ARMORED CORE Stay Alive TOP

16.


怖いくらいの静寂が辺り一面を支配している。ほんの数時間前ならば、この廊下もある程度の活気に包まれていた筈なのだが、
完全に明かりを消された今この瞬間ではそんな気配は少なくとも見当たらない。というより、見つけるほうが難しいと言えた。


世界最大の都市区画とされるA地区――アーセナルの一角に一際聳え立っていた建物がある。
企業が持ち得る権力の象徴として、堂々と威厳を見せ付けるその高層ビルの中に、男は立っていた。


精悍な顔つきに若干の疲労を滲ませながら、一通り周囲を見渡した男は自身が進むべき道に見当をつけ歩き出す。
何十階にもわたる異常に広いフロアを行きつ戻りつし、ようやく辿り着いたこの場所。
誰かが詳細に事情を伝えなかったおかげで、余計な仕事をする羽目になった。と、今までの行動を思い浮かべて彼は嘆息する。


男にしてみれば、この暗闇はまさに自分に相応しい状況だった。ふと顔を下げると、暗闇に慣れた目が薄汚い革靴を捉える。
それが清潔感を漲らせる床を叩いていた。まったくもって不釣合い極まりない。汚れ役ならぬ汚し役。
綺麗なものほど完璧に壊したくなる彼の性分がここでも発揮され、その光景を瞳に映した男は満足げな笑みを浮かべた。


所々に置かれた観察用植物が殺風景な廊下にわずかなアクセントを添えていた。薄暗さの所為で詳細までは見えなかったが、
激務に追われるサラリーマンの癒しにでも貢献しているのだろうか。と、男はふとそれを見て考えを巡らせていた。


彼は普段、と言うより今まで、一企業の利益のためだけに毎日毎日通い続ける人間がいることが信じられなかった。
どうせ要らなくなれば、そこらにある物と同じく無慈悲に捨てられるだけだ。それなら最初から自由を選ぶ方が遥かにマシであろう。
己から駒になることを容認する人間など可笑しくてしょうがない、と言った具合に。


無数のデスクにそれに伴う機器が至る所に存在もしている。時間によっては、人の数もそれこそ半端ではないのだろう。
高級感漂うスーツに身を固めた人間たちが、引っ切りなしに動き回りそれぞれの激務に追われる。
ここではそれが当たり前の情景であり、彼らにとっての日常であるのだ。不意に出たそんな常識に、思わず男は下卑た笑いを我慢できなかった。


自分でも自覚している方向音痴が祟り、迷ったがゆえに垣間見てしまった光景。くだらない。本当にくだらない。
この階層の構造は他とは少し違っていたが、この階以外ではそんな匂いが彼の鼻を常に刺激していた。
これが企業というものか。だとするならば自分は絶対に遠慮したい。健気に働く自分が全く想像できず、男の笑みはまだ止まらない。


大柄な体躯、あちこちに灰色が混ざった黒髪。そして何より、見た者を瞬時に震え上がらせてしまうかのような瞳は、
世間一般に思われるサラリーマンの印象とはあまりにかけ離れていた。
口元を吊り上げている今でも、双眸から放たれる鋭い眼光はもはや飢えた獣以外には見えない。


もしこの場に誰かいたならば、一目でも見られた時点で、男は部外者だと即断されてしまうだろう。
だが、彼は正真正銘この会社の社員だ。あくまで名目上の話だが、これも一つの事実ではある。
軍服に似せて用いられる紺の制服は、ある特定された人物のみが着用を許されているもの。男はその中の一人というわけだ。


企業という枠組みの裏に巣食った暗部、それが彼だ。存在自体を知る者は限りなくゼロに近い。
だが、こうして彼は歩いている。人影すら見えない真夜中の廊下で彼は一人歩いている。


辿り着くべき場所は彼にもわかる。たとえ初めて訪れた場所でも、ここで間違いないという確信があればどうと言うことはない。
全ての照明が消されている中で唯一その光を失っていない場所、目指す地点にしてはわかりやすかった。


暗黒が支配する中でも、明るい光は凄まじい影響力を持っていた。非常灯の類を除いて、微かに光っている部分を探していくと、
いかにもと言った扉が辿り着いた先にあった。扉の隙間から漏れる白い光は弱々しいかったが、
それでも薄暗い闇の中で十二分の存在感を示してくれている。間違いない、男はそう確信した。


