てみろ、ナナ。パパはいつもあれに乗ってるんだぞー? どうだ、かっこいいだろ?」
廊下の奥から声が聞こえた。リビングだろうか。その声に従い、俺もその部屋へと足を踏み入れる。
薄緑色のカーテンがまず目を引き、白を基調としたテーブルやソファが置かれていた。
先輩と少女――ナナがソファに座っている。
ナナは自身の身長ほどの巨大なぬいぐるみにしがみつきながら、テレビをじっと眺めていた。
「……何見てるんですか」
俺の声に、二人が振り返った。次いで先輩が目を細める。
「ん? 『コロニーニュースヘッドライン』だよ。お前、まさか見てなかったとか?」
「いや、見ましたよ。見ましたけど、さすがに録画までは」
先輩たちが見ていたのは、先週放送された番組の録画だった。
記念すべき初回放送は、俺たちの乗るマザーウィルの特集が組まれていた。
確か、年配の軍事評論家が、マザーウィルについて熱く語るという内容だったはずだ。
「……見れなかったんだよ、俺は」
先輩が苦々しく呟く。
「あらら、マジですか。それはお気の毒に」
「けっ」と先輩が不機嫌そうに喉を鳴らした。
そういえば先週といえば、先輩が休暇を取ったころと重なる。
彼が知らなかったとは考えにくい。おそらく断腸の思いで観賞を断念したのだろう。
苦悶に歪む先輩の顔が簡単に想像できた。
俺が口元を緩めていたとき、先輩とともにテレビを眺めていたナナが、すっとこちらを向いた。
すると何を思ったか、彼女が俺のすぐ傍に寄ってくる。
「おてがみ!」
「え?」
片手に先ほど抱いていたぬいぐるみを持ち、そしてもう一方の手には、先輩のあの小型端末が握られていた。
「ナナね。これでね。パパにおてがみ書いてたの。ナナがこれにね、しゃべるとね。パパからへんじがくるの」
彼女の中で疑いが晴れたのだろうか、彼女はあどけない口調で俺にそう言ってくる。
「ナナとママだけができる魔法なんだよな」
「うん」
先輩の声に、ナナは笑顔でうなずく。
彼女の目線まで腰を落とした俺は、そのまま彼女の頭を撫でた。
「おてがみ。……そういうことですか」
「親と子どものコミュニケーションは欠かせないって、カレンが言うもんだからさ。試しにやってみたら、ナナのほうが夢中になっちまったらしくてな」
ナナが言うおてがみとは、端末に備わっている電子メールのことだろう。
幼い彼女は、それを一種の手紙と思っているようだ。
「そういうあなたも、まんざらではないくせに」
キッチンから先輩の奥さんが姿を見せる。
その両手には透明なガラスの皿が抱えられている。中身は溢れんばかりのサラダであった。
「いらっしゃい、カイルさん。よくこの人から聞かされています」
「い、いえ。こちらこそ!」
栗色の長髪に、清楚な顔立ち。エプロン姿で笑顔を振りまくその姿が、俺の胸を跳ね上げさせる。
「先輩にはいつもお世話になっています」
適切な言葉が見つからず、とりあえずの社交辞令を返すしかない。
「そう硬くなるな、カイル。お前のことは、人の話をろくに聞かない生意気な後輩だって、ちゃんとカレンにも伝えてある」
テレビを見ているはずの先輩がこちらを振り向くことなく言った。
「……お気遣いどうも」
「おう、気にするな。先輩として当然のことをしたまでだ」
その背中に向け、目一杯の殺意を投げてはみるが、手ごたえはまったくと言っていいほどなかった。
蛇口から水が零れてくる。水流は流し台に積まれた皿へと当たり、水飛沫を上げた。
カレンの腕がバチャバチャと音を立てていたその中へと伸びる。山積みの食器類の中から皿を取った彼女は、
洗剤つきのスポンジで、こびりついた汚れを落としていく。跳ねる飛沫にも彼女はまったく動じない。
洗い終わったその皿を彼女が俺に手渡してくる。
受け取った俺はそれを布巾で軽く拭き取ると、あらかじめ指示されていた場所に置く。
ただ拭き取るだけなのに、俺の周りにはまだ水滴がついた食器類が溜まっている。
