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22.


だらんと敵の腕が力なく垂れる。完膚なきまでに打ちのめされて戦意でも喪失したのだろうか。
漆黒のACが完全に動きをとめた。少年はそれをACのコクピットから見ていた。

「……僕たちを、舐めるな」

これで勝負あり。挑発も返答すらもなくなった静謐なコクピットの内部で、アリエスは顔の筋肉を吊り上げながら、
邪悪な笑みを浮かべていた。少年の顔色までは窺うことはできない。何故なら、
口元だけが笑みの形を成し、顔の部分は明らかに精密と言わんばかりの特殊なバイザーで隠されていたから。


防護用とも違うそのバイザーには、常人には理解し得ぬような無数の文字列が刻まれ、少年の視界を埋め尽くしていた。
洪水のように押し寄せているだろうその情報の瀑布にも、少年はまったく動じる気配がない。
こんなものを処理できなくて何が精鋭だ。と彼は思う。頭の中へと無作為に叩き込まれる数字の羅列を、
片手間に受け止めながら、アリエスはその自信に満ちた笑みを崩さずに、目の前の哀れなACをただ嘲り笑っていた。


彼にとっては、この瞬間こそが何よりの至福の一時であった。己の強さに絶対の自信を持ち、そしてその力を鼓舞する愚かな連中。
負ける筈がないという前提でもあるかのように、逃げるという選択肢を知らない無知蒙昧な彼らが、
まるで奈落の底に突き落とされたかのように、絶望し、戦慄し、恐怖に打ち震える。その一部始終を拝むことが彼にとっての何よりの楽しみだった。


自信たっぷりだった人間が、自分の信じる戦術や理念を木っ端微塵に打ち砕かれて、
命乞いすらも厭わない小物に成り下がる瞬間は、いつ見ても飽きることがない。


相手が子どもだからと言って、舐めきった言動をする馬鹿に、あろうことか手を抜こうとする下衆まで。
種類はそれこそピンからキリまであったが、今まで彼が始末してきた相手のほとんどは、
最初のうちは傲慢で自己中心的な性格を思う存分披露していたが、最後には必ず命乞いというパターンが大半だった。


この黒いACも彼らと同じように許しを求めてくるのだろうか。そうなれば最高だ。
もちろん助けてやる気はさらさらない。適当に情報だけかき集めて、じっくりとなぶり殺してやる。


興味深いことはまだあった。言動から考えるに、先程撃破した蒼白ACは、どうやら特別な存在らしい。
ならこいつを壊せば、もう感動するくらいの恍惚が得られることだろう。このアゼルとか言うレイヴンの心にも、二重の苦痛を与えることができる。
アゼルを殺すのはその後でも構わないだろう。生きることすら放棄したくなるような地獄を、思う存分に体験させてからの方が楽しみは増すというものだ。


思えば思うほど、アリエスの顔が邪悪に歪む。禍々しいほどの凶悪な微笑を見せた、その能面には確かに狂気に満ちているのかもしれない。
まだ年端もいかない子どもの時代。彼がまだアリエスではなくレイク・ガイアという名前を持っていた頃から、その兆候はあった。
普通の家庭で生まれ、普通の生活に染まってはいたが、彼はどこか他人とは違う一面を持ち合わせていた。思えばあれが出発点だった。


レイクは頭の回転が早く、運動神経にも優れていた。勉強でもスポーツでも彼は人並み以上の成果を上げていた。
皆が頭を抱えて悩み続けている問題も、何故こんなこともできないのかと疑問に思いながら即答し、その度に彼は賞賛を浴びた。
どこかの催し物の大会に助っ人として出場し、本気を出すまでもなく優勝してしまったときには、まるで英雄にでもなったかのような感覚を味わったほどだ。


喧嘩においても無類の強さを誇っていた。彼の活躍を疎ましく思う連中は当然のようにいたから、陰湿な嫌がらせを受けたこともあった。
だが、その犯行集団の親玉を突き止めるや否や、彼は有無を言わさずそいつを白昼堂々殴り倒した。子どもの喧嘩などたかが知れていたが、彼は違った。


敵の親玉の顔を適当に歪めたのちに、ついでとして彼はその腕を折った。そのときだけは念入りに人の目が届かないところで行った。
もちろん大問題に発展したが、レイクは子どもとは思えないほどの卓越した弁論力と子どもさながらの演技をそこで披露し、
結果的に無罪放免という判定を勝ち取っていた。その一連の事件が彼の名をさらに上げる結果となり、また彼を根本的に歪めてしまった発端にもなった。


自分のやることはすべて正しい。そんな絶対の理念を見出したレイクは次第に、何事にも頂点に立っていなければならないと思うようになっていった。
単なる負けず嫌いという次元ではなく、ありとあらゆる手段を持ってしても、トップの座を勝ち得るという歪んだ思考。
そして、とある分野でどうしても勝てなかった友人を、綿密な策略をもって陥れたことが、彼に一つの転機をもたらすことになる。


レイクによって失意のどん底に叩き落された少年が、その数日後に不慮の事故で死んでしまったのだ。
単なる事故に過ぎなかったのだが、その日を境に嫌な噂が広がった。どういうわけか、あれはレイクが事故に見せかけて彼を殺したのだと言うのだ。
たかだか十歳程度の子どもに、そんな真似ができるわけがないと彼の両親は猛抗議したが、類稀なる彼の才能がこの時だけは足枷となってしまった。