彼は迷うことなくそのドアのノブに手を掛ける。自分がわざわざ呼ばれたということは、この奥では既に成すべきことは終わっている。
そうでもなければ、あの女が存在を察知される危険を犯してまで自分を呼び寄せたりはしない。

「遅かったわね」

当然のごとく、予想していた人物の声が男の耳朶を打つ。同時に嗅ぎ慣れた独特の臭いが彼の鼻を刺激していた。
考えるまでもない、これは血の臭いだ。だが男は動じようともしない。単に場違いなだけだ、臭い自体はそう珍しいものではない。
と、頭がその些細な混乱を冷静に処理していった。これも男にとっては予想の範疇だにすぎない。


聴覚、嗅覚の次に働き始めたのは視覚。瞳に映された実像は、通ってきた殺風景な廊下とはうって変わって、何とも絢爛豪華な光景だった。
敷き詰められた赤絨毯、その上にはいかにも高価ですと言わんばかりのソファと机が幾つも並んでいる。


権力の二文字が連想させる社長室の内装。世間一般のイメージと今度は完璧なまでに合致した部屋を見て、
金や権力に微塵の興味も沸かない男が疑問に思う。どうしてトップの人間というものはこうも己の力を主張したがるのだろうか、と。


こんな単純なもので満足できる人間が心底羨ましい。属に社長と言われる人物は、この部屋に居座るためだけに人生を謳歌してきたのだろう。
だからこそ笑えてくる。手に入れた地位、名誉、そして権力。その果てに待っていた結末が、男の目の前で文字通りに転がっていたのだから。


高級感漂う赤絨毯の上で人間が死んでいる。仰向けで横たわり、額の真ん中に指一本分ほどの穴を空けた状態で死んでいた。
黒い穴から血が一本の筋となって床に流れていく。鮮麗な赤い繊維が、人間が出す黒味を帯びた赤色で徐々に汚されていった。
程度の低い豚には丁度良い終焉か。頭を撃ちぬかれた人間の名残を跨ぎながら、男はこの空間にいるもう一人の人間に視線を送った。

「いろいろと手間取ってな。それにここは広い。俺たちには広すぎる」

最高の座り心地を約束してくれそうな黒色の椅子。その前に立って男は言う。本来ならば、そこは既に永遠の眠りについている後ろの豚が座るべき席。
だが、今は別の人間がさも居心地良さそうに座っている。白衣を身に纏い、彼とは種類の違う微笑を浮かべていた女性。
ほっそりとした足を組み、机に置かれた数枚の紙切れを見つめている彼女が、
彼を呼び寄せた張本人であることはもはや否定しようがない。その手には黒色の拳銃がしっかりと握り締められていた。

「でも、せめて入ってくる時にはノックくらいするものよ。それが最低限のマナーだと思うんだけど?」
「あいにく、そういう堅苦しいもんには縁がなくてね」

両腕をかざしながらとぼけた口調で男が返す。わずかに彼と視線を合わせ、それを見た彼女はクスリと微笑んでいた。
既に四十路半ばを過ぎているというのに、どうもこの女性からは、若々しさというものが離れようとしないらしい。
あるいは彼女自慢の知識と経験とやらで、無理矢理その美貌を保っているだけなのだろうか。どちらにしても男にはあまり関係のないことだった。

「で、俺をこんなところにまで呼んだ理由ってのは? まさかとは思うが『こんな雑魚殺してみました』ってだけじゃないだろ?」
「ええ、それはもちろん。そこに転がってるのはあくまでついでよ。そいつ、私たちのことを公表するって言ったのよ。だから少し早いけど眠ってもらうことにしたわ」

男が見る限り、彼女の顔には罪悪感など一片もない。むしろ害虫を駆除した時のような清々しささえ感じられた。

「で、話というのは?」

そんな顔を視界に入れつつ、彼は機械的に問う。

「良いニュースと悪いニュースがあるのだけれど、まずはどちらがいいかしら?」
「悪い方から頼む」

即答する。わかっていたとばかりにその女性は年齢相応の妖艶な微笑のままでそれを受け入れた。

「“パイシーズ”が死んだわ」
「何?」
「標的相手に返り討ちだそうよ」

悪いと言うから何を聞かされるかと思えばそんなことか。男はまさに拍子抜けな報告に肩をすかされた気分を味わう。
あの男は自分のような“完成品”とは違う。単なる“模造品”だ。所詮は腕のある輩が二、三機で囲めば撃破できてしまう程度の紛い物だ。
しかし、それでも敗北という結末は許されない、特に自分たちのような存在には。それが与えられたものへの最低限の責任。それを無視した奴など死んで当然だ。

