ARMORED CORE Stay Alive TOP

25.


全身が総毛立つ思いだった。自分が今何をしているのか、しようとしているのか。己の軽率な行動をこれほどまで後悔したことはない。
スローで再生される目の前の現実にユエルは息を呑む。誰も見向きもしない物置から、まさかあのラスティが出てくるなど想像できる筈がない。
渾身の回し蹴りを見舞おうとした刹那、中から現れたラスティ本人の顔を捉えた彼ルは、急ぎ振り上げた足を元に戻そうとする。


が、情け容赦なく振り上げたその左足は、もはや自分自身でも止められないほどに勢いを増しており、
さながら鞭のようにしなりながら、彼の意思を無視して、左足はラスティの鼻っ柱をへし折らんと猛進してしまう。


ユエルはぎゅっと目を閉じ、奇跡が起こることを願った。願ったところでこの先に起こる悪夢を回避できるとは不可能だろうが、
やらないよりは数段マシだった。するとどうだろう。予期していた衝撃が何故か伝わってこなかった。
本来なら履いているブーツと人の肉が擦れ合うのが普通だが、彼が感じた感触は空を切ったときに感じるそれであった。


願いが通じたのだろうか。と奇跡を信じながらゆっくりと目を開けるユエル。片足でバランスを取りながら左足を収めた彼の前にあったのは、
上体を逸らしながら、その回し蹴りを間一髪で避けていたラスティの、この世のものとは思えない怨念めいた瞳だった。

「……どういうつもりだ、これは?」
「な、な、な、何でお前が!」

ほぼ同時に彼らは言った。現れるはずのない場所から現れたラスティと、いるはずのないユエル。
互いの頭に疑問符が立つのは当然だった。しかし、猜疑に加えて理不尽な攻撃をくらいかけたラスティの語気が、ユエルよりも一枚上だった。
一段階上の次元から高圧的に問われ、ユエルは萎縮する。感謝すべきはラスティの超反応だった。


それがあればこその今だが、一歩間違えば彼でさえ病院送りになりかけないほどに、ユエルは本気だった。
拳銃の持ち合わせもなく、取って戻ってくるには遅すぎる。咄嗟の判断としては上々だろうと自己採点したのだが、結果はこれだ。
直撃を免れたのはまさに奇跡に近い。こんなことが起こる確率など、アリーナで行われている賭けを一ヶ月連続で的中させる確率より遥かに少ない。

「どういうつもりだって聞いてるんだよ、俺は。何でお前がここにいるんだ。しかもこんな時間に。どう考えても不自然だろう。加えて顔面狙いの回し蹴りだ? 朝の目覚めにしては洒落になっていないんじゃないかな、ユエル?」

にやりと笑いながらユエルの前につめよるラスティ。顔こそ歪んではいるが、彼は笑ってなどいない。
目尻を吊りあがらせ、指の関節を執拗に鳴らしている姿は、ユエルに過剰すぎるほどの防衛反応を生じさせる。

「ま、待て! 違う、違うんだ! 不可抗力だ不可抗力!」

手をバタバタと振りながら、必死の形相でラスティの進撃を阻もうとするユエル。
断頭台への階段を二段飛ばし、かつ軽快なステップで駆け上がろうとしている馬鹿。そんな自覚が彼にはあった。

「不可抗力、ねえ。そういや、どこぞの馬鹿が死ぬほど嫌ってたな、その言葉」
「は?」
「まあいい。で、ユエル。てめえは今崖に追い込まれてると思え。助かる方法は一つだけ。どうしてこんなところにいて、どうして俺に蹴りを入れたのか。誰もが納得できるだけの説明をしてみろ」

が、拳すら振り上げる構えすら見せず、彼は唐突にユエルに向かってそう言った。
妙に角が丸くなってしまったようなそんな彼に怯えながらも、ユエルは渋々と口を開く。

「わかったよ。えっと、知り合いの家に行ってたんだ。でも住んでたやつが熱出してて、顔見せるだけの予定だったけど、色々とあってな。結局、看病することにしたんだ」

ある意味独創的過ぎるセネカの料理感覚に呆れ果てながら、どうにか人に食べさせられるだけのものを作ったユエルだったが、
セネカのとある一言により、彼は日が沈むまであの住居に缶詰となることを余儀なくされてしまった。


この際面倒だから全員分の食事を作れ。それが彼女の命令だった。他に人もおらず、放っておけば、
自分を含めたすべての住人を、地獄へと突き落としかねない危険性を孕むのがセネカだ。
そんな狂気の沙汰が展開されることを思えば、ユエルはもう頷くほかに選ぶ道がなかった。
あの住まいに暮らすものたちの安寧のためだ。と自分にしつこく言い聞かせ、そして彼は男手一つで人数分の食事をなんとか揃えた。


十数人にも及ぶ少年少女がそれをガツガツと無慈悲にたいらげるころ、彼はソフィアの看病に忙しかった。
熱を測ると、まだ熱が下がっていなかった。彼はそして氷をありったけ布状の袋に詰め、さらに毛布で包んで簡易の氷枕を作る。
そしてそれを彼女の枕元に置いた。応急処置にもならないだろうが、やらないよりはマシだった。
応援を頼もうとも思いたびたび下を覗いてはみたが、セネカはセネカで下の子どもたちの相手に手一杯といった様子だった。