あの子ならやりかねない。あの子は他の子とは違う異端児だ。噂が噂を呼ぶような、そんな周囲からの目に耐え切れなくなったのか、
両親はレイクを転校させることに決めた。信頼していた筈の母の目にも、彼に対する怯えがはっきりと表れていたことに彼は気づいていた。


そんな中、レイクの元に見知らぬ人間が現れた。何でも、才能に秀でた子どもを集めた特殊な学校ができるから是非来て欲しいという宣伝だった。
説明を加えていくセールスマンの口上は実に見事だったようで、子どもを親元から離さなくてはならないという問題点がありながらも、
結局、彼の両親はレイクをそこに転入させることを決めた。そのとき彼は見た。
これでこの厄介者を手放せる。彼らの瞳に確かにそんな思考が宿っていたことを。レイクはそれを見逃さなかった。


結論から言うと、そのセールスマンの言うことは半分が嘘であり、もう半分が真実だった。
スクールと称された施設は、実はとある実験を行う研究所であり、レイクはその検体として疑いようのない誘拐事件に巻き込まれたのだ。


その施設には他にも彼と同じような手段で連れてこられたのであろう少年少女が二、三十人ほどいた。
住む世界も価値観もまったく異なる彼らだったが、たった一つだけ共通点があった。
自分のやることは全て正しい。レイクが見出していた絶対の自信。それがこの施設内にいる子どもすべての双眸に宿っていたのだ。


だが実際、周囲の人間に漲っていた覇気は、その大半が薄っぺらな贋作であった。
施設での生活が始まって数日ほど経った日に、脱走者が出た。原因はただの軽いホームシックだ。
しかし次の日、無残に切り刻まれた亡骸が中庭の正面で捨てられていたとき、まるで遠足気分だった少年少女たちがその場で凍りついた。


恐怖に泣き叫ぶ奴。言葉を失って固まっている奴。人目も気にせずに胃から内容物を吐き出す奴。
わずか数日で、半分以上の人間の瞳の中から燦々と輝いていた自信が消えた。


レイクはそれを影でほくそ笑んでいた。彼は無意識の内に気づいていたのだ。これが主催者側による選別作業なのだということに。
実際、何人かは彼と同じように気づいていたようで、阿鼻叫喚の坩堝と化す空間を、
まるで他人事のように傍観している数人の人間を、レイクはそして密かに心の中に書き留めた。


いずれ自分の敵となるタイプの人間。極度の負けず嫌いという性格がここでも作用し、
彼は本格的に開始された教育という名の訓練をがむしゃらに耐え抜くことに成功する。事故に見せかけてライバルを蹴落とすことも容易だった。
むしろ、彼がやればやるほどに彼に対する評価は上がっていくのだから、やめるという考えが生まれてくるわけもなかったが。


死ぬ間際まで自分は死ぬ筈がないと疑わない人間を殺す瞬間は、彼に思わぬ快楽を与えた。
上には上がいると悟ったときの他人の引き攣った顔というものが、あまりに滑稽なことに気づいて以来、彼の欲望は主にその部分に注がれる。
とめるものは誰もいなかった。あの幼少時代と同じように、誰もが彼を敬い、彼を慕い、そして彼を恐れていたから。


数ヶ月の月日をおいて、レイクは遂にあらかじめ目星を付けておいた人間のほとんどを一掃してしまう。
一掃と言っても、大抵は生き残っている。その研究所の社員となるか、一兵士として派遣されるかが主だった。
死んだ人間も確かに多いが、見込みなしと烙印を押され、実験の材料とされることにくらべればまだマシなほうと言えた。


残っているのはレイクに対して媚を売り続ける雑魚ばかり。あとは放っておいても勝手に淘汰されるに決まっている。
自分を守ってくれる術がもうないと知ったときの顔が見てみたい気もしたが、雑魚の死に様など面白みが欠ける気がしたので彼はしなかった。


だが現実は、レイクが思い描いていたものとはあまりにかけ離れていた。最終的に残った人間は、レイクの他に、あと二人いた。
しかも、彼らは兄妹だった。彼の記憶には刻まれてはいない連中。つまりはあの選別の際に脱落者の中に混じっていた雑魚の一部ということ。
予想外の結末に、今すぐにでも二人を殺したいと思ったレイクだったが、彼らの前に現れた妖艶な女が、
真っ先にレイクの成果を褒め称えたことにより、その思考は暴走することなく彼の心の中で留まり続け、そして静かに霧散していった。


自分はここでも頂点に立ったのだ。周囲の人間の目はここでも彼に注がれていた。その傲慢さが彼の目を曇らせる。
彼らの視線が何を意味していたのかなど、当時のレイクには理解できる筈もなかったが、彼らの瞳に映った畏怖だけで、当時のレイクは満足だった。


選別作業が終了すれば、あとはとんとん拍子にことが運んだ。
適性検査なるものをされ、身体の隅から隅まで調べつくされた後、レイクを待っていたのは手術台であった。

「このままではあなたの才能は燻り続けてしまう。これはそれを防ぐための処置よ」

歯を抜くよりも簡単だから安心して。最初に会ったあの艶かしい女がそう言っていた。ああ、この女がトップなのか。
レイクは直感でそれを悟る。清潔そうな白衣を着たその女の瞳の奥は、彼が今まで見たこともないような強烈な輝きに満ちていた。
まるで自分が世界の中心にいるかのように。いや、自分が世界を動かしていると言わんばかりに、彼女の双眸は煌々と燃え盛っていた。