「別にいいさ。もし生きていやがったら俺が殺してる」
「そんな単純な話じゃないから困ってるのよ。こんなところで戦力半減だなんて予定にないわ」
「何が困ってるだ。本心じゃ何とも思っていないくせに」

ちゃんと顔にもそう書いてるじゃないか。微笑む女の顔に男はそんな意思を送りつけてみる。
返答はなかった。だが変わらない彼女の表情がその答えを言っているような気がした。

「で、良いニュースってのは?」

頃合いと見計らい、男が次の話題を切り返す。

「獲物が網に掛かったわ」

含んだ言い回しを終えた後、すっと微笑を打ち消した彼女は手に持っていた数枚の資料を男に手渡そうとする。
「どういうことだ?」という疑問と共に、彼はその資料を受け取り目を配る。数行ほど目を通したところで彼女が呟いた。

「一昨日、イーズの第三研究所から連絡が入ったの。襲撃を受けるかもしれないって」
「それがどうしたんだ?」
「彼らが言うには、事前に襲撃予告が送られてたみたいなのよ。それによれば襲撃は今日の朝だとか」

妙に演技臭い口調を耳に叩き込んでいきながら、男は資料をさらに読み進める。
話題に上がった襲撃予告とやらを自身の瞳に焼きつけた後、彼は一度紙から視線を外した。

「ところがさっきまた連絡があったのよ。『たった今襲撃を受けている』って。笑っちゃうと思わない?」
「そいつらがとんでもない無能ってことにか?」

一応の身内にもかかわらず、まるで遊んでいるような口振りを続ける白衣の女性に、男は彼女の意図をほぼ正確に汲んだ言葉を返した。

「ええ。しかも最後には『あの子たちを寄越せ』よ? ほんと勝手な物言いだわ」
「そんな無能連中に大事なカードは勿体ない、か。確かに勝手な話だな」

たかが一施設、この女にとってはどうでもいいことに過ぎない。彼女にとって必要なのは、自分に忠実な下僕と純粋な力のみ。
彼女の元で今も働いている自分はそういった枠組みに組み込まれているのだろう。
だが男は、彼女に対して犬のような忠実さなど持ったこともないし、下僕と自覚したことももちろんない。

「でも収穫はあった」
「と言うと?」
「明らかに私たちの存在に気づいている人間がいたってことよ。それも私たちが気づくようにわざと露骨な手段を使ってる。この意味はあなたでもわかるでしょ?」

彼女は執拗に話の核心を突かせないようにしていた。まるで男自らが気づいてほしいと言っているようだった。
椅子に深く座りなおし、彼女は男の表情を窺っている。彼に表れる反応を見逃さんといった視線が次々に男の肌に突き刺さった。
男を知っている存在、この世界にはそんな人間はほんの一握りしかいない。候補を挙げることは彼の頭の中でも容易にできた。

「そして、そんなことを考える人間を私たちは知っている」

頃合いと見計らって、彼女が最後とも言える助言を施す。幼稚でくだらない手段をこちらに寄越してきた愚か者がいる。
そして執拗にこちらを挑発するかのように振る舞い、何かしらの手段を用いて施設一つを壊滅させ陽と目論んでいる。
大胆なようで、しかし背後には徹底的に洗練された裏がある。男の頭に広がる候補の中で、これほどまでの姑息な手段を思いつく人間と言えば、一人しかいない。


一人の男の顔が湧き出した瞬間、彼の中で何かが千切れた。引き締まった顔が瞬時に歪んでいき、先ほどまであった皮肉めいた笑みが消える。
代わりに飛び出したのは純粋な狂喜。溢れんばかりに湧き上がってくるそれと共に、大音響の笑い声がその部屋に木霊していた。

「ハハハハハハ! そうか、そういうことかっ!」

あいつ、あいつだ。あの腑抜けが遂に本性を現した。自分の欲望を唯一満たせるあの男がようやく帰ってきてくれた。
殺す価値もない男に成り下がってしまったと落胆していたが、やはりあいつだ。きちんと考えてやがった。
これを最高と言わずに何と言えばいい? あいつは何一つ変わっていなかった。あのころのあいつと何一つ……。