何度も片しても量が減らない。それだけカレンの手際が良いのか、それとも俺の効率が悪いのか。
カレンの手際の良さに俺は見惚れる。そのわずかな合間に、皿がもう一枚追加されていた。
「さてと。あ、残り手伝いますね」
洗いものを全て片付けたのか、カレンが俺の周りに積まれた食器に手を伸ばしてくる。
「すいません」
苦笑いを浮かべながら、軽く詫びを入れる。
自分の手際の悪さには絶望するしかない。
「こら、ナナ。フォークの持ち方が違うだろう? ここを握るんだ。いいね」
隣のリビングから、先輩の声が聞こえてくる。
あの演説とは違う、優しく諭すような声だった。
「トマトもちゃんと食べるんだぞ。ほら、あーん」
甘ったるいその口調は、俺に違和感しか感させない。
これがあのケイン・ロジャーか、と思わせるほど。実に気持ちが悪い。
「あー駄目だろ! ほっぺたがソースまみれじゃないか。ほら、こっち向いて」
身体がむず痒くなるような言葉の応酬に、聞いている俺がどうにかなりそうだった。
「そんなに違います? 仕事先のあの人は」
俺の様子を見ていたのか、カレンが笑いながらそう聞いてきた。
「なんというか、ギャップがすごいです」
彼女は笑った。
「私にはあれが普通なんですよ。一体あの人は向こうで何をしているんです?」
「怒鳴ったり、怒鳴ったり、怒鳴ったりです」
「ああ、そういう仕事なんですね」
先輩もそうだが、このカレンという女性も掴みどころのない女性である。
食事をご馳走になり、軽い身の上話を交わして、わかったこと言えば、恐ろしく料理が上手いということだけ。
彼女が振舞ってくれた料理はまさに格別だった。メインのパスタはその中でも段違い。
濃厚なホワイトソースがパスタに絡み、添えられたベーコンと胡椒が味をさらに引き立てる。
口に入れたときのあの食感は、今もの俺の舌に残り続けているくらいだ。
「先輩は、本当にいつもあんな感じなんですか?」
皿を拭く作業を終え、俺は捲っていた袖を元に戻しながら彼女に聞く。
「ええ。帰ってきたときは、いつもナナと遊んでいますよ」
「先輩にメールを送ってますよね」
意図が読み取れないのか、彼女は俺の問いに首をかしげていた。
「おてがみ、とか言うやつです」
と、補足する。察してくれたのか、彼女の表情に温かみが帯びる。
「あの子はよく喋る子なんです。何か良いことがあれば、その度に私に話してくれるんです」
エプロンを外しながら、彼女は思い返すような口調で言う。
「それでも、あの子はいつも寂しそうでした」
そう言葉を重ねると、彼女の表情が微妙に曇る。俺はそこに彼女の苦労を垣間見た。
あの子はずっと父と触れ合う機会がなかった。周りは父という存在がいるのに、自分にはいない。
自分だけは持っていないという疎外感。父親がいない、ということで我慢してきたことも多いはず。
わずか四歳の少女が割り切れることではない。とても重い問題だ。
「そこで先輩にも伝えることにした、と」
彼女はうなずかなかった。
「あの子が話すことを私がメールに変換してあの人に送っています」
母と娘がそろって父からの返信を待っている光景が、俺の脳裏に宿る。
「すごいですね」
「いいえ、普通ですよ」
正直な感想に、彼女は微笑みながら首を振り、そう告げる。
「偏った愛情は、お互いのためにはなりませんから」
さも当然のように話す彼女は、正真正銘の母親なのだろう。
俺にはわからない。家庭など持ったことのない俺には、たぶん一生わからないことかもしれない。
「あの人の苦労は私が一番知っています。そんな人が自分の娘に顔も覚えてもらえないなんて、そんなの寂しいと思いません?」
まっすぐな彼女の視線は、一切揺らぐことなく注がれていた。
まるで、それは自分たちが幸福であると告げているように見えた。
その幸福すら知らない俺は、返すべき言葉を何一つ見つけられなかった。
母の威厳を滲ませる彼女と、その隣でわが子と戯れる先輩。俺は彼らに対し、ただ憧れを覚えることでしかできなかった。