上には上がいる。全身麻酔を施され、朦朧とする意識の中で、彼はそれを思い知らされた。
排除しても排除しても沸いてくる連中。特に今回の相手は間違いなく、彼の人生の中で最も脅威になるであろう類の人間だった。
そんな相手から力を与えられるということが、彼にとっては鼻持ちならなかった。


いつか後悔させてやる。まだ見ぬ自分の内に眠る力というものに心躍らせながら、彼は抵抗することなく混濁する意識を受け入れていく。
と、視界が真っ白に染まる刹那、別室から手術台を見つめる一人の男がレイクの瞳に映っていた。


男は笑っていた。ただ笑っていたのではなく、口元を奸悪に歪めた表情からは、彼を明らかに蔑んでいるような意思が窺えた。
何だ、あいつは。だが、それ以上の思考は不可能だった。自分の身体から力が抜けたかと思った刹那、彼は静かな眠りに叩き落されていた。

「作戦中止だ」
「あ?」

不意に昔を思い返していたレイク――アリエスの耳元に、突然理解しがたい声が飛び込んできた。
敵が行動を起こす気配をまったく見せなくなったが故に、呑気に過去を懐かしむ余裕を見せていたアリエスだったが、その一言で目を覚ました。

「いきなり何だよ、レオ。作戦中止? 何を言い出すかと思ったら。あんた、ふざけて――」
「撤退しろと言っている。何度も言わせるな」

床を這うように低く、そして厚みのある声が鋭く響いた。だが言っていることは滅茶苦茶だ。

「はあ? この状況で撤退し――」
「ガタガタ言わずにさっさと帰ってきやがれ、この大馬鹿野郎」

中年真っ盛りといった老けた男が、遠くの輸送機の中で踏ん反り返っている姿がアリエスの頭に浮かんだ。
つくづく頭に来る奴だ。通信越しから飛び込んでくるレオの声に、彼は形作っていた笑みを崩し、露骨に顔を歪める。
いくら直属の司令官だからと言っても、この一方的な言動はあんまりだ。腹の内に不平不満を溜め込みつつ、彼は口を開こうとした。

「って、あーあ、もう遅いわ。おい、クソガキ。今の命令だけどな。全部なかったことでいいぞ」

だが、自身が最も嫌うクソガキという侮蔑とともに、さらに想像を絶する返答が、黒光るスピーカーの奥から入り込んできた。
直後、レオの言葉の意味していたものがアリエスの瞳に映りこむ。どういうことだと疑問を口にする暇もなかった。

「お前……。どうして、どうしてお前がここにいる」

見上げた先に現れたのは、ここにいる筈のない逆関節型のAC<ヤルダバオト>だった。
渇いた血でも塗りこんだような毒々しい赤紫の装甲は忘れようと思っても忘れられない。
敵の片割れを撃墜するという指令を帯びていた筈のそんなヤルダバオトが、どういうわけかアリエスの目の前に浮かんでいた。


機体の装甲が無残に抉られていることは初見で判断が付いた。敵にやられておめおめと逃げ帰ってきたのだろうか?
いや、ありえない。アリエスは首を振って否定する。あいつに、ジェミニに命令違反など不可能だ。
殺せと命じられれば、たとえ自爆してでも任務を果たす。それがジェミニという人形に刻まれた唯一無二の知能なのだから。

「撤退。命令」

抑揚の欠片もない渇いた声が響く。それは思わず、機体に備わるAIと聞き間違えてしまうほどだった。
聞こえてくる高い声質こそ少女のそれだが、感情の類はそこには一切篭められてはいなかった。


まだアリエスがレイクという少年だったころ、繰り返された地獄に近い日々を耐え切った合格者の中に彼女と彼女の兄がいた。
当時のレイクにとっての誤算がこれだった。有力な候補者たちが続々と脱落していった中で、何故彼女たちが残ることができたのか。


だが結局は、彼女は人が踏み込んではいけない領域に堕ちていった。そして力を求めすぎたあまりに背負ってしまった重い代償。
感情をなくし、度重なる投薬と強化手術の影響で、感覚のほとんどを麻痺させてまでも、戦いを渇望し続けること。
修羅を思わせるようなそんな彼女も、アリエスにとってみれば、ただの使い勝手のよい操り人形でしかなかった。

「お前まで、そんなこと言うんだな。僕よりもあの男の言うことを聞くのか? あいつの、意味不明な命令なんかにさ」

その程度の女に、わずかでも計画を乱されることが彼には我慢ならなかった。
アリエスがこの少女と出会ってからすでに六年。思えば、すでにあのときから、彼女には色々と狂わされてきた記憶がある。


才能。あの白衣女は、その一言ですべてを片付けてしまった。どんな人間でも先天的に宿った才能を無視することはできないのだと。
無事に手術を終え、ACという戦闘兵器に対面し、アリエスという名前を与えられたとき、
彼女と彼女の兄は、それぞれジェミニ、タウルスという名前を受け取りながら、彼の隣にさも当然のように立っていた。

