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17.


「聞こえないわけではないだろう? 何故ここにいるのかと聞いている」


背筋に走る悪寒、それとは別にパイロットスーツの奥に流れ込む冷や汗。
眼前に揺らめく金色の眼光が彼を射すくめ、同時に相手が問いかけられる言葉の圧力とともにユエルを萎縮させている。


殺気でも怒気すらもそこには感じられない。にも関わらずはっきりとした威圧感がそこにはある。
神々しさを思わせる純白と黄金の塗装。同時に泣く子も黙ると言わんばかりの強烈な武装。
天使か悪魔か。その両方が融合することによって発生する未知の感覚。それが今彼を限界寸前まで追い詰めようとしていた。

「どうした? 何か言えない理由でもあるのか?」

何故? どうして? 何かの夢ではないのか? 頭の様々な方向から疑問符が錯綜し、そのどれもが最終的には「信じられない」という結論を下す。
相手――ヴィルゴの研ぎ澄まされた口調が、彼の正常な思考を妨げる。
現実を直視できず、また把握もできないといったこの状況では、とても何かを喋るという行為には至れない。
不用意に言葉を並べ立て、相手の逆鱗にでも触れればその瞬間終わりだ。戦うなどという選択肢はユエルの内には存在すらしていないのだから。

「仕事です」

痛いほどの沈黙の中、唐突に口火を切ったのはセネカだった。ノヴァそしてアイン・ソフの両機体がほぼ同時にゲーティアに視線を飛ばした。
言いあぐねていたユエルに我慢できなかっただけだったのか、衝動のみで発したような彼女はそこで思い出したかのように口を閉ざしてしまう。

「内容は?」

怜悧な言葉が今度はセネカを狙い撃つ。膨大な圧力がすっと消え去り、わずかに肩を落としたユエルだったが、
すぐに己を嗜め、気を引き締め直す。ヴィルゴの威圧は消え去ったわけではない。単にセネカの方へ移動しただけなのだ、と。


彼女のおかげというべきなのか、膨大な緊張感からわずかに解放されたユエルは、ある程度の冷静さを周囲から掻き集めた。
と同時に身体から込み上げてくる疑惑の答えを、目の前のヴィルゴの一挙手一投足から見出そうと試みる。

「この施設の防衛、だったんですが、あたしたちは到着が遅れてしまって……」
「なら、あれを見たのか?」

明らかに人間の声色ではない。ユエルはそう即断していた。正確に言えば、耳に伝わってくる音は人間が発することのできない音域であるということ。
通信機のマイクに何か取り付けているのか、それとも話す本人が意図的に声を変えているのか。
ユエルにとってはどちらでも良いことだった。煮え切らないその声がセネカに問うている。それだけで十分だった。


「え?」と言葉を濁す彼女にも、やはり微かな動揺が見える。
不可視の縄が今まさに自分たちの首に巻きついている。そんな状況を彼女もまた感じ取ったのだ。

「……依頼内容だ。受ける際に文面には目を通したか?」
「ええ、もちろん見ましたけど……」

相手の本意を掴もうと努力していたユエルだったが、ヴィルゴの放つ一語一語が頭の中で絡み合う。
理解しようとそれを咀嚼しようとする間に、時だけが一方的に過ぎていき、無常にも彼の思考は思うように働くことができない。

「なるほど、とりあえずは予想通りか」

一通りの尋問を終えたかのように、張り詰めた空気が一時沈静化を見せる。何が予想通りなんだ、と問い詰めたかったが、
とにかく自分たちが無関係であることを証明すればいいだけなのだ、余計なことをして事態を複雑化させる必要性などは微塵もない。
だから下手な行動は起こすな、と喉の奥で制止が掛かり、ユエルの口は叫びたい衝動を唾ごと飲み下す。

「だけど……」

これで解放されると思考の淵で思い浮かべ、安堵の息を吐いた瞬間にその言葉はユエルの耳を貫いた。
無数の警告音が鳴り響いたのはそれからすぐのこと。
何が起こったのか判断できぬまま、とにかく周囲に気を配ることに努めた彼は、そこではっきりとした異常を捉えた。


ヴィルゴの機体――アイン・ソフがノヴァに銃口を向けている。何故かはわからない。少なくとも何も間違ったことはしていない筈なのに……。
必死で叫ぼうとするがあまりの突然の事態に声が出ない。しかしそんな混乱の渦中にありながらも、彼は無意識のうちにトリガーを握りしめていた。


戦ったところで勝てる筈がないのに。純粋な敵と認識し直したアイン・ソフの右手からガトリングガンの銃口が覗いている。
そのバレルが少しでも回転を始め無数の弾丸を吐き出せば、ノヴァの装甲程度ならばものの数秒で食い破られる。頭を最悪の情景がよぎった。

「ユウっ!」

それがまさに現実になろうとした刹那、アイン・ソフの視線がわずかにノヴァから離れる。
金色のモノアイは自身に迫り来る何かを瞬時に捉えると、完全に無防備だったノヴァを蚊帳の外にして、素早く後方へと後ずさる。
直後、塊にも等しい猛烈なミサイルの雨が、アイン・ソフが先ほどまでいた足場を直撃し、粉塵と炎の渦がそこで舞い上がった。

「……セネカか。悪い。助かった」

吹き飛んだ土砂がノヴァの装甲を叩いていく。周囲を覆い隠してしまうほどの土煙を前に、
彼は大量のミサイルを吐き出し、自分を窮地から救い出してくれたゲーティア。
だが通常の識別がいつのまにか敵のそれへと変貌しているのを見れば、そんな感謝の気持ちも場違いなものに思えてくる。

「これは、どういうことなの?」
「さあな。俺にも全然わからない。わかることって言えば、とにかく最悪だってことく――」

彼が言い終える寸前、視界を防いでいた粉塵の一部が切り開かれた。エネルギーの放出と共に、土煙と黒煙の中から現れたのは紛れもないアイン・ソフ。
先程の攻撃による損傷は全くと言っていいほどなかった。突如として現れた白金のACは、ユエルに驚く暇すら与えなかった。


