In mother's will TOP

03.


荷物を引きずり、空港から出ると、爽やかな日差しが俺を迎えてくれた。 ポケットからメモを取り出す。そこにはケイン先輩の住所が書かれている。 次に行くべき場所に見当をつけ、キャリーバッグを引きずりながら俺は歩き始めた。

瞼が重い。長旅の疲れだろう。だが、到着できただけでも御の字。 文句は言っていられない。

空港近くの駅に辿り着き、そこで電車を待った。 俺と同じようにバッグを抱えた人間が何人も見える。彼らとともに到着した電車に乗り込む。

進行方向にちょうど二人分の座席が均等に振り分けられていた。 窓際の席に腰を下ろし、隣の座席に荷物を置いた。客が乗った後でも空席が目立っていたから、俺の隣に人が座ってくることはまずない。

窓側に身体を預けて、俺は目を閉じ、深く息を吐く。 張り詰めていた緊張が徐々にほぐれていき、不安が期待へと変わっていくのがわかった。

ケイン先輩が休暇を取ってから数日後、俺にもようやく休みの許可が下りた。 一人しかいない部屋で荷物をまとめ、定期便に乗ってマザーウィルを後にする。ここまではそれほど問題にはならなかった。

厄介だったのは、クレイドルへとわたるための手続きだった。 何せ、俺の勤務先はアームズフォート。 領空内には、ノーマルですらまともに立ち入れないという重大拠点のため、そのチェックはかなり厳しい。

たった数メートル先に進むのに、何時間もターミナルで待たされる。 荷物検査はもちろんのこと、目つきの悪い係員に厳しい尋問までされた。 一番面倒なのがコジマ粒子汚染のチェックだ。棒のような器具で全身を舐めまわされ、不快でしかなかった。

仮にもBFF社員という俺の肩書きが、その苦痛な時間をさらに引き延ばしていた。 機密の塊であるマザーウィル勤務とあっては、さすがに周囲の目の色も変わる。

彼らの鋭い視線は十分すぎるほどわかる。機密に関わるものとして機密の保持は絶対。 少しでも漏らしてしまえば、当人はもちろんのこと聞いたものさえもが、処分の対象となる。 関係者もことごとく聴取を受け、怪しければ即拷問部屋行き。

顔の輪郭が変わるまでに殴られ、自白剤の大量投与で廃人と化す人間もいる。 機密の下では倫理観はごみと成り果てる。死ねば容疑者が減るため、むしろ都合が良い。

こうして目を閉じている俺の首にも、その爆弾つきの首輪ははめられている。 けれども、それを無理矢理外そうという気は俺にはなかった。

思考が深みにはまっていくのを実感し、俺は目を開けた。 電車はすでに発車しており、窓の外から街を一望できた。

広がる青い空は清々しく、穏やかな日差しは街の至るところに降り注いでいる。 だが、この空は偽物。クレイドルの天井に張り巡らされたスクリーンにより、擬似的に再現されたただのホログラフィである。

紛いものの空に、紛いものの日差し。だが不思議と嫌な気分はしなかった。 たとえ紛い物でも今俺の目の前にあるのは限りない真実に見える。 このゆりかごに込められた希望が、周りの光景を介して、俺の目に流れ込んでくるようだった。

電車を降りてすぐに目的の場所はあった。 改札を抜け、空高く聳えるビル街の中へと足を踏み込む。

周囲を軽く散策しながら、俺は目的のビルを探した。 壁の色が違うくらいで、どのビルも特徴と呼べる特徴がないため、見つけるまでにはそれなりの時間がかかった。

やむをえず、外で遊んでいた数人の少年たちに場所を尋ねると「ここがそうだ」という答えが得られた。 薄茶色の壁をしたビルで、他に比べれば高さはそれほどあるわけではなかった。

俺の実家より、はるかに豪勢である。いや、今にも崩れそうなあの安アパートに比べること自体が、このマンションに失礼なくらいである。 少年たちが指差したそのビルに向かい、俺はあらかじめ教えられていた部屋番号を、扉の前で押した。

