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02.


薄暗い部屋の中でカタカタと文字を打つ音のみが響いていた。
液晶画面から溢れる光が、キーボードを叩き続ける男の顔を薄く照らしている。

『何か進展があればまた連絡する』

自らを包む薄暗い空間で、いつでも同化しそうな漆黒の髪と衣を纏った男は、最後のメッセージを相手に送信すると、 端末からそっと目を逸らし、何ともいえない閉塞感を充満させている空間に視線を注いでいった。


元々、仮眠用として用いられる部屋。そこにあるものと言えば質素な机とベッドくらいだ。それもただ置いてあるだけという質素なものに過ぎない。
備え付けの電灯もやはり同じく質素で、生み出される弱々しい光に十分な明るさは期待できない。
唯一のまともな光と呼べる端末の電源を切ると、眩しく光る画面が再び黒一色に染まり、さらなる暗闇が彼の全身を食い尽くしていく。


男はそれに対して特に気にするといった様子もなく、力を抜いてだらんとベッドに倒れ込んでいった。
疲れていたのか、すっと目をとしただけで男の身体はすぐ浅い眠りへ誘われる。


それからどれくらい経ったのか、ふと気づいた男がはっと目を見開く。見える光景は何も変わっていない。
故に男にはどれだけ眠ってしまったのかはわからなかったが、未だ置かれている状況に変化はないことを確認すると、 男は再び全身の力を抜いて再び目を閉じようとした。


しかし、不意に男の中である思いが湧き上がってしまい、彼自身の頭が覚醒し始める頃と時を同じくして、 男は止むなく真横に傾く自身の体を起こし、扉の開閉スイッチに手を掛けて外へ出て行くことにした。


視界に焼きつくあまり綺麗とは言いがたい通路を歩きながら、時折身体を揺らす振動に僅かな苛立ちを感じつつ、 それでも男は目的の場所まで歩を進めていった。


目的の場所までは実際時間にすれば一分もかからずに辿り着くことができた。
元々狭い構造なので当然といえば当然だが、男にしてはその部屋を訪れるのはここ何日かで初めての行為だった。
本当にこの道で良いのだろうかと、多少の不安がよぎりもしたが、男はその不安を表に出す愚行だけは絶対に犯さない。


ロックが掛かっている目の前の扉を数回叩いて、彼は奥にいる人間に己の存在を知らせる。
確認の最中だったのか、扉のロックが解除されるまでには多少の時間が掛かるも、数秒後、簡単に扉は開いた。
そして男は中へと足を踏み入れる。瞬間、暗闇に慣れすぎた彼の瞳に、聡明な蒼と幾つもの白い筋が視界に流れ込んできた。

「……あんたか、なんの用だい?」

その先にいた二人の人物――現在、男をとある場所へと運ぶ最中である輸送機の操縦士達――のうちの一人が、 意外な来訪者に驚きを感じながらも尋ねてきた。男は鮮明な視界に網膜を焼かれるような感覚に、
少し戸惑うような素振りを見せたが、手をかざしてそれを防ぐと、何事もなかったかのように、淡々とその問いに応じた。

「あとどれくらいで着く?」
「えーと、大分近づいてはいるんだが、まだもう少しかかるな。予定としては……後半日って所だ」

自身の目の前に示される計器の数字を眺めながら、操縦士はデータが示す通りに解答した。
満足した様子もないまま、そして不満すらも一切漏らさず、男はただ無感情に「そうか」とだけ返すと、 用はそれだけと言わんばかりに、次の瞬間には踵を返して、彼らに自分の冷たい背中を見せつけていた。

「なぁ、俺もあんたに聞いていいか?」

彼の行動を止めたのは男の質問に応じた人物とは違うもう一人の操縦士の一言。
無視する選択も当然ながらあったが、どういう訳か、男は足を止め二人の方向へ向き直っていた。無感情な表情は崩してはいなかった。