一瞬で間合いを詰められ、ユエルの全神経が総毛立つ。既に勝敗の行方など頭には入っていなかった。
ノヴァの武装全てを解放し、彼は迫り来るアイン・ソフを狙い済ます。しかし、それは遅すぎた。
ディスプレイに映るのは、それよりも早くノヴァの懐に潜り込んでいたアイン・ソフの姿。
ユエルはそのACの右手にあるガトリングガンの咆哮を己の耳で聞く。黒光りする銃口から咲いた閃光がその轟音に華を添えていた。





等間隔の音が鼓膜に響いてくる。だが関係がない。そう判断して無視を決め込む。音は次第に大きくなり、そして不意に止まった。
次に聞いたのは空気を切り裂く音だった。極限まで高められた集中力があったからこそ、
ユエルはその微かな差異にも気づくことができた。最も気づいた頃にはもう遅かったのだが。

「何サボってんだ、お前は」
「ぶっ!」

ゴツという鈍い音が頭上に響き渡ると同時に、嵌り込んでいた思索の淵からユエルが帰ってくる。
神速の一撃がユエルの後頭部に食い込み、無防備だった全身に痛みという概念が植えつけられた。

「誰だよ、痛ってぇな!」
「俺だよ、俺」
「って何だ、ミーシャかよ……」

一通り頭を抱えもがきのたうちまわった後、涙を滲ませたような瞳で犯人を覗き込むユエル。
しかし、その対象を視界に入れるや否や彼は瞬時に態度を翻した。いや、翻さなければならなかった。

「ったく、お前はいつから好き勝手に仕事サボれるだけの身分になったんだ、あ?」

いかめしい面構えのミーシャでは相手が悪すぎる。その身に沸いた憎悪を渋々消し去り、表面上は何も思ってはいないことを装う。

「サボってねえよ。俺の仕事はとっくの昔に終わってる」

それでも勘違いされていることは腹の虫が収まらなかったのか、彼は屹立する岩のような相手目掛けて反論の言葉を投げかけていた。
だが訝しげにユエルを見つめ返すミーシャを見れば、彼の言葉は無常にもミーシャの胸に届いていないと思って間違いなさそうだった。

「終わった? こんな短時間でか?」

ユエルの読みどおり、ミーシャの口から出たのはそんな疑問符だった。
やっぱりな。ぼそりと愚痴を零したユエルは、わずかにふて腐れた様子で、

「ああ、終わり。もう俺じゃ手の施しようがないんだよ。これ以上は脅されたってできないからな」

と吐き捨てていた。

「おかしいな。俺にはそんなに手酷くやられたようには見えないんだが?」

そう呟いたミーシャの頭上には未だに大きな疑問符が残っている。瞳の奥でそれを感じ取ったユエルは、
ああ、そういうことか。とミーシャの疑念の声を遮るようにして彼に事実を告げた。

「逆だよ、逆。ぶっちゃるとけ、こいつ全然壊れてないんだ。武器だけが綺麗に吹き飛んでるだけ。損傷って言ったらその時にできた焦げ目くらいで、あとは適当に装甲板貼り付けて、適当に塗装し直してそれで終わりだよ」

淡々と事実を述べることがこれほど苛立つものとは思わなかった。
思い返せば思い返すほど、あの時の記憶が鮮明に脳裏に蘇り、何ともいえない情けなさ、不甲斐なさが滲み出てくる。
はたから見れば、まるで人事のように笑っているユエルだったが、その心の奥深くには今にも噴火してしまいそうな怒りがまだ隠されていた。

「何があったんだ?」

体裁を取り繕うだけのそんな空疎な笑顔も、ミーシャの手によって簡単に見透かされた。
慣れてない行動に手を出したことを軽くたしなめ、ユエルは潜めていた感情をあらわにし、歪んだ表情そのままをミーシャの前に晒す。

「俺が知るかよ。なのに、いきなり後ろからガツンだもんなあ……。ああ、痛え」
「……悪かった」

黙っていれば、何かに八つ当たりでもしなければ収まらないといった状態だった。思いついたことを次々に吐き捨てて、
ユエルは何とか内に滾る猛烈な衝動を押さえ込もうとしていた。ミーシャの平謝りも実のところあまり心に留まってはいない。

「で、あっちはどうなんだ? 直りそうなのか?」

不意に思い出したかのように、ユエルはある方向を指差しミーシャに尋ねた。
異常なほどに閑散としてる通路とは違って、彼の指が指し示す方角には、これまた異常なほどの人だかりができていた。


その様子は遠目からでも容易に把握できる光景だった。ACとはっきり識別できる機体がいくつも並べられている中で、
ACと思われる残骸が見るも無残な形で置かれていた。各所でそれを見る整備士たちの表情はどれも暗い。


あれがゲーティアだと言えば果たして誰が信じるだろうか。恐らく誰もいない。
元々塗られていた白と桃の装飾の面影はもうどこにも見当たらなかった。
まともに直視できないほどに抉り取られた装甲は痛々しいものでしかなく、近寄れば金属の焼け焦げた臭いも無視できないだろう。


丁度、ACのコアの高さにいるユエルからはその光景がまざまざと瞳に入り込んでくる。逆流してくる記憶の波が再びユエルを襲い、
目を逸らしたい気分になった彼だったが、その隙を狙いすましたかのようなミーシャの返答がユエルの意識を捉えていた。

「あっちは、見てのとおり酷いな。間違いなくスクラップのレベルだよ。帰ってこれたってだけで上等だな」

違う。“生きて帰ってきたのではなく、わざと生かされて帰された”のだ。ノヴァとゲーティア、それぞれがそれぞれ違う方法で完膚なきまでに叩き伏せられ、
「帰れ」と一喝され、そして結局おめおめと逃げ帰ってきた。戦いと呼べるものですらない茶番。ただそれだけのことだ。