「理解。可能」

声の厚みも、感情の吐露もないためか、彼女の平坦な口調はどこかアリエスを嘲っているようにも聞こえた。

「あ?」

自分一人だけが状況を把握していないという、あってはならないような雰囲気に、苛立ちを隠せなくなった彼の口から荒々しい声が飛ぶ。

「敵影捕捉。追撃。最重要標的と断定。勝率極めて低値。戦闘行為の即時中止を推奨」
「ふーん、そういうことか」

そこまで聞いたところで彼はようやく気づいた。

「最重要ねえ。ってことは、やっぱりこの地区に隠れてたってことか」

最重要ターゲット。標的とは組織が独自の調査によって探し当てた、今後の活動に支障をもたらす可能性を持った人間のこと。
レイヴンであったり政治家であったり、またはホームレスであったりと職歴はとてつもなく幅広い。
その中で最上級、他の何を置いても優先して対処するべき存在に、この最重要という冠詞は与えられる。
該当人数はたったの二人。いずれもレイヴンで、二人ともこの界隈で知らない人間はまずいないというほどの有名人である。

「やっと見つけた」

ジェミニがそれを発言したということは事実、そういうことなのだろう。ようやく事態が把握できたと思った矢先にその声は飛んできた。
最重要標的。それすなわち、抹消するためなら街一つ吹き飛ばすことすらまかり通ってしまうほどの存在がだ。
その内の一体が彼の前に姿を現した。剥き出しの殺意を相変わらず迸り続けているその声は、間違いなくヴィルゴそのものだった。
視線を突きつけていた漆黒のACから、簡単に視線を外して、アガスティアの傍に降り立っていた純白のACを目にする。

「やあ、ヴィルゴ。にしても今日はほんとに人が来るんだな。あんたで良かったよ。そうじゃなかったら、また猫被らないといけなかったからね」
「あの男は、レオはどこにいる?」

だが奇妙なことに、ヴィルゴの機体でもあるアイン・ソフは片腕を失っていた。装甲にも目につく損傷が多数存在しており、
凍えるような威圧感を漲らせている割には、いささか説得力に欠ける。恐らくジェミニと一戦交えたのだろう。
と彼は推察し、またジェミニのヤルダバオトが酷く傷ついていた理由も自動的に理解した。

「言え。アリエス」

最近は正体を明かさぬよう声を操作していると聞いていたヴィルゴだったが、アリエスの耳に飛び込んできたのは紛れもない肉声だった。
隠す必要のない相手には、余計な真似はしないということなのか。それとも単に滲み出ている強烈な威圧感を余すことなく与えたいのだろうか。

「僕が言うとでも思ってるの? あれだけ暴れておいて、よくもまあそんないけしゃあしゃあとものが言えるね」

接してくる相手の誰もが、彼を見下していた。あの男もヴィルゴもそれは同じだった。
誰も認めない。認めてくれない。過去ではありえなかった現実の日々が、
かつて忌々しい記憶を呼び起こし、それは怨念に近いものとなってアリエスの身体に纏わりつく。

「言わせたいならどうすればいいのか。あんたはもう知ってるだろ?」
「……ああ」
「でも、わからないな。二対一だよ、二対一。しかも僕らは同業者だ、あんたと一緒にいた覚えはないけどね。そこに突っ立ってる雑魚二匹ならまだしも、僕とこの人形相手だったら絶対に帳尻が合わないと思うんだけど」

これも半分が本音で半分が嘘だった。二対一で勝てるのならとうの昔に勝負は決している。辛酸を舐めさせられたのは、一度や二度ではない。
戦うたびにヴィルゴという存在の恐ろしさを身に染みませているのは、他でもないアリエスだ。
それでもなお彼が生き残っているのは、ひとえに彼のバックにいるあの男の存在があってこそ。それがなければ彼はすでに殺されている。

「と言っても、僕らもあんたを逃がすつもりはないんだけどね。タウルスがあんたに殺されてから、こいつがどれだけ壊れたかわかる?」

そして一年前、アリエスが誇り屈強な要塞とも言うべき思想が瓦解を始めたころとときを同じくして、ジェミニは壊れた。
最愛の兄をヴィルゴに目の前で殺され、心の仕切りを解放した彼女はさらなる禁断の領域に自らの意思で踏み込んだのだ。
さらなる手術や連続した薬物投与が続けられ、そして彼女は感情を失った。精神的な負荷が許容量を超えたことによる代償。
現実が受け止められずに殻に閉じこもったんだ。眉一つ動かさなくなった彼女を見て、レオはにやけながらそう言っていた。

「わからないよね。あれは酷かったよ。ま、同じくらい笑えたんだけどね」

そんなジェミニが馬鹿馬鹿しくてたまらなかった。たかだか復讐という感情一つでここまで狂うことなど彼には到底できなかった。
こんな人形みたいなものに成り下がってまで欲しい力などない。お前は馬鹿だ。彼は彼女の生気の欠片も見当たらない瞳を見つめ、そう吐き捨てた。

「だから面白いものが見れたお礼として、僕はあんたを殺すよ。今日ここで、この場所で」

それから彼らの戦績は軒並み向上した。ヴィルゴと相対することはなかったが、もはや通常のレイヴンでは彼らの相手になるものはいなかった。
一般に有名とされる上位ランクのレイヴンですら、あまりの手ごたえのなさに落胆したほどだ。