彼らが寝静まってからも、ユエルはソフィアの傍にいた。彼女もまた深い眠りについたところで、彼はようやく重い身体を持ち上げ、
今度は散乱した食器の片付けに取り掛かった。そのときだけはセネカも役に立ってくれたため、作業はすぐに終わった。


すべてを終えたところで、彼の疲れはピークに達していた。すでに日付はとうの昔に超えてしまっている。
時計が無慈悲な宣告を告げ、ユエルは鬱屈した気分を味わう。確か今日は、丸一日を整備作業で終える予定なのだ。


近くに椅子に腰掛けながら、彼はセネカにやりきれない想いを愚痴っていた。
適当な雑談をいくつか交わすだけでも時間は面白いように過ぎていった。結局、ソフィアの看病は交代でやることに決まった。
あとはひたすら沈黙との戦いだ。紅潮した肌のまま穏やかな寝息を立てるソフィアの寝顔をじっと見つめたまま、彼はただ時が過ぎるのを待った。

「それで朝帰りか?」

含みを持たせたラスティの一言が、ユエルの回想をぷつりと断ち切る。
何かを勘違いしていそうなラスティの怪しい視線を、否定するかのようにすぐにユエルは補足を加えた。

「そんなに睨むなって。ミーシャにばれるとさ。うるさいんだ、色々と。特に遅刻なんかもう最悪。だから今の内に帰ってきたんだよ」
「へえ」

セネカに断りを入れ、まだ日が昇りきる前に帰途に着いた理由を彼は嘘偽りなく話す。
元々体力が落ちている中に、お小言まで加わってはたまらない。被害を最低限度まで抑えようとした彼なりの策。

「で、どうやってここに入った? 入り口には全部警報装置が付いてるはずだ」
「……それは、だな」

だがそれが失言であるということに、彼はラスティの追求を聞いた直後に気づいてしまう。仮にもACという兵器を保管する施設。
それなりの防犯体勢が整っていることに奇妙な点はない。警報装置から監視カメラ、センサーの類は夜間の間は常に張り巡らされている。
そんな厳重な警備体制の中、正面から堂々と帰ってこれるはずがない。警備の全般をも担うラスティ本人が疑問に思うのもまた極自然な流れだろう。


だがそんな完璧に近い警備システムの致命的な抜け穴があることを知れば、彼はどういう反応を示すだろうか。
少なくとも事態が好転することは確実にない。未来は予知できないがそれだけははっきりとわかる。
もはや逃げ出す術も見当たらず、痛烈に睨んでくるラスティの視線に我慢できなくなったユエルは、遂に腹を括った。

「トイレの窓だよ。寮棟の二階の。あそこは鍵が壊れてるから。その、あれだ。いつでも出入り自由なんだ」

自分が壊したとは言わなかった。過去、用意された我が家というものに嫌悪感を抱いていたころに仕込んだもので、
端から見れば、異常などどこにもないと錯覚してしまうほどの微細な細工だ。
よほど細かく点検でもされない限り、露呈することはないと踏んでいたが、今の今までまさにその通りとなっていた。


二階の窓と言っても、全身のバネを利用し、周囲の障害物を利用すれば、よじ登ることはさして問題にはならない。
壁を蹴り、その反動で身体を跳ね上げる。そして窓枠のわずかな隙間に指をかけ、指の力のみで身体を支える。
そして空いた手で窓を数回強く叩けば、上手い具合に金具が緩み、窓はあっさりと開く。そういう仕組みだ。


振動や音を感知するセンサーがトイレにまで設置されていれば終わりだが、存在しないことは確認済みである。
窓が開けばあとは簡単だった。腕の力を目一杯使いながら、己の身体をその狭い窓の中に押し込める。
身体が半分まで入ればもう成功したも同然だ。残るは便座に手を置き、前転の要領で中へと転がり込めばいいだけである。

「で、監視カメラの記録も弄くろうとしたら、ここで物音がしたから――」

しかし、それだけでは足りない。油断してそのまま自室に戻ろうとすれば、翌日には監視カメラに自分の間抜け面がばっちりと晒される。
すでにその悪夢は経験済み。そのために彼は時折、制御室に忍び込んで記録改竄を図ろうとした。しかしこれも一度は失敗した。
パソコンを触ろうとした瞬間に警報を鳴ったのだ。そのときは忍び込んだことだけが咎められただけで、幸運にもトイレの細工が露見しなかった。


同じ失敗は繰り返さない。反省と改善を重ね、彼はそしてあるとき侵入から改竄までのプロセスを完遂した。
だからこそできる芸当だ。経験上、この手の行動は身体に染み付いている。いや、叩き込まれたというべきなのか。
とにかく彼は今日まさに同じことを実行した。が、成功の余韻に浸っていたまさにその時、通り道である物置から聞こえるはずのない物音が聞こえたのだ。