「……答えられる範囲なら」
「じゃあ、質問だ。あんたがこんな遠い場所にわざわざ移転するのは何故かな? あそこはまだ田舎だぞ。俺はよっぽどの理由がないなら、あんたみたいな有名人が移転なんてする筈がないと思ってるんだが……」

聞き終えた男の表情が明らかに厳しくなった。最初の口を開いた男は普通に見えたが、どうやらもう一人はなかなか鋭い男のようだ。
答えられる範囲と言った筈なのに、いきなり核心を突いてくるふてぶてしさは、ある意味賞賛に値する、そして同時に危険と言うべきか。
誰でも当然疑問に思う筈の問いであるのは、男も自覚していた。だが、この操縦士の場合は少し意味合いが違っているようにも見える。


無駄に硬い言い回しから考えれば、この操縦士は表面的な解答ではなく、さらにその奥底に潜む、 本質的部分を知ろうとしてるのではないか。という考えが男の中によぎった。だからこそ彼は危機感を覚える。
出来るわけがない、たとえ話したとしても他人には到底理解できる“内容”ではない。それでも断じて話すわけにはいかないのだ。


だが、この場にいれば遅かれ早かれ、彼ら二人に気づかれる可能性がある。
嫌な予感とはこういうことか。男は直感的に感じ、全身の筋肉を僅かに強ばらせた。

「それは範囲外だ」

冷淡に突き放すと、男は再度踵を返し、即座にその場から離れようとした。いや違う。“逃げよう”としたのだ。
これ以上の長居は無用、ぼろが出る前に一刻も早く離脱しろ……! 命令が一瞬で各神経に流れる。

「……ラスティ・ファランクス」

だが男がその場から遠ざかるよりも、操縦士がその人物の名前を口にする方が僅かに早かった。
不運にもそれを聞いてしまった男は、思わず身体を石のように硬直させ、その場に縛りつけられたような感覚を味わう。
またか……! と、咄嗟に自分を殴りたいような衝動が一気に込み上げて、男は知らず知らずの内に舌を打っていた。


頭ではその言葉を黙殺するのはとても簡単なことなのだが、身体が思うように言うことを聞いてくれない。
自らの意思に関わらず、まるでアレルギーのような過剰反応が意思とは関係なく引き起こしてしまう。


ラスティ・ファランクス。その名にはそれだけの威力が内在していた。それを他人に理解させてしまったこと。それが彼にとっての最大級の失敗でもある。
動かぬ背中を相手に向けたまま。だが、その裏の表情は激しい後悔が滲み出ていた。


何を今さら? いくら後悔したとてもう遅すぎると言うのに。
自らの失態で相手に気づかせてしまった。厳重に深くまで押し込めていた筈のものを。
そして未だそれを容易に漏らしつづける己の愚かさを。その全てを男は呪う。


男がどうしようもない自分に対する怒りに顔を歪める中、立ち尽くしていた男の変化を肌で感じた操縦士は、 持ち合わせた敏感な感覚で、何か殺気に近いただならぬ気配を彼に感じたようで、慌てた口調で言った。

「やっぱりそうか、だと思ったよ。レイヴンであの地区に移転する奴は大抵、彼目当てだからな。いや、特に詮索する気はないんだ。ただこの横の奴と賭けをしていてね。あんたの移転する理由の内容を予想していただけなんだ。で、丁度良いタイミングにあんたが来てくれたんで聞いてみたんだが……。少し気分を悪くしてしまったかな? でも勘違いしないでくれよ。あんたが彼に何の用があるかなんてのに全く興味はないし、それを詮索する気もない。俺が知りたいのは俺達でも想像できる程度の簡単なことだ。それ以上はあんたの考えていることなんて、俺の頭なんかで理解なんてできるわけないからな。そして自分の勝ちが決まった今、俺はそれだけで満足なんだよ」