「拒否する。もう今までとは状況が違っている。見逃すわけにはいかない」
「良かった。そう言ってくれて嬉しいよ」

今度こそ前のようにはいかない。これは自分たちの力を試す絶好の機会だ。損傷しているのはどちらも同じ。
完膚なきまでに破壊しつくして、その顔を絶望に歪ませてやる。すでに先程まで戦っていた二機のACのことなど彼は完全に忘れていた。
ただ、目の前に聳える神々しいACだけが、再び全身に狂気を纏わせ始めたアリエスの瞳の中に輝いていた。

「じゃあ始めよ――」
「はいはいはい。タイムだタイム」

トリガーに手をかけたまさにそのときだった。

「俺を放っておいたまま勝手に話を進めるなっての。頼むから無視しないでくれ、寂しいじゃねえか」

燃え滾っていた全身にいきなり水を掛けられたような感覚に陥り、アリエスは一瞬言葉を失う。飛び込んできたレオの声。
だが、そこにかつての覇気は見当たらなかった。構ってほしいと言わんばかりに泣きついたような声調は、ただの中年と何ら変わりないほどに聞き苦しいものだった。

「レ、レオ? どういうつも――」
「よおヴィルゴ。一年ぶりくらいじゃねえか。久しぶりだな。元気にしてたか?」
「やはりいたな。レオ」

アリエスが疑問を投げかけるが、軽く無視された。だがどういうわけか、
寸前まで彼を睨みつけていたヴィルゴでさえも、声の矛先をアリエスとは違う別の方向へと向けてしまっていた。
無理矢理舞台を降ろされたような敗北感が全身を包み込み、相手にもされなくなったという失望がアリエスの表情をかき乱す。

「そりゃいるさ。一応はそのボケどもの保護者役だからな。ある意味、貧乏くじ引かされたわけだが。こうしてお前に会えたんだ。それもまあいいかと思うことにするよ。一割分くらいだが」

そんなこととはいざ知らず、レオははつらつとした口調で話し始めている。いっそのことこの通信ごと断ち切りたいと思うアリエスだったが、
これ以上蚊帳の外に置かれることだけは避けたかったので、彼は流れ込んでくる会話に不本意ながらも耳を傾けるしかなかった。

「でだ、ヴィルゴ。真剣な相談なんだが、今回だけドンパチするのはやめておかないか? 俺が思うに、戦っても絶対に楽しくない気がするんだ。だから今回は解散ってことでどうだ? 平和的でとても良いと思うんだけどな」
「……ふざけているのか」

敵ながらそれはアリエスも同感だった。真っ先に殺したいと思っている人間たちがこうして顔を突き合わせている中で、
どうすればこんな空気の読めない発言ができるのだろうか。ふざけているという表現としてはほとんど間違ってはいない。

「俺は冗談は嫌いなんだ。知ってるだろ?」
「ああ。だが断る。この二人の次はお前の番だからな」
「やっぱりだよ。あーあ。そう言うと思った。意地っ張りなとこは相変わらずか、この頑固者」

肩を落としたような落胆の声が上がる。だがその内容は相変わらず理解しがたいものでしかない。

「おい、レオ。何を言って――」
「黙れ、クソガキ。今は俺が喋ってるんだ。勝手に話に割り込んでくるな」

瞬間、背筋が凍りついた。味方ですら殺してしまいかねないほどの無差別な敵意を、彼は肌で体験し、そして絶句する。
単に余裕を見せているだけ? 違う。この男は決して遊んでいるわけではない。ヴィルゴの性格を熟知している彼だからこそ、
その上で最適な人格を装っている。彼はそれを巧みに演じているだけなのだ。その能面の裏に、あの怪物を潜ませたままで。

「にしてもヴィルゴよお。俺ら全員殺すっていうその無茶苦茶な自信はどっから出てくるんだ? 頭? 心臓? それとも胸とか?」
「……何が言いたい?」
「別に大した意味はねえんだよ。いや、ただな。“怪我してる”のにどうしてそんな強気でいられるんだって思っただけ」

それを聞きアリエスは思わず「え」という間抜けな声を上げてしまった。ヴィルゴは黙したまま答えなかった。

「この嬢ちゃんが教えてくれたよ。そいつの腕を吹っ飛ばしたときに、お前が怪我したってな」

アリエスに聞き覚えはまったくなかった。つまりジェミニは彼に連絡を寄越さずにそのまま直接レオに伝えたということになる。

「意気込むのは全然構わないんだが、もっと現実味のあるレベルまで落としたほうがいいぞ。年配者の親切なアドバイスとして心に留めといてくれ」

快活さすら思わせるレオの一人語りは弾みがついたかのように、より一層勢いを増していた。
アリエスの弁論力ですら相手にならないほどの演説染みた語りがさらに続く。

「言い直すなら今のうちだ。もちろん、お前が一言でも余計なことを喋った時点で、俺の提案は却下されたと見なす。そうなったらもう俺は知らねえ。お前らで勝手に殺し合うなり、話し合うなり好きにすれば良いさ。俺はゆっくりコーヒーでも飲みながら見学させてもらうから」
「貴様、何を言って――」
「で、最後に残った奴を俺が殺してめでたしめでたしってオチだ。な、後味悪いだろ?」