「だから侵入者と思った?」
「普通は、そう思うだろ? それで取り押さえようとしたら、お前が出てきた」
「なるほど」

顎に手をやり、何やら考え込むラスティ。じとりと嫌な汗をかきながらユエルはそれをじっと見つめ、ことの顛末を待った。

「ちなみに何回目だ? 成功した数だけでいい」
「……四回目」

厳重な警備の穴を見事に暴露したのだ。厳罰級の戒めはあって当然。一ヶ月ただ働きか、それとも一ヶ月食事抜きか。
いずれにしても、最悪極まりない仕打ちは覚悟するべきだろう。むしろ命すら危ういのではないか。
企業の存亡がかかる戦場に生身で放り出されるか、新兵器の破壊力を確かめる実験台にされるか。
ラスティがやけに考え込むがゆえに、ユエルの頭には様々な憶測が飛び交い、その一つ一つが彼の首を強烈に絞め上げていく。

「一ヶ月ただ働きは覚悟してるからさ、それで許してくれよ。頼む!」

これ以上、時間が経てば気が狂ってしまう。限界を超えたユエルはそして許容できる最低ラインの譲歩を示した。

「何だ、お前。いつからそんなこっちの経営に優しいこと言うようになったんだ。俺はまだ何も言ってないぞ」
「え、いやだって、お前だったら普通このくらいは、だな……」
「誰がそんな鬼のような真似するんだよ、誰が。俺みたいな心優しい人間に、そんな理不尽なことができると思うのか?」

大げさに両手を広げるラスティ。清廉潔白とでも言いたいのだろうが、
取り返しの付かない失言に逼迫するユエル本人にとっては、そんな動作は些細なものでしかなかった。

「まあ、お前が望むんだったら仕方ないよな。わかった。お前の願いを叶えてやろう。嬉しいぜ。これで給料が一人分浮くと思うと」
「ちょ、ちょっと待て! 今のは例えだ、例え! 違うぞ、絶対違うからな! だから……そんなことしないで下さい」

またしても失言。死刑台への階段を全速力で昇るだけでは飽き足らず、
自分の首に率先してロープを巻きつけ、さらに床までをも踏み破ろうとでも言うのかこの大馬鹿は。
心の中で早とちりを繰り返す自分の愚かさに辟易しつつ、彼は躊躇いなど欠片もない真っ正直な嘆願を叫び続ける。

「冗談だよ、馬鹿。その話はだな、ややこしくなるからまたの機会にでも置いておこう。とりあえず、お前の言い分には納得したことにしておいてやる」
「え?」

そんな彼を見てラスティはにやりと微笑み、そして言った。聞いた瞬間、ユエルは口を半開きにしたまま固くなってしまった。
散々焦らしたあげくの解答がこれ? とにかく願ったり叶ったりだが、手ごたえがまるで違う。この対応はいつものラスティのそれとは明らかに異質。
驚愕というよりも、むしろ不信感の色が濃くなり、ユエルは眉を細めながら、自分が思っているラスティという人物と目の前を男を照らし合わせる。

「それでラスティ。あんたはこんなところで何してたんだ?」

同時にこの瞬間を好機と見計らうや、ユエルはすかさず攻守を交代させた。

「何って。大事な相談に決まってるだろ。な?」

するとラスティは何故か部屋の中に向け声を発した。確かに人の気配がする。しかし何故今まで気づかなかったのか。
ユエルがいる方向から中の様子は完全な死角になっていたのも要因の一つだろうが、
ラスティという人間に蹴りを見舞ったという前代未聞の珍事で慌てふためいたのが、第三者の存在を認識できなかった最大の理由か。

「誰か他にいるのか?」
「ああ、いるぜ」

自己分析を終えたところで、ラスティもその存在を認めた。そして彼に手招きされながらゆっくりと長身の男が姿を表す。
自分と同じ黒髪、背丈はラスティと同程度。精悍な顔つきの割には、どこか親しみを感じてしまうように優しい顔立ちをした男だった。
しかし全身から迸る近寄りがたい雰囲気は、どこか意図的に人を遠ざけているようにも思えた。間違いなく同業者。ユエルは直感的にそれを悟る。

「っと、じゃあ俺はちょっくら出かけてくるわ」

こいつは誰だと問おうとしたまさにそのとき、答えるべきはずのラスティが、その役割を自ら放棄していた。
場の空気を完全に無視しているにもかかわらず、彼は他人を装うかのようにすたすたと歩き去っていく。

「お、おい? ちょっと待てって、こら! お前、どこに行くつもりだ。ラスティ!」

ユエルは当然吼えた。さすがにそれだけは無視するわけにはいかなかったのか、
彼はその制止を受けて振り返る。面倒極まりないといった鈍い表情を浮かべながら、

「煙草だよ煙草。どっかの馬鹿が最後の一本ふっ飛ばしやがったからな」

と、皮肉めいて言葉を発した。吹っ飛ばしたという発言に、当のユエルはまったく覚えがなかったが、
あのとき、紙一重で避けたラスティの口元から煙草がはみ出ていたと考えれば、それだけを吹き飛ばすことは十分にありえるのかもしれない。
勢いを殺すことだけに集中していたため、彼の口元まで見る余裕がなかったのだ。と、ユエルは心の中で言い訳をした。