異様な姿を晒すゲーティアだが、あれだけの無残な姿を見せつけているのに、致命傷が一切ないというのは真剣に何かの冗談に思える。
表面の装甲だけを綺麗に毟り取っただけで駆動系にはほとんど影響はない。ユエルの記憶の中にいるヴィルゴは確かにそう言っていた。
振り返れば振り返るほど惨めな気分になる。後悔と屈辱、その両方を一度に味わう感覚はもはや言葉にすることなどできたものではない。

「で、あいつは?」

今にも飛び出してしまいかねない衝動を忘れようとするかの如く、彼はセネカを話題に持ち上げていた。
ほんの数秒で今の状態まで破壊しつくされ、あげくとどめもさされずに見逃されたのは彼女も同じ。
どうにか押さえつけられる段階のユエルとは違い、彼女の怒りは彼のそれを大きく上回っていた。


受けたショックを消化するのに精一杯だったのか、帰還用の輸送機の中でもセネカは彼の前に姿を現すことはなかった。
毎回場所を問わずにしつこく絡んでくるのが彼女だ。だからこそなおさらその行動が印象に残っていた。

「かなりイラついてたな。そのまま帰っちまったからよくわからんが、あの剣幕はヤバかった。鬼かと思ったよ」
「だよな」

無理もないな。とユエルは苦笑する。ACはボロボロだが彼女の方は怪我一つなし。これでは遊ばれたと思うのは当然だろう。
何より彼自身もその想いは同じだった。セネカほどプライドを優先するわけではないが、はい、そうですかと忘れ去れるほどの器用さも彼は持ち合わせていない。

「知ってる奴なのか? その相手ってのは?」
「ヴィルゴだよ、ランク一位の。俺もセネカもあいつにやられた」

自らの恥を告白し、ぎゅっと唇をかみ締める。哀愁を帯びた目でふとミーシャの反応を窺った。
だが「……冗談だろ?」という予想外の返答がユエルの鼓膜を打ち、弛緩していた眉間が一気に強ばっていた。

「冗談に聞こえるのかよ」

ユエルの瞳に飛び込んできたのは、あろうことか痛いほどの猜疑心に満ち溢れたミーシャの視線。
予想と正反対のそれに動揺を隠せなくなったユエルは戦闘時さながらの鋭利な視線を一方的に送りつけ、その動揺を隠蔽した。

「いや、でも――」
「俺だってびっくりしたさ。まさかあんな奴がこんなド田舎にいるんだからな」

同時に互いに予想しえぬ応酬が交わされ、両者の顔に複雑な表情が灯る。
ありえない話だが覆しようのない事実だ、と告げるのはユエル。だがミーシャの顔は単にそれが信じられないといった程度のものではなかった。
もっと複雑で、そして危険な何か。言葉を濁そうとしているミーシャを見て、ユエルはその気配を感じ取る。

「ラスティはそのことを知ってるのか?」
「いや、まだ言ってないけど」
「そうか……」

安堵とも思える溜め息。そして恐る恐るといった口調で漏れたミーシャの言葉がユエルを確信へと至らしめた。

「それは、どういうことだよ? 何であいつの名前が出てくるんだ?」
「何でもない、こっちの勘違いだ」

全く予期していなかった名前。噛み付ける話題としてはこれ以上のものはない。まるで餌を求める犬かのように、
ユエルは瞬時にミーシャに噛み付いていた。己の不注意か、それとも勘違いか。
明らかな失言だろう発言をしたミーシャの顔が瞬時に曇った。だがそれでもユエルは追求の手を休めない。

「勘違いで済むかよ。あんた、何か俺に隠してるだろ?」

沈黙が返答だった。元一位と現一位、考えてみれば、彼らの間に接点がないと思うほうが不自然だ。
そしてラスティとの関わりが深いミーシャならば、その一端を知っていたとしても何らおかしいことではない。

「頼む。何か知ってるなら教えてくれミーシャ。あいつとラスティに一体どんな関係がある? 仲間か? それとも敵同士とか? それとも――」
「そういうことは俺じゃなくあいつに聞いたほうが手っ取り早い」

遂にユエルの視線に根負けしたのか、渋々といった表情を浮かべながらミーシャは嘆息混じりに言う。

「ま、あいつが簡単に喋ってくれるかどうかは知らないがな」

が、ようやくの光明だとユエルが思った瞬間、ミーシャはすかさずそんな言葉を重ねて彼の安堵感を削ぎ落としていた。

「どういう意味だよ?」
「そのまんまの意味さ。あいつを喋らせたかったら命賭けるつもりで挑んでこいってこと。お前の知りたがってるものは、実際そういうレベルの話だ」

思わぬ失言であったのにも関わらず、簡単にラスティの名前を出したミーシャ。その表情がユエルに語っていた。どうせ聞ける訳がない、と。
自信すら見え隠れしている彼の顔に、自分の怒りすらも踏み潰された気がしたユエルは、

「精々頑張ってくれよな」

と呟きその場を後にするミーシャに対して、一つの反論も返すことができずに、彼の後ろ姿を眺め続けることしかできなかった。

「ったく、何なんだよ……」

再び誰もいなくなった通路の上に棒立ちに近い状態で立ちつくしたユエルは、とりあえずの想いを空気に向かって吐き捨てる。


最強のレイヴンに弄ばれ、命からがら帰還したにも関わらず、その事実を全く信じようとしないミーシャ。
そんな彼の口から飛び出した名前は、意外にも、かつて最強の名を欲しいままにしたレイヴン――ラスティ・ファランクスその人。


整理すれば整理するほど訳がわからなくなってきやがる……。
光の灯っていないノヴァのバイザーを見上げながら、一通りの結論として彼はそう思った。納得できることなど何一つない。
むしろセネカと一緒に任務を請け負った瞬間から、自分は疑念と怒りしか感じていないのではないか、と錯覚してしまうほどだ。