「最高だ……」

彼女の目論見が彼にはようやく理解できた。何故、彼女はあのような言い回しをしたのか。いやそれよりも、何故彼女は自分をここに呼びつけたのか。
それら全てが一本の線となって繋がり、男の狂ったような哄笑をさらに倍化させる一助となった。

「そこで命令よ。あなたには今すぐイーズに行ってもらうわ」

彼女の声は彼には届いていない。既に男の頭の中は己の欲望で満ち溢れていた。他の言葉が入る猶予などはもうほとんどない。

「もちろん行ってもいいんだよな? だからお前も俺をここに呼んだ。違うか?」
「……ほんの一秒前に言ったわよ、それ」
「ん、本当に言ったか? よく聞こえなかったんだがな」
「もういいわ」

わざわざ自らで仕込んだ催しの結末に不満を感じたのか、女が年に似合わないふて腐れた表情で溜め息を吐いた。
深夜に響き渡ったけたたましい大音量は、その後徐々に沈静化に向かっていく。だが男の満ち溢れた顔を見ると、内では未だに歓喜の笑い声が轟いているのだろう。

「いい? もう一度言うわよ。あなたは今からイーズに向かいなさい。到着後は支部にいる二人と合流するの。ついでに彼らの指揮もお願いするわ。“彼”が動いたってことになると、あの子たちだけじゃたぶん対処しきれないでしょうし」
「ああ、喜んで行かせてもらう。ようやくあいつに会えるんだ。これほど嬉しいことはないぜ」
「あの子たちの世話は難しいわよ。それでもいいの?」
「そんなもの問題じゃない。七年も待ったんだ。今さらそんなことで文句など吐く気はない」

満足げに頷き、女も全てが滞りなく進んだことを確認したようだ。「なら、安心ね」という声を発し、彼女は椅子からすっと立ち上がる。

「で、これはどうするんだ?」

男は首をわずかに下に傾けて、直立する彼女を見た。彼よりも頭何個分か低い小柄な体躯。しかしその中にはおびただしいまでの欲望と野心に満ち溢れている。
すっと合わされた二つの瞳を直視し、男は改めて思う。ああ、この女はまさしく全てを手に入れる気なのだ、と。
彼が転がっていた死体を再び見て指摘する。それにも彼女はクスっと笑みを浮かべただけで何もしない。焦りも動揺もない、まさに余裕の立ち振る舞いだった。

「放っておけばいいわ。もう何時間かすれば大騒ぎでしょうね」
「ハハ、なるほどねえ。完全に人事ってわけだ」

彼女にとってみれば、人間などは陳腐な存在以外の何ものでもない。己の掌で散々もてあそび、飽きたら捨てる。それだけだ。
十年以上も傍で見ていれば、性格などは容易に分析できるもの。己の欲のためならば昨日の味方すら容赦なく裏切れる女。
自分以外の誰をも信用せず、ただ己の武器のみで生き抜いている生粋の強者。それが彼女という全体像に他ならない。

「あら、あなたにだけは言われたくないわね。ここに来るまでに一体何人殺したのかしら?」

男にはそれが手に取るようにわかる。何故なら、男もまた同じ人種だったのだから。

「正確な人数は忘れちまったが、一人じゃないってことだけは確かだな」
「監視カメラにもさぞかしバッチリ映ったことでしょうね」
「ああ、バッチリだ」
「……あなたに期待した私が馬鹿だったわ」

もちろん最初から期待していなかったけど。溜め息の後に見えた口元の歪みからそのような意思が伝わった。
堂々と正面玄関から入り、邪魔する人間全員を撃ち殺した彼だ。
ついさっきまでのことを不意に思い出した男は、今頃ロビーでは血の海でも広がっているのだろうか、と呑気に考えてみる。


さすがに拙いとは思わなかった。どうせ見つけられる筈がないのだ。いかに念入りに現場を調べ上げられ証拠の品が現れたとしても、
彼や彼女が捕まるということは決してない。彼らは既にこの世に存在していないのだ。存在しない人間を捕まえることなどできる筈がない。