だが、だからと言ってこの状況で一人勝手に離れるというのは言語道断だ。第一、こんな夜明けで店を開ける物好きな店員がどこにいる? 
付近の地図を頭に描き、そんな親切な心を持っている店がないことを再確認したユエルだったが、
当の本人は、そんなものどうでもいいと言わんばかりに、さらにユエルたちから離れていく。

「あ、そうだそうだ。おい、アゼル。そいつもヴィルゴに会ったらしい。話くらい聞いても損はないと思うぞ」

完全な死角に入る直前、ラスティは今までにない甲高い声で告げた。

「アゼル、だって?」

ユエルが敏感な反応を示すのは至って自然なことだった。思いがけない名を聞かされ、彼の視線は隣の憮然とした男に注がれる。
それがラスティを逃がす致命的な間となってしまった。気づいたときには既に遅く、ラスティの姿は跡形もなく消えていた。


またあの男の悪巧みか。どことなくからくりが読めてきたユエルは、アゼルと呼ばれた男を改めて眺めた。
彼もまたユエルをじっと見つめていた。驚きとも疑いとも取れる意味深な感情がその双眸の中で揺らめいている。
微妙な空気が数十秒ほど流れた。互いに初対面がゆえに気まずいらしく、中々最初の言葉が発せられないようだった。

「あんたがアゼル・バンガード? ランク三位の?」

悶々としたもどかしさに押し負け、最初に勇気を振り絞ったのはユエルだった。
ソフィアたちと話したときも困り果てたものだが、これもこれで難度が高い。徐々に動悸が激しくなっていくのが感じられた。

「そう、だが?」

無愛想という印象そのままの口調が返ってきた。機関銃のように喋りまくるセネカとはまるで正反対なタイプに、ユエルはやはり戸惑いを隠せなかった。
次は何を言うべきか。じわじわと焦りが生まれる。頭の中に浮かぶものと言えば「お元気ですか」や「調子はどうですか」ばかり。
焦れば焦るほどに、彼の中から語彙が消えていく。けれど、対処しようとするあまりにさらなる深みへと嵌まる。まさに悪循環だ。

「どこかで会ったことでもあるのか?」

言葉が続かないユエルを見かねてか、アゼルが言葉を重ねた。口振りから言えば、どうやら彼の頭にはユエルの記憶は存在しないらしい。
それもそうだ。仮にも上位ランカー、よほどのことがない限り、下位の連中など眼中に残らないのだろう。

「直接的にはこれが初めて、だと思う。でも、俺はあんたと戦ったことがある」
「いつ?」

わかってはいたが、やはり気分は晴れない。ユエルにとってのアゼルは、まさに忘れたくても忘れられない相手だったというのに。
レイヴンになって初めて、アリーナの上で死という概念を実感させられた相手。慈悲など一切加えない圧倒的な制圧力の前に、
ユエルは成す術なく屈し、そしてアリーナというステージにもかかわらず、自身の呪われた力を解き放った。


だが彼は敗北し、そのときの無理な挙動は彼を病院のベッドへと直行させた。力を最大限に行使しても届かなかった。
悔しさというものを身近に感じたのもあの試合が初めてかもしれない。することのない病室で幾度となく苦々しい思いに駆られたことは今でも覚えている。

「あんたがここに来て初めてやった試合。覚えてたらいいけど。俺はあのとき白いACに乗ってた」
「白いACだって……」

彼の発言が引き金となり、アゼルの表情にようやく反応と呼べるものが咲いた。
その変化はまさに劇的。最初の段階とはうって変わり、彼はユエルに向けて追求の眼光を突きつけてきた。

「まさかお前が、あのときのレイヴン?」

アゼルの突然の変貌にユエルはついていけず、ただ呆然と立ち尽くしてしまう。
無愛想というイメージが一瞬で瓦解し、眼前にはそれとはまるで違う堂々とした男が立っていた。


白いAC。それはまるで魔法の呪文のようにアゼルの心に入り込み、性質そのものを変えてしまったのだろうか。
その後の彼の口調は、少なくともユエルのことをようやく思い出したというような印象ではなかった。
まさか、この男も自分のことを覚えていた? 鼓膜に入ったその刺激を受け止め、ユエルは確信に近いものを芽生えさせる。

「そのときのこと覚えているか?」
「……あまり言いたくないけど。ああ。はっきりと覚えてる。でも、説明はできない。そういう質問はノーコメントで頼む」

一言一言を親身に聞き入るアゼルの姿に、ユエルはただならぬ不信感を抱く。
いつしか立場が対等になっている気さえした。アゼル側からはどういうわけか羨望の眼差しが飛んでくるのだ。
泣く子も黙るランカーが、ランクにすら掲載されることもない末端の一レイヴンを、どうしてこんな目で見るのか。


拝まれる自覚も心当たりないユエルには、何もかもが理解できない。利用価値のまったく見出せないこんな力などに何の意味があるのか。
常人よりは多少の無茶は許されているが、それでも好き勝手に暴れられるわけでもなく、
身体の許容範囲を逸脱するような暴挙を行えば、当たり前だが身体が保たない。彼自身が思う自らの力というのは、
所詮、身体の防衛過剰による反応性の向上程度だ。それで一体何ができる? 目の前のランカーにも届かないようなこの力で一体何ができる?