彼にとって、そこから先を言わなかったことが自身の命を繋ぎ止めた。
彼自身、最後まで知ることはなかったが、その時、彼の言葉を背中で受け止めていた男の指は、腰に備え付けていた銃のトリガーに掛かっていたのだから。
相手がぎりぎりでその領域に踏み込んでこなかったことを一人心で安堵した男は、かみ締めていた唇の緊張を解きほぐし、 何も語らず、ただゆっくりとその場から姿を消した。


後ろの二人が何か喋っていたが、それを完全に無視した男は通路を黙々と歩き続ける。今度こそ彼が振り返ることはなかった。








気づいた時、男は自らの部屋を飛び越え、輸送機の後方にある格納庫に辿り着いていた。
彼以外に人らしき影は見当たらず、その広大な空間は恐ろしいほどの静寂が漂っている。
何人かのレイヴン、何人かの整備士が同乗していた筈だが、今この瞬間その姿は一人も見えない。これといった仕事は既に済ませてしまったのか、 今では皆、各自の部屋に戻り、各々が独自の行動を取っているのだろう。しかし、寝るだけのスペースで出来ることといえば大分限定されてしまう。
恐らく彼らも先程の男と同じく、結局は寝るという結論に辿り着き、今は各々の体勢で眠りに落ちているとしか彼には考えられなかった。


だが、唯一この男だけはそんな皆とは違っていた。先程のやり取りの所為で、胸に靄のようなものを抱き込んだ彼は、 思索に耽るだけの空間に戻る気にはさらさらなれなかった。ただ歩を進めつづけ、何かその靄を振り払ってくれるようなものを探し回った結果、此処に行き着いたのだった。


その場で悠然と佇むとある物体に男の視線は注がれていた。男が眺めるその先には、彼自らが駆る一体のACが静かに眠っていた。
男の力の結晶であり、過去から現在までの足跡を現す証。彼と同じく漆黒を身に纏い、今ではひたすら彼の命令を待ち続ける忠実なしもべである。


細部に光る紅が返り血の如く付着している。その姿がこれまでの歴戦ぶりを物語っていた。
戦闘中に敵の体液を浴びてこびりついてしまった、と言えば一体何人が信じるだろうか。
勿論そんなことある筈もないが、男が事実だと断言すれば、恐らく何人かは本当に信じてしまうかもしれない。
この機体にはそんな馬鹿げた冗談ですら真実と見間違わせてしまうほどの説得力が備わっていた。


男が後にとり憑かれたようにアリーナやミッションに身を捧げていった経緯から、 その漆黒の色彩は多くの企業、民衆、そして数多くのレイヴン達に伝わっていった。
ある時は歓声に包まれ、またある時には絶対的な死をもたらす死神と呼称され、 その漆黒と僅かに見える真紅の装甲は、常時、見る者を震え上がらせる圧倒的な輝きを放ち続けている。


そして彼は生きる伝説となった一人のとあるレイヴンに限りなく近い男、という肩書きを絶対的な位置と共に得るまでに至った。
男の人気、強さ、企業への貢献度を重んじれば、世間が彼をそう呼称するのは容易に納得できることだった。


だが、それは単純に無知であるが故の発言でしかない、ということを男は知っている。語れば語るほどその者達は無知であると自らで暴露し、 自身で作り上げた偽りの虚像に身を染める。限りなく近いなどと言う表現は、真実を知る僅かな者達にとっては禁句そのもの。
それは対象者に対する最上級の侮蔑以外の何物でもないからだ。


男は誰よりもそれを理解していた。でなければ、名前を聞いただけで世間一般では最強に名を連ねる男が、 冷や汗を流しながら、さながら脅されたように慄くわけがない。“自分は何一つ彼に近づいていない”それが男がこの瞬間悟った現実だった。


だから男はここにいる。己の求める道を閉ざさぬ為に。不本意極まりないが、目の前に提示された方法はたった一つしかない。
ならばどうする? 自答するまでもなく、その結論は既に出ていた。