全てはあの戦闘から始まった。理不尽としか言えない相手の先制攻撃を受け、その動揺からか対策と呼べるものを何一つできなかった愚かな自分。
その後は、まさに恥辱としか言えない。ゲーティアのミサイルによって撒き散らされた粉塵。
そこから瞬時に飛び出してきたヴィルゴのACに、ユエルは文字通り成す術がなかった。ただ相手の動きを眺めることしかできなかった。


迎え撃つ用意はあった。正面から突っ込んでくるのならば、たとえランク一位のレイヴンであろうが銃弾を見舞うことくらいはできる。
そう思っていた。だが敵の動きは彼の予想を遥かに上回っていた。正面に立った敵――アイン・ソフは対峙したノヴァを攻撃することなく素通りしたのだ。
腹を括っていたユエルを嘲笑うかのように、そうしてヴィルゴはノヴァの側面を通り抜け、後方に控えていたゲーティアを最初の獲物として捉えた。


銃器を構えていながら、一発の銃弾も放たずにノヴァを無視したACの姿は、半日以上経った今でもユエルの心に焼き付いている。
その動きに完全に虚を突かれ、急ぎ旋回したまでは良かったのだが、次に飛び込んできた光景は、ユエルの行動力全てを刈り取るだけの凄惨さを持っていた。
何故なら彼が振り返った先にはそのわずかな合間で、ゲーティアが文字通りスクラップ寸前にまで追い込まれていたのだから。
ノヴァの視界からアイン・ソフが消失してから、軽く見積もっても十秒と掛かってはいなかった。


通信機からはセネカの悲鳴が聞こえた。その混乱ぶりから察するに対処する暇すらなかったのだろう。
右腕部が削げ落ち、配線剥き出しの全身から火花を撒き散らせて、ゲーティアだった筈のACが崩れ落ちる様を、ユエルはただ見つめることしかできなかった。
その一瞬だけは憎悪すら感じなかった。ただ両腕のマシンガンから硝煙を靡かせて倒れたゲーティアを見下げるアイン・ソフの美しさに、ユエルはただ見惚れるしかない。


武装を見るだけで、アイン・ソフの戦術はある程度予測することができていた。
右腕のガトリングガン、そして左腕のマシンガン、極めつけの連射型イクシードオービット。
あの漆黒のACをも上回る接近戦仕様であることは、そこから容易に判別することができた。


しかし、結果は何一つ変わらなかった。
両腕から放たれる猛烈な弾幕がゲーティアを飲み込む。無論、セネカ自身もその動きを捉えていた筈だが、それでもこの有様だ。


煙を上げて崩れ落ちるゲーティア。通信機も破壊されてしまったのか、彼女の声はもうユエルの耳には届かない。
怒りと呼べるだけの感情のうねりがようやくユエルの身体の中で生じたころ、アイン・ソフはようやく自らの銃口をノヴァに向け直す。


そこから先の記憶はぷつりと途絶えてしまっている。と言っても、普段と変わらぬ状態に彼が達したに過ぎない。彼にとっては日常的なことだ。
だがこの時ばかりは、彼もそれを悔いた。当然だろう、彼が気づいた頃には、ノヴァの武装は敵の手によって全て破壊されていたのだから。


彼が現実へと立ち返ることができたのは「やはり違う」という敵からの呟きがあったから。
それがなければ、彼はその後も反応しないトリガーを必死で握り締めていたに違いない。


ヴィルゴからわずかな謝罪の言葉と共に「試しただけ」という発言が彼の鼓膜に響いた。
こんな場所に来るのだから自分の追っている者たちと何らかの関わりがあるのではないか、と感じたヴィルゴは、
それを見極める為に半ば突発的に戦闘を仕掛け、二人――つまりはユエルとセネカの技量を推し量ろうとした。ヴィルゴはそう語っていた。


結果、二人は幸か不幸かヴィルゴの目に留まらなかった。戦闘不能にまで追い込まれたゲーティアを致命傷を避けて戦闘不能に追い込み、
ノヴァに至っては武器のみを破壊し、その純白の装甲には銃弾はほとんど掠っていない。ヴィルゴは始めから二人を殺す気などなかったということだ。


「二度と私に関わるな」そう威圧的に告げ、ヴィルゴはその場から消えた。自分たちが生きていると実感できたのは、帰りの輸送機の中だった。
遊ばれたという事実を唇をかみ締めて必死で耐えていたとき、彼はようやく張り詰めた緊張感から解放され、生きているということを実感できた。


機動力、攻撃力。そんな上辺だけのデータは何の役にも立たない。速度も装甲も平均的な中量二脚と何ら変わりがないのだ。
見極めるべきは相手の常軌を逸した技量にある。反撃の糸口すら与えず、短時間で敵を殲滅する瞬間火力に特化し、
操縦者本来の並外れた操作技術を組み合わせてより一方的な攻撃を叩き込む。そして敵はその存在すら感じる暇すらなく倒れていく。


観客や世間に向けて大体的なパフォーマンスを続けていたラスティとは違い、ヴィルゴは逆に徹底的な秘密主義を押し通している。
その徹底さは都市、田舎などの区別なしに世界中に知れ渡っており、
姿、年齢、生い立ち、性別すらもトップシークレット扱いとされ、わかってはいることは何もないというのが現状だ。
整備班もヴィルゴが直々に指定した人間のみしか携わることができず、輸送機の手配、アリーナへの移動なども、全てが自前とさえ言われている。


前王者の圧倒的な存在感の所為か、それを良しとしない連中が、ヴィルゴの正体に懸賞金を出すという事態も起こったが、
それを受け取ったという知らせは今のところユエルの耳には入ってはいない。