最悪最低の人生を歩んで得たそんな力よりも、天才というレールの上を順風満帆に渡ってきたと見えるアゼルの力のほうが遥かに上。
それは紛れもない事実だ。結果がすべてを証明している。やはり世の中は不公平。平等などという言葉は今すぐ焼却炉で燃やすべきだ。

「一つ、おかしなことを聞いていいか?」
「ああ」

ユエルが心の中でありったけの毒を撒き散らせていたことなどいざ知らず、アゼルは次なる問いを提示した。

「これまでに手術を受けたことはあるか? 種類は何だっていい」

もちろんユエルは予期などしていない。定期的に襲い掛かる焦燥に嫌気が差しながらも、
彼はじっと己の記憶を振り返り、さらに今までなぞったことのない領域にまで探索の手を広げてみた。

「……ないと思う。怪我なら山ほどあるけど」
「そうか」

だがそれでも、この男の望んだものをユエルは指し示すことができなかった。
落胆に包まれるアゼル。しかし彼は何を意図して聞くのだろうか。ユエルはわずかな間に推測を巡らせ、
そして先日ラスティが話していた強化手術のことを言っているのかと、彼は無意識のうちに一つの仮説を立てていた。


ユエルは手術というものにまるで縁がない。不本意ではあるが、怪我の応急処置は一通り叩き込まれているため、
怪我や軽い病気の処置も特に困ることがない。死に直結するような大怪我を負ったことも数えるくらいしかない。


無論、身体には痛々しい生傷は数多くある。だがどれも致命傷にはなりえないものばかり。成長に伴い、それもいくつかは目立たぬようにはなったが、
二の腕や肩を貫いた銃創や、腹部に残る肉を削がれた跡などは、未だにユエルの身体に二度と消えない烙印として刻まれていた。


そういう類の怪我を負う直前に、自分の力は発露するのかもしれない。自我すら保てなくなるほどの過剰な防衛力を発揮しているからこそ、
自分は死に繋がるような怪我を回避し続けることができたのだろうか。だから手術に対しての思い入れが限りなく薄くなっている。


予想外の方向からまさかの論理が立ち、ユエルは一人新たな発見に身体が熱くなるのを感じた。
しかし場違いにもほどがあったために、彼はすぐにそれを保留とし、あっさりと頭の端に追いやっていた。


アゼルの疑問は先の質問ですべて解決したと見てよかった。今度は俺の番かと自問したユエルは、

「もしかしてあんたもヴィルゴに会ったのか?」

と、次の瞬間にアゼルへ向けて聞いた。

「会った」

彼もまたその質問を待っていたかのように即答する。

「どういう状況で?」
「敵に殺されかけていたら突然現れた。結局、一方的に忠告だけして帰っていったが」

一瞬、理解に苦しむ単語がユエルの鼓膜を震わせる。するとどうだろう。アゼルともあろう男が弱気とも取れる雰囲気を迸らせていた。

「殺されかけた、だって?」

何かの聞き間違いだと自分に言い聞かせ、ユエルは再び問う。

「ああ」

だが、自信すら滲ませて断言してしまった。

「でも、どうして君がそんなことを聞くんだ?」

さらにアゼルの真意を問おうとした刹那、ほぼ同時に彼が口を開いてしまい、恐る恐る呟かれたユエルの言葉は、あっさりと覆い隠されてしまう。

「いや、俺の知り合いがヴィルゴを目の敵にしてるんだ。すぐに収まるかなとも思ってたんだが、悪いことに今でも恨んでる。俺はそれほど気にしていないんだけど」

引き締まった視線にユエルは妙な緊張を抱えていた。無言の圧力がユエルに圧し掛かる。
名も売れていないレイヴンが、何故執拗にヴィルゴのことを聞くのか。
確かに不自然なことではある。だが、ヴィルゴを執念深く追い続けるのは彼ではない。


犯人は言うまでもなくセネカだ。ソフィアを介抱していたあのときも、彼女にヴィルゴという言葉は禁句だと釘を差された。
ただ聞くだけで、はらわたが煮えくり返るというのだから、彼女にとってのヴィルゴとは、未だに悔恨の極みであるらしかった。

「俺もそのあたりが知りたい。君は、いや、えっと……」
「ああ、名前? ユエルだ。ユエル・ガナード」

不意に言葉を詰まらせるアゼルの姿がいつぞやの出来事と被る。そういえば、と心当たりを探し当てたユエルはそれに従い、自分の名を告げた。
お互い初対面のはずなのに、一方だけが一方だけの名前を知っているのは、今さらだが複雑な気分だった。


けれど、こうして名を名乗る機会ができたことが、互いの間に開いてしまった距離を縮めるものだとユエルには思えた。
しかも、業界きっての有名人に名を覚えてもらえる絶好の機会なのだ。ちりちりとした緊張感とは無関係に彼の心は躍っていた。