日が昇れば、この惨劇だ、すぐに大騒ぎになることは確定的。そのころには彼らはもういない。文字通り忽然と姿を消している。
生存を示すもの全てを抹消し、正真正銘世界から消滅した彼ららしい身の隠し方だ。
そんな彼らを見つける方法など数えるほどしかない。そしてそれを行使できる人間はそれよりも少ない。

「後のことは任せたわよ。“ディオ”」

怪しげな笑みを浮かべて女性が男を再度見つめる。次の瞬間、そのわずか三文字に男の顔が露骨に歪んだ。
怒りとも嫌悪でもない複雑な表情を浮かべながら、男は目の前の女性に自身の全てを見透かされていることに気づく。


全てに辟易している男が唯一食いつくであろう餌、彼女が提示したものはまさにそれだ。
計算されつくした思惑にまんまと嵌り、男は憤激の色を言葉に込めて、咎めるような口調を発してしまう。

「……その名前で俺を呼ぶな。今の俺は“レオ”だ。それで十分だろ?」
「フフ、そうね。ごめんなさい」

彼にまだ昔のような執着心があるのかどうか、それを彼女はこの一言で試したのだろう。
男の一声に大方満足した様子で、彼女は男から視線を外し元の席に深く座り込んだ。
もう用なし。一連の彼女の行動からその意思を端的に読み取った男は、それから何もせず、彼女と転がっている死体のみを残して部屋から出ていく。


扉を閉めると、再び漆黒の闇が男を包み込んでいた。だが男は困ったような素振りを見せなかった。
何も見えない筈の視界には、今は別の映像が投射されている。空虚過ぎる日々、満たされない欲望で苦しんできた日々。
それらから遂に解放される喜び。あのとき零れ落ちた破片がようやく元に戻る。自分の内に湧き上がる衝動がようやく充足してくれる。

「俺をその名で呼べるのはお前だけだ。なあ、そうだろ? ラスティ」

誰もいない暗い廊下の中で、彼は己の渇望を満たしてくれる男の名を呟いた。今も昔も変わらない真実がその名前にはある。
静かな狂笑が顔の至るところに張り付き、ディオ・ガリアードという男の顔を変貌させていた。
口腔が震える音が何度となくその場に共鳴していったが、それを異常と思える存在は当然ながらいなかった。





「レイヴン、緊急事態だ。すぐにコクピットまで来てくれ」

という声が備え付けてあるスピーカーから空間全体に響いてきた。焦りが滲み出ていたように聞こえた音声に、
何かただならぬものを感じたユエルは、無言のまま自らの重い腰を上げようとした。


だからACから降りたくなかったんだ。立ち上がりながら彼は、今まで展開していたことに対し、心の中でそう愚痴を零していた。
飛行している輸送機の中では、やることなど大体限られてくる。一人の場合ならばACに篭もっているだけで良かった。
だが今回ばかりは少し勝手が違う。僚機付き、しかも相手が知り合いであるならば、できる行動は飛躍的にその数を増す。ACを降りての雑談が良い例だ。


コクピット内から手をニ、三度上下させていたセネカが見えたとき、ユエルの嫌の予感は的中していた。
彼女が彼をソフィアの家に招いてから丁度一日、それまで意図的にセネカと顔を合わせることを悉く避けてきた彼だったが、さすがにこれ以上は限界だった。
調整していたノヴァも、このときだけはユエルに味方してはくれなかった。セネカが「今すぐ降りて来い」と外で叫んでいたのを聞いたとき、
愛機である筈のノヴァは無常にも、彼に『異常なし』と三行半を突きつけ、彼をコクピットから引き摺り下ろしてしまった。

「彼女とは何にもなかった」
「ほんとに?」

そして訪れる質問の嵐。体よく蚊帳の外に置かれたセネカにとってはさぞかし不満だったことだろう。
無理もない。いきなり自分のよく見知った女性が、男の胸の中で号泣している光景を見せ付けられれば、誰でも問い詰めたくなるというものだろう。

「本当だよ」
「……怪しいなあ」

訝しげに見つめる視線がユエルには痛かった。セネカの気持ちもわかる。だが、あの状況をどう説明すればいいのかが彼にはさっぱりわからない。
自分と同じ境遇に見えた彼女――ソフィアに、彼は彼なりの意見を述べ、彼女の気持ちに応えただけだ。ソフィアの涙の理由など未だにわからない。
わからないことを、ユエルは問い詰められている。それを知らないセネカは、当然ながら追求の刃を収めてくれる気配を見せてくれなかった。
 