そして皆はヴィルゴを“亡霊”と称した。ミーシャがろくに信じようとしないのも恐らくこの事実があるからなのだろう。
いるのかいないのかもはっきりとせず、名前だけが一人歩きしている存在だ。誰かが名前を偽って乗っているということさえ考えられた。

「まさか、な」

そこまで考えて、ユエルは急に恐ろしくなり、首を横に振りながらその考えを消し去った。
自分は何を考えている? 頭を整理する意味で今までの流れを思い返していただけなのに、最終的に至った仮定は、思いがけぬ所にまで飛躍しているではないか。


あまりにも突飛過ぎる考えだ。いくら何でも、ラスティとヴィルゴをイコールで繋げようとするのは無理がありすぎる。
確かに姿が見えないことを良いことに、誰かがヴィルゴの正体にラスティの名前を挙げたことはあったが、
当時の彼は、それを頑なに全否定し、その噂を自らの手で沈静化させたのだ。間違っても彼ではない。


だが、その仮定に基づけば基づくほど、ユエルの中ではっきりとした光明が見えてきてしまう。
最近のラスティの不可解な行動、彼の神かがった戦闘技術、ミーシャの発言などから考えても、決してありえないことではなかった。

「馬鹿馬鹿しい」

飛躍しすぎた論理に思わず笑いが止まらなかった。不意に込み上げてきた想いを切り捨て、彼は行き過ぎた思考を元に戻そうとする。

「あ、やっぱりユエルさんだ」

が、いざユエルがそれを実行した際、そんな声が彼の耳朶を打った。
誰の声だ、とユエルが確かめるように声の先に視線をやる。これまでで最も衝撃的な事象が待ち受けているとは彼はその時思いもしていない。
度重なる混乱から、遂に視神経が麻痺でもしたのだろうか。目をしきりにこすり、彼は再び前を見る。結果はやはり何も変わらなかった。

「ソ、ソフィア……?」

ガレージ内では見慣れた感のある“安全第一”と銘打たれたヘルメットに、シャツにジーンズといった場違いも甚だしい格好。
確か前にもこんなことがあったような……。と振り返りながら、ユエルは空いたままだった口をきゅっと閉じて、彼女――ソフィアを見つめ返した。
しかし、ヘルメットのサイズが大きすぎるのか、すっぽりと彼女の顔が埋まってしまって中々視線が合うことはなかった。

「ああ、もう! ほんと鬱陶しいなあ、これ……。んしょっと。あ、えっとですね。ちょっと用事ができちゃったんで。って、ひゃっ!」

加えて彼女は今、やけに分厚い厚紙を、軽く見積もっても十枚ほど抱えていた。
胸のあたりでそれをしっかりと抱きかかえ、時折、余った掌でヘルメットの唾を持ち上げようと試みるのだが、
手を離した瞬間、ヘルメットは彼女の努力を嘲笑うかのように再び視界を覆いつくし、結局、元の木阿弥という結果に落ち着いていた。

「……誰だよ、こんな特大サイズ被せたのは?」

見かねたユエルはすっと彼女の前まで歩み寄り、手を塞がれた彼女の代わりにそのヘルメットを外してやる。
ふわっとした栗色の髪と、ソフィアの恥ずかしそうな瞳が一挙にユエルの視界に押し寄せ、何かが突き刺さったような刺激が一瞬だけ彼の胸に宿った。

「あ、ありがとうございます。えっと、ラスティさんなんですよ。『ガレージ内に入るんならこれ被ってけ』って」
「それでこんな特大を?」
「ええ、ちょっと私には大きすぎて。でも、おかげで怪しまれずには済みました。大きくて怖そうなおじさんには白い目で見られちゃいましたけど……」

それがミーシャのことを指しているということにユエルは数秒の時間を浪費してようやく気づくことができた。

「ああ、心配要らないさ。ミーシャだったら君のこともラスティを通して知ってる筈だよ。他の連中なら、今頃君は雑巾みたいに絞られてるけど」
「じゃあギリギリセーフってことですね」
「まあ、そういうことかな」

お互いの顔を見合わせて彼らは微笑ましく笑っていた。一通り笑いあった後、

「で、今日は何でこんなところに来たんだ?」

と、先程から最も吐き出したかった台詞をユエルは呟き、その睦まじい一幕を終わらせた。

「その前にここから降りませんか? やっぱりここは……」

場の展開を察したのか、笑顔を消したソフィアが間髪入れずに返す。
微笑ましい彼女の表情の中に、以前ユエルが見た怜悧なそれが見え隠れし始めたのを見逃さなかったユエルは、何も言わずに通路の階段に足を掛けた。


ソフィアの頭から取り払ったヘルメットを片手に持ち、軽快に段差を駆け下って大地に足をつける。
簡潔に人の動きを眺めて、ある程度問題がないことを確かめると、
丁度、階段を降りきったソフィアと共に、人だかりが出来ている正面入り口とは真逆の裏口に向かって歩き始めた。


高さは違うが、肩を並べて歩く二人以外に人影はない。ユエルにとっては好都合以外の何物でもなかったのだが、
微笑ましかったソフィアの能面にヒビらしきものが見え始めた今は、それも逆に辛いものに感じられた。

「で、さっきの話だけど……」
「ああ、そうでしたね」

そんな空気を打破する為に、彼は自らを鼓舞して曇りがかった彼女の横顔にそっと語りかけてみた。
はっと思い出したかのようにそれに応じたソフィアは、いつのまにか押し黙っていたときの表情を素早く消し去っていた。

「あなたに謝りたかったんです。あのときのこと。本当にすいませんでした」

唐突に告げられ、ユエルはわずかにソフィアから視線を背けた。
華奢な身体が触れた感触が妙にありありと思い出してしまい、顔面に現れた紅潮を気取られたくなかったからだ。