「なるほど。じゃあユエル。俺も同じことを聞こう。君と君の仲間――でいいんだな? 君らはどういう状況で奴に会ったんだ?」

気を抜けばすぐに顔が綻んでしまいそうな、危なっかしい綱渡りを続けながら、
いかにも落ち着いているような振る舞いを演じつつ、ユエルは口を開いた。

「変な依頼があったんだ。どっかの施設の護衛してくれって依頼があったんで、現地に行ったみたら、どういうわけかもうそこは全滅してた」
「それはどこだ?」

彼は見たものをありのまま伝えた。だが遠慮のない追求がさらに迫ってくる。少しむっとしてアゼルを軽く睨むと、
どんよりとした彼の目つきが、まず視界に飛び込み、その変化を垣間見たユエルはすかさず「何か知ってるのか?」と問いかける。

「その施設を破壊したのは、俺だ」

数秒の間を置いた後、さっきと変わらない落ち着いた口調のアゼルがそこにはいた。

「本当か、それ?」
「本当だ。ラスティからの情報筋で、俺が今探している連中がそこに現れると聞いて、襲撃した」
「それって、アーなんとかっていう奴らのこと?」
「……知っているのか?」

大雨の前触れのような雲行きだった彼の表情が、一時の静謐を突き破ったかのような変貌を遂げる。
かつてラスティに告げられた企業の名前を、試しに発してみただけなのだが、まさかここまで劇的な反応をされるとは思いもしなかった。
もはやうろ覚え程度でしか留まっていないその企業名。それはラスティだけではなく、アゼルの平常心すらも失わせるような効力を孕んでいるのか。

「いや、ラスティから名前だけ聞かされただけ」

追い縋ってきそうなほどに圧力を増したアゼルを前にして、ユエルは自分が無関係であることを説明した。
驚嘆の他に確かな敵意を彼の瞳から読み取っていたユエルにしてみれば、それは他の何よりも優先すべき事柄であった。

「奴は他に何か言っていたか?」
「深追いしたら殺すって脅された。ああ、もちろん関わる気なんてまったくないから、そこは安心してくれよ」

いつでも突沸しそうな男の体温を、言葉を選びながら慎重になだめていく。
以前にもラスティに諭された経験から、ユエルの中ではすでにこの手の事案を例外なく拒否するという決定がすでに成されている。
深入りしてもろくなことがない。自分のことで手一杯な現時に、他に関わっていられる余裕などどこにもない。それが真理だ。

「君は、あの男のお気に入りか何かなのか?」

刹那、突拍子もない言葉が耳を貫いた。何を言い出すかと思えば、思わぬ発言にユエルの目は丸くなる。

「お気に入り? 変な言い方だな」 
「……かもしれないな。だがさっきのやりとりを聞いていると、とてもただの上司と部下って関係じゃないような気がしたんだ」

指摘されて彼は初めて意識した。単なる一従業員でしかないユエルと直属の上司であるラスティ。
関係で言えばそれまでだが、出会いから今に至るまでの彼らの関わりは、それこそ密接と言わざるを得ないのか。

「あー、どうなんだろうな。自分じゃ考えたこともないよ」

戦うことしか刻まれていなかったユエルに整備士という働き口を与えたのもラスティであり、寝床や食事すらも彼がすべて用意してくれた。
レイヴンという副業を与えてくれたのも彼。いきなりAC一機分の借金を背負う羽目になったが、
ラスティがここまで人の面倒をみるのは他に例がないと、ミーシャが漏らしたことをユエルはしっかりと覚えていた。


まるで親や兄弟のようだ。いつしか他人とは思えない関係ができていたことを悟り、ユエルは思う。ミーシャや同じ釜の飯を食う整備士たち。
もはや家族同然の彼らを差し置いても、やはり自分とラスティとの関わりは、やはりそれ以上のものなのだろう。

「確かに、よく絡んでるか。単にいじめ相手としか思ってなさそうだけど。あんたは知らないかもしれないけど、あいつの傲慢さときたら――」
「まるで世界でも支配していそうな、か?」
「そう、それ」

期待通りの答えに、ユエルは無意識に指をアゼルの目の前に突き出していた。
勢い余った行動に気づいた彼は、慌ててそれを引っ込める。

「やはり、あいつはどこでも同じなんだな」

だが、手を顎に乗せ思考している素振りのアゼルは、どうやら歯牙にもかけていない様子だった。
己の愚行を猛省していたユエルは彼の不思議な素振りを疑問に思い、

「あいつのこと知ってるのか?」

彼の言動のすべてが自分と似通っていることを知ったユエルは、
他に巡らせていた思考のほとんどをかなぐり捨て、アゼルに問いかけた。

「知ってるよ。よく知ってる」

彼はすぐに頷いた。

「どんな関係なんだ。俺も気になってきた」
「昔、殺し合ってた」
「は?」

無防備だった身体にいきなりハンマーででも殴られたように、それはずしんと頭に響いた。
柔和だった思考が瞬時に凍りつき、ユエルの表情は途端に真剣な面持ちへと変わった。

「嘘じゃない。本当の話だ」

アゼルは微笑んでいた。だが、その過去形の面構えにユエルは納得がいかない。
すでに終わったできごとであるかのように、ただ思い返しているだけに過ぎない能面に、どうしても苛立ちを隠せないのだ。