さらりととてつもない暴言を吐き捨てるレオに、さすがに彼も戸惑ったのか、

「ちょっと待てよ、レオ。それは僕も入ってるのか」

焦りを募らせながら問い詰める。だが、

「あ? 当たり前だろうが」

盛大な舌打ちとともに、当然だと言わんばかりの返答がアリエスの鼓膜に容赦なく突き刺さった。

「僕は仲間だぞ!」
「知らねえよ。お前ムカつくから嫌いだし」

信じられなかった。思わず唖然とする。たかがそんな理由で、自分たちが掘り出してきた逸材を捨て去るつもりなのかと。

「まあ嬢ちゃんが残ったら、俺も考えるけどな」
「……差別かよ」
「おお、難しい言葉知ってるじゃないか。そうだ差別だ。いいか? XYとXXの違いってのは世界においてはとても大事なことだ。ACと戯れるよりも遥かに重要だぜ。テストにもしっかり出るしな」
「何だよ、それ……」
「嫌ならお前もあいつに頼めよ。『どうか撃たないで下さい、お願いします』ってな。でもそれはそれで聞いてみたい気もする。笑えるし。ほら言えよ」

できるわけないだろうが。アリエスは心の中で汚らしい唾を吐く。

「ああ、わかった。プライドが許さないってか。そうだろ、おい?」

だがレオは、彼の反抗心剥き出しの心すら易々と読み取っていた。渇いた笑いがアリエスの耳に触れると、

「でも、よく考えてもみろ。そもそもお前にプライドなんてものあるのか? さっきからそこに突っ立ってるAC相手に腕一本吹っ飛ばされたお前が、プライドなんて言葉を使えるのか? その言葉はそんなに薄っぺらいものなのか?」

レオはさらに渇いた笑いを携えながら言葉を重ねていた。土を掘り返すかのように隠蔽していた汚点を晒され、
さらにぐうの音も出せないほどに徹底した言葉攻めが彼に迫る。どう取り繕うべきかと解答を模索するアリエスは、

「……あれは、不可抗力だ」

襲いくる焦燥に背を押され、アリエスはついろくな思考をしないままに思いついた言葉をそのまま呟いてしまった。

「ククク! そう来たか!」

いつもの自分らしくない発言であることは、言ってからすぐに気づいた。
隙を見逃さんと牙を研いでいたかのように、レオが即座にそのわずかな失敗に噛み付く。

「不可抗力! 不可抗力か! ハハ。それはとても良い言葉だ、アリエス。不可抗力! お前はこの意味をちゃんと知ってて言うのか? 人間じゃどう足掻いても逆らえない事態ってことだ。つまりお前は、お前が舐めきっていた雑魚に、どう足掻いても逆らえない状況に追い込まれたってことになる。そうか。お前はそれを認めるのか」 

機関銃のように放たれる無数の言葉がアリエスを無慈悲に責め立てる。だが彼は反論する時間すら与えられない。
レオは何一つ嘘を言ってはいない。言葉がいくら変われども、結局は真実は変えられない。起きた事実を否定することはできない。
それはただの現実逃避にすぎない。拒絶すれば、さらなる追い討ちがかかる。
だから彼は何も言えない。言えなかった。これ以上の泥の上塗りなどは彼の望むところではないのだ。

「それで調子に乗って、余裕見せまくったあげくに、ネズミ同然の奴らに耳をかじられたわけだ。それで慌てて体裁を取り繕おうと頑張ってやっと敵を倒しました。ってところか」
「敵はちゃんと倒してる。問題などない筈だ」
「なるほどなるほど。まあそりゃそうだ。おい、アリエス。良い言葉を教えてもらったお礼だ。俺からも、お前にために良い言葉を送ってやるよ」
「……何だ?」

嫌な予感が背筋を駆け抜ける。

「今すぐ死ね」

やはり、それがお前の本心か。自分をどん底にまで叩き落してほくそ笑むことがお前にとっての快楽なのか。
深い憎悪を顔に刻み、アリエスは歯を食いしばる。確かに彼はレオという怪物に出会い、
十数年という月日をかけて磨き上げた己の真理を粉々に砕かれた。何度も何度も地に這い蹲らされて、その度に屈辱という泥を舐めさせられた。


レオに対する憎悪は日増しに増していったが、アリエスは今に至るまで、一度たりとも彼に報いていない。
勝てないのだ。策を巡らせようと、実力行使に出ても、レオはそれをあえて受け、そしてすべてを叩き潰してしまう。
どの分野においてもアリエスはレオには勝てなかった。すべての点で劣っている。と。


常に自分が一番だと思い続けていた。他の人間に宿っているものなどかりそめに過ぎない。自分こそが唯一絶対の勝利者なのだと。
だが、自分は彼らと何が変わっているのだろうか。何も変わらない。このレオという化物からしてみれば、自分も偽物の一人でしかない。
力を得たことによりアリエスが気づいたもの。それは皮肉にも、圧倒的な怪物の存在と、それを取り囲む世界の桁が外れた広大さだった。

「あ、そうだ。ヴィルゴ、解答の修正は済んだか?」

態度を即座に翻し、レオは再びヴィルゴに言葉を投げかける。

「重ねて言うが、今お前が死んでもメリットは何もない。仮にこの二人を殺したとしてもだ、お前は結局死ぬ。俺が殺すからな。そして俺はその後ゆっくりと二人の替え玉を探す。お前がいなくなった世界でのんびりとな。どうだ、何も変わらないだろう?」

もはや相手にするのも面倒になったのか、レオの標的は再びヴィルゴの方に移った。

「それならここで綺麗に別れて、続きはまた次の機会に持ち越そうじゃないか。お前の怪我が完治したときにあらためて殺し合えばいい。何なら、今からゆっくりと罠でもなんでも考えて準備を整えたらどうだ。その方が俺も楽しいしな」