「おう、今開ける」

一方的に馴染みのある声が、スピーカーから零れ、同時にカチリという金属音が聞こえた。 鍵の開いた扉をくぐり、落ち着いた橙色の電灯が照らすフロアに入る。

部屋番号の書かれた郵便受けが置かれ、その奥に上に昇るための階段が見える。 メモを片手にその階段を昇る。ちょうど三階に位置するところで、今度は廊下に出た。

ドアに書かれた部屋番号を元に、目的の番号を探していく。 近づいていくたびに、緊張が走った。メモに書かれた部屋番号を見つけても、俺はすぐには呼び鈴を押せなかった。

考えていた言葉を頭の中で復唱する。深く息を吐き、そして吐いた。 幾分か気持ちが楽になる。

「おう、よく来たな」

勢い良く扉が開き、私服姿の先輩と視線が合う。

「問題なく来れたか?」
「ええ、まあなんとか」

普段とは違う彼の姿に少し戸惑った。

「良いところに住んでますね。俺の実家とは大違いだ」
「そうか? 住んでみるとわかるが結構不便だぜ? 部屋も結構狭いしな」

正直な感想を漏らすと、彼は苦笑してそれに答える。

「パパ。この人だれー?」

可愛らしい声がしたかと思い、視線を下へと向ける。 そこにはケイン先輩の丸太のような足をつかむ少女がいた。

「おう、ナナ。この人がパパが言ってたお友達だよ」

少女の目はこちらに向けられている。警戒心からか、その目は鋭く細められていた。 そんな彼女の疑いの視線に気づいたのか、

「ほら、ちゃんと挨拶しろ」

と、先輩が嗜めるように言う。何故か俺に。

「こんにちはー」

理不尽な命令にも身体が勝手に反応していた。

「……こんにちは」

俺のぎこちない笑顔が気に入らなかったのか、少女の機嫌に変化は見られなかった。 そんなことなどいざ知らず、先輩は太腿にしがみついていた少女を優しく持ち上げる。

「ほら、さっさと入れよ。今、カレンが昼飯作ってるんだよ」
「あ、はい」

少女を抱えたまま、先輩が奥へと消えていく。俺は扉を潜り抜け玄関へと入った。 家族で撮ったのであろう写真などが廊下に飾られている。

「お邪魔します」

そこで俺は、かねてから頭にあった言葉をようやく口にした。

「ほら見てみろ、ナナ。パパはいつもあれに乗ってるんだぞー? どうだ、かっこいいだろ?」

廊下の奥から声が聞こえた。リビングだろうか。その声に従い、俺もその部屋へと足を踏み入れる。 薄緑色のカーテンがまず目を引き、白を基調としたテーブルやソファが置かれていた。

先輩と少女――ナナがソファに座っている。 ナナは自身の身長ほどの巨大なぬいぐるみにしがみつきながら、テレビをじっと眺めていた。

「……何見てるんですか」

俺の声に、二人が振り返った。次いで先輩が目を細める。

「ん? 『コロニーニュースヘッドライン』だよ。お前、まさか見てなかったとか?」
「いや、見ましたよ。見ましたけど、さすがに録画までは」

先輩たちが見ていたのは、先週放送された番組の録画だった。 記念すべき初回放送は、俺たちの乗るマザーウィルの特集が組まれていた。 確か、年配の軍事評論家が、マザーウィルについて熱く語るという内容だったはずだ。

「……見れなかったんだよ、俺は」

先輩が苦々しく呟く。

「あらら、マジですか。それはお気の毒に」

「けっ」と先輩が不機嫌そうに喉を鳴らした。 そういえば先週といえば、先輩が休暇を取ったころと重なる。

彼が知らなかったとは考えにくい。おそらく断腸の思いで観賞を断念したのだろう。 苦悶に歪む先輩の顔が簡単に想像できた。

俺が口元を緩めていたとき、先輩とともにテレビを眺めていたナナが、すっとこちらを向いた。 すると何を思ったか、彼女が俺のすぐ傍に寄ってくる。

「おてがみ!」
「え?」

片手に先ほど抱いていたぬいぐるみを持ち、そしてもう一方の手には、先輩のあの小型端末が握られていた。

「ナナね。これでね。パパにおてがみ書いてたの。ナナがこれにね、しゃべるとね。パパからへんじがくるの」

彼女の中で疑いが晴れたのだろうか、彼女はあどけない口調で俺にそう言ってくる。

「ナナとママだけができる魔法なんだよな」
「うん」

先輩の声に、ナナは笑顔でうなずく。 彼女の目線まで腰を落とした俺は、そのまま彼女の頭を撫でた。

「おてがみ。……そういうことですか」
「親と子どものコミュニケーションは欠かせないって、カレンが言うもんだからさ。試しにやってみたら、ナナのほうが夢中になっちまったらしくてな」

ナナが言うおてがみとは、端末に備わっている電子メールのことだろう。 幼い彼女は、それを一種の手紙と思っているようだ。

「そういうあなたも、まんざらではないくせに」

キッチンから先輩の奥さんが姿を見せる。 その両手には透明なガラスの皿が抱えられている。中身は溢れんばかりのサラダであった。

「いらっしゃい、カイルさん。よくこの人から聞かされています」
「い、いえ。こちらこそ!」

栗色の長髪に、清楚な顔立ち。エプロン姿で笑顔を振りまくその姿が、俺の胸を跳ね上げさせる。

「先輩にはいつもお世話になっています」

適切な言葉が見つからず、とりあえずの社交辞令を返すしかない。

「そう硬くなるな、カイル。お前のことは、人の話をろくに聞かない生意気な後輩だって、ちゃんとカレンにも伝えてある」

テレビを見ているはずの先輩がこちらを振り向くことなく言った。

「……お気遣いどうも」
「おう、気にするな。先輩として当然のことをしたまでだ」

その背中に向け、目一杯の殺意を投げてはみるが、手ごたえはまったくと言っていいほどなかった。




蛇口から水が零れてくる。水流は流し台に積まれた皿へと当たり、水飛沫を上げた。 カレンの腕がバチャバチャと音を立てていたその中へと伸びる。山積みの食器類の中から皿を取った彼女は、 洗剤つきのスポンジで、こびりついた汚れを落としていく。跳ねる飛沫にも彼女はまったく動じない。