「どうして?」

そして、考えるよりも先にそんな言葉が口から飛び出していた。

「理由なんかない。敵だったから。それだけさ」
「だったら、どうして……」
「そんな奴と一緒にいるのか。か?」

理解できない。ユエルのそんな想いを感じ取ったのか、アゼルは含んだ笑いを再度漏らす。

「そのあたりは色々と複雑なんだ」

深追いするな。ユエルにはそう聞こえた。わかっているのだ。興味本位で覗き込める範囲は限定されている。
ただ他人にはその境界線がわからない。本人にしか理解できない領域。とても歯痒く、そして何故か胸が痛かった。


人はときに理屈に合わないことを平気で行う。人間としてそれなりの生活を介してユエルが知ったことだ。
命令されれば即承諾の昔とは明らかに違う。個人の中で根付く不変の理。
それを目の当たりにしてきたユエルには、アゼルが訴えるものが何となくではあるが理解できた。

「……あいつはさ。自分のことは話さないんだ。いつもうまく避けられてさ。どこで生まれたとか、レイヴンになる前は何をしていたのかとか」

自然に口が動いたのは、やはり彼の中に妙な好奇心が生まれているからなのだろう。
他人との繋がりが深まれば深まるほど、彼は同時に、その人の生き方までをも追求したくなっていた。


知ればその人物をさらに知ることができる。ただ現実はそうもいかない。
事実、自身の口下手という欠点が災いし、その目論見の大半は失敗してしまっている。


その最たる例がラスティだった。誰よりも彼との関わりが深いはずのユエルだったが、実はまったく違う。
神々しい頂にどっしり腰を構えて、人々を睥睨する暴君。または人をどん底まで突き落としてそれをせせら笑い己の恍惚とする変態か。
彼に対する印象は疑いようもなかったが、裏を返すとおかしなことに、彼にはそれしかないのだ。

「できればでいい。知りたいんだ」

知っているようで彼の正体を誰も知らない。今の姿が頭にこびり付いて離れないため、意識することは少ないが、
ラスティの過去はそれこそ知る者しかしらない。だが目の前の男はそれを知っている。もしかしたら。ユエルの脳裏に誰かがそっと囁いていた。

「聞いてどうする?」
「どうもしないよ。俺が聞いても、たぶん意味はない。だろ?」

追求に大した意味がないことを示した彼に対し、アゼルも素直に頷いていた。
やはり世の中は自分が思うよりも遥かに複雑であり乱雑なのだ。言わば、もつれ合う糸くずを無理矢理ほどこうとするようなもの。

「長いのか? レイヴンになって」
「ん? そうだな。二年くらい、か」

話題の方向性がまるで違う質問が、ユエルを窺うような視線とともに送られてきた。
その意図もろくに思索しないまま、彼は無意識のうちに答えを吐き出してしまった。

「随分と短いんだな」

ほぼ予想通りの返信に、ユエルは誰にも勘付かれない程度の舌打ちを鳴らしていた。
確かにレイヴンとしての経歴は他に比べると、それこそ雲泥の差であるだろう。
目立たないのは、ユエルがランクにおいて、分相応の位置に座しているからだ。
ラスティの趣味の悪い遊びさえなければ、目の前の男と会うことも未来永劫なかったことだろう。

「あー実はさ。それが話したくないってやつのど真ん中なんだよね。いきなりなんだけど」

日が浅いということは、それだけ前職との感覚も短いということだ。勤務歴を答えてしまえば、必然的にそれを問われる。
必要ないと決断し、自らその門戸を硬く閉じたはずなのに、赤の他人の所為でそれを易々と解放せねばならないのか。

「ああ、そうなのか」
「別に言っても良いんだけど、そんなに意味がないからさ。あんたの場合と同じさ」

自分は元テロリスト。そんなことを今さら正直に言ったところで、理解などしてくれないだろう。理解されたくもない。
あの地獄絵図を他人が理解できるわけがない。言ったところで誰が自分の壊れた心を元に戻してくれる? どうやってこの毟り取られた心を癒してくれる?
きっとこんな感じなのだろう、と不特定多数の人間に勝手気ままに咀嚼され、勝手気ままに同情される。そんなのは断じて御免だ。


深追いされたくない人の気分が、ユエルにも少しだけ理解できた。当事者の問題は当事者でしか解決できない。
他人に他人の苦しみはわからない。真の救済に馴れ合いなどは不要。元来の本質が一匹狼なユエルがこの結論を辿り着くのは当然のことのように思えた。


彼はそして、アゼルにもその気配を感じ取る。彼もまた他人には到底理解できないようなものを抱えているのだろう。
と、ユエルは同族の気配を研ぎ澄まされた嗅覚で敏感に感じ取っていた。

「ところで、あいつとこんなところで何してたんだ?」

だが唐突にユエル自身が話題そのものを捻じ曲げる。話が大幅にずれていたことをユエルは忘れてはいなかった。
収束に向かいつつある議題をそうして掻き消しながら、彼は最も根源的であろう問いを投げかける。
核心をついたその問いにアゼルはくぐもった表情を浮かべながら、ばつが悪そうに呟いた。

「……話し合いだ」
「へえ」

直視することを恥ずかしがっているのだろうか。ユエルとの視線を合わせようとせず、あちこちに動き回るアゼルの瞳。
彼の動揺は火を見るより明らかなのだが、その原因が自分にあることをユエルが気づいたのは、