冷静に分析すれば、このレオという存在の恐ろしさがわかる。彼は思想や信念とやらには決して左右されることはない。
ただ狂ったように己の快楽だけを満たそうと奔走し、そしてあの強大な能力で展開そのものを根本から改竄するだけ。
彼の行動理念はたった一つ。楽しいか、楽しくないか。ただそれだけだ。敵が死のうが、味方が死のうと彼の心は少しも痛むことはない。

「お前は怪我を無視してまで戦うような馬鹿じゃない。いくら怒ってるふりをしていても、それくらいは俺にだってわかるさ。あ、言っとくが勘違いするなよ。これは取引でもなんでもないから遠慮することはないぞ。お前が戦いたかったら死ぬまで戦えばいい。で、返答は?」

アイン・ソフの動きが止まる。ヴィルゴもまたレオによる攻撃に戸惑っているのか。向けられたままの銃口から銃弾が出る気配はなかった。

「口数が少ないな、ヴィルゴ。辛いのか? 痛いのか?」

コクピットの中で悶え苦しんでいるヴィルゴの姿が容易に想像でき、アリエスは喜悦とも同情とも取れない複雑な想いを抱く。

「くそっ!」
「ん。良い返事だ」

悔恨の情に駆られたようなヴィルゴの咆哮が轟いた。直後、アイン・ソフの左腕がアガスティアから離れていく。
冷静さに定評のあるヴィルゴが、こうも精神をかき乱され、苦汁の選択を捕らざるを得なかったのは、やはりあの男の影響が大半なのだろう。

「よし、お前ら撤退だ。後ろを気にせずのんびり帰ってこい」
「了解」

すべてを言葉のみで片付けてしまったレオにアリエスはさらなる戦慄を覚えた。
不平一つも漏らすことなく、ジェミニがその命令に従って、まず先に戦域を離脱していった。

「おい、アリエス。不満か?」

ヴィルゴが銃口を逸らしたにも関わらず、一向に動こうとしないアリエスを見かねてか、レオは珍しく気遣うような言葉をかけてきた。

「……ああ。すごくね」
「よかった。それを聞いて俺は大満足だ」

だが、期待したほうが愚かだった。

「そういや返事を聞いてないんだが」
「……了解っ!」
「おう、元気があっていいな」

殺したい。今すぐにでも、あの自信しか見えないあの目を絶望一色に染め抜いてやりたい。
歯軋りしながら湯気のように吹き出る殺意を必死で抑えながら、彼はようやく操縦桿に手を伸ばす。

「何故だ」

と、不意にヴィルゴから思いがけぬ質問が聞こえた。

「どうしてこんな真似をする?」
「あ? さっき言っただろうが。言葉ってのは重要なんだよ。たった一文字違うだけでな」

おそらく真意がわかるのは言った本人しかいないだろう。少なくともアリエスには理解ができなかった。

「ああ、そうだ。伝言頼まれてくれよ、ヴィルゴ」

追求させるいとますら与えず、レオが代わりの言葉を覆い被せてしまう。

「あいつに会ったら伝えといてくれ。『近いうちに花束抱えて会いに行く』ってな」

その言葉を最後にレオの声は聞こえなくなった。同時期にアリエスがアイン・ソフに背中を曝け出しながら、領域を離脱していく。
安心できるような状況ではなかったが、さきほどのレオの言葉も影響していたのか、さほど警戒するようなレベルでもなかった。


あいつ。レオが言うあいつとは十中八九あの男に違いない。七年前の騒乱とやらにも参加し、
レオすら軽く凌駕してしまうほどの実力をもった事実上最強の男、サジタリアス。


騒乱周終期に死んだことになっていた筈の男が、生きていた。あの男が死ぬ筈がない。レオは常にそう口にしていたが、
それはまさに現実のものとなり、彼の男は未だに最重要ターゲットの一人として認識され続けている。


レオは変質的なまでにその男に拘っていた。まるで彼を求め続けることがレオにとっての人生そのものであるかのように。
あの狂人を陶酔させるような人物像というのも、一度拝んでみたいという願望があったが、
まだ見つけられない相手を妄想したところで、何の意味もないと結論づけ、彼はコクピットの中でこれからの重苦しい予定を想像し、肩を落とす。


ほんの少し前まで戦っていた二体のACなど目もくれず、アガスティアはその場を飛び立っていく。
その場所に立ち尽くす漆黒のACの姿は、とうの昔にアリエスの頭の中からは削除されていた。





動けなかった。いや、違う。動きたくなかった。この数分の合間に起こった出来事を思い返し、
アゼルは震えが止まらない身体を抑えながら、一人うな垂れていた。奥歯がガタガタと震え、まともな思考すら取れなかった。


手を伸ばせば目の前にあるACに近づける。だができなかった。
一歩でも動けば、自分は死ぬ。特異なACに囲まれ身動きすら取れなくなったアゼルはそれを確信していた。


絶望という業火で身を焼き尽くされつつあった彼の前に現れたもう一体のAC。続いてあのヴィルゴが現れた。
何故こんなところに、トップランカーであるヴィルゴが現れ、そして何故彼と同じ対象に銃を向けているのか。
ただ疑問に思うが、解答は一切寄越されなかった。そして数分に渡る沈黙。
アリエスとヴィルゴ、ともに隻腕のACを操りながら銃口を向け続けていたが、アゼルには彼らがその間何をしていたかを知る術はなかった。