迷うまでもない、それがたった一つの方法であるのであれば縋る以外にない。
自身がまさしく全てを捧げ、不必要な物は即座に切り捨て、必要なものなら手段を選ばず手に入れてきたこれまでと同じように。
自分、いや自分達には成さねばならぬ目的がある。あの男がそれに必要な要素であるのなら、今までと同じく執着し続けるかない。
そう“あの時”誓ったのだ。だからもう逃げることなど許されない、許される筈がないのだ。


決意を固めた男は、思考をそこで停止させる。目前の機体に再び視線を戻した彼の表情には、 決意の証としてなのか、硬い能面がその瞬間だけ零れ落ち、彼の顔に微笑という名の変化を浮かび上がらせていた。

「もうすぐです」

誰もいない空間で、一人ACを傍観していた男は、誰に向けてかわからぬ言葉を不意に漏らした後、吹っ切れたようにその場を後にした。
存在していた微笑は初めからばかったように何処かに消えうせ、再び無感情な能面を表情に戻している。
だが、足並みは先程と比べられないほど快適だった。その状態を維持しながら男は自室へ戻っていく。
あの狭い空間で精一杯できることを成し遂げる為に。今の彼にはそれが苦と感じる様子は見られなかった。





「なぁ、教えてくれないか? どうやったらここまで豪快にぶっ壊せるんだ……?」


試合を終え帰還したユエルと、元のハンガーに戻されたACと思われる金属の塊を見たラスティの第一声がこれだった。
その塊を操っていたユエルは、隣で発せられている半ば怒りを含んだ視線に耐え切れず顔を反らす。

「……仕方ないだろ。グレネードとか積んで装甲ガチガチのタンク相手じゃこうなるって。ステージがあんな狭いとこじゃなきゃ俺だってもう少しは善戦できたさ」
「だが現実はこれだ。お前、これを俺達にどうしろと? まさか、修理してくれ、なんて言うつもりじゃねぇだろうな?」

返ってくる答えは当然一つしかないのだが、それでも容易に了承できるほど、やはりラスティは優しくはなかった。
と言うより、目の前のハンガーに情けなくぶら下がるこの塊は、もはや修理というレベルではないのだから、そもそも文句など言える筈もなかったのだが。


流線的なフォルムが特徴のコアは、今ではそんな表現が全く当てはまらないほどに変形し、頭部及び右腕部に至ってはもう存在すらしていない。
唯一残った左腕も、皮一枚だけ残ったようにだらんと垂れ、それが力なく握るライフルは見事なまでに折れ曲がっている。


加えて、美しいとまで評された純白の装甲でさえその塗装のほとんどが剥がれ落ち、金属特有のその小汚い銀色と、 さながら人間の神経のように絡み合う剥き出しの配線が、何とも言い難い異形さを前面に押し出していた。
脚部に至ってはさらに酷い。ハンガーに掛けられた、否、ぶら下がっている元ACの脚部は、あと少しの衝撃でもボキリと逝く。確実に、間違いなく。


そんなグロテスクな様相は、別の意味でも整備士達に尋常ではない恐怖を与える対象物であった。
当然だ。これを恐怖と言わずして何と言う? 人はこの先行われる作業を“修理”ではない、”全品交換”と言うのだ。
部品一部分ならまだしも、内装から総入れ替えとなるだけに、その労苦は半端なものではないだろう。
そしてその勤めを負うのは当然ながら、朝から晩まで油まみれ汗まみれとなって働く整備士達に他ならない。


各自の仕事を片付けるだけで精一杯な今の彼らに、新たな暇を裂ける余裕など当然なく、もしそれを強制しようものなら、 暴動に近い現象が起こる事は必至。にも関わらず無茶な大仕事をユエルが何も考えず安易に頼もうとするのなら、 この場で働く全職員が吐き出すべき不満や怒りを代弁し、渾身の右ストレートをもって清算させなければならない。
それは当然の権利だ、と己の胸に言い聞かせているのか、ラスティの右拳にはありったけの力が集約されていた。