洗い終わったその皿を彼女が俺に手渡してくる。 受け取った俺はそれを布巾で軽く拭き取ると、あらかじめ指示されていた場所に置く。

ただ拭き取るだけなのに、俺の周りにはまだ水滴がついた食器類が溜まっている。 何度も片しても量が減らない。それだけカレンの手際が良いのか、それとも俺の効率が悪いのか。 カレンの手際の良さに俺は見惚れる。そのわずかな合間に、皿がもう一枚追加されていた。

「さてと。あ、残り手伝いますね」

洗いものを全て片付けたのか、カレンが俺の周りに積まれた食器に手を伸ばしてくる。

「すいません」

苦笑いを浮かべながら、軽く詫びを入れる。 自分の手際の悪さには絶望するしかない。

「こら、ナナ。フォークの持ち方が違うだろう? ここを握るんだ。いいね」

隣のリビングから、先輩の声が聞こえてくる。 あの演説とは違う、優しく諭すような声だった。

「トマトもちゃんと食べるんだぞ。ほら、あーん」

甘ったるいその口調は、俺に違和感しか感させない。 これがあのケイン・ロジャーか、と思わせるほど。実に気持ちが悪い。

「あー駄目だろ! ほっぺたがソースまみれじゃないか。ほら、こっち向いて」

身体がむず痒くなるような言葉の応酬に、聞いている俺がどうにかなりそうだった。

「そんなに違います? 仕事先のあの人は」

俺の様子を見ていたのか、カレンが笑いながらそう聞いてきた。

「なんというか、ギャップがすごいです」

彼女は笑った。

「私にはあれが普通なんですよ。一体あの人は向こうで何をしているんです?」
「怒鳴ったり、怒鳴ったり、怒鳴ったりです」
「ああ、そういう仕事なんですね」

先輩もそうだが、このカレンという女性も掴みどころのない女性である。 食事をご馳走になり、軽い身の上話を交わして、わかったこと言えば、恐ろしく料理が上手いということだけ。

彼女が振舞ってくれた料理はまさに格別だった。メインのパスタはその中でも段違い。 濃厚なホワイトソースがパスタに絡み、添えられたベーコンと胡椒が味をさらに引き立てる。 口に入れたときのあの食感は、今もの俺の舌に残り続けているくらいだ。

「先輩は、本当にいつもあんな感じなんですか?」

皿を拭く作業を終え、俺は捲っていた袖を元に戻しながら彼女に聞く。

「ええ。帰ってきたときは、いつもナナと遊んでいますよ」
「先輩にメールを送ってますよね」

意図が読み取れないのか、彼女は俺の問いに首をかしげていた。

「おてがみ、とか言うやつです」

と、補足する。察してくれたのか、彼女の表情に温かみが帯びる。

「あの子はよく喋る子なんです。何か良いことがあれば、その度に私に話してくれるんです」

エプロンを外しながら、彼女は思い返すような口調で言う。

「それでも、あの子はいつも寂しそうでした」

そう言葉を重ねると、彼女の表情が微妙に曇る。俺はそこに彼女の苦労を垣間見た。

あの子はずっと父と触れ合う機会がなかった。周りは父という存在がいるのに、自分にはいない。 自分だけは持っていないという疎外感。父親がいない、ということで我慢してきたことも多いはず。 わずか四歳の少女が割り切れることではない。とても重い問題だ。

「そこで先輩にも伝えることにした、と」

彼女はうなずかなかった。

「あの子が話すことを私がメールに変換してあの人に送っています」

母と娘がそろって父からの返信を待っている光景が、俺の脳裏に宿る。

「すごいですね」
「いいえ、普通ですよ」

正直な感想に、彼女は微笑みながら首を振り、そう告げる。

「偏った愛情は、お互いのためにはなりませんから」

さも当然のように話す彼女は、正真正銘の母親なのだろう。 俺にはわからない。家庭など持ったことのない俺には、たぶん一生わからないことかもしれない。

「あの人の苦労は私が一番知っています。そんな人が自分の娘に顔も覚えてもらえないなんて、そんなの寂しいと思いません?」

まっすぐな彼女の視線は、一切揺らぐことなく注がれていた。 まるで、それは自分たちが幸福であると告げているように見えた。

その幸福すら知らない俺は、返すべき言葉を何一つ見つけられなかった。 母の威厳を滲ませる彼女と、その隣でわが子と戯れる先輩。俺は彼らに対し、ただ憧れを覚えることでしかできなかった。



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