先に銃口を降ろしたのはヴィルゴだった。そして何があったのか、
残りの二機はヴィルゴに対しても、またアゼルたちにも一切関わることなく、その場から離脱していった。
もはや敵とすら思われていない。いや、アゼルは完全に彼らの眼中に入ってはいなかった。すでに廃墟と化して等しい市街地に、そしてようやくの静寂が戻る。

「君が、アゼル・バンガードか」

傷ついてはいるが、それでもなお輝きを失っていない純白の装甲を携えたACが、初めてアゼルにその視線を向けていた。
これがヴィルゴ。搭乗機であるアイン・ソフから迸る未知の圧力を、アゼルは萎縮しきった生身で受け止める。

「あ、ああ」

噂に聞いていたヴィルゴの徹底した秘匿行為を、肌で感じながら彼はその違和感だらけの声に応えた。

「悪いが、あまり時間がない。単刀直入に聞く。君をここに寄越したのはあの男か」
「あの男?」
「サジタリアス」

人の口からその単語を聞いたのは久しぶりだった。忘れようにも忘れられない名前を耳にして、
彼はつい先日まで、張本人と顔を突き合わせていたにもかかわらず、どこか懐かしさを覚えていた。

「そうだ」

スピーカーに向けて彼は言う。

「なんてことを……」

憤慨とも落胆とも言いがたい篭もった呟きが聞こえた。どう偏った聞き取り方をしても、赤の他人が漏らすような類のものではなかった。
あの時以来ではない。あの男のヴィルゴはもっと近い過去に接触を図っている。それもごく最近に。

「今からでも遅くない。君も、もう奴らとは関わるな。たとえあの男の命令だとしてもだ」

忠告という段階を遥かに超えた警告が、耳に重く圧し掛かる。

「このACのパイロットは生きている。向こうも同じような状況だったが、ちゃんと生きていた」
「え……」

彼の目に再び光が灯った。自身を包み込んでいた悪夢のような虚脱感が一気に晴れる。

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

靄のように漂うその残滓を、その叫びがもたらす気勢が吹き飛ばす。

「じゃああいつは……。生きているのか」
「ああ。……コクピットの中で暴れて、いる」
「どうしてそんなことがわかる?」

どういうわけか返答はなかった。何事かと耳をスピーカーに近づけながら彼はもう一度だけ問う。

「ヴィルゴ?」
「……すまないが、これ以上は無理だ。私も、離脱する」

元々呟くようなくぐもった声にさらなる問題が発生したかのように、息も絶え絶えと言わんばかりにヴィルゴが言葉を搾り出す。
怪我でもしているのだろうか。尋常ならざる声を疑問に思う合間に、その真っ白なACを宙に浮かせ、
アゼルたちに視線を送ることもなく、機体は瞬時に風と化し、アゼルの目の前から姿を消した。
残されたアゼルも姿を追うという愚直な真似だけは犯さなかった。それよりも彼は留まり続けることを選んでいた。


彼が、レスターが生きている。それだけで彼の震えはピタリと終息していった。と同時に、彼は自身に取り巻いていた闇の正体を知る。
今の彼の心には復讐という行動理念よりも、仲間の命を憂う気持ちの方が段違いに強かったのだ。
もし彼が人質にでも取られていたら。レスターの命と敵の命を天秤にかけたら。そんなもの、戦う前から答えは決まっていた。


七年という途方もない月日をかけて積み重ねた憎悪など、仲間の命と比べれば遥かに些細なことだ。
たった一人で目標を果たしても、振り返った先に無数の屍が転がっていれば、それはもう無駄な悪あがきにしかならない。


どうすればいいと自身に問えば、いつも同じ返答が来る。目的を達成したいならば、下手な荷物は捨てればいいのだと。
彼の内に潜む悪魔が囁く中で、彼は必死にその誘惑に抗い続けてきた。だが仮に、そうして抗うこと自体が誤まった解答だったとしたら?
仲間など最初からいなければ、悲しむ必要もなくなる。死ぬことになったとしても悲しむものもいない。そのとき彼はすでに孤独なのだから。


何故自分は戦うのか。復讐と言う免罪符を持ち続けたがために、自身を偽り続けたアゼルだったが、
これで本当の目的すらも見失ってしまった。これではリーダー失格だ。晴れた筈の心の中に新たな別種の闇が広がり、彼を再び地の底に引きずっていく。


その後、どこからともなくやってきた輸送機から回収部隊が到着し、その市街地での一戦は一応の終結を見た。
結局、アゼルは自力でレスターを助け出すことができず、ただコクピットの中で蹲るだけであった。


ただ無性に怖かった。レスターを、そしてジンやリアを危険に晒してしまった張本人を見て、彼らはなんと吐き捨てるだろうか。
アゼルはただそれだけを恐れ、そしてとうとう先へ踏み込むことができなくなっていた。
怒りを露にして罵詈雑言の数々を浴びせかけられることも、同情の眼差しで敬われることも、そのどちらもが耐え切れない恐怖でしかなかった。


どうすればいい。誰でもいいから教えてくれ。何度も何度も彼はコクピットの中で、そう呟き続けていた。
背負うべき責任の重圧に押し負けたその姿からは、上位ランカーの威厳や気配などは微塵も感じられなかった。



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