「……駄目、ですか? やっぱり」

ユエルから発せられた返答に、多少の罪悪感が在ることを察したラスティは、残念そうに拳の緊張を解いた。
本人も感じる所があったのだろう。その返答は相手の心情を伺おうとしている為か、腰が低くそして力なく聞こえた。

「駄目に決まってる――と言いたいが、修理しなけりゃお前は何もできないだろ、してやるよ」

ラスティの許しの言葉を得てもユエルの表情には緊張が残っていた。
彼が視線を向ける先の男の、凛然とした微笑が目に焼きついてしまったから。

「ただし、条件付きでな」

ああ、やっぱり。ユエルがあらかじめ心の淵で予想していた想い。いざ言われてみるとやはりへこむ。

「……何だよ、条件って?」

疑問をぶつけるユエルの視線の先には、ラスティが何かを思いついたような子供じみた微笑を浮かべている。
これはヤバイ、ユエルが今まで培ってきた本能で瞬時に感じ取る。
これは合図。即ち、自分がラスティの企みの実験台として用いられると言う前触れ。

「っていうか、普通そんなこと言わねぇだろ……」
「そりゃ普通の人間の話だろうが。お前は普通じゃない、だからオールオッケー。了解? 何か質問は? 借金まみれの貧乏人さんよ」

身の毛もよだつ感覚を経験的に悟って、彼はそこで反論することを諦めた。
その理由はいかに文句を垂れようと、いかに逃げようとしても、既に自分が逃げられない状況に追い込まれていたことに気づいてしまったからであり、 そして反論しても、いつも通り叩き伏せられることが目に見えたからでもあった。

「心配すんなって。条件って言ってもいつも通り任務の契約だけだから。簡単だろ?」

ラスティがすぐにわかりきった同意を求めてくる。

「……ああ」
「決まりだな。あ、内容は何だっていいんだが『今すぐ限定』ってのが条件な。他はどうでもいいが、これだけは守ってくれよ」

言い放たれたラスティの言葉に、ユエルは別の意味で衝撃を受けた。彼のこれまでの企みにしてはあまりにも陳腐だったから。
しかし、それが逆にユエルにを悪寒を感じさせる要因となる。衰えが見えない微笑はさらにそれを増大させ、 生身で受けろ、と言われる危険性すら十分考え得る状況にユエルは息を呑んで問い詰めてみる。

「あのさ、肝心なこと聞くけど、俺が乗るACはどうなるんだ? 俺のはあれだし……。今から修理しても間に合わないだろ」
「その辺は大丈夫だ。ACならこっちで用意する。丁度暇つぶしに組んだ機体があってな。お前はそれに乗って依頼をこなしてくれればいい。わかりやすく言えば機体の性能テストだ。その戦闘データを持ち帰ることが条件。それさえこなしてくれれば文句なく、この金属の塊を以前のACに戻してやる」

用意されたAC、暇つぶし、それらの単語がこの企みの危険性を如実に表していた。
ユエルは長年ガレージ内を見てきている。当然、この建造物の構成はとうの昔に記憶に叩き込んである。


だから、なおさらそこに疑問が生まれるのだ。ユエルの記憶によれば、ACを保管する場所は今彼が立つこの空間のみ。
そしてそこに保管されているACの中で彼が知らないものはない。
彼の機体の隣やさらに奥に固定されているACも、はっきりと誰の所有物なのかを言い当てられる程だ。


にも関わらず“ラスティは自分が組んだAC”と言うのだ。他にACを保管できる場所などユエルの記憶上では存在しないし、 実際、彼がACを組んでいる姿も見たことがなかった。恐らく彼自身しか知らない未知の空間が存在し、
そこで極秘に、と言うことになるのだろうが、それならそれで、暇つぶしと言う言葉が今度は重く圧し掛かってくる。