「あの子、怒ることはあっても泣くことは絶対にないんだよ。それなのにあんなに目を真っ赤にさせて。ユウの方が何かしたって思うのが普通じゃない?」
「何かって何だよ?」
「引っぱたいたとか?」

目標のコクピットに向かって、並んで歩いていた最中でも、彼女の尋問は滞ることなく続いていた。
セネカの怪訝そうな視線は真剣そのもの。半ば怒りが交じったそれの矛先は間違いなくユエルに向けられている。

「……どこからそういう考えが浮かんでくるんだ、お前は」

覚えのない追求に、軽い気持ちで誤魔化そうと試みたユエルだったが、むしろ逆効果であったことを思い知らされる。
彼女がソフィアという人間をどれだけ慕っているかがよくわかった。だがそれでもセネカは彼女の内にある想像を絶する苦痛を知らない。
セネカは自分の中だけでソフィアという人物像を決めつけている。そしてそれはユエルも同じだった。


赤の他人同士で語る話題ではないな、と耳元でわめく彼女を軽く無視して、ユエルは歩幅の感覚を早めて彼女との距離を離していった。
「ちょっと待ちなさいよっ!」という彼女の制止も、聞こえていない振りをして誤魔化した彼だったが、
コクピットの扉を開けようとする直前でも、彼女は呻き続けていた。さすがにユエルの堪忍袋の尾も限界に達したのか、

「いいか、俺はあの子に何もしていない。これが答えだ、わかったな?」

わざと語気を強めて彼女を威圧するような形をとり、彼はそれ以後の喚き声を断ち切った。
彼女が余計な言葉を吐き出してこないことを念入りに確かめた後、彼はようやくコクピットへ通ずる扉に手をかけた。

「何かあったのか?」
「来てくれたか。さっき依頼側から連絡が入ってな。困ったことになった」

扉を開けるや否や、ユエルは操縦士に向けて疑問を投げかける。表面上は冷静さを見せつつパイロットの一人が静かにそれに応えた。

「君たちが向かう施設なんだが。既に破壊されたようだ」
「……嘘だろ? 予定ではまだニ、三時間あった筈だ」

眉間に皺を寄せ、信じられないといった表情を浮かべるユエル。が、瞬時にそれを思い直すと、その能面も次第に薄れていった。
彼が信用できるのは、見たこともない襲撃予告のみなのだ。もしそれ自体が偽物だとしたら……? 
どうして今までそんな単純なことを考えなかったのだろう。と、新しく沸いた感情で元あった思考を翻し、ユエルは考えを改め直す。

「どうやらそれよりも早く奇襲をかけられたようだ。先に到着していた連中も全滅したらしい」
「そんな……。じゃ、じゃあ、あたしたちはこれから……」

当然、伴ってくる事項はセネカにも想像できたようだ。仕事をするべき場所が既にない。ともなれば二人がここにいることは完全な無駄骨になる。
依頼内容の所為なのだろう、言葉を濁すセネカの顔にが根深い動揺が刻まれていた。

「君たちには生存者の確認でもしてもらいたかったんだが、どうやらそれも無理のようだ」
「どういうことだ?」

可能性のある代案もあっさりと却下され、困惑の色をますます深めていくユエル。

「ACがいるんだ、その破壊された地点にな。識別反応は事前にあった味方のものではない。未確認のACだ。何故そこにいるのかはわからないが」
「で、俺たちはどうすればいいんだ?」

彼はそこで考えることを諦め、聞こえてくる指示に大人しく頷くことを決めた。
わからない要素が多すぎる。それはこの場にいる全員が思っていることなのだろう。

「現時点では相手の出方がわからない。君たちには様子を探ってもらう。こちらの安全上、施設から離れた地点で降ろすことになってしまうが構わないな?」
「問題ないです。撤退の方は?」

了承を告げようとしたユエルの後ろからセネカの声が割って入る。口から飛び出そうとしていた同種の言葉をゴクリと飲み下した彼は、
わずかばかりに余計な行動を取らされたことに眉をしかめながら、真剣な顔つきで話に耳を傾けていた彼女に視線を移した。