「い、いや、あのときは俺も悪かったよ。何か変なことばっかり言っちゃったしさ」
「私もあのときは気が動転しちゃってって。すみません、忘れてくださいね」

目線も合わせず、ただ淡々とした様子でその会話は終わった。

「ああ、わかった。それは良いんだけど、ラスティのところにはどうして?」
「……実は、ばれちゃったんです」
「ばれたって、何が?」
「あのサインですよ」

固い口調が一転して柔らかいものへと変わったのを感じたユエルは逸らしていた目を彼女に向ける。
そこにはもの悲しげな横顔から一変して、きまりの悪そうな顔があった。
面映いその横顔を眺めたまま、ユエルは彼女が次の言葉を重ねるのを静かに待つ。

「私がちょっと目を離した隙に、あの子たち私の部屋に入って見つけちゃったみたいなんですよ、あれを。で、私がちょっとした用事から帰ってきたら『欲しい、欲しい!』って。それでもう手の施しようがなくなっちゃたんです」
「なるほどね。それでまたあいつにおねだりしにいった、と」

すっとソフィアの首が縦に動くのをユエルはしっかり捉える。

「でもやっぱり今回は少し怒ってました、あの人。『お願いだから寝させてくれ』って泣きそうな顔してましたから。なんだか悪いこと頼んじゃったかもしれません」

胸に幾重にも渡る用紙を抱えながら、彼女は次にばつの悪そうな表情を覗かせた。
その顔がユエルの目を見つめ返し、どうすればいいのか、といった懇願にも似たような意思を放ってくる。

「気にしないでいいって。つーかむしろナイス」

不意に発言を聞き、ユエルは思わず吹き出しそうになる。場の空気を察して彼はすぐにそれを飲み下したが、
彼女の前に突き出した親指だけは、彼の率直な感想を包み隠すことなく表していた。

「そうなんですか?」

勢いよく立てられたそれを見つめて、きょとんとした瞳が彼に問う。

「そうだよ。その時のあいつの顔を拝みたかったくらいだ」
「とにかくむっつりとしてましたね。口元なんか、への字に曲がったりなんかして」
「ハハハ、それじゃよっぽどお冠だったんだ」

ソフィアの口から包み隠さず漏れる一言一言に、しんと静まり返っていた通路の空気が暖められていくようだった。
自分の指で口元を歪ませ、その時の男の顔を表現しようと努める彼女を見ると、ユエルは改めてあの時の一幕が本当の夢であったような感覚を味わう。


今こうして無邪気に振舞う彼女こそが真実なのか、それともあの大粒の涙をひた隠しにし憎悪の炎で彩られたあの時の彼女こそが真実なのか。
その両側面を目にしている彼は、それ故に捩れた視点でしか彼女を見ることができずにいた。


ソフィアがこうして笑っている最中でも、あの時の冷え切った瞳が彼の脳内に映し出されている。
彼女は決して本心で笑っているのではない。必ず心の奥底で、苦しみ、もがき、泣いている。ユエルには何となくではあるがわかった気がした。


彼にとっては、今の瞬間にそう思えてしまうことが何より辛かった。
自分を覆い隠すことの虚しさが、まさか相手にこれほどまでの動揺を誘うとは彼自身も思ってはいなかった。


裏口までの短い道程では解決するものなど何一つないように見える。この押し問答も例外ではなく、
難なく辿り着いた裏口の扉を前にしても、ソフィアがその扉を開けて外に出ようとする瞬間も、ユエルはいつものように答えを見出せなかった。

「じゃあ私はこれで。あの人には悪いことをしたと伝えてください」

そしていつものように無言で背中を見送ることしかできない自分と向き合わされる。そして痛感する。あの時決めたことは何だったのか、と。
あの時に聞いた悲痛な叫びを押し返したあの言葉は、自分を偽るためだけに吐き捨てられた単なる口先だけの方便だったのか?

「あ、あのさ!」

違う。否定した瞬間に、自然と言葉が口から飛び出していた。その声を受けて踵を返そうとした彼女の動きが止まり、その場で固まった。

「無理とかしてないか?」

話の意図が掴めないといった表情で、首をかしげてユエルを凝視するソフィア。そんな表情にも負けずに彼の口からは無尽蔵に言葉が出てくるようだった。

「前に行ってただろ? 俺たちみたいなレイヴンが嫌いだって。それなのに、君はここに来た。わざわざACの目の前にまでだ。しかも気づかれないようにいろんな細工までしてる。俺から見れば、無理してるとしか見えないんだよ。よっぽどの理由がない限りこんなことはできないんじゃないか?」

光が届きにくい路地裏でも、彼女の表情に影が刺したことは十分理解できた。 

「やっぱり、わかってたんですね」
「薄々、な」

何とも言えないソフィアの乾いた笑い声が響き、それがユエルの胸を焦がす。

「今度は誘ってくれよ。そうしたらいつでも行くからさ」
「え?」

問い返したいのは自分も同じだった。蛇口を全開にした時と同じように、止め処なく溢れてきた言葉の羅列。
この期に及んで自分は一体何を言いたがっているのか。思考すらも拒絶される無意識下の言葉に、彼自身、徐々に興味が沸いてきたかのようだった。

「その、君が無理してこっちに来るくらいなら、俺が向こうに行った方がマシだと思ったんだよ。それに、前にもう一度来てくれっていっただろ? あの約束もしないといけないしさ」
「……ちゃんと、覚えててくれたんですね」

自身の心臓が弾け飛んでしまうかのようなユエルの爆弾発言に、彼女もまた大いに戸惑うかと思ったが、予想に反して当の本人は至って落ち着きのある様子で応えていた。

「あいにく、人の話を簡単に聞き流せる余裕なんか今の俺にはないんだ。根が単純だからだろうな、たぶん。だから言われたことは大抵覚えてるよ」

今の自分を凝集したのがこの言葉なのだろうな。と己の言葉に無理矢理納得させられたような気分だった。
口下手で世間知らずで甲斐性なし。戦闘以外での自分は間違いなく、この三つを盛大に掲げられるほどの人物に違いない。
けれど、そう自覚できただけでも収穫なのではないのか? 以前は言葉にすらならなかったものが今ではきちんと理解できる。