用意されたACが単なる暇つぶしで組まれた、となれば内心穏やかにいられる筈もない。
違法改造やスクラップを手渡されることも、完全にありえない話ではなかった。


詳しく説明しろ、身体の奥底で生まれた疑惑を晴らすために、ユエルは表情を引き締め、それを視線で訴えた。
自らを刺す視線に気づいたのか、ラスティは彼の警戒心を解きほぐすかのように口を開く。

「安心しろ。多少いじくってはいるが戦闘には何ら問題はない。」
「そうだと信じたいね。どうせ俺にはそれに乗る以外の選択肢はないんだろ?」

誰かの微笑を軽く模倣して、ユエルは絶望する己の心を覆い隠しながら言う。

「正解。お前もようやくわかってきたな」
「うるさい。お前の理不尽さに慣れちまっただけだ」

経験から生まれる慣れとは恐ろしいもので、どんな理不尽なことでも半ば諦めて享受できるようになった自分に、 ユエルは少しばかり驚いていた。言い換えればそれだけ円くなったということなのだろうか。

「はあ……。それじゃ準備してくるわ。あんたのその暇つぶし、何処にあるのか知らないがちゃんと用意しといてくれよ」
「ああ、任せろ」

そう言ってユエルは自室へと歩を進めた。任務の契約は自室の端末からでしかすることはできないからだ。
風景として機械油にまみれて働く人々の姿を視界に入れ、彼は黙々と足を動かす。目的地まではまだかなりの距離があった。


と、不意に肌を刺すような寒気を感じ、思わず全身が震えた。身体が総毛立ち、強ばっていく神経を察知してユエルは“その時”が近いことを悟る。
兆候が始まったのだ、狙ったように特定の期間を狙い襲い掛かってくる発作のようなあの感覚が――。


身体の奥から湧き上がってくる何かが全身に循環していく。心臓が波打ち、生み出される不思議な熱さでユエルは息が詰まる。
一歩一歩足を運ぶたびにそれが徐々に高まっていくのがはっきりとわかった。緊張とは少し違う、もっと複雑で根源的な何か。
その未知なる物質の正体は理解できないが、彼の身体は確かに何かを求めている。それだけは動かしようのない事実だった。

「またか……」

いつの間にか彼は歩くことをやめていた。握っていた手が尋常ではない湿りを示していたから。
立ち止まってその硬い拳を静かに開いていくと、今にも滴り落ちそうな大量の水分が掌にじとりと滲んでいた。


じっとその手を見つめ自答してみる。
怖いのか? あぁ怖い、とてつもなく怖い。
何を怖がる? 今日こそ死ぬかもしれないから。
違うだろ? あぁ、違う、本当に怖いのはそんなことじゃない。
お前は何が怖いんだ? 決まっている、俺が、俺が恐れるものは――。


こびりついた液体をズボンで強引に拭き取って、彼は自答を止める。
いつもいつも同じ問いばかりを繰り返す誰かに嫌気が差したからでもあるが、それ以上に彼は考えるという行動そのものにうんざりしていた。


何を考える必要がある? 余計なことを考える前に成すべきことをしろ、と強制的に命令を下し、 ユエルは無駄に使われた時間を帳消しにする為、今度は地面を蹴って走り出した。


足の筋肉のバネを用いて地面を蹴る。消耗した筋繊維が活動の為に酸素を求めてくる。
生存の為の単なる自然現象。そこには何も必要ない。生きる為の無意識的な活動。
この時だけは自分の意思というものを自然に感じることができる。たとえ、自らの意思が消えてしまうことがわかっていたとしても。
いや、だからこそ、この一瞬の時間は精一杯享受しなければならない。


その瞬間を胸に刻んでユエルは走る。恐怖からくる猛烈な汗も、誰かが頭上で囁く嘲笑も今は一切起こらない。
何もないというある意味、究極の幸福を感じつつ、ユエルは少しの間、身体のみが反応する行為だけに集中することにした。



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