「君たちのどちらかが指示しない限り、こちらは動かない。どれだけ待っても反応がない場合は我々は撤退する。それでいいか?」
「了解だ」

セネカと顔を見合わせ、互いに不満がないことを確かめたユエルは改めて喉の奥に潜めた言葉を吐き出す。
そして親指をクイっと動かし、彼女に「行くぞ」という意思を示した。
まだ先程の話は完全に済んだわけではないが、彼女は渋々といった顔で首を縦に動かしてそれを了承した。


このまま何も言及されないのが一番良い。と、彼女の機械的な頷きを見て真っ正直な感想を漏らしたユエルは、
無言のままでコクピットを後にし、ノヴァの待つ格納庫を次なる目的地に定めて先程まで進んできた道程をそそくさと戻っていった。








東から昇り始めた朝日が純白の装甲に反射している。荒野に一つの光源が現出している様は、通常ならば異様に見えたことだろう。
長い銃身を持つライフルを両手に据え、ノヴァは障害物一つ見当たらない広大な地を駆けていた。

「くそっ! 全滅って一体どういうことだよ……!」

ノヴァの壮麗な外観とは裏腹に、内部のコクピットでは汚らしい悪態が零れ落ちていた。自分の手の届かないところで勝手に進行していた状況に、
濃密な苛立ちと鬱積を感じたユエルは、溜まりに溜まったそれらを一気に吐き出すように呟いていた。

「あれ、そんなこと気にしてるの?」

そのぼやきを聞いていたセネカから半ば呆れたような声が聞こえてきた。同時にノヴァの側面に彼女の機体であるゲーティアが並ぶ。

「そりゃ気にするさ。早く借金返さなきゃ、いずれあいつに骨の髄まで搾り取られる」

事実だった。ユエルにとって、あの男に弄ばれている現状を打開するにはこの任務はまさに最適の内容だった。
桁外れの報酬、それがもたらしてくれる結果を頭の中で思い浮かべる。それだけで彼の心は躍っていた。
しかし、そんな躍動する身体は見事に裏切られてしまった。そして彼は今、セネカと共にだだっ広い荒野の上を、
ただの偵察という、本来の内容とはあまりにかけ離れた後始末をさせられている。


護衛すべき目標が存在しない。にもかかわらず、既に廃墟になって久しいであろうその場所に向かおうとする自分は何なんだ?
あまりに情けない己の姿に、思わず失笑が零れそうになったが、ユエルは寸前でそれを噛み潰して耐えた。

「変わったね」
「え?」

と、唐突にセネカが言った。思いもよらない一言を受け、弛緩していたユエルの表情がいつにも増して固くなる。

「昔はそんな愚痴零すこともなかったでしょ?」

意外すぎる言葉に余裕を持ち合わせていた筈の心が揺れ動いていた。彼女は一体何を言ってるのだろう、と。
まだ自分は何も変わってなどいない。ようやくその行動を起こそうと決めたばかりなのだ。それなのに彼女は今の自分を変わっていると表現した。


確かに、報酬への執着心や人を貶める方法は不本意ながらも身についている。
ACの整備方法やら、他人への最低限度の接し方、まだまだ荒削りながらも習得したといえばそうだ。
だがそれで変わっていると言えるのか? たかがその程度のことで自分が生きてしまった過去を清算できるとでも言うのか?
できるわけがない。ユエルはそう締めくくる。彼女から指摘されたとは言え、自分が実感すらしていないことに納得できる筈がない。

「気のせいだろ。そういうお前も、昔と全然変わってないじゃないか」

けれども、何故か心が痛い。自信満々で発した台詞も、結局は苦し紛れの発言でしかなかった。
そして、彼はまたしても答えを持たない薄っぺらな自分と向き合ってしまう。小刻みな振幅を繰り返すコクピットの中で、彼は唇を噛む。
彼女にも確かに伝わった筈の言葉だったが、返答はすぐには来なかった。痛々しい無言の一時が周囲を支配しようとしたころ、

「あたしは変わりたいって思ったことないから。あのころの自分が一番だって信じてる」

はっきりとした口調がスピーカーから届き、思考の樹海へと迷い込もうとしていたユエルを救い上げる。
迷いなど微塵も感じられない強固な意志。なるほど、答えを持っている者と持っていない者とではこうも違うのか。
神々しさすら感じ取れるそれを耳にして、ユエルは唯一の意思表示方法である言葉をも奪い取られようとしていた。