口元に形作られた薄っすらとした笑みがユエルの視界から消えていく。腰をゆっくりと折り曲げたソフィアが軽い会釈をしたからだった。
彼女が顔を上げてから、踵を返して見えなくなるまで彼は扉の前に立ち尽くしていた。「お待ちしています」その一言を彼はずっと待っていた。


しかしそれはソフィアの口から放たれることはなかった。顔を上げた彼女はわずかにユエルと視線を交わしただけで、それ以上のことはしなかった。
所詮、彼女にとっての自分はただのレイヴンでしかないのだろうか。誰もいなくなった裏の路地で、冷たい空気に晒されながらユエルは思った。


棒のようにその場に縛り付けられていたユエルは、その後、はっとした様子で裏口の扉を閉めていた。
自分は完全に本来の目的を忘れている。予想外の道草を食っていたことを戒め、彼はその記憶に押し出されるように歩調を速めていた。


ソフィアが全身の血液を頭に昇らせているかのようなセネカと鉢合わせしたらどう思うのか。
唯一彼女に伝え損ねたことを思い返しながら、彼はたった一人で彼の向かう先にいる男の下へと進んでいった。










『入れば殺す』の立て札を華麗に無視し、扉を開けてみれば、なるほどそこは確かに別世界と呼べるものに相応しい世界だった。
散乱している書類の山が足の踏み場を奪い去り、ろくに換気もしていない空気はこれでもかと言わんばかりに荒みきっている。


そんな部屋に置かれたデスク上に目的の男はいた。だが、椅子に腰掛けて背中をくの字に曲げて突っ伏すその男は、一向に動く気配がない。
背中が微かに上下していることから、ユエルは何とか彼が生きているということを確認することができるのだが、
しかしそれでも、その男――ラスティの様子はとてもまともと呼べるものではなかった。


埋め尽くす書類には特に変化はなかったが、何よりまず、隣に置いてある煙草の吸殻が異常である。
一体何箱制覇したのだろうか、とうの昔に積載量を超えた灰皿はその吸殻のなごりをあろうことかその辺に撒かれた紙面上にまで広がっている。


今にも引火しそうな様相の筈なのに、当の本人と言えばそんな状況などお構いなしに静かな寝息を立てながら眠っていた。
口を半開きにして、端からはだらりと一筋の涎が垂れている。それが顎のあたりに敷かれた一枚の資料に滴り落ち、大きな染みが侵食し始めていた。
加えて男の何ともいえない間抜け面は率直な感想ですら言葉を濁しそうなほどだ。これがあのラスティなのか。ユエルが思うのも無理はなかった。

「ったく、どこで何してるのかと思えばこの野朗は……」

持っていたヘルメットを手放し、次の行動に備えて軽く息を吸い込む。

「おい、ラスティ! こんなところで涎垂らしてないで起きろ!」

ユエル渾身の咆哮に反応したのか、ラスティの背中がぴくりと跳ねた。
目を開けてから先は条件反射だろう。何かを思い出したかのように跳ね起きる彼の姿は、水を奪われた魚のようにも見えた。

「……んあ?」

視線が定まらず、汚らしい涎は未だに健在、加えて人間では理解不能の呻き声だ。想像を超えたラスティの寝起き姿には正直絶句するしかない。

「ん、何だお前かよ……」
「悪かったな、俺なんかで」

じゅるりと涎を啜る音がユエルの耳にしつこく残った。まだ目を開ききっていないラスティは寝ぼけた表情のままで口元を拭う。
よほど不自然な体勢で寝ていたのか。頭を押さえ「頭痛ぇ……」と呟く姿が後に続いた。

「変な体勢で寝てるからだよ、馬鹿」
「悪かったな。最近寝てないんだ。ふかふかのベッドでしか寝れないどこかの贅沢馬鹿と一緒にするな」

切れの悪い文句を吐き捨て、山盛りの吸殻の中からまだ比較的長い煙草を掻い摘んで口に寄せる。
しかしまだ寝ぼけているのか、目の前にあるライターを何故か見つけられず、代わりに必死に服をまさぐる姿からは、まだ本調子とはとても見えなかった。

「前にあるだろ、前に……」
「お、本当だ。ったく真剣にヤバイな。まだボケてやがる。ああ、一応礼だけはしとくぜ。ありがとよ、贅沢馬鹿」

眉間の皺が一気に倍加した。なるほど、いつものラスティがようやく戻ってきたようだ。憎さ半分嬉しさ半分で彼の顔を見つめ直すユエルだったが、

「一体どれだけ寝てないんだよ? 顔色最悪だぞ?」

目の下に黒い染みを色濃く浮き上がらせ、覇気の篭もっていない体躯をどうにか動かしているといった彼の様子に、ユエルは呆れたような口調で言う。

「三日ってところか。あんまり覚えてない」
「三日って……。そんな長い時間何してたんだ?」
「AC動かしてるだけのお前にはわからないさ」

一、二回紫煙をくゆらせた後、持っていた吸殻を再び灰皿の中へと押し込むラスティは、

「なのによ……」

と力なく呟いたと思えば、明らかな敵意を含んだ視線をユエルに飛ばし彼を驚かせた。

「お前らと来たら、そんな事情もお構いなしだ。やれサイン書けだの、さっさと起きろだの。お前らはあれか、俺を無敵超人かなんかだとでも思ってるのか? だったらとんでもない勘違いだ」
「い、いや、それは……」
「夢のような安眠時間を見事にぶち壊してくれたんだ。それなりの用事でなけりゃ……。お前、泣き叫ぶだけじゃ済まないぞ?」

ソフィアがラスティの快眠をぶち壊してから、まだそれほど時間は経っていない。ということはそのわずか数十分間の間に、
ラスティはあれだけの醜態をさらけ出せるほどにまで陥ったということになる。そしてその二度目の快眠を打ち砕いたのは……。