「別に変なことはしていない」

と、弁解の言葉を告げたときだった。誰も率先して起きてこようとはしない早朝に、よほどの埃好きでもないかぎり誰も入ろうとはしない物置。
そんな極限まで人目につかない場所で、大の男二人がしていることと言えば――。アゼルの思考の一部がユエルに逆流したかのように、
まさにこの世のものとは思えない地獄絵図が脳裏で連続再生され、ユエルは思わず吐き気すら催しそうになった。

「いや、俺まだ何も言ってないんだけど……」

さすがにありえないだろう。世界を牛耳る大企業が相次いで破産するのと同レベルなアゼルの発言に、ユエルは開いた口が塞がらなかった。
そもそも、真っ先にそんないただけない考えが浮かんでしまう時点で、彼の思考はどうかしているだろう。

「そ、そうか……。確かにそうだな。今のは忘れてくれ」

自分の無粋極まりない発言に気づいたのか、慌てて取り繕うその姿はどう見ても世界に誇るランカーとは言い難かった。
誰も近寄らせないような冷め切った雰囲気や、超人めいた威厳も見当たらなかった。
そこにいるのは、自身の妄言に恐れ慄き、また、それを指摘したユエルを直視できずに、己の視線を腕時計へと逃したただの男でしかなかった。

「悪い。俺はそろそろ行かないと」

逃げ場を求めるようかのように言いながら、アゼルは無理矢理に平静を保とうとしていたようで、
時計に示されていた時刻に、何か感じるものでもあったのか。とユエルは想像する。
眠気も疲れすらも余すことなく抱えていたユエルは、誰かと違ってこれ以上彼の失言をいたぶるような非道な真似はしなかった。

「あ、ああ。わかった」

晴れて無罪放免となったアゼルを、邪魔することなく振り返らせ、
彼はそしてラスティが出て行った裏口へと確かな足取りで歩を進めていった。

「そうだ。言うのを忘れていた」

と、彼の背中が突然振り返り、鋭く変貌していた双眸がユエルを再び見つめる。

「今後、怪しい依頼はあまり受けるな。このイーズ周辺のものは特にだ。関わりたくないのなら、それだけでも十分だ」
「そうするよ。っていうか、もうその気だから」
「それでいい」

もうあんな理不尽な依頼など、こちらから願い下げだ。右手を高く掲げ、誰でもわかるような了承の意思を示す。

「運が良ければここで、悪ければ戦場でまた会おう」

単純明快な返答にアゼルも、自然な微笑と笑えない冗談で返し、そして彼はそれから振りむくことなく、薄闇の街に消えていった。


一人残されたユエルは、およそ数分の合間の出来事をざっと見通しながら、何故か憮然とした顔を立ちつくしていた。
あの男は、あまりに普通すぎる。ユエルが煮え切らない違和感を抱えるのはそのためだった。


ランカーとはもはや人間という存在を卓越した超人の集まりである。これがユエルが長年抱き続けてきたランカーに対する印象。
だが、その上位に君臨する最強のレイヴンの一人からは、それがほとんど見つけられない。
隠しているのか、それとも意図的に装っているのかとも思っていたが、時が経てば経つほどそれが違うということにユエルは気づいた。


そう、あまりに違いすぎるのだ。そして同時に不公平でもある。
どうして彼はああも人間らしいのか。自我というものを一切失うこともなく順調に高みへと昇っていったであろう彼。
よほどの才能や覚悟がない限り到底成し得られない快挙だ。人形に成り下がり、汚水の中へと飛び込んだ自分とは根本的に違う。


純粋な嫉妬を、そして羨望をユエルはあの背中に感じていた。何が彼を駆り立てたのか。そして何を求め、何を覚悟したのか。
知りたい。自分と真逆の人生を歩んできた彼の生き方を頭に思い描いてみたいという願望。合点がいかない感情の原因はこれ以外にないだろう。


深入りは為にはならないという真理が、彼の中でいつしか真理ではなくなり始めていた。
それもその筈、その掟を定めたのは他でもないユエルの中に根付くもう一人の彼だ。


彼の決めた掟をユエルが改竄する。それが意味することは極めて重要だ。
すなわちそれは、ユエルが一歩一歩確実に彼を殺し始めているということに他ならない。
自分の中で構築されたありとあらゆるものにヒビが入り始めている。他人への介入を控えなくなったことも、その影響の一つに過ぎない。


確実に自分は変わり始めているのかもしれない。この瞬間、彼は初めてそう思えた。実感はない。だが確かな手ごたえが今まさに掌の中にある。
ここで働いていれば千差万別の出会いがある。決してマイナスになることはない至極の出会い。
ここにいればあいつは姿を現さない。自分を苦しめない。だが、まだ完全に殺したわけではない。わずかな領域を彼から取り戻しただけだ。


いつになれば、過去に縛られずに生きていけるのだろうか。そんなものは未来永劫訪れないと彼の中で誰かが嗤う。
その悪魔の囁きを、酷い眠気による幻覚と決めつけ、ユエルはそして重くなった瞼をしきりに持ち上げながら、
勤務時間までのわずかな時間を仮眠に費やすために、静かにその一歩を踏み出していた。



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