「俺は――」
「待って、ACを確認」

掠れたような声でようやく呟くことができた彼だったが、それもセネカの強烈な一声で無残にも四散してしまった。
その声の勢いに流されるようにユエルはレーダーの表示を眺めた。レーダーを持たぬゲーティアが捕捉できたということは、
ノヴァのレーダーではまず間違いなくACの機影は確認できる。にもかかわらず、いの一番で報告するという責任すら果たせなかった自分。
自分にほとほと嫌気が差すとはこういうことなんだろうな。と、ユエルは先程は飲み込んだ失笑を今度は飲み込もうとはしなかった。

「……一機だけか?」
「そう、みたいね」

崩壊した施設をユエルはようやく目にする。襲撃されてまだ時間が経っていないのか、未だにうっすらとした煙の筋が幾重にも伸びている。
そしてその中心に一機、屹立する機影がユエルの瞳にはっきりと焼きついた。


レーダーにはくっきりと光る光点が一つだけ。他に機影はなし。己の心を散々罵ったあと、彼はそこで自身の肉体に全ての決定権を委ねていった。
余計なことを考える思考を追い出し、必要なものだけを受諾する彼独自の戦闘態勢。それこそ決して変わることのないスタイル、の筈だった。
ノヴァとゲーティアの二機がようやく

「よし、ACの識別が完了し――」

だがそれは、表示された機体情報によって崩されてしまった。ディスプレイに浮かんだそれが頭で理解できる許容範囲を超えてしまい、
彼を無理矢理現実に引き戻したのだ。AIが告げた真実はまさに彼の想像の遥か先を行っていた。
コクピットに響き渡る無機質な音声には冗談を述べるほどの余裕はない。つまりは今彼の耳に飛び込んできた情報は全て真実ということだ。
その想像を絶した衝撃はユエル、そしてセネカの両者を絶句させるのに十分すぎるほどの効果があった。

「嘘、だろ?」
「何でこんな人が……」

“ヴィルゴ”。機体のディスプレイには確かにそう表示されていた。数多と存在するレイヴンの頂点に君臨する現トップランカーの名称だ。
最強と呼ばれ続けたラスティ・ファランクスをも打ち破り、真の最強として居座るレイヴンが、あろうことかユエルたちの眼前に聳え立っている。


当時のラスティとはかけ離れた行動から“亡霊”と称され恐れられる絶対の王者。
あの漆黒の機体を駆っていたレイヴンでさえ、到底辿り着けない高み。言葉に表せないほどの圧倒的な存在感が、
ユエルの全身を瞬時に凍りつかせていた。疑問に思うことすらできずに彼はただひたすらに状況が動くことを願った。


二機の存在に気づいたのか、そのレイヴン――ヴィルゴが駆るAC<アイン・ソフ>が振り返り、王者の風格そのままに二機を睥睨する。
ノヴァとほぼ同じ純白、そして所々に見える黄金が、現実の世界に姿を現した天使の如く映った。
だが逆に、両腕に握られた銃器はその天使の風貌とは裏腹に、目を覆いたくなるほどの凶悪さを醸し出している。


勝てない。無意識な直感がそう告げていた。このまま戦闘になればまず間違いなく殺される。
先日のアリーナ戦のような奇跡を信じる余裕は微塵もなかった。まだ何もしていないのに、このまま自分は終わってしまうのだろうか。
AC同士で視線を交わしただけで、彼の心にはそんな思いが過ぎってしまう。それを見透かしたように白金の機体から通信が寄越されてきた。

「どうして、ここにいる?」

右腕のガトリングガンがノヴァに向けられると同時に言葉は発せられた。無機質で、それでいて何の感情も篭もっていない音。
まさに機械という例えがふさわしい。これが人間が発する声なのか。
恐怖で全身の震えが止まらなくなったユエルには、その機械的な口調がまるで死の宣告のように聞こえていた。


喉が凍りついたように、ユエルはその間、一切の言葉を発することができなかった。ごくりと唾を飲み込む音だけが無常に響き、
これからどうなるのかという思考さえ働かない。ユエルとセネカは金縛りにあったかのように立ち尽くすことしかできなかった。
MTの残骸であろう、黒色の塊からゆらゆらとたなびく煙の跡だけが、唯一この合間も時間が経過していることを知らせていた。



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