「安心しろよ。今のあんたに動けなんて頼みはできない。だから、あんたはただ喋ってくれるだけでいい」
「妙に遠回しな言い方だな。どういう意味だ、それは?」

まだ重たそうな瞼をしきりに擦りながらも、ラスティが訝しげな視線でユエルを貫く。

「ヴィルゴに、あのランカー一位のレイヴンに俺は会った」

静かに言うべきを告げ、ユエルはそうしてラスティの反応を待ち続けた。だがそこで空気が変わった。
彼は今までの行動をピタリと止め、ユエルを一直線に凝視している。もちろん返答は返ってはこなかった。

「昨日のことだ。知り合いのところで依頼を受けた。でもその依頼はどこか変わっていて。不自然とも思ったけど、それでも俺はその依頼を受けた。そしてそこに、あいつがいた」

ユエルのたった一言が場の雰囲気を激変させたのは明らか。その声に反応し、ラスティの目つきが真剣なものになる。
まるで今まで寝ぼけていたのが嘘のように感じられたそれは、ラスティが本気になったという事実をユエルの頭に刻み込んでいった。
今まで溜め込んでいた圧を押し出すかのように、ラスティが大きな溜め息を吐く。

「何を言うのかと思えば……。そんな冗談、面白くもないし笑えねえよ」
「やっぱり信じてくれないんだな」

先程までにはなかった鋭い眼光が突如としてラスティの瞳の中に表れ、その二つの輝きがユエルにミーシャの言葉を思い出させていた。
絶対に聞くことなどできない。今となってはこれほど奮い立つものはないだろう。絶対と断定されてるものを覆すということ。
少なくともこの時点でのユエルは、間違いなくそれができると確信していた。自分には揺るぎない証拠があるのだから吐かせることは容易である、と。

「証拠ならいくらでもある。俺のACだ。俺の機体はあいつに全武装を破壊されて無力化されてる。連れのACは致命傷をわざと避けられて半壊状態。こんな神業のような芸当ができるのは……」
「ヴィルゴしかいない。か? 笑わせるな。たったそれだけで証拠だとでも言うつもりなのか、お前は?」

だが、その慢心は罵倒のように浴びせかけられる辛辣な言葉によって、見るも無残な形となって消えていった。
冷徹な視線から怒気のような熱を帯びる視線へと変貌しつつあるラスティは、そこで再度大きな溜め息を吐いた。

「まさかお前の口からそんなくだらない話が出るとはな。失望したよ、がっかりだ」
「お、おい、ちょっと待てよ……! 何でいきなりそんな話になるんだ?」

慌てた様子でユエルが弁解に走ろうとしたが、彼が事の本質が掴めているとはやはり思いにくい。

「お前がそんな話題を吹っかけてきたからだ。他に何がある?」

ラスティがそれをいかにも迷惑だ、と言わんばかりの口調で応える。
同時に、彼の出す特有の威圧感が無言でユエルに告げていた。お前に知る資格はない、と。


当事者であるにも関わらず、未だに信用されていない自分。何を証拠としても、何を主張してもそれはラスティには届かない。
その意思を感じ取った瞬間、ユエルは理解した気がした。つまり、この話は自分では絶対に届くことができない高みにあるということなのだ。
単なるレイヴンでしかない男が、ずけずけと入り込んで良い話ではない。ラスティはそう言っている。


しかし、考えれば考えるほど、そして納得しようと思えば思うほど、だらんと下げていたユエルの拳に自然と力が篭もっていく。
ふざけるな。納得などできるわけがない。自分は一方的に否定されただけで引き下がるような根性なしとは違うのだ。
覚悟するのに時間はそれ程必要ではなかった。是が非でも吐かせてやる。そう心に誓えば、後は勝手に進んでくれる筈だった。

「……知ってるんだな、あのレイヴンのこと」
「ああ、よく知ってる」
「だったら――」
「話してくれ、か? ふざけるのもいい加減にしろよ。絶対にお断りだ」
「どうして?」
「決まってる。話す理由がないからだ」

だが何度聞いてもそれは同じままだった。鋭い口調そのままにラスティが無言で訴えてくる。
返す言葉をなくし、ユエルはその場で黙り込むしかなかった。もちろん、そんな無防備な状態をラスティが見逃す筈もなかった。

「逆に聞いてやる。どうしてお前はあいつのことを聞きたがる? 半殺しにされた腹いせか? それともトラブルに巻き込まれたい願望でもあるのか?」

不意に問われても、彼の口からは何の言葉も出てきてはくれなかった。
見逃されたことでプライドをズタズタにされたから? 次元の違う相手と対峙し、一皮剥けようと思ったのか?
思いつくままに理由となる候補を次々と挙げていくが、何故かその中に納得できるような答えはなかった。

「まず最初に言っておくが、どんな願望だろうと無駄なことだ。どんな理由でも同じなんだよ。全く足りない。仮にてめぇが考えそうな理由をありったけかき集めたとしてもだ。それでもお前は俺の出す条件を満たすことはできない。絶対にな」

嘲りでも憤怒でもない。ただひたすらに無感情にラスティは言った。あまりに長い年月が経ち、乾ききっている真理。
今さら動かしようがない事実。何年も前から実現不可能という結論が確定していたということ。


それが真理として現出したまさにその瞬間に、立ち会っていない者には知る資格など与えられる筈がない。
頑なに拒むラスティの姿には今まで誰も見たことのないような気迫が篭もっていた。吐かせようと試みたユエルとは最早比較にすらならない。

「まあ、実感が沸かないようなら代わりに面白いことを教えてやる」
「面白いこと?」

ラスティの目は既にユエルを見ていなかった。どこにも視線を合わせていないような瞳をちらつかせ、ラスティは笑みを浮かべながら静かに言った。

「……くだらない話さ。理想に溺れた馬鹿野朗どもが引き起こした哀れな昔話だよ」



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